#石川県津幡町出身の大の里

★ニュース悲喜こもごも 能登に記録的な大雨被害 大の里優勝で大関昇進へ

★ニュース悲喜こもごも 能登に記録的な大雨被害 大の里優勝で大関昇進へ

  能登が記録的な大雨に見舞われた。秋雨前線や低気圧の影響で線状降水帯が発生し、気象庁は21日、輪島市と珠洲市、能登町に大雨の特別警報を出した。きょう22日午後10時までの48時間雨量は、輪島市で498.5㍉、珠洲市で393.5㍉と平年の9月1ヵ月分の雨量の2倍余りに達した。土砂崩れによる道路の寸断が相次ぎ、孤立集落は輪島市で99ヵ所、珠洲市で13ヵ所、能登町で3ヵ所の計115ヵ所にも及んだ。特別警報はきょう午前、警報に切り替えられたが、各地で河川が氾濫し、痛々しい爪痕が残った。

  きょう午後、輪島市の災害現場を見て回った。同市内の中心部を流れる河原田川に架かる姫田橋では、橋が架かっていた道路の片側が崩れた状態で、橋の3分の1ほどが崩落してなくなっていた。同市久手川町を流れる塚田川では住宅4棟が流され、4人が行方不明になったとして、警察と消防、自衛隊などが捜索に当たっていた。上流でがけ崩れが起き、大量の流木が橋にかかり、土砂ダム状態になった=写真・上、22日午後4時3分撮影=。そのほか、山の斜面が崩れている場所も散見され、中には宅地に向かって土砂や木が流れ込んでいるところもあった。

  大雨の被害には気が滅入るが、心和むニュースもある。夕方、能登から金沢に戻る車の中で、大相撲秋場所の千秋楽の取り組みをラジオで聴いていた。石川県出身の関脇・大の里は残念ながら敗れたものの、13勝2敗の成績で2回目の優勝を果たした。大の里の大関昇進に向けた臨時の理事会が今月25日に諮られることが決まったことから、大関昇進が確実になったとアナウンサーが伝えていた。(※写真・下は、大相撲秋場所で優勝を果たし、大関昇進が確実になった関脇・大の里=石川県津幡町公式サイトより)

  優勝インタビューで今場所の好調の要因について聞かれた大の里は師匠で元横綱・稀勢の里の二所ノ関親方のおかげだと答え、「部屋で親方の胸を借りてたくさん稽古をつけてもらった。その成果が出てよかった」と。さらに、地元石川の能登の大雨について聞かれると、「大変な状況になっているのをきのうニュースで見てびっくりした。絶対優勝を決めて明るい話題を届けたいと思っていたし僕の優勝で元気になってくれれば」と答えていた。石川出身の大関昇進は出島に次いで25年ぶりとなる。まだ24歳、これからの伸びしろに注目。

⇒22日(日・秋分の日)夜・金沢の天気   くもり

☆被災地への「最高の励まし」 郷土石川の大の里が初優勝

☆被災地への「最高の励まし」 郷土石川の大の里が初優勝

  能登の人たちは相撲が好きだ。おそらく、避難所生活の中でも今夜はこの話で盛り上がっているに違いない。きょう石川県津幡町出身の小結・大の里が夏場所の千秋楽で関脇の阿炎を破って初優勝を果たした。大の里は去年夏場所で初土俵を踏んでいて、7場所目での優勝は幕下付け出し力士では同じ郷土出身の輪島の15場所を大幅に更新する記録となった。

  NHKはニュースでこの快挙を繰り返し流している。立ち合い、阿炎がもろ手突きにいくものの大の里は動じない。前への圧力をかけると、右差し、左のおっつけから一気に押し出し。最高の相撲で優勝をもぎ取った。県内出身の力士による幕内優勝は、1999年名古屋場所で金沢市出身の関脇・出島が果たして以来25年ぶり。

  大の里は2019年に日体大1年で全国学生選手権を制して学生横綱となり、県内では注目されていた。その後、国体でも成年の部個人で優勝を飾っていた。2023年の夏場所で初土俵を踏む。今年1月の初場所で新入幕し、2場所連続で11勝を挙げ、初土俵から所要6場所で小結に昇進。7場所目での初Vはまさに「スピ-ド優勝」。(※写真・上は夏場所で優勝を果たした大の里=NHKニュースより)

  冒頭で述べた、能登の人たちが話題にしているだろうと憶測するのが、あの「黄金の左」と呼ばれた第54代横綱の輪島(1948-2018)との比較だ。半島の中ほどにある七尾市出身で、能登の「大相撲レジェンド」と言えば何と言っても輪島だ。その輪島は1973年夏場所、15場所目で優勝を果たした。大の里は7場所目なので、その比較をめぐって話が盛り上がっているに違いない。ちなみに、津幡町は能登半島のつけ根に位置していて、地理的にも歴史的にも能登と近く、衆院選挙区は同じ石川3区になる。その意味で大の里の優勝は能登の人々にとって身近な人物の快挙なのだ。

  もう一人、能登と大相撲を語るに欠かせない人物がいる。阿武松緑之助(おうのまつ・みどりのすけ、1791‐1852)、江戸時代に活躍した第6代横綱だ。いまの能登町七見地区の出身。通算成績は230勝48敗。ちょっと癖もあった。立合いでよく「待った」をかけた。当時の江戸の庶民はじれったい相手をなじるときに、「待った、待ったと、阿武松でもあるめぇし」と阿武松の取り組みを言葉にしたほどだった。先月15日に阿武松緑之助の石碑がある七見地区で行って来た。石碑は震災の被害もなく堂々としたたたずまいだった=写真・下=。

  大の里には、こうした郷土石川の先輩のようにひと癖もふた癖もある横綱に出世してほしい。これが能登の被災地の人々を励ます最高のメッセージにもなる。

⇒26日(日)夜・金沢の天気    はれ時々くもり