#東日本大震災

★「3・11」あれから14年 目に焼け付くあの光景、心に刻む畠山重篤氏の言葉

★「3・11」あれから14年 目に焼け付くあの光景、心に刻む畠山重篤氏の言葉

  「3・11」の東日本大震災はきょうで発生から14年を迎えた。2011年3月11日午後2時46分、いまもその時のことは鮮明に覚えている。金沢大学の公開講座で社会人を対象に講義をしていた。すると、事務室で震災の様子をテレビを見た主任教授が血相を変えて講義室に駆け込んできた。そして耳打ちしてくれた。「東北が地震と津波で大変なことになっている」と。金沢では揺れを感じなかったが、受講生にはそのまま伝えた。講義室は一瞬ざわめいたが、講義はそのまま続けた。それ以降、被災地をこの目で確認したいとの思いが募った。

   2ヵ月後の5月11日に気仙沼市を訪れた。当時、気仙沼の街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があった=写真=。津波のすさまじさを思い知らされた。気仙沼市を訪れたのは、NPO法人「森は海の恋人」代表の畠山重篤氏に有志から集めたお見舞いを届ける目的もあった。ただ、アポイントは取っていなかった。昼過ぎにご自宅を訪れると、家人から本人はすれ違いで東京に向かったとのことだった。そこで、翌日12日に東京・八重洲で畠山氏と会うことができた。

  畠山氏と知り合いになったきっかけは、前年の2010年8月に金沢大学の社会人人材育成事業「能登里山マイスター養成プログラム」で講義をいただいたことだった。畠山氏らカキ養殖業者が気仙沼湾に注ぐ大川の上流の山で植林活動を1989年から20年余り続け、5万本の広葉樹(40種類)を植えた。同湾の赤潮でカキの身が赤くなったのがきっかけに、畠山氏の提唱で山に大漁旗を掲げ、漁師たちが植林する「森は海の恋人」運動は全国で知られる活動となった。

  畠山氏は地震当時のことを語ってくれた。自宅は湾の中の海抜20㍍ほどの高台にあるが、自宅すぐ近くまで津波は押し寄せた。「津波は海底から水面までが全部動く」と。養殖のカキ棚などは全壊した。高校2年生の時にチリ地震の津波(1960年5月24日)を経験していて、当初は「チリ地震津波くらいのものが来るのかな」と感じていた。チリ地震津波がきっかけで高さ3㍍ほどの防潮堤を造るなど津波対策は施されたが、ところが東日本大震災の津波はチリ地震津波をはるかに超えるものだった。

  同じ年の9月2日に能登で開催したシンポジウムの基調講演を畠山氏にお願いした。テーマは、人は自然災害とどのように向き合っていけばよいのか。その中で、前日泊まったに輪島の海辺のホテルでの話が出た。窓を開けるとオーシャンビューだったが、正直これは危ないと思った。4階以下だったら、山手の民宿に移動しようかと考えたが、幸い8階と聞き安心した。温泉には浸かったが、安眠はできなかった。「あの津波の恐怖がまだ体に染み込んでいる」と語っておられたのが印象的だった。

⇒11日(火)午前・金沢の天気    くもり

☆風評をどう払うのか 福島原発事故の処理水を海洋放出へ

☆風評をどう払うのか 福島原発事故の処理水を海洋放出へ

   金沢は強烈な暑さになっている。金沢地方気象台は午後0時07分に36.3度だったと伝ている。外出すると熱波にムッーと包まれる感じがする。酷暑。

       ◇       ◇

   韓国のスーパーでは塩や昆布、ワカメ、海苔など海草類の売上が急増しているようだ。スーパー大手「イーマート」の売上(6月12-25日)の塩の売上は前年同期比で156%、海藻類は品目によって69%から92%の増だった。「ロッテマート」でも同じ期間で塩は150%増、海藻類は20%以上増だった(6月27日付・中央日報Web版日本語)。

   この背景にあるのが、2011年3月11日の東日本大震災の津波で発生した福島第一原発での事故。溶け落ちた核燃料(デブリ)を冷やすための水は高濃度の放射性物質を含んだ「汚染水」となる。さらに、原子炉建屋・タービン建屋といった建物の中に地下水や雨水が入り、汚染水と混じり合うことで新たな汚染水が発生した。これらの汚染水には放射性物質の濃度を低減する浄化処理が施され、「処理水」として敷地内のタンクで保管されている。ただ、放射性物質トリチウムは除去できない。

   政府は処理水を海洋放出する計画を進めている。トリチウムの濃度が国の基準の40分の1未満になるように海水で薄め、海底トンネルを通して福島第一原発の沖1㌔で放出する計画だ。処理水は溜まり続けていて、保管量は133万㌧になり、容量の97%に達している。ところが、放出となるとさまざまな風評を呼ぶことになる。

   冒頭で述べた韓国のスーパーで塩と海藻類を買い求める動きが広がっているのもその事例だろう。韓国の尹錫悦政権は処理水の放出に関して冷静な対応を国民に呼びかけているものの、最大野党「共に民主党」の李在明代表は先月22日の集会で、処理水を「核廃水と呼ぶべきだ」となどと主張している(6月23日付・読売新聞Web版)。

   そもそも、福島沖に処理水が放出されたとして、それが韓国の海水域での塩の精製に影響を及ぼすだろうか。黒潮は対馬海流となって日本海を流れるが、これは福島側を通る潮の流れではない。韓国がもし塩を採取した際に核物質が混ざるとしたら、それは北朝鮮の核実験場である豊渓里から流れ出た汚染水が日本海に流れ、リマン海流に乗って韓国沖にやってくる可能性の方が高いのではないだろうか。

   IAEAは今月4日、日本政府の海洋放出の計画について包括リポートを公表している。この中で、「Japan’s plans to release treated water stored at the Fukushima Daiichi nuclear power station into the sea are consistent with IAEA Safety Standards.」(意訳:処理水を海洋放出する日本の計画は、IAEAの安全基準と合致している)、「the discharges of the treated water would have a negligible radiological impact to people and the environment.」(同:処理水の放出が人や環境に与える放射線の影響は無視できるほど極わずかなものだ)と評価している。

(※写真は、IAEA公式サイト「福島の処理水の放出に関するIAEAの報告」より)

⇒7日(金)午後・金沢の天気    くもり

☆「3・11」漁業の町・気仙沼 あれから12年

☆「3・11」漁業の町・気仙沼 あれから12年

  2011年の「3・11」の日には、この被災地で見た光景を思い出してしまう。2ヵ月後の5月11日に宮城県気仙沼市を調査に訪れた。当時、街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので歩くことはできた。市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた=写真・上=。

   気仙沼は漁師町。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。その大漁旗を市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗は大空に映えていた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものが数枚あった。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。「14時46分」に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で、祈る人々、すすり泣く人々の姿は今でも忘れられない。

   岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があった=写真・下=。津波のすさまじさを思い知らされた。2015年2月10日、気仙沼を再び訪れた。4年前に訪れた市内の同じ場所に立ってみた。巻き網漁船はすでに解体されていた。が、震災から2ヵ月後に見た街並みの記憶とそう違わなかった。当時でも街のあちこちでガレキの処理が行われていた。テレビを視聴していて復興が随分と進んでいるとのイメージを抱いていたが、現地を眺めて愕然としたことを覚えている。

   では、震災から11年の漁業の町・気仙沼の現状はどうか。水産庁の2021年統計によると、水揚げ数量は7.5万㌧と、全国ランクでは鳥取県境港に次いで7位となっている。カツオの水揚げは日本一を誇る。ただ、震災直前、7万4千人だった気仙沼市。死者・行方不明者は1433人を数え、人口は現在5万8千人に減った。人口減少は日本全体の課題でもある。気仙沼で行政や漁業関係者、NPO法人の方たちと話をして感じたことは、漁業を中心に地域の一体感がある町との印象だった。ネットニュースをチェックすると、気仙沼では廃棄された漁網のリサイクルが進んでいる。「持続可能な漁業の町づくり」を実現してほしい。あの大漁旗を思い出して願う。

⇒11日(土)午前・金沢の天気    はれ

★「1・17」から28年 地震被災地を訪ね何思う

★「1・17」から28年 地震被災地を訪ね何思う

   ちょうど28年前の1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災は震度7だった。金沢の自宅で睡眠中だったが、グラグラと揺れたので飛び起きた。テレビをつけると大変なことになっていた。当時民放テレビ局の報道デスクだったので、着の身着のまま急いで出勤した。系列局のABC朝日放送(大阪)に記者とカメラマンの2人を応援に出すことを決め、応援チームは社有車で現地にかけつけた。取材チームの無事を祈り見送ったものの、日本の安全神話が崩壊したと無念さを感じたことを覚えている。金沢は震度3だった。

   そのことが身近で現実になったのは12年後、2007年3月25日午前9時41分に起きた能登半島地震だった。マグニチュード6.9、震度6強の揺れで、輪島市や七尾市、輪島市、穴水町で家屋2400棟余りが全半壊し、死者1人、重軽傷者は330人だった。当時は金沢大学に転職していたので、大学の有志と被災調査に入り、その後、学生たちを連れて被害が大きかった輪島市門前地区=写真・上=を中心に高齢者世帯を訪れ、散乱する家屋内の片づけのボランティアに入った。

   この能登半島地震がきっかけで全国の被災地を訪れ、取材をするようなった。同じ年の7月16日、新潟県中越沖地震(震度6強)が発生した。取材の目的は、柏崎市のコミュニティー放送「FMピッカラ」のスタッフに話を聞くことだった。通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、災害発生時から24時間の生放送に切り替え、41日間続けた。同市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、被災者が当面最も必要とする炊き出し時刻、物資の支給先、仮設の風呂の場所、開店店舗の情報などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。そして、「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」とのコンセンプトで続けた。被災地で地域メディアの果たす役割について考えさせられた。

   2011年3月11日の東日本大震災の後、気仙沼市を調査取材に訪れた。当時、気仙沼の街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があった。津波のすさまじさを思い知らされた。

   気仙沼は漁師町。市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。その大漁旗を市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものが数枚あった=写真・中=。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。「午後2時46分」に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で祈る人々、すすり泣く人々の姿は今も忘れられない。

   2016年4月16日の熊本地震。震度7の揺れに2度も見舞われ、震度4以上の余震が115回も起きた。震災から半年後に熊本市と隣接の益城町の被災現場を訪ねた。かろうじて「一本足の石垣」で支えられた熊本城の「飯田丸五階櫓(やぐら)」を見に行った。ところが、石垣が崩れるなどの恐れから城の大部分は立ち入り禁止区域になっていて、見学することはできなかった。櫓の重さは35㌧で、震災後しばらくはその半分の重量を一本足の石垣が支えていた=写真・下、熊本市役所公式ホームページより=。まさに「奇跡の一本石垣」だった。熊本城の周囲をぐるりと一周したが、飯田丸五階櫓だけでなく、あちこちの石垣が崩れ、櫓がいまにも崩れそうになっていた。

   崩れた10万個にもおよぶ石垣を元に戻す作業は時間がかかる。飯田丸五階櫓もようやく石垣部分の積み直しが終わったものの、復旧工事は2037年度まで続く(熊本市役所公式ホームページ)。名城の復旧には時間がかかる。

⇒17日(火)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

☆「3・11」とクライストチャーチ

☆「3・11」とクライストチャーチ

    2006年8月に家族でニュージランドのクライストチャーチを訪れ、ここを拠点に3泊4日の旅を楽しんだ。19世紀半ばに4隻の船でイギリス人800人がこの島にやってきて、いまでは南島最大の35万人都市をつくり上げたとガイドから説明を受けた。すさまじい人口増の背景には歴史があった。ニュージーランドへの移民が始まって間もなく、サザン・アルプスの各地で金鉱脈が発見され、1860年代からゴールドラッシュが沸き起こる。これで、ヨーロッパやアジアからも人が押し寄せた。さらに、1870年代からはヨーロッパでウール(羊毛)の人気が高まり、ニュージーランドはその原料の主力供給基地へと実力をつけていった。

   このサクセスストーリーを背景に、街は活気にあふれた。1864年から40年かけて、街の中心部にイギリスのゴシック様式による大聖堂が建設された。クライストチャーチ大聖堂=2006年8月撮影=だ。見学でガイドからこの大聖堂は大きな地震に3度も見舞われながら40年の歳月を費やし1905年に完成したと説明を受けたのを覚えている。その大聖堂が2011年2月22日にクライストチャーチ近郊で発生した大地震で、シンボル的存在だった塔は崩れ落ちた。そして、「ガーデンシティ(庭園の街)」と称されるまでに美しい街にがれきがあふれ、ビルの倒壊で日本人28人を含む185人が亡くなった。思い出のある街だけに、震災のニュースはショックだった。そして、17日後の3月11日に東日本大震災(マグニチュード9.0)が起きた。

   ニュージーランドの研究機関「GNSサイエンス」のホームページで、ガイドから聞いた大聖堂を造営する40年間で起きた3度の大震災を調べると、南島のクライストチャーチがある南島の北側では1868年10月19日にマグニチュード7.5、1888年9月1日に同7.3、1893年2月12日に同6.9の大きな地震が起きている。同じころ、日本でも濃尾地震(マグニチュード8.0、1891年10月28日)や明治三陸地震(同8.2、1896年6月15日)など大地震が8回も起きている。

   今月5日、ニュージーランド北島のマディック諸島付近でマグニチュード8.1の地震が発生した。先月2月13日、福島県沖で同7.3、震度6強の揺れがあった。日本とニュージーランドは同じで環太平洋火山帯(Ring of Fire)の真上にあるため地震が比較的多い国だといわれる。両国での地震に連動するような関連性があるのか、ないのか。

   GNSサイエンスによると両国の地震学者が研究を進めているとの記事「Japanese plate boundary findings have relevance to NZ」(2017年6月20日付)がある。この中で、「The Nankai Trough results are important for understanding the risk of large earthquakes and tsunamis generated at offshore plate boundary zones worldwide」(意訳:南海トラフの結果は、世界中の沖合プレート境界帯で発生する大地震と津波のリスクを理解するために重要である)。ボーリング調査や海底の震度センサーなど機器のデータを共有することで、地震学者によるネットワークの強化に期待を寄せる記事で、日本とニュージーランドで起きる地震の連動性については研究が始まったばかりのようだ。

   クライストチャーチ大聖堂はまだ再建途上だ。完成したあかつきにはぜひ訪れてみたいと思う。震災からの復興の意志を貫く人々を称えるために。

⇒10日(木)夜・金沢の天気     くもり

★あれから10年「3・11」の記憶~下~

★あれから10年「3・11」の記憶~下~

   東日本大震災から2ヵ月後の5月11日に気仙沼市を訪れたのは、NPO法人「森は海の恋人」代表の畠山重篤氏に有志から集めたお見舞いを届ける目的もあった。ただ、アポイントは取っていなかった。昼過ぎにご自宅を訪れると、家人から本人はすれ違いで東京に向かったとのことだった。そこで家人から電話を入れていただき、翌日12日に東京で会うことにした。

      「森は海の恋人」畠山重篤氏が語った津波のリアル

   畠山氏と知り合いになったきっかけは、前年の2010年8月に金沢大学の社会人人材育成事業「能登里山マイスター養成プログラム」で講義をいただいたことだった。畠山氏らカキ養殖業者が気仙沼湾に注ぐ大川の上流の山で植林活動を1989年から20年余り続け、5万本の広葉樹(40種類)を植えた。同湾の赤潮でカキの身が赤くなったのがきっかけに、畠山氏の提唱で山に大漁旗を掲げ、漁師たちが植林する「森は海の恋人」運動は全国で知られる活動となった。

   12日午前中に東京・八重洲で畠山氏と会うことができた。頭髪、ひげが伸びていて、まるで仙人のような風貌だった=写真・上=。この折に、9月2日に輪島市で開催する「地域再生人材大学サミットin能登」(能登キャンパス構想推進協議会主催)の基調講演をお願いし、承諾を得た。4ヵ月後、畠山氏と輪島で再会した。人は自然災害とどのように向き合っていけばよいのか、実にリアルな話だった。以下、講演の要旨。

             ◇

   3月11日、仕事をしていた最中に地震があった。この数年地震が多く、「地震があったら津波の用心」という碑が道路などあるが、「またか」という気持ちもあった。30分後に巨大津波が押し寄せた。三陸は、吉村昭(作家)の『三陸海岸大津波』にもあるように、津波の歴史を持つ地域だ。私も50年前、高校2年生の時にチリ地震津波を経験していて、今回はチリ地震津波くらいのものが来るのかなという感覚はあった。気仙沼の南にある南三陸町はチリ地震津波で死者が50人ほど出たため、防潮堤を造るなど津波対策を施したが、それはあくまでチリ地震津波の水位を基準にしたものだった=写真・中=。ところが今回の津波は、チリ地震津波の約10倍にもなるようなものだった。

   私の家は海抜20㍍近くだが、自宅すぐ近くまで津波は押し寄せた。津波は海底から水面までが全部動く。昨晩、(輪島市の)海辺の温泉のホテルに泊まらせていただいた。窓を開けるとオーシャンビューで、正直これは危ないと思った。4階以下だったら、山手の民宿に移動しようかと考えたが、幸い8階と聞き安心した。温泉には浸かったが、安眠はできなかった。あの津波の恐怖がまだ体に染み込んでいる。

   過去に10㍍の津波を経験している地域は日本各地にある。日本海側は、太平洋側よりは津波の規模は小さいと思うが、覚悟はしておくべき。皆さんは、いざというときは海岸から離れればよいと思っているかもしれないだが、いくら海岸から離れても、あくまで津波というのは高さなので、絶対に追いつかれてしまう。だから、海辺に暮らしている方は、どうすれば少しでも高い所に逃げられるかを念頭に置いた方がいい。

   地域再生を考えるとき、人口が減る、仕事がない、農業・漁業が大変だという諸問題が横たわっている。しかし、それ以前に沿岸域の場合は津波に対してどういう備えをするかが第一義だと考える。三陸はリアス式海岸だが、どんな小さい浦々も一つも逃れようがなく全滅だった。盛岡の岩手医大の先生が言うには、震災の晩、大勢のけが人が出るからと病院に指示をして、けが人を受け入れる準備をした。ところが、けが人は一人も搬入されなかった。津波では、けが人はいない。死ぬか生きるかになる。そういう厳しさがある。地域づくりをする前に、もし大津波警報が発令されたらまずどの高さの所に逃げるか、山へ行くのかビルに行くのかを考える。そこから出発しなければいけないと思う。

   津波が起きてしばらくは、誰もが元の所に帰るのは嫌だと言っていた。しかし、2ヵ月くらいすると、徐々に今まで生活した故郷を離れられないという心情になってきた。ただ恐れていたのは、海が壊れたのではないかということだった。震災後2ヵ月までは海に生き物の姿が全く見えなかった。ヒトデやフナ虫さえ姿を消していた。しかし2ヵ月したころ、孫が「おじいちゃん、何か魚がいる」と言うので見ると、小さい魚が泳いでいた。その日から、日を追ってどんどん魚が増えてきた。京都大学の研究者が来て基礎的な調査をしているが、生物が育つ下地は問題なく、プランクトンも大量に増えている。酸素量も大丈夫で、水中の化学物質なども調べてもらったが、危ないものはないと太鼓判を押してもらった。これでいけるということで、わが家では山へ行ってスギの木を切ってイカダを作り、カキの種を海に下げる仕事を開始した=写真・下=。

   塩水だけで生物が育つわけではなく、私たちの気仙沼の場合は、川と森が海とつながる「森は海の恋人」運動を通して自然の健全さを保ってきた。海のがれきなどの片付けが終わればあっという間に海は戻ってくる。これが希望だと思っている。森と川の流域に住んでいる人々の心が壊れていれば、漁師はやめるしかない。しかし、森と川と海が健全なので、大丈夫だなという気持ちが盛り返して、今、再出発が始まっている。

⇒10日(水)朝・金沢の天気

☆あれから10年「3・11」の記憶~中~

☆あれから10年「3・11」の記憶~中~

   東日本大震災では報道する側も被災者となった。震災からちょうど2ヵ月の5月11日に気仙沼市、そして翌12日に仙台市に向かった。仙台に本社があるKHB東日本放送を訪ねた。自身のテレビ局時代に懇意にしてもらった報道関係者がいて、震災当時の報道現場の様子を聴くことができた。

      報道する側も被災者、命を救う情報発信に徹する

   案内された部屋に入ると天井からボードが落ちていて、当時の揺れの激しさを目の当たりにした。震災直後の報道現場の様子を生々しく語ってくれた。余震が続く中、14時53分に特番を始めた。それ以降4日間、15日深夜まで緊急マナ対応を継続した。空からの取材をするため、14時49分に契約している航空会社にヘリコプターを要請した。しかし、仙台空港に駐機していたヘリは津波で機体が損壊していた=写真・上=。空撮ができなければ被害全体を掌握できない。さらに、21時19分、テレビ朝日からのニュース速報で「福島原発周辺住民に避難要請」のテロップを流した。震災、津波、火災、そして原発の未曽有の災害の輪郭が徐々に浮き彫りになってきた。

   同社の社長は社員を集め指示した。「万人単位の犠牲者が出る。長期戦になるだろうが、報道部門だけでなく全社一丸となって震災報道にあたる」と、報道最優先の方針を明確に打ち出した。それは、命を救うための情報発信に専念せよとの指示だった。また、被害を全国に向けて発信し、一刻も早く救援を呼ぶことも当面の方針だった。そのため、全国へは「被災の詳報」、そして宮城県の放送エリアへは「安否情報」「ライフライン情報」を最優先とした。

   持久戦に備えてロジスティックス(補給管理活動)を手厚くした。取材人員・伝送機材を確保し、応援到着まで社員全員で乗り切る初動態勢を組んだ。テレビ取材の要(かなめ)である収録用テープの確保を最優先した。さらに、食料補給の充実が欠かせない。数種類の弁当の他、常時大鍋で味噌汁、スープを提供、コーヒー、紅茶、お茶、カップ麺のためにお湯も沸かした。ロジ担当が常駐して疲れて帰る取材スタッフへの声掛け、ねぎらいの言葉を張り出すなどした。情報共有のための「立会い朝会議」をほぼ毎日午前9時から実施した(3月16日-4月28日まで)。立会い朝会議は録音、議事録を当日中に作成し全社にメール配信した。非常事態であるがゆえに徹底した情報共有や気配りが必要なのだと教えられた。

   被災しながらも報道を続けたのは新聞も同じだった。宮城県の地域紙「石巻日日新聞」は停電と輪転工場の損壊で新聞発行ができなくなった。そのとき記者たちはどのような行動をとったのか。そのドキュメンタリーが新書本『6枚の壁新聞 石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録』(角川SSC新書)で描かれている。同紙は夕刊紙で、県東部の石巻市や東松島市、女川町などエリアに1万4000部を発行し、翌年には創刊100周年を迎える老舗だった。新聞発行がストップして社長は決断した。「今、伝えなければ地域の新聞社なんか存在する意味がない」「紙とペンさえあれば」「休刊はしたくない。手書きでいこうや」と。そして、3月12日付=写真・下=から6回にわたって壁新聞づくりが始まり、避難所などに貼り出した。おそらく、大手紙やブロック紙と呼ばれる新聞社だったら思いもつかなかったことだろう。

   伝える使命感が手書きの壁新聞へと記者たちを走らせた。ただ、記者にたちとって忸怩(じくじ)たる思いがなかったわけではない。壁新聞は量産できないので、貼り出した場所(避難所など)でしか読まれない。手書きの壁新聞では字数が限られ、取材した情報のほとんどは掲載されない。電気が来て、パソコン入力でA4版のコピー新聞を配布できたのは18日。そのコピー新聞を手にした記者デスクは「サイズは小さくとも、活字で情報を伝えられることに喜びがあふれた。早くいつもの新聞を作りたい」と記している。そして、輪転機が再稼働したのは翌日19日だった。

⇒9日(火)午前・金沢の天気      はれ

★あれから10年「3・11」の記憶~上~

★あれから10年「3・11」の記憶~上~

   震災・津波を自身が初めて経験したのは1983年(昭和58年)5月26日の日本海中部地震だった。午前11時59分に秋田県能代市沖の日本海側で発生した地震で、マグニチュード7.7、10㍍を超える津波が発生した。そのころ、地方紙の記者で能登半島の輪島支局に赴任していた。金沢本社のデスクから電話で「津波が能登半島にまもなく来る」との連絡だった。急いで輪島漁港に行くと、漁港内に巨大な渦が巻いていて、渦に飲み込まれる寸前の漁船があり、足元まで波が来ていたが写真を1枚だけ撮って一目散に現場から離れた。欲を出して2、3枚と撮っていたら逃げ遅れるところだった。それ以来、震災・津波の現場を訪れるようになった。

       大漁旗に込められた「祈」、気仙沼で見た復興の願い

   2011年3月11日の東日本大震災。14時46分、その時、金沢大学の公開講座で社会人を対象に広報をテーマに講義をしていた。すると、事務室でテレビを見た講座の主任教授が血相を変えて講義室に駆け込んできた。そして耳打ちしてくれた。「東北が地震と津波で大変なことになっている」と。受講生にはそのまま伝えた。講義室は一瞬ざわめいたが、講義はそのまま続けた。2005年から金沢大学に転職していたが、自身の中では被災地をこの目で確認したいとい思いが募った。

   2ヵ月後の5月11日に仙台市と気仙沼市を調査取材に訪れた。当時、気仙沼の街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船「第十八共徳丸」(330㌧)があった。津波のすさまじさを思い知らされた。

   気仙沼市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた。気仙沼は漁師町。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。その大漁旗を市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた=写真・上=。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗は大空に映えていた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものが数枚あった=写真・下=。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。「14時46分」に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で、祈る人々、すすり泣く人々の姿が今でも忘れられない。

   2015年2月10日、気仙沼を再び訪れた。同市に住む、「森は海の恋人」運動の提唱者、畠山重篤氏に講演をお願いするためだった。畠山氏との交渉を終えて、4年前に訪れた市内の同じ場所に立ってみた。「第十八共徳丸」はすでに解体されていた。が、震災から2ヵ月後に見た街並みの記憶とそう違わなかった。当時でも街のあちこちでガレキの処理が行われていた。テレビを視聴していて復興が随分と進んでいるとのイメージを抱いていたが、現地を眺めて愕然としたのだった。

⇒8日(月)午後・金沢の天気     くもり