#能登半島地震

☆ 避難所の情報インフラは昔テレビ、今スマホ

☆ 避難所の情報インフラは昔テレビ、今スマホ

  先日(3月24日)能登の被災地の穴水町の避難所を訪れた。支援ボランティアとかではなく、トイレを拝借するためだった。穴水町はすでに断水が解消されていて、普通にトイレが使える状態だったので、公共施設でもある避難所を訪れた次第。中を見渡すと、避難所だけあって衣類や食糧(カップ麺、缶詰など)、菓子類などが自由に取れるように積んであった。1月に訪れたときは、台湾のボランティア団体がここで炊き出しを行っていた。

  この避難所には和室(畳部屋)だけでなく 椅子に座ってくつろげるロビーもある。そこで見かける光景は被災者の人たちが談笑している様子のほか、スマホを熱心に見ている人たちの姿だ。おそらく被災情報にアプローチしているのだろう、スマホを片手に罹災証明書の取得について話し合っている人たちもいた。避難所の和室の入り口にはスマホの充電コーナーがあり、自由に使えるようになっていた=写真・上=。この避難所の光景を見て、2007年の能登半島地震で訪れた避難所での様子とはずいぶんと変わったと時代の流れを感じた。

  2007年3月25日の能登半島地震(震度6強)の後、震源地と近かった輪島市門前町で避難所となっていた公民館を訪れたことがある。公民館のホールでは避難者が敷布団を敷いて寝転がり、テレビを食い入るように見ていた=写真・下=。新聞は避難所の入り口付近に束のまま置かれていた。避難所の中では新聞を広げるスペースがないため、読む人は少なかったのだろう。テレビの設置はNHK金沢のスタッフが各避難所を回って取り付け、広めの避難所には大型画面のテレビを置くなど、情報インフラにチカラを入れていた。

  しかし、今回見た避難所ではテレビは設置されていたものの、避難者の多くの人はスマホ画面を指でなぞっていた。AppleがiPhoneをアメリカで発売したのは能登半島地震から3ヵ月後の2007年6月だ。あれから17年、知りたい情報を自分で探す、日常生活でそれが当たり前になった。避難所の風景も変わった。ただ、充電設備を整えるという点は「ガラケー」時代と変わらない。 

⇒8日(月)夜・金沢の天気   くもり

★「のと鉄道」全線で運行再開、「さくら駅」間もなく見頃

★「のと鉄道」全線で運行再開、「さくら駅」間もなく見頃

  金沢でソメイヨシノが見頃になっている。桜の開花の発表が今月1日で、初の日曜日とあって兼六園周辺はとても混みあっていた。家族連れやカップル、そして着物姿のインバウンド観光客もいて、花見を満喫する人々の様子も多彩で面白い。自身の桜のカメラアングルは金沢城を入れたもの。桜の満開の様子がまるで雲のようで、その上に城があり、アニメ映画『天空の城ラピュタ』のようなイメージを思い浮かべて撮影した=写真・上=。

  能登にも桜の名所がある。七尾市の小丸山城址公園。加賀藩の藩祖・前田利家が築いた小丸山城跡がある公園で、七尾城下を見守るようにして「利家とまつ」像が建つことで知られる。260本の桜があり、ソメイヨシノや八重桜、しだれ桜がまもなく見頃を迎える。高台からぼんぼりの灯りで街並を眺める夜桜がなんとも風情がある。しかし、元日の震災で小丸山城址の石垣が崩れるなどの被害が出ていて、いまも公園内には立ち入り禁止となっている。残念ながら、花見はできない。

  では能登の「桜駅」はどうか。七尾市から北上したところにある第三セクター「のと鉄道」の能登鹿島駅のプラットホームは100本のソメイヨシノが並び、線路上が桜のトンネルとなっていることから、「能登さくら駅」とも呼ばれている=写真・下、のと鉄道公式サイト=。満開の時季になると、夜桜のライトアップもある。そして、海岸線にも近いことから、海からの風で桜吹雪が舞い、映画のシーンのようなドラマチックな風情を醸し出す。能登半島地震で運行停止となっていたが、きのう6日に全線で運行が再開された。桜の見ごろは今月中旬ごろ。

  復旧作業中の沿線の様子を何度か見たが、鉄道トンネルが土砂でふさがれたり、線路がガタガタにゆがんだりと相当な被害だった。のと鉄道は、それを3ゕ月で全面復旧させた。能登の復旧・復興のシンボルになってほしい。

⇒7日(日)夜・金沢の天気    くもり  

☆輪島朝市通りの焼け跡に咲くスイセンの可憐な花

☆輪島朝市通りの焼け跡に咲くスイセンの可憐な花

  きのう奥能登2市(輪島、珠洲)の震災地をめぐった。最初に地震と火災の複合災害に見舞われた輪島の朝市通りを歩いた。3ヵ月経っても変わらぬ無情な光景に切なさを感じた。焼け跡を見ると。黄色い花のスイセンが咲いていた=写真=。不思議でならなかった。かつての商店街の焼け跡でどのようにして花を咲かせたのか。花鉢ではなく、盛り上がった土に咲いていたので、この商店には中庭があったのだろうかと想像した。黄色のスイセンの花言葉は「私のもとに帰ってきて」。焼け跡のスイセンはそう訴えているのかと想像を膨らませた。

  石川県がまとめた避難所の開設状況(今月5日現在)によると、市町が設置した1次避難所には146ヵ所・3597人が身を寄せている。県が開設した1.5次避難所(スポーツセンター)には80人、県が手配した2次避難所(金沢市などのホテルや旅館など)は167ヵ所・2671人となっている。2月1日現在の状況は、1次避難所は285ヵ所・8232人、1.5次避難所は3ヵ所・288人、2次避難所は217ヵ所・4944人だったので、2ヵ月でそれぞれ半数に減っている。

  では、減った分の人たちは自宅に戻ったのか。そうではないようだ。被害がとくに大きく出た奥能登4市町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)の今年1月から3月の転出超過は計1582人に上り、前年同期比の3.8倍になった(今月3日付・読売新聞Web版)。奥能登の人口はこの10年で2割以上減っていて、過疎化が問題となっている。そこに拍車をかけるように震災が起きた。能登をあきらめ、金沢市やその周辺に住所を移す家族などが増えているのだ。

  住まいと生業(なりわい)が確保できなければ、特に子育て世代を中心に流出は止まらないだろう。きのう珠洲市の被災地で感じたことは断水状態が危機的ということだった。水道管の漏水などで、市全域の約4000戸でいまでも断水が続いている。同市は5638世帯(3月末現在)なので単純計算で7割の世帯で水道が使えない状態が続いていることになる。そして、上水道がこの現実ならば下水道管の損傷も相当なものと憶測した。人口が戻らなければ生業も成り立たなくなる。

  人々が戻りたくなる能登を、人々を呼び戻す能登をどのように構築していくのか。冒頭に述べた黄色のスイセンの花言葉はギリシア神話に由来しているという。農業の女神デメテルの娘ペルセポネが冥界の王プルトンに連れ去られた。このとき、ペルセポネが落とした白いスイセンが黄色く色づいた。デメテルは黄色いスイセンを愛で、「私のもとに帰ってきて」と深い悲しみを込めた。母なる能登の大地から多くの人々を連れ去った地震。また耕しに戻って来てと能登の大地が叫んでいる。スイセンの花言葉からそんなことをイメージした。

⇒6日(土)夜・金沢の天気    くもり

★震災を共有する日本と台湾 人道支援の深いつながり

★震災を共有する日本と台湾 人道支援の深いつながり

  台湾での大地震について、前回ブログで「他人事とは思えない」と述べた。同じ極東アジアで起きたマグニチュード7クラスの揺れであり、その恐怖感は共有体験でもある。そして、これは個人的な思いかもしれないが、震災を通じた台湾との友好な関係性が心をよぎるからだ。

  元日の能登半島地震が起きて1週間ほど経って、台湾の台北市に赴任している知人からメールで写真が送られてきた。台北市内のコンビニでは能登地震の義援金を受け付けていて=写真・上=、街頭でも募金活動が行われているという内容だった。「台湾の人たちの能登の被災地への思いやりは半端じゃないよ」とコメントがあった。

  後日、その半端じゃない思いやりが数字となって表れて、さらに驚いた。被災から1ヵ月も経たない1月23日、林官房長官が記者会見で、能登半島地震に対して台湾政府から民間で募った25億円以上の寄付金が贈られてきたと説明し、「多大なる支援をいただき、深く感謝する。台湾の日本に対する友情の証しだ」と謝意を表明した(1月23日付・共同通信Web版)。台湾政府は 地震発生直後に6千万円を被災地への義援金として日本政府に寄付していて、政府と民間を合わせると27億円にも届く志(こころざし)が寄せられたことになる。

  日本と台湾の被災支援を通じた交流はこれだけではない。1999年9月21日に台湾中部で起きた震度7の地震で2400人が亡くなった。このとき日本政府は救助隊を派遣し、仮設住宅1500戸を整備し寄贈した。1万5900人が亡くなり、行方不明者が2500人に上った2011年3月11日の東日本大震災では、台湾が日本に緊急援助隊を送り、さらに200億円の寄付金を寄せている。

  日本は1972年の中国と国交正常化で、台湾と外交的には断交した。しかし、震災を通じた人道支援で日本と台湾はしっかりとつながっている。

⇒4日(木)夜・金沢の天気    くもり

★輪島の千枚田が「六十枚田」に 被災地の現実

★輪島の千枚田が「六十枚田」に 被災地の現実

  前回のブログで能登半島は田起こし、田植えの季節だが、震災の影響で田んぼに亀裂が入り、ため池や水路が破損、農道も亀裂や隆起などで田植えができるかどうか見通せないと述べた。新聞各紙(2日付)によると、輪島の千枚田で地元有志でつくる「愛耕会」がきのう田起こしを始めたが、亀裂が入る棚田が多く、ことしは1004枚のうち60枚に限って作付けすることになった。(※写真は、4㌶の斜面に小さな棚田が連なる白米千枚田。2001年に文化庁「国指定文化財名勝」に指定されている)

  1004枚のうち60枚とは極端に少ないとの印象を受けるかもしれないが、これには棚田独特の事情がある。棚田の上段から下段に向ってすべての田んぼに水が流れるように水路設計が施されている。しかし、たとえば中段の田んぼにひび割れが入ると水が中段から下段に水は流れなくなる。千枚田の現地を見渡すと、上段の広めの田んぼ、ならびに展望台サイドの田んぼは無事であるものの、とくに中段ではひび割れが激しい。すると、60枚しか耕せないというのも分かるような気がする。報道によると、ことしは耕作よりむしろ割れた田んぼの修復が愛耕会の主な作業になるようだ。

  激減するのは千枚田の耕作枚数だけではない。同じく新聞報道によると、震源地に近い珠洲市大谷地区にある小中学校では新学期に在籍する児童生徒は前年度の23人から5人に減少する見込みと伝えている。同地区では現在も断水が続き、体育館は避難所として使われている。地元に唯一あったスーパーも倒壊。教育環境を優先したい親たちの転居が相次いでいるようだ。

  珠洲市だけの話ではない。地震で甚大な被害を受けた奥能登4市町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)の今年1月から3月の転出者数が計1708人となり、前年同期比で2.4倍に上る(2日付・北國新聞)。生活インフラの復旧の遅れなどで転出者はさらに増え、過疎化現象にさらに拍車がかかる。この厳しい現実にどう対応していけばよいのか。

⇒2日(火)午前・金沢の天気   くもり 

☆桜は咲けど、被災地に春の訪れはまだ遠く

☆桜は咲けど、被災地に春の訪れはまだ遠く

  きょうから4月。金沢地方気象台は午前、ソメイヨシノの標本木が開花したと発表した。平年より2日早く、過去最も早かった去年よりも9日遅い開花となった。自宅近くにある例年早咲きの桜はもう見頃を迎えている=写真・上=。そして、自宅近くでホーホケキョのウグイスの初鳴きが聞こえた。しかし、春の訪れを喜んでばかりはいられない。

  奥能登(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)の人たちと話をすると必ず出て来る言葉がある。「わやくそ」。能登の方言で、「めちゃくちゃ」という意味だ。震災によって、住宅だけでなく、家財道具、水田など何から何まで壊れてしまったという。例年だと4月に田起こし、5月上旬に田植えを行う。田んぼの水は山の中腹のため池から引水しているが、がけ崩れで水路がふさがれた状態になっている。復旧のめども立っていない。   

  石川県農林水産課のまとめ(3月26日現在)によると、県全体で農地の亀裂など被害は912件(うち奥能登538件)、水路の破損など1257件(同655件)、ため池の亀裂や崩壊は327件(同165件)、農道の亀裂や隆起などの損壊は922件(同398件)に上っている。田植えができる農家は激減するのではないだろうか。(※写真・下は、輪島の千枚田で起きている地割れ=3月4日撮影)

  避難所生活も続く。被災者が住む市町の避難所で暮らす人々は4528人(うち奥能登3367人)に、県が避難所として借り上げた金沢などの旅館・ホテル・スポーツセンターに避難している被災者は3580人に上る(3月29日現在)。このほかにも、県内外の親戚宅や車中泊、自宅などで暮らす被災者は1万3047人に上る(3月25日現在)。県では応急仮設住宅4956戸(うち奥能登4209戸)の建設に着手しているが、3月26日現在で完成したのは894戸(同677戸)となっている。

  そして問題は生活インフラだ。停電は解消されたものの、水道管の復旧作業が難航し、まだ7860戸で断水が続く(3月29日現在)。このうちのほとんどが輪島市と珠洲市などの奥能登で7650戸におよぶ。浄水施設の修繕のほか、水道管の漏水確認と修理などが遅れている。

  ただ、土砂崩れや地割れなどの被害が大きかった主要道路「のと里山海道」や国道249号などは、政府の緊急復旧工事によって一方通行ながら通行可能になっている。とは言え、のと里山海道は盛り土が大規模に崩落している区間などあり、全面復旧にはかなり時間がかかりそうだ。また、半島の沿岸を通る国道249号では千枚田ある地区などで地滑りが起きていて、現在のルートでの復旧は素人目でも難航が予想される。

  前回ブログでも述べたように、政府は新年度予算で予備費を1兆円規模に倍増し、能登半島地震の被災地のニーズをくみ取り、復興の取り組みを全速力で実行していくと強調している(3月28日・岸田総理の会見)。しかし、全面復旧にはかなりの時間を要するだろう。5年先、10年先、20年先かもしれない。春の訪れは遠い。

⇒1日(月)夜・金沢の天気     はれ

★能登半島地震 地域再生は可能か~7 節目の3ヵ月

★能登半島地震 地域再生は可能か~7 節目の3ヵ月

  元日の地震から間もなく3ヵ月となる。政府は新年度予算で予備費を1兆円規模に倍増し、能登半島地震の被災地のニーズをくみ取り、復興の取り組みを全速力で実行していくと強調している(今月28日・岸田総理の会見)。

  石川県も今月11日に2023年度の補正予算案と新年度の当初予算案を成立させ、震災の復旧・復興経費として7830億円を盛り込んだ。道路や河川などの公共土木工事に4142億円、仮設住宅の整備など「災害救助法に基づく応急救助」に2492億円、農地や漁港などの復旧に432億円を充てる。

  先日(今月24日)能登空港に行くと、滑走路から離れた多目的用地にカプセル型やコンテナ型の仮設住宅がずらりと並んでいた。目立つのは2階建ての茶色いコンテナハウス=写真=。まだ建設中だったが、作業をしている人に尋ねると、復興支援者向けの仮設宿泊所ということだった。多目的用地の宿泊所を数えると、カプセル型が29室、コンテナ型は1人部屋11室と4人部屋1室の計41室ある。6月末までに250室が新たに造られるそうだ。また、空港に隣接する日本航空学園の学生寮225室も仮設宿泊所として活用されている。震災以降、校舎が損壊したことや道路状況が悪化したため、生徒はオンラインで授業を行っている。

  空港の仮設宿泊所は石川県が経費を出して設置。きょう31日から全国から支援に来ている自治体職員向けに提供が始まる。被災地には全国知事会が要請した応援職員128人、石川県庁県職員268人、総務省の応急対策派遣制度で集まった支援職員850人が入っている(石川県まとめ、今月26日現在)。このほか、上下水道や道路などインフラ復旧に当たる事業者は4000人に上る。

  じつは能登の復旧・復興に立ちはだかっていたのが、全国から支援に来ている自治体職員や民間の支援ボランティアの宿泊場所だ。輪島市や珠洲市の旅館やホテル、公共宿泊施設などは損壊し、両市ではほぼ全域で断水状態が続いている。このため、支援に来た自治体職員は金沢などで宿泊し、奥能登と往復5時間余りかけて毎日移動していた。あるいは、上下水道も使えない状態で車中泊を余儀なくされていた。このため、宿泊拠点の確保が課題となっていたが、3ヵ月にしてようやく整った。

  奥能登の各自治体は民間の支援ボランティアを1月27日から浮け入れを開始し、これまで延べ1万2500人余りが活動しているが、同様に車中泊などが多かった。その宿泊地となったのが、2月26日に穴水町の中学校体育館に開設された「奥能登ベースキャンプ」(収容人数100人)、そして七尾市の公園に設置された「テント村」(同140人)だった。

  地震から3ヵ月の節目であり、冒頭で述べたように地域再生に向けてこれから大きく動き出すだろう。一方で、人々の記憶から能登半島地震が徐々に薄らぐ。時の風化が始まる。

⇒31日(日)午後・金沢の天気    くもり

☆能登半島地震 地域再生は可能か~6 被害判定で困惑も

☆能登半島地震 地域再生は可能か~6 被害判定で困惑も

  地震の住宅被害を自治体が判定する罹災証明書をめぐり、輪島市など6市町で、1次調査判定を不服とした2次調査の申請(今月19日現在)が8236件に上り、1次調査件数の1割におよんでいることが共同通信の集計で分かった(26日付・共同通信ニュースWeb版)。判定結果により公的支援に差が出るため、2次調査での精査を求めるケースが相次いでいる。証明書は支援金受給や税の減免手続きに必要で、発行が遅れれば、被災住民の生活再建に影響する(同)。

  罹災証明書の発行に当たり、それぞれの自治体は損害割合に応じて「全壊」(損傷割合50%以上)、「大規模半壊」(同40%台)、「中規模半壊」(同30%台)、「半壊」(20%台)、「準半壊」(同10%台)、「一部損壊」(10%未満)の6分類で判定している。外観から判定する1次調査に納得がいかない場合は、被災者の立ち会いのもとで、建物の中に入って確認する2次調査を申請できる。ただ、2次調査は建物内を詳しく調べるため、より時間がかかるとされる。(※倒壊した輪島市の家屋=2月5日撮影)

  1次調査に不服が出る背景には、政府の生活再建支援金に大きな差があるからだろう。全壊の場合の支援金は300万円、大規模半壊は250万円、中規模半壊は100万円だが、半壊以下は支給の対象外となる。実際に能登の現場で聞いた話だ。一部損壊との判定だったが、雨の日には家の中で雨漏りがして、住める状態ではない。屋根の修繕を見積もってもらったところ、240万円だった。しかも修繕は順番待ちで、いつ作業が行われるかは予定が立たない。結局、親族から紹介された金沢のアパ-トで暮らしている。一部損壊なので応急修繕費(半壊以上で上限70万6000円、準半壊で上限34万3000円)も出ない。

  外観を調べただけで住宅の損害の程度をランク付けできるものなのだろうか。2007年3月25日の能登半島地震(最大深度6強)で、輪島市門前町の被災家屋で片付けのボランティア活動をした。このとき、外見上は被害がないように見えたが、実際中に入ると、2階への階段が壊れるなど住める状態ではなかった。数年後にその家の前を通ると建て替えられていた。

  経験を積んでノウハウを有する自治体職員ならば内部も推察できるだろうが、応援派遣で初めて認定調査に当たった自治体職員もいただろう。1次調査の判定は生活再建にかかわるだけに、被災者にとって切実だ。建築士の支援を得るなどプロ目線での調査が必要ではないだろうか。

⇒30日(土)夜・金沢の天気     はれ

★能登半島地震 地域再生は可能か~5 祭りがある日常へ

★能登半島地震 地域再生は可能か~5 祭りがある日常へ

       まさに春の嵐、石川県内では早朝から強風と大雨の注意報が出ている。案じるのは能登の被災地だ。震源近くの珠洲市大谷町へ向かう途中に山のがけ崩れ現場があり、落ちてきた巨大な岩石が民家に迫っていた=写真・上、3月16日撮影=。珠洲市にも大雨注意報が出ていて、土砂崩れによる二次災害が起きるのはないかとの不安が心をよぎったりする。また、川べりの民家の場合、下流に「土砂ダム」が出来て住宅が水没するのではないかと考えたりもする。山のふもとにある集落では、このようなリスクを背負った状態のところがいくつかある。大量の雨をもたらす梅雨の時季までに対策が必要ではないだろうか。

  話は変わる。元日の地震で被害が出た奥能登だが、一部地域では「日常」に戻りつつある。奥能登の日常とは、祭りのこと。夏から秋にかけて祭りがどこかで毎日のようにある。子どもたちが太鼓をたたき、鉦(かね)を鳴らし、大人やお年寄りが神輿やキリコと呼ばれる大きな奉灯を担ぐ。このような祭りの光景が奥能登では毎日ように見ることができる。キリコ祭りは2015年4月に、日本遺産「灯り舞う半島 能登 ~熱狂のキリコ祭り~」に認定されている。

  その祭りシーズンの訪れを告げるのが、能登町宇出津(うしつ)の「あばれ祭り」だ。メディア各社の報道によると、「あばれ祭り」の開催について話し合う会議が今月27日に開かれ、7月5日と6日に実施する方針を確認した。あばれ祭りは、2日間にわたって40基のキリコが繰り出し、広場に集まって、松明(たいまつ)のまわりを勇壮に乱舞するのが見どころだ=写真・下、日本遺産公式ホームページより=。また、神輿を川に投げ込んだり、火の中に放り込むなど、担ぎ手が思う存分に暴れる。祭りは暴れることで神が喜ぶという伝説がある。

  記事によると、会議では「小規模な開催をしてほしい」という声もあったが、「地震からの復興を応援してくださった方に頑張っとるぞという姿を見せたい」「祭りまで中止となると、人口減が加速する」などと開催を支持する声が多く上がった(28日付・北陸中日新聞)。ただ、祭りは志納(寄付金)によって賄われていて、これまで祭りを支援してくれた人々の中には被災者もいることから、例年より寄付金が少なかった場合は内容の変更を検討する(同)。

  奥能登には「盆や正月に帰らんでいい、祭りの日には帰って来いよ」という言葉がある。祭りは地域・集落、そして家族・縁者にとっての価値観の共有でもあることから、日常生活でも優先されてきたイベントだ。その祭りが新型コロナウイルスの感染拡大の影響で2020年と21年は軒並み中止となった。3年ぶりでようやく祭りが復活、そして、ことし元日に能登町宇出津は震度6弱の揺れに見舞われた。

  上記の記事にある「頑張っとるぞという姿を見せたい」という声は、祭りのある日常の姿をはやく取り戻したいという能登の人々の心意気のようにも感じる。

⇒29日(金)午前・金沢の天気    あめ

☆能登半島地震 地域再生は可能か~4 進化形の復興ファンド

☆能登半島地震 地域再生は可能か~4 進化形の復興ファンド

  被災した企業や事業所を支援する「100億円ファンド」を、政府や石川県、地域の金融機関が連携して近く立ち上げる。きょう28日付の新聞メディアが報じている=写真=。記事によると、震災前からの負債と事業再建にかかる新たな負担の「二重債務」に戸惑う企業や事業者に対し、ファンドが既存の債務を一部買い取る減免と返済猶予を行うことで、金融機関からの新たな借り入れをしやすくする。

  能登に本社を置く企業は4075社。売上高で見ると、製造業が3分の1を占め、医療や宿泊業などのサービス業、建設業と続く。地震で工場設備や宿泊施設に被害が出ている。地場産業である繊維や輪島塗などの工芸は2割の企業が生産再開のめどが立っていない(28日付・日経新聞)。ファンドは政府系の中小企業基盤整備機構や地域経済活性化支援機構のほか、石川県、地域金融機関の北國銀行、北陸銀行、のと共栄、興能信用金庫、県信用保証協会、商工中金が出資する。中小企業庁は来月4月1日に七尾商工会議所に職員を派遣し、「能登産業復興相談センター」を開設して、ファンドの活用を助言する(同・北國新聞)。このほかにも、出資する金融機関は相談窓口を設ける。

  ファンドの対象は伝統産業から観光・宿泊業、農業や漁業など一次産業まで幅広い業種となる。地域の金融機関はいち早く地元企業や事業所に手を差し延べている。金沢に本店を置く北國銀行はECを手掛ける子会社を通じて、被災で在庫の処理が難しくなった商品を仕入れて全国ネットで販売するなど支援。また、傘下のコンサル会社を通じて被災企業の事業再建も進めている(同・日経新聞)。

  上記の記事からも分かるように、地元の金融機関は単に復旧・復興で融資をするのではなく、能登の未来を見据えた産業をどう構築していくかを企業や事業所と知恵を出し合いながら再建計画を進めている。北國銀行を傘下に持つ北国FHDの杖村修司社長をそのポリシーを「進化した形での復興」と表現している(同・日経新聞)。 

  冒頭の話に戻る。100億円のファンドは災害規模からすると少ないようにも思える。被災企業の返済負担を軽減する公的な金融支援はさまざまにあり、今回のファンドの設立はその窓口機能という位置づけだろう。また、政府は地域の金融機能の強化を通じて、被災地の経済再生を後押しするため、金融機能強化法を活用した公的資金の導入を検討しているようだ。進化形の復興ファンドを能登再生の活力にしてほしい。

⇒28日(木)午後・金沢の天気   くもり