#森奥戦争

☆有権者の心に火を放つのは誰か、石川県知事選の混沌

☆有権者の心に火を放つのは誰か、石川県知事選の混沌

   石川県知事選はこれまで述べて来たように、金沢・加賀・能登という地域感情や「森奥戦争」といわれた政争が深く絡んできた。しかし、奥田敬和氏は1998年7月に没し、後継の子息・健氏も2012年12月の衆院選で敗れ政界を引退。森喜朗氏も2012年11月に政界を引退している。では、「森奥」はもう過去の話なのか。当事者はいなくなったが、双方を支持してきた有権者の心の中にはその残影がまだある。

   いくつか検証してみる。森氏がスカウトした馳浩氏と奥田健氏の石川1区での戦いも壮絶だった。2009年8月の衆院選は全国の投票率が69.2%に対し石川1区は72.2%と盛り上がった。勝った奥田氏が所属する民主党の政権交代をかけた選挙でもあった。逆に、2012年12月は有権者の民主政権への落胆が強く、全国投票率が59.3%と低調な選挙となり、石川1区も投票率58.5%に落ち込んだ。奥田氏も馳氏に4万7000票対9万9000票対の大差で敗れ、比例復活もならず政界から身を引いた。これで「森奥戦争は名実ともに終わった」という印象を金沢の有権者は抱いたに違いない。

   それ以降、石川1区では馳氏が独走態勢に入るが、投票率は下がった。2014年12月は全国は52.6%だったが、石川1区は43.1%と極端に低かった。2017年10月も全国53.6%、石川1区は51.9%だった。知事選に出馬表明した馳氏が後継の小森卓朗氏を立てた去年10月も全国55.9%だが、石川1区は52.2%と低調だった。この投票率の低さは、有権者の立場から両氏を支援してきた人たちの「森奥戦争のロス状態」ではないかとも推測した。

   これが3月13日投開票の知事選に反映されるのか。そうではない。興味深い選挙ストーリーが浮かび上がっている。知事選は事実上、馳氏(元衆院議員)、山田修路氏(元参院議員)、山野之義氏(元金沢市長)の保守系3候補の争いになっている。馳氏と山田氏は安倍元総理が率いる派閥「清和会」の議員だった。森氏はかつて清和会の会長をとつめた。

   朝日新聞Web版(2月13日付)によると、去年11月下旬、安倍氏は派閥の山田氏を議員会館の自室に呼んで知事選立候補への自制を求めた。その後、安倍氏は山田氏を何度も呼び、「困るんだよ」と迫ったが、山田氏は「出ると決めたんです」とかたくなだった。山田氏は国会の閉会直後の12月24日、議員を辞職し退路を断った。

   派閥の領袖からいさめられても、山田氏は臆することなく出馬の意向を打ち出した。自民党県連は馳、山田の両氏に「支持」を出しているが、自民党本部からは菅元総理、小泉進次郎氏らが馳氏の応援に駆けつけている。森氏がバックヤードで馳氏支援に回ってることは想像に難くない。この森氏の関与、そして山田氏の潔さが森奥戦争のロス状態に陥っていた有権者の心に再び着火するかもしれない。

   山田氏には立憲民主党や社民党県連、連合石川など推薦・支援に回っている。まるで1994年知事選の森奥戦争のように、「自民党」対「非自民連合」の構図のように見えるが、そのような単純な構図ではない。1区(金沢)と2区(加賀)の国会議員2人は馳氏だが、3区(能登)の議員2人と12市町首長のうち8人が山田氏支持を表明している。

   地元の北國新聞社と民放が調査した告示後の調査(2月24-26日)によると、1区は「山野の支持が厚く、馳をリード」、2区は「馳の支持が伸び、山田に並んだ」、3区は「山田は底堅いものの、馳や山野も徐々に浸透」と報じている。投票に「必ず行く」の答えは82.6%と高率で、関心の高さを示している。

   3候補はともに自らの退路を断っての出馬で日増しに選挙戦は熱くなっている。混沌としてきた知事選に有権者の感度もさらにヒートアップしそうだ。

⇒28日(月)午後・金沢の天気      はれ

★「森奥戦争」と石川県知事選

★「森奥戦争」と石川県知事選

   石川県の少々年配の有権者だったらおそらく「森奥戦争」と聞けばピンと来るはずだ。森喜朗と奥田敬和の両代議士によるかつての激しい政争を指す。奥田氏は1998年7月に没し、森氏も2012年11月に政界を引退してはいるが、いまでも選挙があるたびに、「森奥戦争が」とささやかれる。今回の県知事選(3月13日投開票)でも何度か耳にしている。

   現在の衆院選小選挙区は1区(金沢)、2区(加賀地方)、3区(能登地方)と別れているが、両氏が初出馬した1969年は中選挙区で1区(金沢・加賀)と2区(能登)だった。同じ1区(定数3)で、金沢が地盤の奥田氏と加賀が地盤の森氏はトップ争いを演じた。当時は、森氏は自民党の福田赳夫派の清話会に、奥田氏は田中角栄派の経世会に属していたので、2人の争いは「角福戦争」と称された派閥抗争の代理戦というイメージも当時はあった。1994年に小選挙区が導入されて奥田氏は1区、森氏は2区となり直接対決に一応終止符が打たれた。

   この森奥の戦いは県政にも波及した。1991年2月の知事選だった。8期目を目指す中西陽一知事に対して、森氏は副知事だった金沢出身の生え抜きの県庁マン、杉山栄太郎氏を自民党公認として担ぎ出した。これに対して、奥田氏は多選批判もあった中西氏への支援を掲げて金沢を中心に支持を固め、中西8選へと導いた。このときの投票率は76%、1万1000票差の激戦だった。その後、奥田氏は自民党を離党し、新生党の結成に参加する。

   知事選をめぐる森奥戦争の第2ラウンドは1994年3月だった。中西氏が任期中に死去。後継の知事選で、奥田氏は副知事の谷本正憲氏を擁立。これに対して、自民党幹事長だった森氏は、参院議員で元農林水産事務次官の石川弘氏(金沢出身)を推した。このころは奥田氏が所属する新生党を中心とする公明党、民社党、日本新党、社会党のいわゆる「非自民」連立政権で、細川護熙総理が谷本氏の応援に駆け付け、街頭演説が行われた香林坊が聴衆で埋め尽くされたのを覚えている。谷本氏が1万600票差で競り勝ち、投票率は70%だった。その後、谷本氏は通算7期にわたって知事を務め、去年11月に引退を表明した。   

   話は国政選挙に戻る。奥田氏が死去し、後を継いだのは子息の奥田健氏だった。衆院石川1区の補欠選挙(1998年8月)に民主党公認で出馬し、自民党公認の岡部雅夫を下して初当選。新たな森奥戦争をほうふつさせたのが2000年年6月の衆院選だった。プロレスラーでもあった馳浩氏が、自民党幹事長の森氏から抜擢されて1995年7月の参院選石川選挙区(定員1)に出馬して初当選。2000年衆院選で馳氏は鞍替えして自民党公認で1区から出馬し、奥田氏を破った。2003年の衆院選では逆に奥田氏が馳氏に勝った。そして、2005年には馳氏が勝ち、2009年は奥田氏が勝利するという、まさに森奥戦争の再現だった。しかし、奥田氏は2012年12月の衆院選で4万7000票対9万9000票という大差で馳氏に敗れ、比例復活もならず政界から身を引くことになる。2021年6月に急性心筋梗塞で他界。62歳だった。(※写真は2012年衆院選石川1区のポスター掲示板)

   今回の知事選には、参院議員だった山田修路氏、衆院議員だった馳氏、そして金沢市長だった山野之義氏が立候補している。まさに退路を断って争う、近年まれに見る保守系3候補の激しい争いだ。森奥戦争はもう過去の話なのか。次回でさらに分析してみる。

⇒26日(土)午後・金沢の天気      はれ