#總持寺

☆能登半島地震 良寛の禅の言葉「災難に逢うがよく候」

☆能登半島地震 良寛の禅の言葉「災難に逢うがよく候」

     能登の名刹、輪島市門前町の総持寺を訪ねた(今月5日)。参道入り口の灯籠は倒れ、石畳が一部はめくれ上がっていた。参道を上ると右手にある、加賀百万石の礎を築いた戦国武将・前田利家の正室まつの菩提寺である芳春院は見る影もなく全壊していた=写真・上=。そして、総持寺の山門の左右に延びる回廊の正面右手が崩れ落ちていた=写真・下=。座禅堂の屋根の瓦もはがれ落ちている。総持寺の公式サイトによると、今回の地震で建物の多くは全壊や半壊、部分損壊の状態となり、国の登録有形文化財17棟全てが被災した。

   1321年に開創された総持寺は曹洞宗の禅の修行寺として知られ、末寺は1万6千余を数える。1898年、明治の大火で七堂伽藍の大部分を焼失。これを契機に1910年、布教伝道の中心は横浜市鶴見区に移る。能登の総持寺は「祖院」と改称され別院扱いとなった。その後の再建で山門や仏殿などがよみがえり、周囲の山水古木と調和して大本山の面影をしのばせる(総持寺パンフ)。

   その総持寺が2007年3月25日に発生した震度6強の揺れで甚大な被害を被る。坐禅堂などは倒壊状態となった。寺では復興委員会を立ち上げ、「耐震保存復興」を掲げて修復工事を開始。推定200㌧とされる山門の全体を持ち上げて移動させ、耐震のための地盤改良なども行った。寄付など40億円を集め、14年の歳月をかけて再建。開創700年に当たる2021年4月には落慶法要も営まれた。また、輪島市とともに復興を宣言し、観光誘客も順調に進んでいた。そして、2024年元旦に震度7の揺れに見舞われた。

   今回の地震で拝観は中止となっている。拝観中止は2007年3月以来となる。翌年2008年の8月に知人たちと総持寺を訪れ、「瓦寄進」をしたことを覚えている。瓦に祈願の文字を書き、お布施をした。ふと見た、前の人が書いた瓦の祈願の文字が印象に残っている。禅僧の良寛の言葉と書いてあった。「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候」。避けようがない災難には目をそむけたりせず、まずは受け容れるしかない。そこから善処を尽くす。そんな意味だと自分なりに解釈している。

⇒8日(木)夜・金沢の天気   くもり

★能登の新たな風~古刹の森にアンブレラスカイ~

★能登の新たな風~古刹の森にアンブレラスカイ~

   きょう能登の輪島市門前町にある総持寺祖院を訪ねた。2021年に開創700年を迎えた曹洞宗の寺で、禅の修行寺で末寺は1万6千余を数える。1898年、明治の大火で七堂伽藍の大部分を焼失した。これを契機に1910年、布教伝道の中心は横浜市鶴見に移る。能登の総持寺は「祖院」と改称され別院扱いとなった。その後の再建で山門や仏殿などがよみがえり、周囲の山水古木と調和して大本山の面影をしのばせる(総持寺パンフ)。2007年3月の能登半島地震でも大きな被害を受け、開創700年の2021年4月には修復工事が完了し落慶法要が営まれている。

   この寺で修行するドイツ人僧侶、ゲッペルト・昭元氏と久しぶりに面談した。ドイツのライプツィヒ大学で日本語を学んでいて禅宗に興味を持ち、2011年に修行に入った。「与えられたものを素直にいただく、能登での人生の学びも13年になります」と。曹洞宗のきびしい修行を耐え抜いた言葉の一つ一つが重く、そして心に透き通る。最後に、ドイツに戻っての布教は考えているのかと質問すると、「結婚し、子どもにも恵まれた。能登でさらに修行を積みたい」との返事だった。

   境内を歩くと、祖院最古の建物である白山殿前に六色仏旗にちなんだ青、黄、赤、白、紫などのビニール傘が飾られていた。寺の境内とは思えない遊び心のある光景だ。チラシによると、「sorahana」と呼ばれるイベント。全部で45本。天気が良ければ地面に写る影の色も楽しめただろうが、残念ながらこの日は曇りで、その光景は見ることができなかった。

   イベントのチラシによると、地域の人たちでつくる「禅の里づくり推進協議会」による行事で、4月からことし10月1日まで開催されている。ただし、台風などが来る場合はイベントは中止となるようだ。古刹に輝く傘の空、アンブレラスカイだ。

   1泊2日の短い旅程での能登散策。目にした能登の新たな光景をいくつか紹介する。

⇒6日(木)夜・輪島の天気     くもり時々あめ