#能登半島地震

☆被災地への「最高の励まし」 郷土石川の大の里が初優勝

☆被災地への「最高の励まし」 郷土石川の大の里が初優勝

  能登の人たちは相撲が好きだ。おそらく、避難所生活の中でも今夜はこの話で盛り上がっているに違いない。きょう石川県津幡町出身の小結・大の里が夏場所の千秋楽で関脇の阿炎を破って初優勝を果たした。大の里は去年夏場所で初土俵を踏んでいて、7場所目での優勝は幕下付け出し力士では同じ郷土出身の輪島の15場所を大幅に更新する記録となった。

  NHKはニュースでこの快挙を繰り返し流している。立ち合い、阿炎がもろ手突きにいくものの大の里は動じない。前への圧力をかけると、右差し、左のおっつけから一気に押し出し。最高の相撲で優勝をもぎ取った。県内出身の力士による幕内優勝は、1999年名古屋場所で金沢市出身の関脇・出島が果たして以来25年ぶり。

  大の里は2019年に日体大1年で全国学生選手権を制して学生横綱となり、県内では注目されていた。その後、国体でも成年の部個人で優勝を飾っていた。2023年の夏場所で初土俵を踏む。今年1月の初場所で新入幕し、2場所連続で11勝を挙げ、初土俵から所要6場所で小結に昇進。7場所目での初Vはまさに「スピ-ド優勝」。(※写真・上は夏場所で優勝を果たした大の里=NHKニュースより)

  冒頭で述べた、能登の人たちが話題にしているだろうと憶測するのが、あの「黄金の左」と呼ばれた第54代横綱の輪島(1948-2018)との比較だ。半島の中ほどにある七尾市出身で、能登の「大相撲レジェンド」と言えば何と言っても輪島だ。その輪島は1973年夏場所、15場所目で優勝を果たした。大の里は7場所目なので、その比較をめぐって話が盛り上がっているに違いない。ちなみに、津幡町は能登半島のつけ根に位置していて、地理的にも歴史的にも能登と近く、衆院選挙区は同じ石川3区になる。その意味で大の里の優勝は能登の人々にとって身近な人物の快挙なのだ。

  もう一人、能登と大相撲を語るに欠かせない人物がいる。阿武松緑之助(おうのまつ・みどりのすけ、1791‐1852)、江戸時代に活躍した第6代横綱だ。いまの能登町七見地区の出身。通算成績は230勝48敗。ちょっと癖もあった。立合いでよく「待った」をかけた。当時の江戸の庶民はじれったい相手をなじるときに、「待った、待ったと、阿武松でもあるめぇし」と阿武松の取り組みを言葉にしたほどだった。先月15日に阿武松緑之助の石碑がある七見地区で行って来た。石碑は震災の被害もなく堂々としたたたずまいだった=写真・下=。

  大の里には、こうした郷土石川の先輩のようにひと癖もふた癖もある横綱に出世してほしい。これが能登の被災地の人々を励ます最高のメッセージにもなる。

⇒26日(日)夜・金沢の天気    はれ時々くもり

★震災にめげない 商売にはげむ輪島の朝市おばさんたち

★震災にめげない 商売にはげむ輪島の朝市おばさんたち

  それにしても輪島の朝市おばさんたちのたくましい商魂には感心する。メディアなどによると、きょう25日は愛知県豊川市の商業施設で10店舗ほどが朝市を開いている。今月11日には神戸市東灘区の商店街の祭りで開いていた。ほかにも、金沢市内などで何度か開いている。3月23日に初めての出張朝市が金沢市の金石港で開かれたので見学に行ってきた。朝市のトレードマークにもなっているオレンジ色のテントで店を構え、30店舗ほど並んで岩のりやアジやホッケの干物といった朝市の品ぞろえで金沢の客を呼び込んでいた=写真=。

  冒頭で「たくましい商魂」と述べたのも、発災後も気持ちが萎えることなく各地に出かけて商売をしているからだ。おばさんたちには2つのタイプがある。ひとつは朝市に場を確保して売るタイプ、もう一つが「ふり売り」というリヤカーでの行商するタイプだ。ふり売りの場合、さらに軽トラックで他地域を回るという進化系もある。地震後に出張朝市という新たなスタイルで商売を展開しているのも、こうした多用な方法での売りの経験を積んでいることもあるのだろう。

  おばさんたちは早朝に輪島漁港で水揚げされた鮮魚を買い付けて下ごしらえ、さらに干物も併せて、テントやリヤカー、軽トラで商いをしていた。ところが、震災で輪島漁港の海底が隆起して漁船200隻余りが漁に出れない状態がいまも続いている。そこで、おばさんたちは避難先でもある金沢漁港で魚を仕込んで出張朝市の品ぞろえをしているようだ。この一連の臨機応変な対応には感服する。

  さらに驚くことがある。商売をしているだけと思いがちだが、テントの出張朝市を実際にのぞくと、売り手と買い手のおばさんたちのやり取りが傍から聞いていて面白い。朝のニュースの話から晩ご飯の話まで、テントの中が多様なコミュニケーションの場となっていた。これは輪島の朝市やリヤカーでも同じ。近所のおばさんたちが集まり、楽しそうに世間話をしながら商売が行われていたことを思い出す。

  きょう地元メディアに、出張朝市が来月8、9日の両日に石川県白山市の白山比咩神社で開かれるとの記事があった(25日付・北國新聞)。この日は同神社で「御贄講(みにえこう)大祭」という、加賀地方の漁業者が海上安全と大漁を祈願する伝統の祭りが営まれる。神社側が朝市と被災地の漁業の復興を応援しようと出張朝市の開催を企画したようだ。神社側からの誘いなので、朝市おばさんたちにとっては朗報だったろう。震災にめげない朝市おばさんたちだ。

⇒25日(土)午後・金沢の天気    はれ

☆「復興先導プロジェクト」って何だ~4 能登キャンパスで学ぶ

☆「復興先導プロジェクト」って何だ~4 能登キャンパスで学ぶ

  能登半島地震の後で亡くなった人を災害関連死とするかどうかを判断する石川県と3市町(輪島市、珠洲市、能登町)の合同審査会(委員構成=弁護士3人、医師2人)が今月14日に非公開で行われ、申請のあった35人のうち30人について関連死と認められると判断された。これを受けて、3市町はきのう(23日)、30人について関連死を正式認定した。

  輪島市は遺族の同意を得て、関連死についての死因などを公式サイトで公表している。それによると、80代の女性の場合、「近隣のビニールハウスに避難しており、トイレが使用できないため近くの畑へ行き転倒、自力で動けない状態となり、低体温症のため死亡」、また、60代の男性の場合、「避難所への避難による生活環境の激変により心身に相当の負荷が生じ、専門的な医療を受けることができない状況で基礎疾患が悪化した結果、肝不全のため死亡」。日常ならば救える命が被災地でこうして亡くなるとは、じつに痛ましい。

  前回ブログの続き。能登半島地震を超えて新しい能登を創造する夢のある思い切ったプロジェクトを石川県が掲げる『創造的復興リーディングプロジェクト』。13の取り組みのうち、今回は【2】能登サテライトキャンパス構想の推進、を取り上げる。

  「サテライトキャンパス」は聞き慣れない言葉。大学など教育機関の本部から地理的に離れた場所に設置されたキャンパスのことを意味する。2011年3月に「能登キャンパス構想推進協議会」という、県内の大学と能登の4市町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)が連携する組織が創られた。大学などの教育機関がない能登を一つの大学キャンパスに見立て、学生の交流や教育研究、地域貢献などの活動を行う。いまも「能登キャンパス推進協議会」と名称を一部変更し、金沢大の理事・副学長が会長となり活動を継続している。

  能登キャンパスの活動のなかで注目を集め、地元から喜ばれているのが「祭りの環(わ)」プロジェクトだ。穴水町の沖波大漁祭り、能登町の矢波諏訪祭、輪島市の黒島天領祭、珠洲市の粟津の秋祭りについて、事前に学生たちが祭りの歴史などを学び、当日に担ぎ手として参加する。地域にとって、高齢化と人口減少で担ぎ手が足りない中、まとまった数の学生たちが参加してキリコや曳山が動くことはじつにうれしい話だ。自身も金沢大の教員時代に学生や留学生を連れて何度か参加したが、地域の人たちから「若い人たちが来てくれて、祭りが明るくなった」と喜ばれたことが印象に残っている。

  リーディングプロジェクトの【2】能登サテライトキャンパス構想の推進の取り組みは、県が能登キャンパス推進協議会と連携して、【9】能登の「祭り」の再興を目指すのだろう。実績を踏まえた取り組みになる。そして何より、学生たちにとっては、祭りの参加を通じて、被災地の実情を見て、被災者から話を聞いて学ぶチャンスではないだろうか。

(※写真は、2017年8月の輪島市門前町の黒島天領祭の曳山。先導役が「山2つ」と声をかけると、山側方向に棒を2度押す。学生たちもエネルギーが試される)

⇒24日(金)午前・金沢の天気   はれ 

★「復興先導プロジェクト」って何だ~3 祭りと能登人の気概

★「復興先導プロジェクト」って何だ~3 祭りと能登人の気概

       能登半島地震を超えて新しい能登を創造する夢のある思い切ったプロジェクトを石川県が掲げる『創造的復興リーディングプロジェクト』。13の取り組みのうち、今回は【9】能登の「祭り」の再興、の可能性を探ってみる。

  祭りが能登復興のリーディングプロジェクトとして掲げられたのも、能登では「1年365日は祭りの日のためにある」、「盆や正月に帰らんでいい、祭りの日には帰って来いよ」という言葉があるくらい能登人は祭りが好きだからだ。ところが、震災で能登で一番大きな祭りとして知られ、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている七尾市の青柏祭(5月3-5日)の曳山巡行が中止となった。地元で「でか山」と呼ばれる曳山の大きさは高さ12㍍、ビルにして4階建ての高さ=写真・上、七尾市役所公式サイトより=。地元の人たちも「日本で一番でかい」と自慢していただけに、「やっぱりダメか」と地元だけでなく、能登にもショックが走った。

  「青柏祭でか山保存会」が総会(2月14日)を開き、中止を決めた理由は道路事情だった。曳山の巡行ルートが地震で大きく破損しており、安全確保ができないとの一致した意見だった。確かに、でか山の車輪は直径が2㍍もあり、道路に亀裂やおうとつがあっては運行もままならないだろう。今回、リーディングプロジェクトに祭りが掲げられたことで、来年開催に向けて巡行の市道・県道の修復が進むのではないだろうか。  

  一方、能登で一番勢いのある祭りとして知られるのが、能登町宇出津(うしつ)の「あばれ祭り」(7月5、6日)だ。この祭りは曳山巡行ではなく、地元でキリコと呼ぶ「切子灯籠(きりことうろう)」を大人たちが担いで巡行する。なので、道路に少々のおうとつがあっても足元に気をつければ動かすことは可能だ。「あばれ祭り」の開催について話し合う運営協議会が3月27日に開かれ、実施する方針を確認した。2日間にわたって40基のキリコが繰り出し、広場に集まって、松明(たいまつ)のまわりを勇壮に乱舞する=写真・下、日本遺産公式ホームページより=。神輿を川に投げ込んだり、火の中に放り込むなど、担ぎ手が思う存分に暴れる。祭りは暴れることで神が喜ぶという伝説がある。

  ただ、キリコの材料を作る製材所と、神輿を製作する工務店が地震で作業場や仕事道具が壊れたりしたため、地元の有志らがクラウドファンディングで復旧に必要な資金を募っている。また、祭りは志納(寄付金)によって賄われている。これまで祭りを支援してくれた人々の中には被災者もいることから、例年より寄付金が少なかった場合はキリコの本数を減らすなど内容の変更せざるを得なくなる。こうした点は、リーディングプロジェクトの予算でカバーしてほしいものだ。

  あばれ祭りは夏から秋にかけて能登各地で行われるキリコ祭りの先陣を切る代表的な祭りでもある。まさに、能登復興へのリーディングなキリコ祭りに期待したい。

⇒23日(木)午後・金沢の天気   はれ

☆「復興先導プロジェクト」って何だ~2 トキが能登の空を舞う

☆「復興先導プロジェクト」って何だ~2 トキが能登の空を舞う

  能登半島地震の災害からの復興のために石川県が提示した『創造的復興リーディングプロジェクト』の13の取り組みで、自身にピンと来たのは【10】震災遺構の地域資源化に向けた取り組み、そして、【12】トキが舞う能登の実現、の2つだった。前回の震災以降に続いて、今回はトキが舞う能登の空について。

  かつて、「日本の本州で最後の一羽」と呼ばれたトキが能登にいた。「能里(のり)」という愛称で呼ばれていた。オス鳥だった。能登には大きな河川がなく、山の中腹にため池をつくり、田んぼの水を蓄えていた。そのため池にはトキが大好物のドジョウやカエル、ミミズなどがいた。能登半島の中ほどにある眉丈山では、1961年に5羽のトキが確認されている。ただ、田んぼでついばむエサには農薬がまみれていた。1970年に能里が本州で最後の一羽となる。

  当時、新潟県佐渡には環境省のトキ保護センターが設置させていて、能里は人工繁殖のために佐渡に送られることになる。ところが、翌年1971年3月、鳥かごのケージの金網で口ばしを損傷したことが原因で死んでしまう。当時、能登の人たちは「佐渡に送らなければ、こんなことにならなかったのに」と残念がった。

  あれから半世紀、佐渡では500羽余りのトキが野生で生息するようになった。環境省は2022年にトキを本州で放鳥することを決め、能登と島根県の出雲市で放鳥する計画を発表した。その放鳥は「2026年以降」となっているので、早ければ2年後の2026年に能登の空をトキが舞う日がやっていくる。石川県では去年、5月22日を「いしかわトキの日」と決め、ムードを盛り上げている。(※写真は、輪島市三井町洲衛の空を舞うトキ=1957年、岩田秀男氏撮影)

  能登の人たちのトキへの想いはまだある。トキが能登の空を舞う日は希望の光でもある。2026年めがけてトキの放鳥が着実に行われることを期待したい。

⇒22日(水)午前・金沢の天気    はれ 

★「復興先導プロジェクト」って何だ~1 震災遺構のこと

★「復興先導プロジェクト」って何だ~1 震災遺構のこと

  能登半島地震から140日余りとなる。石川県はきのう20日、復旧・復興本部会議を開き、馳知事がこれまで繰り返し述べてきた「創造的復興」に向けた計画案をまとめた。その計画案は「石川県創造的復興プラン (仮称)」として県庁公式サイトで公開されているので、自身の解釈でまとめてみる。

  創造的復興プランのスローガンは「能登が示す、ふるさとの未来 Noto, the future of country」。新しい能登を創造する夢のある思い切ったプロジェクトを『創造的復興リーディングプロジェクト』と位置付ける。4つの柱で構成される。▽教訓を踏まえた災害に強い地域づくり、▽ 能登の特色ある生業(なりわい)の再建、▽暮らしとコミュニティの再建、▽誰もが安全・安心に暮らし、学ぶことができる環境・地域づくり

  リーディングプロジェクトの具体的な施策は13の取り組みとして示されている。
【1】復興プロセスを活かした関係人口の拡大
【2】能登サテライトキャンパス構想の推進
【3】能登に誇りと愛着が持てるような「学び」の場づくり
【4】新たな視点に立ったインフラの強靭化
【5】 自立・分散型エネルギーの活用などグリーンイノベーションの推進
【6】 のと里山空港の拠点機能の強化
【7】利用者目線に立った持続可能な地域公共交通
【8】奥能登版デジタルライフラインの構築
【9】能登の「祭り」の再興
【10】震災遺構の地域資源化に向けた取り組み
【11】能登半島国定公園のリ・デザイン
【12】トキが舞う能登の実現
【13】産学官が連携した復興に向けた取り組みの推進

  以上の取り組みを読んで、自身にピンと来たのは【10】と【12】だろうか。被災地をこの目で確かめるため元日からこれまで17回現地をめぐっているが、被災地を見ようと訪れている人が回を重ねるごとに増えている印象がある。インバウンドの人たちもよく目にする。戦災地や被災地を訪れることを欧米の人たちは「ダークツーリズム(Dark tourism)」と称して、現地では最初に死者に対して哀悼の祈りを捧げてから見学に入る。復旧・復興ですべてを撤去するのではなく、特徴的な現場を遺構としてのこし、世界の人たちに震災を語り継ぐ場として提供してもよいと思う。

  もちろん、震災遺構については行政が勝手に決めることではない。被災地の人たちの心情に配慮し、丁寧に合意形成を図りながら作業を進めていくことになるだろう。この創造的復興リーディングプロジェクトについて、シリーズで考えてみたい。

(※ 写真は、3月22日に天皇、皇后両陛下が多くの犠牲者が出た輪島・朝市通りを訪れ黙礼をされた=宮内庁公式サイト「被災地お見舞い」より)

⇒21日(火)午前・金沢の天気   くもり

☆奥能登国際芸術祭の作家 地域復興の願い込め動き出す

☆奥能登国際芸術祭の作家 地域復興の願い込め動き出す

  去年秋に能登半島の尖端、珠洲市で開催された奥能登国際芸術祭2023(9月23日-11月12日)で心を打たれた作品の一つが、人生の生き様をテーマにした画家、弓指寛治氏の『プレイス・ビヨンド』だった。岬にある自然歩道を歩きながら、珠洲の地元で生まれ育った南方寳作(なんぽう・ほうさく)という人物が生前に残した伝記をもとにした、人生ストーリーを立て札と絵画を見ながらたどる=写真=。

  その内容が濃い。戦前に人々はなぜ満蒙開拓のために大陸に渡ったのか、そして軍人に志願したのか、どのような戦争だったのかを、立て札の文字をたどりながら、設置されている絵画を見ながら追体験していく。ただ、ストーリーが記された立て札は87枚、絵画は50点もある。立て札一枚一枚を読んで、さらに絵を鑑賞していると、いつの間にか時間が経って辺りが暗くなったの覚えている。

  その弓指氏がきのう18日、珠洲市役所を訪れ、出品した作品の売却費の一部65万円を地震の支援金として市に寄付した。また、弓指氏は同日から泊まり込んで珠洲市でボランティア活動を行う(5月19日付・北國新聞)。芸術家として深く関わった現地が地震で甚大な被害を受けたことに心を痛めたのだろう。  

  奥能登国際芸術祭の総合ディレクターである北川フラム氏は震災に関する支援を行う「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」を立ち上げている。アーティストやサポーターで構成する有志グループで、被災した人たちと協力しながら、同地の復興に寄与していくという。北川氏は述べている。「珠洲の人々と他地域の人々を結びつけるアート作品や施設の撤去、修繕、再建などを行い、珠洲に思いを寄せる人々の力を結集したいと考えます」(「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」公式サイト)。

   「ヤッサー」は珠洲の祭りの掛け声で、若い衆が力を合わせて巨大なキリコや曳山を動かすときに「ヤッサーヤッサー」と声を出して気持ちを一つにする。弓指氏も芸術への想い、地域復興への願いを一つに込めて動き出そうとしているのだろうか。

⇒19日(日)夜・金沢の天気    くもり

★梅雨の大雨で危機が増す 土砂ダムで水没やがけ崩れが

★梅雨の大雨で危機が増す 土砂ダムで水没やがけ崩れが

  ウエザーニュースが先日(15日)発表したことしの梅雨入りと雨量の見込みが気になる。北陸は6月中旬に梅雨入りする予想となっているが、7月上旬に大雨に警戒が必要という。「大雨」の文字でドキリとするのは、能登の震災で起きた山崩れだ。大雨で2次災害が起きるのではないか、そんなことを考えてしまう。

  輪島市や珠洲市では集落の裏山が崩れているところが各地にある。珠洲市の山間部でがけ崩れが起き、土砂の一部が民家に押し寄せている=写真・上、2月22日撮影=。梅雨の大雨によって、がけ崩れや山崩れが起き、民家への2次被害が出るのではないか。

  特に危険なのは、大量の土砂が崩落し、河川に「土砂ダム」ができ、近くの民家などが水没するという災害だ。また、地震でため池の土手に亀裂などが入っていると、大雨で雨量が急激に増すことでため池が決壊する可能性がある。こうなると、下流にある集落に水害が起きる。(※写真・下は、土砂ダムで孤立した輪島市熊野町の民家=1月4日、国土交通省TEC-FORCE緊急災害対策派遣隊がドローンで撮影)

       心配してもきりはないが、梅雨の大雨によって水かさが増すことで、ダムの決壊も懸念される。ダムは行政が管轄しているので、排水路の整備や、カメラによる監視体制を強化し、地域の人たちと情報共有する手立てを整えてほしいものだ。

⇒17日(金)夜・金沢の天気    くもり

☆長びく避難所生活 懸念されるエコノミークラス症候群

☆長びく避難所生活 懸念されるエコノミークラス症候群

  能登半島地震の被災地をこの目で確かめようと思い、元日からこれまで17回、能登をめぐっている。そのとき、道路でよくすれちがったのは救急車だった=写真、1月5日撮影=。とくに、1月と2月はよく目にした。きょうのメディア各社の報道によると、元日から4月末までの4ヵ月間で、能登各地の避難所から病院などに救急搬送された人は771人に上ること分かった。能登の9市町の地元消防署への取材を基に共同通信が集計した(5月16日付・北陸中日新聞)。

  記事では4月24日に輪島市内の避難所から救急搬送された74歳の男性の事例を取り上げている。就寝中に呼吸の苦しさを訴えて病院に緊急搬送されたが、数時間後に病院で死亡した。死因は「塞栓症の疑い」とされた。関係者は「エコノミークラス症候群の疑いがある」と指摘しているという。長時間同じ姿勢を取ることで血栓ができて死亡するケースだ。

  前回ブログでも述べた「災害関連死」が今後、急増するのではないかと懸念している。地震による建物の倒壊や津波などが原因で亡くなる「直接死」とは別に、避難生活の疲労や環境変化のストレスなどから体調が悪化して亡くなるケースだ。先のエコノミークラス症候群のほか、自殺も含まれる。被災した市町の学校の体育館や公民館、集会所などの避難所でいまも1967人が暮らしている。長期化する避難生活で体調を悪化させる人も今後増えるのではないだろうか。

  避難所や仮設住宅についての不満やストレスとはどういうものなのか。少々古いデータになるが、2007年3月25日の能登半島地震で行った金沢大学能登半島地震学術調査部会の報告の中に被害がもっとも大きかった輪島市門前町で住民から聞いたアンケートが調査がある。同地区は当時、65歳以上が47%を占める高齢化が進む地区で、ほとんどが持ち家だった。

 <避難所について>
・畳一畳分のスペースは狭い。
・狭くて、よく眠れなかった。人にぶつかる。踏まれる。
・配られた毛布はかぶるに重く、暖かくなかった。
 <仮設住宅での生活について>
・エアコンが嫌いだから暑くて困る。
・浴槽のまたぎの部分の高さが高く、高齢者には不便。風呂の湯船が深すぎる。風呂の床が滑りやすい。お湯と水の調整が難しい。タクシーで風呂に入りに行く人もいる。
・内側から鍵をかけてしまうと外から誰も入れなくなってしまう。一人暮らしの人など心配。
・買わなくちゃいけないから野菜不足。

  避難所や仮設住宅ならではの事情でいろいろとストレスがたまる。能登の人たちは一軒家で暮らしてきたのでなおさらだ。

⇒16日(木)夜・金沢の天気     くもり

★災害関連死めぐる戸惑い 認定には慎重さとスピード感を

★災害関連死めぐる戸惑い 認定には慎重さとスピード感を

  能登半島地震でいわゆる「災害関連死」について発表される行政のデータやメディアの報道に、少し戸惑いを感じている石川県民が少なからずいるのではないだろうか。自身もその一人だ。メディア各社の報道によると、きのう14日、地震後に亡くなった人を災害関連死とするかどうかを判断する県と3市町(輪島市、珠洲市、能登町)の合同審査会が開かれ、3市町に遺族から申請のあった35人のうち30人を災害関連死として認定した。審査会は非公開で行われ、委員は弁護士3人、医師2人の5人。今後は月1回のペースで開催する。

  戸惑いがいくつかある。審査が行われたのは3市町の35人(珠洲19人、輪島9人、能登7人)だった。認定されたのは30人(珠洲14人、輪島9人、能登7人)。珠洲の5人ついては、委員が追加資料の提出を求めたため次回以降に再審査となる。戸惑いというのも、今回審査された人数が少ないのではと感じるからだ。遺族からの申請数は輪島市だけでも53人に上っている。ところが、今回は9人しか審査されていない。このペースだと輪島市の申請数の審査を終えるのにあと5ヵ月はかかることになる。もちろん、数をこなす単純な作業ではなく、ある意味で「書面上の検死」なので時間がかかるのは分かる。

  ただ今後、申請数がさらに増える可能性も十分にあるだろう。なので、審査会の委員を増やす、開催回数を月1回より増やすことが必要なのでは、と素人ながらに考えたりする。

  さらに戸惑ったこと。県危機対策課がこれまで発表してきた地震の人的被害は「死者245人(うち災害関連死15人)」と公表してきた。なので、この「15人」は確定の人数と認識していた。ところが、市町が独自に判断した人数を県に報告していたもので、確定ではなくあくまでも「関連死疑い」の数字だった。それを確定数のように公表していたことになる。県では遺族からの申請があれば15人についても審査を行うとしている。

  災害関連死の認定基準については全国統一のものがなく、石川県では初めての対応であり、2016年4月の熊本地震で熊本県が独自に定めた認定基準などを参考にしたようだ。ちなみに、熊本地震では犠牲者273人のうち、80%以上の218人が災害関連死だった。その認定については去年12月現在で遺族から申請があった722人が審査されて、認定は218人、認定率は30%となっている(5月15日付・北陸中日新聞)。

  関連死について政府は「災害による負傷の悪化、または避難生活などにおける身体的負担による疾病」での死亡と定義している。関連死の認定数について多い少ないを問うているのではない。遺族の気持ちを察してスピード感を持って行政は対応してほしい。もちろん審査会での審議は慎重に。

⇒15日(水)夜・金沢の天気   くもり