#能登

☆能登大雨で熊木川の氾濫 大伴家持が詠んだ「熊来」伝説

☆能登大雨で熊木川の氾濫 大伴家持が詠んだ「熊来」伝説

   きょうから7月、その初日は能登半島は大雨に見舞われた。とくに中能登と呼ばれている七尾市中島地区の熊木川の一部流域では、氾濫危険水位を超えて農地や道路が冠水し、住宅では床下浸水の被害があった。中島地区など5800世帯・1万4100人を対象に避難指示が発令された=写真、1日付・夕刊各紙=。

   このニュースが気になったもの、中島地区で激しい雨を自身も経験したことがあるからだ。ちょうど6年前、2017年7月1日だ。能登へ乗用車で出かけ、自動車専用道「のと里山海道」の中島地区で、大雨に巻き込まれた。雨がたたきつけるようにフロントガラスに当たり、ワイパーの回転を一番速くしても前方が見えず、しばらく車を停車し小降りになるのを待った。再び出発すると、たたきつけるような雨に再び見舞われた。3度運転を見合わせた。波状的な激しい雨は初めてだった。このとき能登では1時間で53㍉の非常に激しい雨が観測され、七尾市の崎山川や熊木川などが一部氾濫した。   

   話は変わるが、熊木川にはちょっとした思い入れもある。川の河口の七尾西湾は「能登かき」で知られる養殖カキの産地でもある。里山の栄養分が熊木川を伝って流れ、湾に注ぎこむ。その栄養分が植物プランクトンや海藻を育み、海域の食物連鎖へと広がり、カキもよく育つとされる。とくに、里山の腐葉土に蓄えられた栄養分「フルボ酸鉄」が豊富にあると現地で学んだことがある(2010年5月・金沢大学「里山里海環境調査」)。学習的なことは別として、能登かきのファンにとっては気になる場所なのだ。

   和歌をたしなむ人々にとっても気にかかるのが「熊来」(のちに熊木村、現在の中島地区)かもしれない。天平20年(748)に越中国の国司だった大伴家持が能登を巡行している。そのときに詠んだ歌が万葉集におさめられている。「香島より熊来をさして漕ぐ舟の梶取る間なく都し思ほゆ」。以下、自己解釈で。(七尾の)香島から熊来の在所に向かって舟を漕いでいく。舟舵を取るのも忙しいが、それ以上に都のことがひっきりなしに思い浮かんでくる。

   作者は不詳だが、万葉集にはさらに2つの「熊来」が出て来る。「梯立の熊来のやらに新羅斧堕入れわし懸けて懸けて勿泣なかしそね浮き出づるやと見むわし」「梯立の熊来酒屋に真罵らる奴わし誘い立て率て来なましを真罵らる奴わし」(※七尾市「能登国府」パンフより)

   ある愚か者が鉄斧を熊来の河口の海底にうっかり落とした。海に沈んでしまえばもう浮かび上がることはないのに泣いてばかりいるので、しかたなく「そのうち浮かんで来るよ」とみんなでなだめた。熊木の在所の酒蔵でえらく怒鳴られている従業員がいたので、誘って連れ出そうかと思ったが、「怒鳴られているあんたはどうする」と。

   8世紀に成立した日本最古の和歌集に、おそらく当時の最先端の言葉であったであろう「酒屋」と「新羅斧」が出てくる能登はどのような風景だったのか。豪雨の熊木川から連想した。

⇒1日(土)夜・金沢の天気     あめ

★能登の新たな風~古刹の森にアンブレラスカイ~

★能登の新たな風~古刹の森にアンブレラスカイ~

   きょう能登の輪島市門前町にある総持寺祖院を訪ねた。2021年に開創700年を迎えた曹洞宗の寺で、禅の修行寺で末寺は1万6千余を数える。1898年、明治の大火で七堂伽藍の大部分を焼失した。これを契機に1910年、布教伝道の中心は横浜市鶴見に移る。能登の総持寺は「祖院」と改称され別院扱いとなった。その後の再建で山門や仏殿などがよみがえり、周囲の山水古木と調和して大本山の面影をしのばせる(総持寺パンフ)。2007年3月の能登半島地震でも大きな被害を受け、開創700年の2021年4月には修復工事が完了し落慶法要が営まれている。

   この寺で修行するドイツ人僧侶、ゲッペルト・昭元氏と久しぶりに面談した。ドイツのライプツィヒ大学で日本語を学んでいて禅宗に興味を持ち、2011年に修行に入った。「与えられたものを素直にいただく、能登での人生の学びも13年になります」と。曹洞宗のきびしい修行を耐え抜いた言葉の一つ一つが重く、そして心に透き通る。最後に、ドイツに戻っての布教は考えているのかと質問すると、「結婚し、子どもにも恵まれた。能登でさらに修行を積みたい」との返事だった。

   境内を歩くと、祖院最古の建物である白山殿前に六色仏旗にちなんだ青、黄、赤、白、紫などのビニール傘が飾られていた。寺の境内とは思えない遊び心のある光景だ。チラシによると、「sorahana」と呼ばれるイベント。全部で45本。天気が良ければ地面に写る影の色も楽しめただろうが、残念ながらこの日は曇りで、その光景は見ることができなかった。

   イベントのチラシによると、地域の人たちでつくる「禅の里づくり推進協議会」による行事で、4月からことし10月1日まで開催されている。ただし、台風などが来る場合はイベントは中止となるようだ。古刹に輝く傘の空、アンブレラスカイだ。

   1泊2日の短い旅程での能登散策。目にした能登の新たな光景をいくつか紹介する。

⇒6日(木)夜・輪島の天気     くもり時々あめ

☆能登の火様 受け継ぎ広げる物語

☆能登の火様 受け継ぎ広げる物語

   かつて民家の朝の始まりは、囲炉裏の灰の中から種火を出し、薪や炭で火を起こすことだった。能登では、そうした先祖代々からの火のつなぎのことを「火様(ひさま)」と言い、就寝前には灰を被せて囲炉裏に向って合掌する。半世紀前までは能登の農家などでよく見られた光景だったが、灯油やガス、電気などの熱源の普及で、囲炉裏そのものが見られなくなった。火様の風習も風前の灯となった。

   その火様を今でも守っているお宅があることを聞いたのは10年前のこと。2014年8月、教えていただいた方に連れられてお宅を訪れた。能登半島の中ほどにある七尾市中島町河内の集落。かつて林業が盛んだった集落で、里山の風景が広がる。訪れたお宅の居間の大きな囲炉裏には、300年余り受け継がれてきたという火様があった。囲炉裏の真ん中に炭火があり、その一部が赤く燃えていた=写真=。訪れたのは夕方だったので、これから灰を被せるところだった。この集落でも火様を守っているのはこの一軒だけになったとのことだった。このお宅の火様を守っているのは、一人暮らしのお年寄りだった。

   案内いただいた方の妻の実家がこのお宅の隣にあり、それがご縁で火様のことを知ったとの話だった。その方から火様の第二報を届いたのは2016年秋ごろだった。「火様をお預かりすることになりました」。火様を守っていたお年寄りが入院することになり、最後の火様が消えることになるので、火様を自身が継承するとのことだった。

   その方は現在、埼玉県に住んでいる。どうのように火様を守るのかと尋ねると、預かった火様を囲炉裏ではなく、2週間燃え続けるオイルランプに灯し、それをウエッブカメラで埼玉から見守る。2週間ごとに七尾市を訪れ、オイルを補給する。万一に備えて、オイルランプは2つ灯している。「伝統の灯は消せない」と話しておられた。

   ともとも外科医で定年退職後に空き家となっていた妻の実家の活用を考え、能登と埼玉を行き来するようになった。能登の古建築がイスラム教徒(ムスリム)の宿泊場所に適していることに気がついて、家を修築してムスリムの宿泊施設を開設した。能登の家に特徴的な大広間は礼拝の場所となっている。「過疎化の病(やまい)に陥った能登を治したい」。能登に世界の人々を呼び込むことで、地域を活性化したいとの思いだった。

   火様の第三報が届いたのは去年の9月だった。伝統の灯を消せないと守ってきたが、火様を受け継ぐ人を広げようとの思いから、茶道用の茶炭を焼いている珠洲市の製炭業の職人、そして金沢市の薪ストーブ会社に火様の話を持ち込んだところ、快く受けてもらい、両者を火様の受け継ぎ手とする認定式を行い、火種を分けたという。さらに、一般社団法人「能登火様の守人」を立ち上げたとのことだった。「守りから広げるに発想を変えました」と。

   その方から年賀状をいただいた。「少しづつ、肩の荷を軽くしてまいりたいと思います」。ことし74歳になる。一人で守ることの心の重さを感じていたのだろう。守人を広げることで「肩の荷」を軽くした思いなのだろう。伝統的な風習を現代風に解釈することで受け継ぎ広げる。火様の物語だ。賀状を読んで思わず、「お疲れさまでした」と拍手をした。

⇒10日(火)午前・金沢の天気    くもり

★「天然能登寒ぶり」プロジェクト立ち上がる

★「天然能登寒ぶり」プロジェクト立ち上がる

   今回は能登寒ブリの話題。能登で水揚げされる天然の寒ブリをブランド化する試みがきょう1日から始まった。能登半島の中ほどにある七尾湾で今朝、水揚げされたうちの1本が第1号の「煌(きらめき)」に選ばれ、金沢港市場での初競りで400万円で競り落とされた。

   「煌」ブランドは、能登などで水揚げされる寒ブリのうち、重さが14㌔以上で傷がなく、鮮度管理が徹底されていることなどが条件となる最高級品で、石川県漁業協同組合が認定する。きょう能登沖の定置網などで水揚げされた522本のうち、審査で1本が認定された。「煌」第1号は重さ15.5㌔で体長94㌢の大物だ。例年、寒ブリは比較的高値がついても15万円から20万円なので、ブランド化によって今回は20倍ほど値が上がったことになる。

   競り落としたのは金沢や能登地方でスーパーを展開する「どんたく」。同社公式サイトによると、金沢の西南部店でお披露目があるというので行ってきた。15㌔の大物だけあって、どっしりした体つき=写真=。店員に「いつさばくのか」と尋ねると、あす2日にさばき、3日に西南部店と七尾市のアスティ店で刺し身や寿司として限定販売するとの返答だった。

   県漁協ではあす2日から、珠洲、能登、七尾、金沢の4ヵ所の市場で「煌」の認定作業を行い、画像や重さなどをインターネットで共有し、電子入札する「共通入札制度」を始める。また、11月6日に解禁されたズワイガニ漁でも、石川県内の雄の加能ガニについてブランド「輝(かがやき)」が初競りで100円で落札されている。雌の香箱ガニも「輝姫」として30万円の最高値が付いた。重量や鮮度、資源管理への積極的な取り組みなどの厳しい認定基準でブランド化が進む。

   海産物だけでなく、農作物のブランド化も各地で進んでいる。ブランド化は、競争力の強化を狙って、他の商品と差別化することを意図した名称やデザインなどを指す。ただ、海産物や農作物は自然条件に左右されるだけに、品質が規格化されにくい。寒ブリの「煌」はきょうは1本しか出なかった。それでも、いったん「天然能登寒ぶり」のプロジェクトを立ち上げた限りは、あすの2本、あさっての3本を求めて地道にブランド化作戦を続けるしかない。

⇒1日(木)夜・金沢の天気    くもり

☆「ノドグロ」と「かに面」の話 ~下

☆「ノドグロ」と「かに面」の話 ~下

   この時季、庶民の味から遠ざかっているのはノドグロだけではない。「かに面」も、だ。かに面は雌の香箱ガニの身と内子、外子などを一度甲羅から外して詰め直したものを蒸し上げておでんのだし汁で味付けするという、かなり手の込んだものだ=写真=。もともと金沢の季節限定の味でもある。

   それが、このところ価格が跳ね上がっている。なにしろ、金沢のおでん屋に入ると、品書きにはこれだけが値段記されておらず、「時価」とある。香箱ガニの大きさや、日々の仕入れ値で値段が異なるのだろう。今季はまだおでん屋で食べてはいなが、ことし1月におでん屋で食したかに面は2800円だった。それまで何度か同じ店に入ったことがあるが、数年前に比べ1000円ほどアップしていた。

   資源保護政策で香箱ガニの漁期は11月6日から12月29日に短縮された。そこで、値段は徐々に上がってはいたものの、それが急騰したのは2015年3月の北陸新幹線の金沢開業だった。金沢おでんが観光客の評判を呼び、季節メニューのかに面は人気の的となり、おでんの店には行列ができるようになった。

   ノドグロにしてもかに面にしても値段が急騰した背景の一つには北陸新幹線の金沢開業がある。極端に言えば、「オーバーツーリズム」なのかもしれない。この現象で戸惑っているのは金沢の人たちだけではない。能登や加賀もだ。金沢おでんが観光客の評判を呼び、季節メニューのかに面は人気の的となった。すると水揚げされた香箱ガニは高値で売れる金沢に集中するようになる。それまで能登や加賀で水揚げされたものは地元で消費されていたが、かに面ブームで金沢に直送されるようになった。

   食べる話ばかりしてきたが、問題は資源管理だ。富山県以西から島根県の海域にかけて、2007年には5000㌧だった漁獲量が2020年には2700㌧に減っている(水産研究・教育機構「令和2年度ズワイガニ日本海系群 A 海域の資源評価」)。今季は幸いなことに、2013年度から始まった卵を産む雌ガニの漁期を短縮が奏功して、漁獲量が増えているようだ。しかし、持続可能に資源量を回復させるには、さらに雌の漁獲をさらに制限することも想定される。はやい話が「かに面ストップ」ができるか、どうか。

⇒30日(水)夜・金沢の天気     あめ

★能登が輝く祭りシーズン ウイズコロナで3年ぶり

★能登が輝く祭りシーズン ウイズコロナで3年ぶり

   能登では夏から秋にかけて祭りのシーズンとなる。「盆や正月に帰らんでいい、祭りの日には帰って来いよ」。能登の集落を回っていてよく聞く言葉だ。能登の祭りは集落や、町内会での単位が多い。それだけ祭りに関わる密度が濃い。子どもたちが太鼓をたたき、鉦(かね)を鳴らす。大人やお年寄りが神輿やキリコと呼ばれる大きな奉灯を担ぐ。集落を挙げて、町内会を挙げての祭りだ。その祭りが新型コロナウイルスの感染拡大の影響で2020年と21年は軒並み中止だった。3年ぶりでようやく「復活」のめどがついたようだ。

   能登の祭りは派手でにぎやかだ。大学教員のときに、留学生たちを何度か能登の祭りに連れて行った。中国の留学生が「能登はアジアですね」と目を輝かせた。キリコは収穫を神様に感謝する祭礼用の奉灯を巨大化したもので、大きなものは高さ16㍍にもなる=写真=。輪島塗の本体を蒔(まき)絵で装飾した何基ものキリコが地区の神社に集う。集落によっては、若者たちがドテラと呼ばれる派手な衣装まとってキリコ担ぎに参加する。もともと女性の和服用の襦袢(じゅばん)を祭りのときに粋に羽織ったのがルーツとされ、花鳥風月の柄が入る。インドネシアの留学生は「少数民族も祭りのときには多彩でキラキラとした衣装を着ますよ」と。留学生たちは興味津々だった。

   ところで、3年ぶりに祭り再開とは言え、実施に当たってはコロナ対応にかなり気遣っているようだ。地元紙の記事によると、高さ15㍍のキリコを100人の若衆で担ぎ上げ、6基が街中を練る七尾市の石崎奉燈祭(8月6日)では練り歩く範囲を町中心部の広場に限定して実施するようだ。さらに祭りの2日前に関係者のPCR検査を、当日には抗原検査を実施して陰性の人のみ参加とする。そして、祭り当日の飲酒は禁止となる(今月26日付・北國新聞)。

   祭りに酒はつきものだが、大きなキリコを担ぎ上げる際には勢いをつけるために一升瓶を回し飲みしたりするので、禁止となるようだ。石崎奉燈祭は漁師町の若衆が中心なので、ノンアルコールで勢いはつくのかどうか。

   能登のキリコ祭りは2015年4月に、日本遺産「灯り舞う半島 能登 ~熱狂のキリコ祭り~」に認定され、全国から見学や参加希望の祭りファンが増えていた。また、祭りを開催する側もおそらくこれ以上の中止が続くと、伝統行事の祭礼の継承そのものが痛手となること判断したのだろう。冒頭の「盆や正月に帰らんでいい、祭りの日には帰って来いよ」の言葉が示すように、過疎化が進行する能登にあって、祭りの継続は集落にとって価値観の共有であり、持続可能な地域づくりに欠かせない祭礼イベントなのだ。

⇒27日(月)午前・金沢の天気    はれ時々くもり

☆トキが再び能登の空に舞うとき

☆トキが再び能登の空に舞うとき

   では、能登が放鳥候補地に選定されたとして、トキの生息は可能化なのか。2007年、金沢大学の「里山里海プロジェクト」の一環として、トキが再生する可能性を検証するポテンシャルマップの作成に参加したことがある。珠洲市や輪島市で調査地区を設定した。まず始めたのは生物多様性の調査だった。奥能登には大小1000以上ともいわれる水稲栽培用の溜め池が村落により維持されている。溜め池は中山間地にあり、上流に汚染源がないため水質が保たれている。ゲンゴロウやサンショウウオ、ドジョウなどの水生生物が量、種類とも豊富である。溜め池の多様な水生生物は疏水を伝って水田へと分配されている。

    また、能登はトキが営巣するのに必要なアカマツ林が豊富である。また、能登はリアス式海岸で知られるように、平地より谷間が多い。警戒心が強いとされるトキは谷間の棚田で左右を警戒しながらドジョウやタニシなどの採餌行動をとる。豊富な食糧を担保する溜め池と水田、営巣に必要なアカマツ林、そしてコロニーを形成する谷という条件が能登にあることが分かった。ただ、14年前の調査なので、その後の環境に変化はあるかもしれない。

   2011年6月に「能登の里山里海」が世界農業遺産(JIAHS)に認定されて10年になる。候補地に選定されることで、トキの放鳥が里山里海のあり様を描く次なるメルクマールになるに違いない。

(※写真のトキは1957年に岩田秀男氏撮影、場所は輪島市三井町洲衛)

⇒11日(水)夜・金沢の天気    くもり

★立春寒波 ひたすら待つ「三寒四温」と「ぼんぼら風」

★立春寒波 ひたすら待つ「三寒四温」と「ぼんぼら風」

   「立春寒波」がやって来た。金沢地方気象台は北陸の上空5000㍍にマイナス36度以下の強い寒気が流れ込み、金沢などの平野部でも大雪となるおそれがあるとニュースで伝えている。きょう5日午後6時までに降る雪の量は多いところで加賀地方の平野部で20㌢、山沿いで60㌢、能登地方は平野部と山沿いともに30㌢と予想されている。発達した雪雲が同じ地域に流れ込み続けた場合は、6日にかけて警報級の大雪になる見通し、とか。発表を聞いただけで震える。

    けさ午前7時ごろの積雪は自宅周囲で5㌢ほど。これからが本番なのだろう。庭を眺めるとロウバイの黄色い花にうっすらと雪がかぶっていた=写真・上=。ロウバイは大寒から立春の時節に咲く。ロウバイの木に近づこうとすると、雪面から野鳥が1羽、驚いたように飛び立っていった。よく見えなかったが、目のふちが黒っぽく、尾羽が長めだったので、セキレイではなかったか。

   雪と花と鳥のイメージで何気なく思い出したのが、4年前、石川県立美術館(金沢市出羽町)で開催されていた伊藤若冲の特別展の『雪中雄鶏図』だった=写真・中、図録より=。竹や残菊に雪が積もる様子、そして雄のニワトリが餌を探して雪面をくちばしで突く絵は妙にリアリティと存在感があった。

   そして、この降雪で自宅周辺はまるで水墨画のような世界となった=写真・下=。金沢には古くから「一里一尺」という言葉がある。金沢地方気象台が発表する積雪量は、海側に近いところにある同気象台での観測であり、山側にある自宅周辺とでは積雪の数値が異なる。山側へ一里(4㌔)行けば、雪は一尺(30㌢)多くなる。

   今回の立春寒波はJPCZ(日本海寒帯気団収束帯)と呼ばれる発達した列状の雲だ。今後雪はさらに深まるだろう。この時季、北陸人はひたすら寒さに耐えながら春の気配が日に日に高まる「三寒四温」を待つ。そして、春一番の南風が吹くと、加賀や能登では「ぼんぼら風が吹く」と言って気持ちが踊り出すくらいにうれしくなる。「ぼんぼら」は生暖かいという意味だ。そして、新型コロナウイルス感染もきのう県内は551人と猛威が止まない。三寒四温のように徐々に治まってほしいと願うばかりだ。

⇒5日(土)午後・金沢の天気      ゆき

☆地震と漂着船 漂う不気味さ

☆地震と漂着船 漂う不気味さ

   きょう新年の初詣に白山比咩神社(白山市)に行ってきた。「ことし1年、無事でありますように」と祈った。このところ地震と漂着ごみの不気味な動きが続いている。5日前の大晦日の午後2時時52分ごろ、能登半島の尖端を震源とする震度3、マグニチュード4.2の揺れがあった。金沢地方気象台によると、2021年1月から12月までの1年間で震度1以上の地震が70回以上も発生している。9月16日には震度5弱の地震もあった。不気味だったのは、9月29日に能登半島沖が震源なのに太平洋側が揺れた「異常震域」の地震があった。震源の深さは400㌔、マグニチュード6.1の地震に、北海道、青森、岩手、福島、茨城、埼玉の1道5県の太平洋側で震度3の揺れを観測した。

   これは人為的な原因によって誘発される「誘発地震」か、と考え込んでしまった。というのも、北朝鮮が同じ9月の15日正午過ぎに弾道ミサイル2発を発射、その1発が能登半島沖の舳倉島の北約300㌔のEEZに落下した(同月15日・防衛大臣臨時会見「北朝鮮による弾道ミサイル発射事案」)。この落下地点と29日の震源が近かった。不気味だ。

   そして、寒風吹きすさぶ冬の日本海から漂着船が流れ着いている。きょう4日午前8時30分ごろ、珠洲市真浦町の海岸で、船体の全長が50㍍ほどある鉄製の船が海岸に流れ着いていると住民から海上保安庁に連絡があった。船体にはロシア語が書かれている。能登海上保安署では、ロシアで射撃訓練の際に「標的船」として使われる船に似ているという(4日付・朝日新聞ニュースWeb版)。では、ロシアは日本海でなぜ、どのような理由で射撃訓練をしたのか。これも不気味だ。

   このほかにも、先月だけでも輪島市、かほく市、珠洲市、志賀町の海岸に木造船や船の一部が相次いで漂着している。ハングルで数字や文字が書かれていて、北朝鮮の木造船の可能性があると報じられている。不審な人物や遺留品などはいまのところ見つかってはいない。

   能登半島の沖合には北朝鮮の木造船がよく流れて来る。大陸側に沿って南下するリマン海流が、朝鮮半島の沖で対馬海流と合流し日本の沿岸に流れてくる。ロシアや北朝鮮の沖合で難破した船や、海に廃棄された産業や生活ごみなどが漂着する。日本海に突き出た能登半島は近隣国の漂着ごみのたまり場の一つなのだ。

⇒4日(火)夜・金沢の天気     あめ

★「能登GIAHS」10周年の国際会議から~上~

★「能登GIAHS」10周年の国際会議から~上~

   「Globally lmportant Agricultural Heritage Systems」(GIAHS、世界農業遺産)についてこのブログで初めて取り上げたのは2010年12月19日付だった。この制度は国連食糧農業機関(FAO)が「持続可能な開発に関する世界首脳会
議」(ヨハネスブルグ・サミット)で提唱し設けた。ブログで取り上げた時は、能登半島の8つの市町の首長が連名で申請書をFAOに提出し終えたころだった。申請には当時国連大学副学長だった武内和彦氏(東大教授)らの支援があった。2009年9月に奥能登の農耕儀礼「あえのこと」がユネスコ無形文化遺産に登録されていた。この農文化の国際評価は、FAOのGIAHS認定を得るベースにもなりうるのではないかとの期待もあった。

       能登にグローバルな目線が注がれた2011年

   そのブログの締めくくりをこう記した。「正式な登録は来年夏ごろであり、登録が決まった訳ではない。が、動き出した。類(たぐい)希なる農業資産を祖先から受け継ぐ能登半島は過疎・高齢化のトップランナーでもある。このまま座して死を待つのか、あるいは世界とリンクしながら、生物多様性を育む農業を現代に生かす努力を重ね新たなステージを切り拓いていくのか、その岐路に立っている。」

   申請の翌年2011年6月10日、中国・北京で開催されたFAO主催のGIAHS国際フォーラムで、能登と当時に申請していた佐渡市の申請などが審査された。自身も北京に同行しその成り行きを見守った。審査会では、能登を代表して七尾市長の武元文平氏と佐渡市長の高野宏一郎氏がそれぞれ農業を中心とした歴史や文化、将来展望を英語で紹介した。質疑もあったが、足を引っ張るような意見ではなく、GIAHSサイトの連携についてどう考えるかといった内容だった。申請案件は科学評価委員20人の拍手で採択された。日本の2件のほか、インド・カシミールの「サフラン農業」など合わせて4件が採択された。日本では初、そして先進国では初めてのGIAHS認定だった。

   能登の認定タイトルは「Noto’s Satoyama and Satoumi」。GIAHS認定を受けてから、徐々に能登に変化が起き始める。一年おきに開催されるFAOのGIAHS国際フォーラムの開催が2013年5月は能登で決まった。この決定に関係各国は驚いたはずだ。北京でのフォーラム閉会式で、GIAHS事務局長は「次回はカリフォルニアで開催を予定している」と述べていた。カリフォルニアワインの代名詞となっているナパ・バレーはワインの産地だ。それがひっくり返って能登に。

    ネタ明かしをすると、2012年5月、ヨーロッパ視察に訪れた石川県の谷本正憲知事がローマのFAO本部にジョゼ・グラジアノ・ダ・シルバ事務局長を訪ね、能登での開催を提案していたのだ。FAOは次のフォーラム開催が1年後に迫っていたにもかかわらず変更を決断。「認定サイトの地で初めてのフォーラム開催」をFAOはうたった。それ以前は2007年がローマ、09年がブエノスアイレス、11年が北京だった。

   能登半島の七尾市和倉温泉で開催されたGIAHS国際フォーラム(2013年5月29-31日)には11ヵ国19サイトの関係者が集まった。能登では初の国際会議だった。そして、審査会では新たに日本の3サイト(熊本県「阿蘇の草原と持続可能な農業」、静岡県「静岡の茶草場農法」、大分県「国東半島宇佐の農林漁業循環システム」)など5サイトが新たに認定された。その後もGIAHS国際フォーラムは開催され、現在では22ヵ国の62サイトに。そして、イタリア、スペインなどヨーロッパにも認定が広がっている。

   2011年のGIAHS認定をきっかけに、能登にグローバルな目線が注がれることになり、「Noto」が世界に浸透していくことになる。(※写真は、2011年6月、北京で開催されたGIAHS国際フォーラムの認定状を手にする武元七尾市長=左=と高野佐渡市長)

⇒26日(金)夜・金沢の天気        あめ