#学問の自由

★記者会見で逆に問われること

★記者会見で逆に問われること

        日本学術会議が新会員候補に推薦したものの、菅総理が任命を拒否した6人がきのう23日、外国特派員協会で会見した。任命拒否は「学問の自由を破壊する憲法違反」「政治権力に左右されない職務の大きな妨げ」などと訴え、早期撤回を求めた。また、「会員の適否を政治権力が決められれば、憲法23条が保障する『学問の自由』の破壊になる」との主張もあった(10月23日付・共同通信Web版)。テレビでも会見のニュースを見たが、感想をひと言でいえば、「記者会見はもう少し戦略を持って臨むべき」ということだ。

   まず、この会見は誰に向けて発信したのだろうか。外国特派員協会なので、単純に世界に向けての発信なのだろうか。つまり、世界に向けて、日本の菅総理は「学問の自由を破壊する憲法違反を犯した」、あるいは「学問の自由の破壊者だ」と訴えたかった、のか。しかし、外国特派員はそう単純に受け取るだろうか。世界のメディアの目線は、政府批判を繰り広げた学者を捕捉し隔離する中国のケースならば、人権弾圧や「学問の自由」の侵害をとらえるだろう。海外メディアは、政府機関への任命拒否を単純に憲法違反や人権弾圧、学問の自由の侵害と解釈するだろうか。

   記者会見で記者サイドが読むのは相手の表情や言葉のバックボーンからにじみ出る思想信条だ。刑法専門の教授は「官邸側は憲法15条1項が定める国民の『公務員の選定・罷免権』を根拠にして、今回の措置は合法だと説明している。総理大臣は国民を代表しているからどのような公務員であっても自由に選び、あるいは選ばないことができる、その根拠は、憲法15条だと宣言したということだ。『独裁者になろうとしているのか』と思うほど、恐ろしい話だ」と述べた(同・NHKニュースWeb版)。

   おそらく学者から「独裁者」「恐ろしい話」という言葉が出た時点で、記者たちはこの言葉を発するために記者会見に臨んだに違いない、と読む。つまり、政権との敵対関係を宣言するために記者会見を開催した、と。

   動画(同・朝日新聞Web版)をチェックすると、ロイター通信の記者は「将来的に菅総理はどのように権力を使っていくか」と質問した。刑法専門の教授は「すべての公務員について自分が好き勝手に任命・罷免できるというところまで突き進む危険性がある。日本の国民の世論が内閣をどう評価するかが今後の行方を左右する」と答えていた。

   記者会見で述べれば、言いたいことすべてを記者が記事や放送で流してくれると勘違いしているのではないだろうか。ロイター通信が今回の会見をどのように報じたのかとWeb版をチェックしたが、この会見の模様はニュースになっていない(24日午前9時現在)。世界に発信するニュースではないとの記者判断なのだろう。国内メディア各社は報じている、が。

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☆「学問の自由」、福沢諭吉の教え

☆「学問の自由」、福沢諭吉の教え

   「学問の自由」という言葉は学生時代によく聞いた。1970年代の学園紛争の最中、集会に参加するとヘルメットを被った活動家たちが、「俺たちは学問の自由を守るために権力と闘っている」と強調していた。ときには、校門にバリケードをはって、学生がキャンパスに入れないように封鎖したこともあった。

   「学問の自由」の実践家として福沢諭吉の伝記を思い起こす。1868(慶応4)年5月、新政府軍と旧幕府側の彰義隊が上野で戦闘を開始した。慶応義塾を創設した福沢はこのころ、芝新銭座の有馬家中屋敷(現在の東京都港区浜松町1丁目)で英語塾を開講していた。福沢は、戦闘で噴煙があがるのを見ながらも、塾を休むことなく、塾生たちに英書『ウェーランドの経済書』を講義した。挿絵=写真=は、戦火を眺め動揺する塾生を背に粛然と講義を行う福沢の姿である。師が動揺しては塾生も動揺する。自らの使命を遂行することが肝要と自身に言い聞かせていたのだろう。

   1871(明治4)年に福沢は、新政府に仕えるようにとの命令を辞退し、東京・三田に慶応義塾を移して、経済学を主に塾生の教育に励む。その年、廃藩置県で大勢の武士たちが職を失い、落ちぶれていった。武士が自活できるように、新たな時代の教育を受ける学びの場が必要なことを福沢は痛感していたに違いない。福沢は慶応義塾の道徳綱領を1900(明治33)年に創り、その中で「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」(第2条)と盛り込み、「独立自尊」を建学の基本に据えた(「慶応義塾」公式ホームページ)。

   では、福沢はいわゆる「西洋かぶれ」だったのか。2009年に東京国立博物館で開催された『未来をひらく 福沢諭吉展』にを見学に行った。ここで紹介されていた福沢の写真のほとんどは和服姿だった。「身体」を人間活動の基盤と考え、居合刀を日に千回抜き、杵(きね)と臼(うす)で自ら米かちをした。身を律して、4男5女の子供を育て、家族の団欒(だんらん)という当時の新しいライフスタイルを貫いた。公費の接待酒を浴びるほど飲んで市中を暴れまわった新政府の官員(役人)たちを横目に、「官尊民卑」と「男尊女卑」に異議を唱えた。

   「政府の提灯は持たぬが、国家の提灯は持つ」。福沢は「学問の自由」を徹底して貫いた。「学問の自由」という言葉を発するのであれば、政府と距離を置くこと。福沢から学んだことである。

 ※写真は、2009年に開催された『未来をひらく 福沢諭吉展』で市販された挿絵より。

⇒11日(日)夜・金沢の天気   くもり