#横田めぐみ

★拉致被害は終わらない どうする「外交の岸田総理」

★拉致被害は終わらない どうする「外交の岸田総理」

   北朝鮮に拉致された被害者の家族会などがきのう27日、東京で集会を開いた。出席した岸田総理は「現在の状況が長引けば長引くほど、日朝間の実りある関係を樹立することは、困難になってしまいかねない。日朝間の懸案を解決し、共に新しい時代を切り開いていく観点から私の決意をあらゆる機会を逃さず伝え続けるとともに、首脳会談を早期に実現すべく、私直轄のハイレベルで協議を行っていきたい」と述べた(27日付・NHKニュースWeb版)。

   このニュースで意外だったのは、家族会は今年の新しい活動方針に「親世代が存命のうちに被害者全員の帰国が実現するなら、政府が北朝鮮に人道支援を行うことに反対しない」と明記したことだった。家族会が北朝鮮への「支援」に踏み込んだのは初めてのことだ(同)。拉致問題から46年がたち、今も健在な親は横田めぐみさんの母親の早紀江さん87歳と、有本恵子さんの父親の明弘さん94歳の2人となり、家族会として焦燥感があるのかもしれない。   

   拉致の「1号事件」は能登半島の尖端近くで起きた。1977年9月19日の「宇出津(うしつ)事件」だ。能登町宇出津の遠島山公園の下の入り江。山が海に突き出たような岬で、入り組んだリアス式海岸だ。東京都三鷹市の警備員だった久米裕さん52歳と在日朝鮮人の男37歳が宇出津の旅館に到着し、午後9時ごろに2人は宿を出た。怪しんだ旅館の経営者は警察に通報した。旅館から歩いて5分ほどの入り江で、男は外国人登録証の提示を拒否したとして、駆けつけた捜査員に逮捕された。久米さんの姿はなかった。

   しかし、当時は拉致事件としては扱われず、公にされなかった。その後、拉致は立て続けに起きた。10月21日に鳥取県では松本京子さん29歳が自宅近くの編み物教室に向かったまま失踪(2号事件)。そして、11月15日、新潟県では下校途中だった横田めぐみさん13歳が日本海に面した町から姿を消した(3号事件)。(※政府の拉致問題対策本部がつくったポスター。12歳のときの横田めぐみさんの写真)

           2002年9月17日、当時の小泉純一郎総理と北朝鮮の金正日国防委員長による首脳会談で、北朝鮮は長年否定してきた日本人の拉致を認めて謝罪。日本人拉致被害者の5人が帰国した。2004年5月26日にも小泉総理が北朝鮮を訪れ首脳会談で、先に帰国した5人の家族が帰国することになった。

   現在、日本政府は北朝鮮に拉致された被害者として17人(5人帰国)を認定しているが、さらに、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない871人に関して、引き続き捜査や調査を続けている(警察庁「拉致の可能性を排除できない事案に係る方々」)。北朝鮮による拉致事件は終わっていない。

⇒28日(日)午後・金沢の天気    くもり

☆「拉致1号事件」から44年

☆「拉致1号事件」から44年

   北朝鮮による拉致問題はいまだに解決していない。国連総会で人権問題を扱う第3委員会は17日、北朝鮮に対してすべての拉致被害者の即時帰還を求める決議案を採択した。決議案はEUが提出したもので、日本など60ヵ国が共同提案国となった。採択は17年連続となる(11月18日付・NHKニュースWeb版)。拉致被害者は日本だけではない。ヨーロッパではオランダ、フランス、イタリア、ルーマニアなど5ヵ国に及んでいる。アジアでは日本のほか韓国、タイ、マレーシア、シンガポール、マカオの6つの国・地域だ。

   2002年9月、当時の小泉総理と北朝鮮の金正日総書記による首脳会談で、北朝鮮は長年否定してきた日本人の拉致を認めて謝罪。日本人拉致被害者の5人が帰国した。これがきっかけで日本における拉致事件が徹底調査された。現在、日本政府は北朝鮮に拉致された被害者として17人(5人帰国)を認定しているが、さらに、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない者として875人(2020年10月現在)に関して、引き続き捜査や調査を続けている(外務省公式ホームページ「北朝鮮による日本人拉致問題」)。

   日本人拉致の「1号事件」は能登半島の尖端近くで起きた。1977年9月19日の「宇出津(うしつ)事件」だ。これまで事件現場を何度か訪れたことがある。拉致現場は能登町宇出津の遠島山公園の下の入り江だ=写真=。山が海に突き出たような岬で、入り組んだリアス式海岸は風光明媚とされるが、歩くにはアップダウンがきつい。

   同年9月18日、東京都三鷹市の警備員だった久米裕さん(当時52歳)と在日朝鮮人の男(同37歳)はJR三鷹駅を出発。東海道を進み、福井県芦原温泉を経由して翌19日、宇出津の旅館「紫雲荘」に到着した。午後9時、2人は黒っぽい服装で宿を出た。怪しんだ旅館の経営者は警察に通報し、石川県警の捜査員らが現場に急行した。旅館から歩いて5分ほどの入り江で男は石をカチカチとたたいた。数人の工作員が船で姿を現し、久米さんを船に乗せて闇に消えた。男は外国人登録証の提示を拒否したとして、駆けつけた捜査員に逮捕された。旅館からはラジオや久米さんが持参していた警棒などが見つかった。

   しかし、当時は拉致事件としては扱われず、公にされなかった。その後、拉致は立て続けに起きた。10月21日に鳥取県では松本京子さん(同29歳)が自宅近くの編み物教室に向かったまま失踪(2号事件)。そして、11月15日、新潟県では下校途中だった横田めぐみさん(同13歳)が日本海に面した町から姿を消した(3号事件)。

   一連の拉致事件を指揮したのが北朝鮮の金日総書記で、日本での実行犯の一人が工作員の辛光洙 (シン・ガンス)だったといわれる。1973年に能登半島・輪島市の猿山岬から不法入国し、以後東京、京都、大阪に居住した。横田めぐみさんの拉致にも関わったとされる。拉致した日本人のパスポートを使って韓国に入り工作活動も行った。1985年に韓国で死刑判決を受け、その後に恩赦で釈放。2000年に北朝鮮に送還された。生きていれば92歳、辛光洙はICPO(国際刑事警察機構)を通じて国際手配されている。北朝鮮による拉致事件は終わっていない。

⇒18日(木)夜・金沢の天気       はれ

☆拉致事件は終わっていない

☆拉致事件は終わっていない

   北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの救出活動を続けてきた父親の滋さんが今月5日亡くなったことがメディアで報じられた。横田めぐみさんのポスター写真があったのを思い出し、パソコンの画像ファイルを探した。

   政府の拉致問題対策本部がつくったポスターだ=写真・上=。「必ず取り戻す!」。ポスターの右下には、横田めぐみさんが12歳のときに初めて母親の着物に袖を通し、新潟市の自宅前で撮った写真との説明がある。なんともあどけな少女の姿である。撮影者は父の滋さん、撮影日は1977年1月と記されている。赤と白の市松模様の羽織を着ているので、雪が積もった自宅前の風景にちょうどいいと滋さんが考えたアングルだったのだろう。めぐみさんが新潟市の海岸から拉致されたのはこの10ヵ月後だった。

   1977年9月に拉致1号事件が能登半島で起きていた。9月19日、東京都三鷹市役所の警備員だった久米裕さん(当時52歳)が石川県能登町宇出津(うしつ)の海岸で失踪した。地元では今でも「宇出津事件」と呼ばれている。久米さんは在日朝鮮人の男(37歳)と、国鉄三鷹駅を出発した。東海道を進み、福井県芦原温泉を経由して翌19日、能登町(当時・能都町)宇出津の旅館「紫雲荘」に到着した。午後9時、2人は黒っぽい服装で宿を出た。

   旅館から通報を受け、石川県警は捜査員を現場に急行させた。旅館から歩いて5分ほどの小さな入り江、通称「舟隠し」=写真・下=で男は石をカチカチとたたいた。数人の工作員が船で姿を現し、久米さんを乗せて闇に消えた。その後、同行した男は外国人登録証の提示を拒否したとして、駆けつけた捜査員に逮捕された。旅館からはラジオや久米さんの警棒などが見つかった。

  自分自身もこれまで何度か現地を訪れたことがある。そして、当時事件を取材した元新聞記者のK氏からこの事件にまつわる話を聞いた。K氏によると、この事件で石川県警察警備部は押収した乱数表から暗号の解読に成功したことが評価され、1979年に警察庁長官賞を受賞している。当時、この事件は単に朝鮮半島に向けて不法に出国をした日本人がいたという小さな事件としてしか報道されなかった。警察は、乱数表およびその解読の事実を公開した場合は、工作員による事件関係者の抹殺など、事件解決が困難になるリスクもあると判断し、公開に踏み切れなかったともいわれる。

  宇出津事件の以降、日本海沿岸部から人が次々と消える。この年の11月15日、横田めぐみさんが同じ日本海に面した新潟市の海岸べりの町から姿を消した。あれから43年、願いかなわず他界された父親の心情を察すると、言葉が出ない。拉致事件は終わっていない。

⇒7日(日)午前・金沢の天気    はれ