#能登半島地震

☆震度7・記録的大雨・最強寒波 3災の能登冬路をめぐる~1~

☆震度7・記録的大雨・最強寒波 3災の能登冬路をめぐる~1~

  去年元日の震度7の地震、48時間で498㍉という9月の記録的な大雨、そして今月4日から北陸に吹き荒れる最強・最長の寒波。 「3災」ともいえる能登半島を3日間(今月6-8日)かけて一周した。 被災地や観光名所などの冬の現場で気が付いたことなどまとみてみる。

  隆起した岩ノリ畑 『ゼロの焦点』ヤセの断崖

  先日、能登の知り合いから「岩のり」が届いた。 お礼の電話をすると、「地震で海岸が隆起したのでことしは採れるか心配したが、隆起した岩場でも採れました」とのこと。 そこで、海岸が隆起した能登の北側の外浦をめぐった。 岩のりは外浦の岩場で採れた天然のノリで、干したもの=写真・上=。 養殖のノリに比べて厚みがあり、さっとあぶると磯の香りが広がる。 ノリが採れる海沿いの家々では、波が穏やかな冬の日を見計らって海岸に出かける。 手で摘み、竹かごに入れて塩分を洗い流して水切りした後、自宅の軒下などで竹かごの上に乗せて陰干しする。 

  地域によっては「岩ノリ畑」を造ってところもある。 岩場を利用して平海面すれすれのところでコンクリート面を造成すると、冬の波で覆われた岩ノリ畑にノリが繁殖する。 ところが、地震で数㍍隆起した海岸では岩ノリ畑が干上がって使えなくなった畑もある。 一方で海底から隆起した岩場でノリが採れるようなったところもある。 知人は「シケの日が続き収穫は少なかったが、ノリの出来は上々」とのこと。 岩ノリ採りは今月中旬まで続く。 (※写真・中は、地震で隆起した「岩ノリ畑」=輪島市門前町の海岸)

  能登の現場を訪ねるとダイナミックな光景を目にすることがある。 震度7の揺れがあった志賀町香能の近くにあり、松本清張の推理小説『ゼロの焦点』で登場する名勝「ヤセの断崖」。 1961年に初めて映画化され、観光名所となった。 日本海からの強烈な波と風によって形成された断崖絶壁で、訪れた日も台風を思わせる暴風が吹いて、白波が打ち寄せていた=写真・下=。

  海面からの高さが35㍍から55㍍もある、断崖を眺めると、海の向こうの暗い雲の切れ間から光りが指している。 まるで映画のシーンのような光景だった。 もう少し近づいて撮影しようとした瞬間、強烈な風が吹いてきて、身の危険を感じて現場を離れた。

⇒7日(金)夜・金沢の天気     雪

★能登地震から1年1ヵ月、「住まい」問題でふるさとに戻れず悩む被災者

★能登地震から1年1ヵ月、「住まい」問題でふるさとに戻れず悩む被災者

  きょうは2月1日、去年元旦の能登半島地震から1年1ヵ月が経った。数字で振り返ってみる。震災で亡くなった人は能登を中心に石川県では、家屋の下敷きになるなどして亡くなった直接死が228人、避難所などでの疲労やストレスが原因で持病などが悪化して亡くなった災害関連死が290人(1月28日時点)。さらに、新潟県で5人、富山県で3人の災害関連死があり、直接死を合せた能登半島地震による死者の数は526人となる。関連死を判断する医者と弁護士で構成する審査会はこれまで17回開かれていて、遺族からの申請で審査が進むと今後さらに増えることになる。  

  住宅の被害は消防庁災害対策本部のまとめによると、10府県で全半壊・一部損壊を合せ15万5751棟に及んでいる。このうち、石川県は10万7976棟、新潟県2万4380棟、富山県2万2534棟、福井県832棟、長野県21棟などとなっている。このほか、店舗やテナントビル、土蔵、作業所など非住家の被害は石川県で3万6053棟、富山県1203棟、新潟県68棟などとなっている(12月28日時点・消防庁公式サイト)。このうち半壊以上の被害が出た住宅などを自治体が所有者に代わって解体や撤去を行う「公費解体」は、石川県の発表で12月末までに1万4152棟の解体を終えている。石川県が見込む公費解体は3万9000棟なので3分の1余り完了したことになる。ことし10月までに解体を終えるとしている。(※写真は、輪島市内で行われている公費解体の現場=去年12月26日撮影)

  問題は住宅の修理だ。石川県では、住宅被害の範囲が全体の1割以上ある場合に修理費を最大70万円を補助する「応急修理制度」を設けていて、1月24日時点で制度の申請は1万2105件に上っている。ところが、工事業者の不足から修理の見通しが立たないケースが出ているため、県ではことし3月末までとしていた制度対象の工事完了の期限を12月末まで延長した(石川県庁公式サイト「住宅の応急修理について」)。

  気になる数字がある。地元メディア各社の報道によると、石川県外の公営住宅に暮らしている被災者255世帯を対象に、石川県庁が電話で意向調査(12月9-27日)を行った。回答があった176世帯の集計で44%に当たる78世帯が「石川県には戻らない」と答えた。その理由は「高齢であり、親族のそばで住む」や「安定した仕事を見つけた」が多かった。一方で、21%に当たる37世帯が「戻りたいが課題がある」と答えた。その中では、公費解体や修繕など「住まい」の問題を挙げる世帯が多かった。公費解体を申請しているが工事がなかなか進まない、修繕を依頼しているが業者の手が回らない。ふるさとに戻れず、悩んでいる被災者がいる。

⇒1日(土)午後・金沢の天気   くもり時々はれ

★能登の文化遺産の保護訴え 世界に広げるレジリエンス支援の輪

★能登の文化遺産の保護訴え 世界に広げるレジリエンス支援の輪

  歴史的建造物などの保存に取り組むアメリカの非営利団体「ワールド・モニュメント財団」(WMF・本部ニューヨーク)は16日付の公式サイトで、緊急に保存や修復が求められる「ウオッチ」(2025年版)のリストに能登半島地震で被災した能登地域の文化遺産を掲載している。その主旨をこう説明している。

「After a devastating earthquake in January 2024, restoring historic buildings in this hard-hit region can spur cultural, social, and economic recovery. Inclusion on the 2025 Watch will support the Noto Peninsula Heritage Sites’ transformation into a model for community resilience.」(意訳:2024年1月に発生した壊滅的な地震の後、この大きな被害を受けた地域の歴史的建造物を修復することで、文化的、社会的、経済的回復に拍車をかけることができます。ウオッチ2025への掲載は、能登半島の遺産がコミュニティのレジリエンスのモデルへと変貌するのを支援するものです)

  ウオッチ2025では世界各地の25の文化遺産に支援が必要と訴えていて、「Noto Peninsula Heritage Sites, Japan」はその一つ。能登のページに掲載している写真は、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されている輪島市門前町の黒島地区。被災した古民家が崩れかけている。黒島地区は江戸時代に北前船船主が集住した地区で、貞享元年(1684)に幕府の天領(直轄地)となるなど歴史ある街だ。幕府から立葵(たちあおい)の紋が贈られたことを祝い始まった祭礼とされる「黒島天領祭」(8月17、18日)は連綿と続いていて、自身が大学の教員時代に学生たちを連れて何度も祭りに参加した。

  元日の震災後、現地を見たのは去年2月5日だった。黒島の中心にあった旧・角海家住宅(国の重要文化財)などは全壊の状態だった。かつて北前船が寄港した黒島の港は海岸が隆起して陸地となっていた。WMFが世界に呼びかけ、寄付金を募って危機にひんする能登の文化遺産を保護する支援するプロジェクトだ。被災地の文化遺産は時間とともにさらに劣化していく。世界に復興支援の輪が広がることを期待したい。

⇒17日(金)夜・金沢の天気     くもり

☆予断を許さない能登半島地震 犠牲者は500人超え

☆予断を許さない能登半島地震 犠牲者は500人超え

       連日すさまじい量と内容のニュースがあふれているが、その中からいくつかをピックアップ。地元石川県に関するニュースから。15日に開催された政府の地震調査委員会は委員長見解を公表した。能登半島地震について「活発な地震活動が当分継続する。加えて時々大きな地震が発生し、さらに活発になることもある」「(こうした地震は)日本ではこれまで観測されたことはない」「いつまで続くのかなど見通すことが難しい」「周辺には影響を受けた活断層があることに留意が必要」と。確かに能登では2020年12月から活発な地震活動が続いていて、去年元日のマグニチュード7.6に続き同6規模の地震がこれまで何度も発生していて、「千年に一度、数千年に一度の地震」とも称されている。地震はまだ続くというニュースを被災地の人たちはどう受け止めただろうか。(※写真は、まだ至るところで震災の爪痕が残る輪島市内=ことし1月9日撮影)

  今月14日に能登半島地震による災害関連死の審査会が開かれ、新たに10人が認定されることになった。県内の関連死はこれまでと合わせ280人に上り、直接死228人と合わせ508人となる。関連死は避難所などでの生活で疲労やストレスがたまったことが原因で持病などが悪化して亡くなるケースで、この認定については遺族からの申請を受けた自治体が医師や弁護士ら有識者による審査会を開いて判断する。また、直接死は地震によって家屋の下敷きになるなどして亡くなるケースだ。関連死については、石川県のほかにも隣接する富山県で2人、新潟県で5人が認定されていて、3県合わせた犠牲者は515人となる。

  内乱の首謀者として身柄を拘束された韓国の尹大統領に対して、世論は大統領支持に転じているようだ。韓国の朝鮮日報ネット版日本語(16日付)によると、12月3日に戒厳令を出した直後の与党「国民の力」の支持率は急落したものの、直近の世論調査では上昇しており、最大野党「共に民主党」の支持率とは誤差の範囲内まで狭まっている。戒厳令直後の世論調査会社リアルメーターの調査(12月12、13日)では26.7ポイント差(共に民主党52.4%、国民の力25.7%)だったが、その後は次第に狭まり、直近の同社調査(1月9、10日)では1.4ポイント差(共に民主党42.2%、国民の力40.8%)に縮まった。韓国ギャラップの調査(1月7-9日)でも共に民主党は36%、国民の力は34%と接近している。

  韓国はもともと保革対立が激しい。さすがに今回の政治の混乱に有権者も落としどころを探り始めたのだろうか。世論調査の数字を見る限りでは、混乱の収拾に乗り出すどころか党派的利益を優先している野党に対し批判が強まり、一方で危機感を背景に与党支持層が結束を固めていることがうかがえる。

  ちなみに日本でよく取り上げられる内閣支持率はどうか。NHKの直近の世論調査(1月11-13日)によると、石破内閣を「支持する」は去年12月の調査より1ポイント上がって39%、「支持しない」も2ポイント上がって40%となっている。支持しない理由は、「政策に期待が持てないから」35%、「実行力がないから」22%と続く。果たしてこの内閣支持率で与党は7月に予定される参院選を乗り切れるかどうか。

⇒16日(木)夜・金沢の天気     あめ時々あられ

☆2025能登レジリエンス元年~⑦

☆2025能登レジリエンス元年~⑦

  去年元日の能登地震の被災地にさまざまな復興支援の手が差し伸べられている。地元メディアの報道をチェックしていて、「これは効果がありそう」と思ったのが、東京国立博物館が都内の博物館や美術館に呼びかけて企画している展覧会「ひと、能登、アート」=写真・上=。この企画に賛同する20余りの各館が文化財などを自ら選んで展示する。雪舟の水墨画「秋冬山水図」(国宝)や黒田清輝の洋画「湖畔」(重文)、菱川師宣の肉筆画「見返り美人図」などそうそうたる名品100点余りが展示されるようだ。

   美術・文化財で復興支援 等伯「松林図屏風」も能登に里帰り

  展覧会場は石川県立美術館(11月15日-12月21日)、金沢21世紀美術館(12月13日-来年3月1日)、国立工芸館(12月9日-来年3月1日)で、金沢での3ヵ所となる。展示品はそれぞれの会場で異なるので、一定期間(12月13-21日)では3ヵ所を見て回れる。収益の一部は被災者へ義援金として寄付される。東京国立博物館では「所蔵する文化財に復興への祈りを込めたメッセージを託す事業を実施します」と述べている(同館公式サイト「プレスリリース」より)。

  能登支援展の記事やプレスリリースを読んで気になったのは、東京国立博物館が所蔵している国宝、長谷川等伯の水墨画「松林図屏風」のことだ。織田信長や豊臣秀吉が名をはせた安土桃山時代の絵師、長谷川等伯(1539-1610)は能登半島の七尾で生まれ育ち、33歳の時に妻子を連れて上洛。京都の本延寺本山のお抱え絵師となり創作活動に磨きをかけた。妻子を亡くし、等伯56歳のときに松林図屏風を描いたとされる。靄(もや)の中に浮かび上がるクロマツ林はいまも能登の浜辺でよく見かける風景だ。(※写真・下は国宝「松林図屏風」=国立文化財機構所蔵品統合検索システムより)

  記事によると、松林図屏風は能登半島の中ほどにある県七尾美術館(七尾市)で開催される今秋の特別展で展示される、とある。しかし、特別展なのに開催期日が明記されていない。さらに、能登唯一の総合美術館であるにもかかわらず、なぜここで展覧会「ひと、能登、アート」が開催されないのかと疑問に思った。そこできょう午前中、県七尾美術館に特別展の開催期日について電話で問い合わせた。すると、以下の返事だった。「震災で建物と設備が被害を受けており、臨時休館がいまも続いています。秋までには修復が完了すると思いますので、めどが立ち次第、開催期日をホームページなどでお知らせします」と。被害がなければ、おそらく七尾美術館が展覧会の中心だったに違いない。

  自身が等伯の松林図屏風を初めて鑑賞したのは2005年の県七尾美術館開館10周年の特別展だった。あれから20年。等伯が心に残る能登の風景を描いた傑作が古里帰りしてくる。またぜひ見てみたい。

⇒8日(水)夜・金沢の天気    ゆき時々くもり

★2025能登レジリエンス元年~⑥

★2025能登レジリエンス元年~⑥

  石川県の馳知事はきのう(6日)の年頭会見=写真=で能登復興に向けた施策を発表した(石川県公式サイト)。「創造的復興の始動」をテーマに7つの項目を挙げている。「1. 能登駅伝の復活」「2. いしかわサテライトキャンパスの拡充」「3. 輪島塗の創造的復興に向けた官・民・産地共同プロジェクト」「4. 県内高校生を対象とした能登で学ぶ防災学習」「5. のとSDGsトレイル(仮称)」「6. 見附島のバーチャル復元」「7. 輪島港、飯田港の機能強化」。そのうちの「能登駅伝」と「輪島塗」を取り上げ、レジリエンスに資するものなのか検証してみる。

   「能登駅伝の復活」 「輪島塗の次世代育成」    馳知事が示す復興ビジョン

  能登生まれの自身は「能登駅伝」という言葉は脳裏に浮かんでくる。昭和39年(1964)9月に国鉄能登線が半島先端まで全線開通したことから、能登に観光ブームが盛り上がった。さらに、同43年(1968)に能登半島国定公園が指定され、これを記念して1968年に始まったのが能登駅伝だった。名勝地を走る駅伝として、箱根駅伝や伊勢駅伝と並ぶ「学生三大駅伝」の一つとされていた。富山県高岡市を出発し、半島の尖端の珠洲市や輪島市などの海沿いを通って金沢市に至る26区間、342㌔を3日間かけてたすきをつなぐ行程だった。ただ、リアス式海岸の能登の道路はアップダウンが続き、当時は「日本一過酷な駅伝」とも称されていた。観光ブームでバスや乗用車の台数が急激に増えことなどから、1977年の第10回で終えていた。

  会見で馳知事は、2025年度に駅伝の運営体制やコースの策定、準備委員会を発足させ、数年後の開催を目指すとし、「能登のすばらしさを国内外に発信するとともに、復興の過程を知ってもらい、参加する学生が能登に関心を持ち続けるよう工夫を凝らしながら、記録より記憶に残る大会にしていきたい」と述べていた。問題は迂回路となっていたり、片側一車線となっている道路インフラの復旧だろう。さらに、震災で廃業が相次いでいるとされる宿泊施設をどう確保するのか。こうした課題を復興プロセスととらえてぜひ能登駅伝を実現してほしい。

  もう一つ注目したいのが輪島塗の復興プロジェクトだ。去年元日の震災で輪島市では多くの工房が被害に遭った。このため次世代を担う若手人材の流出が懸念されている。会見で馳知事は「輪島塗の伝統をつないでいくプロフェッショナルを養成したい」と述べ、2027年度の開設を目指して人材養成施設を同市に設置すると明言。40歳以下の若手を年間5人程度受け入れ、2年かけて輪島塗の制作に必要な技術を習得してもらう。修了生を雇用する輪島塗事業者には奨励金を3年間交付することも検討する。

  馳知事は「輪島塗の新たな世界を切り開いていきたい」とも述べ、漆芸技術に加え、工芸デザイナーらの講義をカリキュラムに組み込み、新商品の開発や販路開拓、そして海外発信のノウハウも学ぶ。輪島塗の新たな時代を担う人材育成に期待したい。

⇒7日(火)午後・金沢の天気   くもり時々あめ

☆2025能登レジリエンス元年~⑤

☆2025能登レジリエンス元年~⑤

  北朝鮮はきょう午後0時1分ごろ、少なくとも1発の弾道ミサイルを北東方向の日本海に向けて発射した。弾道ミサイルは最高高度100㌔、およそ1100㌔飛翔し、日本の排他的経済水域(EEZ)の外に落下した(6日付・防衛省公式サイト)。北朝鮮が弾道ミサイルを発射したのは2025年に入って初めて、去年11月5日以来となる。日本海側に住む者にとって、きな臭さが漂う1年の始まりとなった。

    被災した金沢美大生が新聞をつくり発信した地震1年の記憶                  

  震災と豪雨に見舞われた能登の復興に向けて新聞を創刊した若者がいる。金沢に住む知人が「アートとしても読み物としても、迫力があり、また被災者としての実感も生々しく表現されていて、とても印象に残る」と新聞を届けてくれた。紙面を読ませてもうらと、新聞のタイトルは「MEDIUM(FOR NOTO)」(2024年12月12日発行)=写真・上=、発行人は「坂口歩(さかぐち・あゆむ)」、金沢美術工芸大学でデザインを学ぶ女子学生だ。プロフィルには「能登町白丸出身」とある。去年元日、白丸地区は震度6強の揺れ、そして海岸沿いには4.7㍍の津波が押し寄せ、火災も発生した=写真・下、4月16日撮影=。面識はないが、「坂口さん」と呼ばせていただき、以下、20ページにまとめられた紙面を拾い読みした感想を。

  新聞を広げると、見出し「あの日から1ヶ月」の見開きページに震災当時の様子がリアルにイラストと記事で描かれている。「午後4時10分」の地震発生当時、坂口さんは実家にいた。「地震がきて家から飛び出して裏の畑道に逃げた後、20分ほどしてから、林の向こうからバキバキと木が倒れるような音が聞こえてきました。車の盗難防止のプープーという音、ゴゴゴという地響き、津波だろうと近所の人は言ってました」「スマホのライトで真っ暗な道を照らしながら避難所までの道を歩きました」「津波にのまれて髪がびっしょりぬれている子や頭に切り傷がある子が毛布にくるまりながら泣いていて、これからどうなるのだろうと思った瞬間、緊張の糸がプツンと切れたように涙が出てきました」

  坂口さんは6日間、避難所生活を送り、金沢に戻る。「2日目の夜には狭い公民館が150人以上もの人で溢れる『避難所』となり、このままでは水も食料も尽きてしまような状態でした。500mlのペットボトルの水を少しずつ大事に飲みました」「道路も寸断されていて、隣の地区の状況すら何も分からず、自分達の地区が1番酷いのでは・・・と不安に感じていました」。上記のようなメモ書きとは別にSNSで情報を発信していた。「”まだ余震つづいてます・・・。体は疲れて寝なきゃなのは分かってるのに、心がずっと威嚇モードで眠れない”」(1月3日付)、「避難所どんどん人が増え、大雪が来ないうちに、近所のお姉さんに乗せてもらって私だけ金沢に戻ることになりました。帰り道、自衛隊や支援物資のトラック、県外からのパトカー等、たくさん見ました、本当にありがとうございます、、、」(1月7日付)

  ページを進めると、見出し「解体を待つ家」では家を解体することになった想いが綴られている。「家というものに対して、そこまで愛着はなったのだけれど、いざなくなると意識した途端、家で過ごした時間が全部なくなってしまうような気がして、自分自身の足がつかないような、存在が浮いてしまうような感覚になった。しばらくすると壊れてなくなってしまうこの空間に対して、どうやったら思いを残すことなくお別れができるのか」(10月12日付)

  記事では、9月の奥能登豪雨についても書かれていて、この1年間の心情がドキュメンタリータッチで綴られている。「創刊にあたって」のコーナーでこう述べている。「能登にいないくせに何様だよと思う人もいるかもしれない。けれど、それでも私がなかったことにしたくないこと、忘れたくないと思うことをだけでも、私の地元で起きていることやその時私が感じたことを残しておきたい。残さないと消えてしまうから」

  大学4年の坂口さんにとってこの新聞が卒業制作となった。新聞を知人に配っているほか、一部は書店でも販売している。第2号は「帰る」をテーマにことし12月に発刊する予定という。編集後記でこう述べている。「発信する行為は記録し発散する行為とも言えるのかもしれません。現代社会の新聞は誰かのために何かを伝えることがほとんどですが、自分のためにこのような新聞があることも一種の豊かさなのではないかと思います」と。確かに、SNSでは新聞の見開きのようなダイナミックなスペースでイラストや写真、記事を同時に掲載して発信することはできない。SNS情報は瞬時に流れていくが、新聞は手元に置け、発信したい人に手渡すことができる。坂口さんは地震を体感して、情報の新たな発信スタイルをつかみ取ったのだろう。

⇒6日(月)夜・金沢の天気     くもり

★変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その6~

★変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その6~

  この1年、能登を何度も往復した中で、よい意味で変わらぬ光景だったのが祭りだった。能登では元日の地震で2万4千棟の住家が全半壊した。それでも、能登の祭りのシンボルでもあるキリコや神輿を出せる町内は出して祭りを盛り上げていた。7月5日に見た能登町宇出津の「あばれ祭」に能登の人々の心意気を感じた。

           逆境にめげず祭りを楽しむ能登人の心意気

  宇出津は港町でもある。元日の地震で沿岸の地盤が沈下して港町の一部では海水面より低くなったところもある。そんな中で祭りの掛け声が響き渡っていた。「イヤサカヤッサイ」。掛け声が鉦(かね)や太鼓と同調して響き渡る。高さ6㍍ほどのキリコが柱たいまつの火の粉が舞う中を勇ましく練り歩く。神輿2基とキリコ37基が港湾側の祭り広場に集った。キリコの担ぎ手は老若男女で衣装はそれぞれ。キリコに乗って鉦と太鼓をたたく、笛を吹く囃子手(はやして)にも女性も多くいた=写真・上=。  

  この祭りにはルーツがある。江戸時代の寛文年間(1661-73)、宇出津で疫病がはやり、京都の祇園社(八坂神社)から神様を勧請し、盛大な祭礼を執り行った。そのとき大きなハチがあらわれて、病人を刺したところ病が治り、地元の人々はこのハチを神様の使いと考えて感謝した。それから祭りでは「ハチや刺いた、ハチや刺いた」とはやしながら練り回ったというのが、この祭りのルーツとされる(日本遺産「灯り舞う半島 能登〜熱狂のキリコ祭り〜」公式ホームページより)。逆境に立たされれば、立たされるほど闘争心をむき出しにして元気よくキリコを担ぐ、そのような言い伝えのある祭りなのだ。

  8月24日には輪島大祭の住吉神社の祭りに行ってきた。境内は震災で本殿が全壊し、高さ7㍍もある総輪島塗の山車や曳山も倒壊、鳥居や石灯籠も倒れた。そんな中でも、若い衆がガレキの山をバックに祭り太鼓を披露していた=写真・下=。前日までは人手が足りないのでキリコは出さないことになっていたが、祭り当日になって仮設住宅や金沢などの避難先からキリコ担ぎの仲間たちが続々と集まり、夕方になってキリコも担ぎ出された。「やっぱりキリコが出んと祭りにならん」。祭りを盛り上げたいという若い衆の気持ちが伝わったのだった。

  能登の祭りは地域の参加者だけが楽しむのではなく、参加したい人をどんどんと受け入れ、みんなで楽しむ。逆境にめげずに祭りを楽しむ能登人の心意気が伝わってくる光景だった。

⇒31日(火)夜・金沢の天気   くもり

★変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その4~

★変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その4~

  元日の能登半島地震のある意味でシンボル的な光景とされてきたのが、輪島市で240棟余りの商店や民家が全焼し焦土と化した朝市通り、そして、倒壊した輪島塗製造販売会社「五島屋」の7階建てビルだった。その後、朝市通りやビルはどうなっているのか、今月26日に現地を見に行った。

         徐々に進む復旧・復興への足音 震災と洪水の二重災難を超えて 

  倒壊ビルの現場では、パワーショベルなど重機2台が動いていた。行政による公費解体は11月初旬に作業が始まった。2棟ある五島屋ビルのうち倒壊を免れた3階建てのビルは解体が終わり、市道にはみ出して倒壊した7階建てビルは3階から7階部分の解体撤去が終わっていた=写真・上=。工事看板によると、解体作業は来年1月いっぱいまで続くようだ。

  現場では倒壊によってビルに隣接していた、3階建ての住居兼居酒屋が下敷きとなり、母子2人が犠牲となっている。問題視されているのはビル倒壊の原因が何なのかという点に絞られている。一部報道によると、2007年3月25日の能登半島地震でビルが大きく揺れたことから、五島屋の社長はビルの耐震性を懸念して、地下を埋めて基礎を強化する工事を行っていた。それが倒壊したとなると、社長自身もビル倒壊に納得していないようだ。ビルの築年数は50年ほど。基礎部の一部が地面にめり込んでおり、くいの破損や地盤が原因ではないかとも指摘されている。国土交通省が基礎部を中心に倒壊の原因を調べている。なぜ、震度6強の揺れに耐えきれずに根元から倒れたのか。ビル倒壊の原因が分かってくれば、責任の所在もおのずと明らかになるだろう。

  次に朝市通りに行く。軒を連ねていた通りの240棟が全半焼し、4万9000平方㍍が焼け野原となった。現地を眺めると一面に更地が広がっていた=写真・中=。焼け焦げたビルなどの解体撤去もほぼ終えていた。行政としても、朝市通りは震災復旧のシンボルでもあり、力を注いできたのだろう。素人目線ながら、復興に向けて大変なのはむしろこれからだろうと憶測する。被災地でよく問題になるとされるのが、土地の区画整理だ。誰の家がどこにあったかなどを測量して、近隣と合意を得て区画整理していく。これが4万9000平方㍍となると膨大な作業となり、かなりの年数がかかるのではないだろうか。

  地元メディアの報道によると、震災からの復興計画を進めている輪島市の復興まちづくり計画検討委員会は今月20日、計画案をとりまとめ、輪島市長に提出した。目玉となるプロジェクトに「輪島朝市周辺再生」を掲げ、商店街や住まいの共生を目指して市街地整備を行う。これを受けて行政は市民からも意見を求め、来年2月中に正式決定する。復興計画の期間は10年で、2026年度までを上下水道などのインフラ整備などを進める「復旧期」、2030年度までを朝市周辺の新たな街づくりを進める「再生期」、2034年度までを地域資源を活用した新たな観光や産業を創出する「創造期」と定め、復興プロジェクトに着手していく。

  朝市通りから金沢に帰る途中に、48時間で498㍉という9月の記録的な大雨に見舞われ、床上浸水した仮設住宅の宅田町第2団地に立ち寄った。市内中心部を流れる河原田川の氾濫で、団地の一帯が冠水した。住人にとってはまさに震災と豪雨による二重災害となった。豪雨から3ヵ月を経て、仮設住宅の修繕が終わり、住人が避難所から徐々に戻っていた。車に積んだ布団や毛布を住宅に運び込む姿をよく見かけた=写真・下=。本格的な冬に入る。これからは寒波や雪との戦いになるのだろう。

⇒29日(日)夜・金沢の天気    あめ

☆変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その3~

☆変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その3~

  能登半島地震で分断されていた国道249号の復旧工事で、通行止めの最後の区間がきのう27日午後に開通した。さっそく現地に赴いた。塩田村で知られる珠洲市仁江町と観光ホテルなどがある同市真浦町を結ぶ逢坂トンネルは土砂で埋まり通行不能となっていた。ここに国土交通省がトンネルの海側沿いに全長1.7㌔の迂回路を造成した。

  国道249号が全線通行可に
        絶景の迂回路

  道路の幅は1車線分の5㍍ほどで、車の待避スペースも複数設けられている。緊急車両と地元住民のみに通行が制限されているので、迂回路の入り口付近で撮影した。日本海の冬の荒波が岩場に当たって舞い上がり、地震で崩れた山の岩肌がむき出しになった場所を迂回路が通る=写真・上=。素人目線ながら、「絶景」という言葉が浮かんだ。そして、この光景はジオパーク(Geopark)だと。まさに、震災後の光景だ。大地の造形物は何千年、何万年と歴史を刻みながら少しづつ姿を変えきたのだと実感する。

  今月5日には同じく寸断されていた輪島市町野町大川浜の国道249号が開通。また、同市の白米千枚田近くの249号も土砂崩れで埋まったが、地震で隆起した海岸に2車線の迂回路を造成し、対面通行が可能になった。249号の全線開通で地域の復旧・復興の加速を期待したい。

  一方、道路で変わらぬ光景もある。このブログで何度か取り上げたが、金沢と能登を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」横田IC近くの道路盛り土の崩落現場に乗用車が転落している=写真・下=。現場は運転席から見えるので、きのうも確認するとまだあった。年越しの変わらぬ光景なのか。

⇒28日(土)午後・金沢の天気    あめ時々みぞれ