☆被災地への「最高の励まし」 郷土石川の大の里が初優勝
能登の人たちは相撲が好きだ。おそらく、避難所生活の中でも今夜はこの話で盛り上がっているに違いない。きょう石川県津幡町出身の小結・大の里が夏場所の千秋楽で関脇の阿炎を破って初優勝を果たした。大の里は去年夏場所で初土俵を踏んでいて、7場所目での優勝は幕下付け出し力士では同じ郷土出身の輪島の15場所を大幅に更新する記録となった。
NHKはニュースでこの快挙を繰り返し流している。立ち合い、阿炎がもろ手突きにいくものの大の里は動じない。前への圧力をかけると、右差し、左のおっつけから一気に押し出し。最高の相撲で優勝をもぎ取った。県内出身の力士による幕内優勝は、1999年名古屋場所で金沢市出身の関脇・出島が果たして以来25年ぶり。
大の里は2019年に日体大1年で全国学生選手権を制して学生横綱となり、県内では注目されていた。その後、国体でも成年の部個人で優勝を飾っていた。2023年の夏場所で初土
俵を踏む。今年1月の初場所で新入幕し、2場所連続で11勝を挙げ、初土俵から所要6場所で小結に昇進。7場所目での初Vはまさに「スピ-ド優勝」。(※写真・上は夏場所で優勝を果たした大の里=NHKニュースより)
冒頭で述べた、能登の人たちが話題にしているだろうと憶測するのが、あの「黄金の左」と呼ばれた第54代横綱の輪島(1948-2018)との比較だ。半島の中ほどにある七尾市出身で、能登の「大相撲レジェンド」と言えば何と言っても輪島だ。その輪島は1973年夏場所、15場所目で優勝を果たした。大の里は7場所目なので、その比較をめぐって話が盛り上がっているに違いない。ちなみに、津幡町は能登半島のつけ根に位置していて、地理的にも歴史的にも能登と近く、衆院選挙区は同じ石川3区になる。その意味で大の里の優勝は能登の人々にとって身近な人物の快挙なのだ。
もう一人、能登と大相撲を語るに欠かせない人物がいる。阿武松緑之助(おうのまつ・みどりのすけ、1791‐1852)、江戸時代に活躍した第6代横綱だ。いまの能登町七見地区の出身。通算成績は230勝48敗。ちょっと癖もあった。立合いでよく「待った」をかけた。当時の江戸の庶民はじれったい相手をなじるときに、「待った、待ったと、阿武松でもあるめぇし」と阿武松の取り組みを言葉にしたほどだった。先月15日に阿武松緑之助の石碑がある七見地区で行って来た。石碑は震災の被害もなく堂々としたたたずまいだった=写真・下=。
大の里には、こうした郷土石川の先輩のようにひと癖もふた癖もある横綱に出世してほしい。これが能登の被災地の人々を励ます最高のメッセージにもなる。
⇒26日(日)夜・金沢の天気 はれ時々くもり
冒頭で「たくましい商魂」と述べたのも、発災後も気持ちが萎えることなく各地に出かけて商売をしているからだ。おばさんたちには2つのタイプがある。ひとつは朝市に場を確保して売るタイプ、もう一つが「ふり売り」というリヤカーでの行商するタイプだ。ふり売りの場合、さらに軽トラックで他地域を回るという進化系もある。地震後に出張朝市という新たなスタイルで商売を展開しているのも、こうした多用な方法での売りの経験を積んでいることもあるのだろう。
「サテライトキャンパス」は聞き慣れない言葉。大学など教育機関の本部から地理的に離れた場所に設置されたキャンパスのことを意味する。2011年3月に「能登キャンパス構想推進協議会」という、県内の大学と能登の4市町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)が連携する組織が創られた。大学などの教育機関がない能登を一つの大学キャンパスに見立て、学生の交流や教育研究、地域貢献などの活動を行う。いまも「能登キャンパス推進協議会」と名称を一部変更し、金沢大の理事・副学長が会長となり活動を継続している。
祭りが能登復興のリーディングプロジェクトとして掲げられたのも、能登では「1年365日は祭りの日のためにある」、「盆や正月に帰らんでいい、祭りの日には帰って来いよ」という言葉があるくらい能登人は祭りが好きだからだ。ところが、震災で能登で一番大きな祭りとして知られ、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている七尾市の青柏祭(5月3-5日)の曳山巡行が中止となった。地元で「でか山」と呼ばれる曳山の大きさは高さ12㍍、ビルにして4階建ての高さ=写真・上、七尾市役所公式サイトより=。地元の人たちも「日本で一番でかい」と自慢していただけに、「やっぱりダメか」と地元だけでなく、能登にもショックが走った。
一方、能登で一番勢いのある祭りとして知られるのが、能登町宇出津(うしつ)の「あばれ祭り」(7月5、6日)だ。この祭りは曳山巡行ではなく、地元でキリコと呼ぶ「切子灯籠(きりことうろう)」を大人たちが担いで巡行する。なので、道路に少々のおうとつがあっても足元に気をつければ動かすことは可能だ。「あばれ祭り」の開催について話し合う運営協議会が3月27日に開かれ、実施する方針を確認した。2日間にわたって40基のキリコが繰り出し、広場に集まって、松明(たいまつ)のまわりを勇壮に乱舞する=写真・下、日本遺産公式ホームページより=。神輿を川に投げ込んだり、火の中に放り込むなど、担ぎ手が思う存分に暴れる。祭りは暴れることで神が喜ぶという伝説がある。
口ばしを損傷したことが原因で死んでしまう。当時、能登の人たちは「佐渡に送らなければ、こんなことにならなかったのに」と残念がった。
創造的復興プランのスローガンは「能登が示す、ふるさとの未来 Noto, the future of country」。新しい能登を創造する夢のある思い切ったプロジェクトを『創造的復興リーディングプロジェクト』と位置付ける。4つの柱で構成される。▽教訓を踏まえた災害に強い地域づくり、▽ 能登の特色ある生業(なりわい)の再建、▽暮らしとコミュニティの再建、▽誰もが安全・安心に暮らし、学ぶことができる環境・地域づくり
その内容が濃い。戦前に人々はなぜ満蒙開拓のために大陸に渡ったのか、そして軍人に志願したのか、どのような戦争だったのかを、立て札の文字をたどりながら、設置されている絵画を見ながら追体験していく。ただ、ストーリーが記された立て札は87枚、絵画は50点もある。立て札一枚一枚を読んで、さらに絵を鑑賞していると、いつの間にか時間が経って辺りが暗くなったの覚えている。
輪島市や珠洲市では集落の裏山が崩れているところが各地にある。珠洲市の山間部でがけ崩れが起き、土砂の一部が民家に押し寄せている=写真・上、2月22日撮影=。梅雨の大雨によって、がけ崩れや山崩れが起き、民家への2次被害が出るのではないか。
た、地震でため池の土手に亀裂などが入っていると、大雨で雨量が急激に増すことでため池が決壊する可能性がある。こうなると、下流にある集落に水害が起きる。(※写真・下は、土砂ダムで孤立した輪島市熊野町の民家=1月4日、国土交通省TEC-FORCE緊急災害対策派遣隊がドローンで撮影)
こと分かった。能登の9市町の地元消防署への取材を基に共同通信が集計した(5月16日付・北陸中日新聞)。
戸惑いがいくつかある。審査が行われたのは3市町の35人(珠洲19人、輪島9人、能登7人)だった。認定されたのは30人(珠洲14人、輪島9人、能登7人)。珠洲の5人ついては、委員が追加資料の提出を求めたため次回以降に再審査となる。戸惑いというのも、今回審査された人数が少ないのではと感じるからだ。遺族からの申請数は輪島市だけでも53人に上っている。ところが、今回は9人しか審査されていない。このペースだと輪島市の申請数の審査を終えるのにあと5ヵ月はかかることになる。もちろん、数をこなす単純な作業ではなく、ある意味で「書面上の検死」なので時間がかかるのは分かる。