#李登輝

★台湾ダム着工100年 「八田與一」考える座像の秘話

★台湾ダム着工100年 「八田與一」考える座像の秘話

   「八田與一」という名前を知っている人は台湾と金沢以外、ほとんどいないだろう。「はった・よいち」と読む。その八田與一の名前がNHKの全国ニュース(5月8日付)で流れた。以下、ニュースを紹介する。

   日本統治時代の台湾で、日本人技師、八田與一が建設に尽力した「烏山頭(うさんとう)ダム」の着工100年を祝う式典が8日、現地で行われ、蔡英文総統などが出席した。台湾南部の台南にある烏山頭ダムは、1920年に建設が始まり、工事を指導した、石川県金沢出身の八田技師は最大の功労者として台湾でも高く評価されている。八田技師の命日にあたる8日、ダム着工100年を祝う式典がダム近くの公園で行われ、蔡英文総統をはじめ首相に当たる行政院長や閣僚などの要人が出席した。式典では蔡総統が「ダムと灌漑施設の水は100年流れ続けている。台湾と日本の友情も双方の努力によって続いていくことだろう」と、功績をたたえた(NHKニュースWeb版を引用)。

   烏山頭ダムは10年の歳月をかけて1930年に完成したものの、日本国内では1923年に関東大震災があり、ダム建設のリ-ダーだった八田にとっては予算的にも想像を絶する難工事だった。5月8日が命日というのは、ダム建設後、軍の命令でフィリピンの綿花栽培のための灌漑施設の調査のため船で向かう途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃で船が沈没し亡くなった。その日が1942年の5月8日だった。終戦直後、八田の妻は烏山頭ダムの放水口に身投げし後追い自殺する。

   当時としてはアジア最大級のダムで、同時に造られた灌漑施設によって周辺の地域は台湾の主要な穀倉地帯となり、現在も農業だけでなく工業用水や生活用水として利用されている。戦後も台湾の人たちに八田は高く評価され、台湾の民主化を成し遂げ、哲人政治家としても知られる元総統、李登輝氏(2020年7月死去)が2004年12月に金沢に来て、八田與一に関する展示と胸像がある「金沢ふるさと偉人館」を訪ねている。

   八田の功績は戦後日本と台湾の友好の絆をも育んだが、台湾の独立派と中国と台湾の統一派によるつばぜり合いが過熱する政治情勢では、政争のシンボルになることもある。2017年4月、烏山頭ダムの記念公園にある銅像(座像)の首が切断され、中台統一派の元台北市議が逮捕された。日本より中国との交流を優先せよというメッセージだ。同じ年の2月には新北市の大学キャンパスにあった蒋介石の立像の一部が切断され、独立派の学生たちが逮捕された。大陸からやってきた本省人が台湾の独立を妨げている、との主張だ。同4月にも台北市の蒋介石の座像の首切断事件があった。

   八田の座像はすぐさま修復され、同年5月7日に座像修復の除幕式、そして8日には金沢市から関係者を招いて慰霊祭が行われた。座像は、八田が考え事をしている時によくとっていたポーズとされる。農業発展のダムの先駆者と妻の後追いの悲話、日本と台湾の友好の絆、独立派と統一派による政争のシンボル。「いま八田は何思うのか」。意味深なポーズではある。

(※写真は、台湾・烏山頭ダムを見渡す記念公園に設置されている八田與一の座像=台北ナビ公式ホームページより)

⇒11日(火)午後・金沢の天気  はれ時々くもり

☆李登輝氏が訪れた金沢ゆかりの3人

☆李登輝氏が訪れた金沢ゆかりの3人

   台湾の民主化を成し遂げ、哲人政治家としても知られる元総統、李登輝氏がきのう30日亡くなった。97歳だった。2004年暮れの12月に来日、29日と30日に一泊2日で石川県を訪れた。そのとき、民放テレビ局の報道にいたので、取材スタッフに同行して李氏の姿を間近に見ることができた。その案内役をつとめた、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の中川外司氏(故人、元金沢市議)から「李氏が敬愛してやまない日本人が金沢に3人いる」と聞いて意外に感じたことを覚えている。

   当時、李氏がJR金沢駅から直行したのは「金沢ふるさと偉人館」だった。ここで中川氏が最初に案内したのは八田與一の胸像だった。台湾の日本統治時代、台南市に烏山頭(うさんとう)ダムが建設され、不毛の大地とされた原野を穀倉地帯に変えたとして、台湾の人たちに日本の功績として高く評価されている。このダム建設のリーダーが、金沢生まれの土木技師、八田與一だった。ダム建設後、八田は軍の命令でフィリピンの灌漑施設を調査するため船で向かう途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受け、船が沈没し亡くなる。1942年(昭和17年)だった。その後、八田の妻は烏山頭ダムの放水口に身投げし後追い自殺したことは台湾でもよく知られた逸話だ。

   偉人館では鈴木大拙コーナーも熱心に見学した。その著書『禅と日本文化』を手に取っていた。中川氏に聞くと、李氏は日本での留学時代(京都帝国大で農業経済専攻)に、禅が日本人の精神と文化にどのような影響を及ぼしているのか理解するために初めて読んだ書物が『禅と日本文化』だったと本人が語っていたと教えてくれた。李氏は「人間はいかに生きるべきか」と自問し、哲人政治家と呼ばれるほどの哲学書好きで知られたが、その知的バックボーンのとっかかりが鈴木大拙だったのかもしれない。

   その哲人政治家ぶりは翌日30日の訪問先でも理解できた。西田幾多郎記念哲学館(石川県かほく市)を見学し、墓地を訪れ参拝した。その著書『善の研究』で知られる西田幾多郎は実在とは何か、善とは何か、宗教とは何か、人間存在をテーマに考え抜いた哲人である。李氏も西田哲学の基本的な着眼点とされる「場の論理」で自らの考えを深め、政治思想の基盤としていったのだろう。台湾と中国を「特殊な国と国との関係」とする二国論を打ち出し、「一つの中国」を原則とする中国と対峙した。

   多感な青春時代に巡り合った書物、農業発展のダムの先駆者と妻の後追いの悲話、そして人間存在を問いかけながら、統一併合をもくろむ中国と対した政治家時代。李氏はさまざまな思いを胸に金沢を訪れたのだろう。(※写真は日本李登輝友の会台北事務所ホームページより)

⇒31日(金)朝・金沢の天気     くもり時々はれ