#大伴家持

☆能登大雨で熊木川の氾濫 大伴家持が詠んだ「熊来」伝説

☆能登大雨で熊木川の氾濫 大伴家持が詠んだ「熊来」伝説

   きょうから7月、その初日は能登半島は大雨に見舞われた。とくに中能登と呼ばれている七尾市中島地区の熊木川の一部流域では、氾濫危険水位を超えて農地や道路が冠水し、住宅では床下浸水の被害があった。中島地区など5800世帯・1万4100人を対象に避難指示が発令された=写真、1日付・夕刊各紙=。

   このニュースが気になったもの、中島地区で激しい雨を自身も経験したことがあるからだ。ちょうど6年前、2017年7月1日だ。能登へ乗用車で出かけ、自動車専用道「のと里山海道」の中島地区で、大雨に巻き込まれた。雨がたたきつけるようにフロントガラスに当たり、ワイパーの回転を一番速くしても前方が見えず、しばらく車を停車し小降りになるのを待った。再び出発すると、たたきつけるような雨に再び見舞われた。3度運転を見合わせた。波状的な激しい雨は初めてだった。このとき能登では1時間で53㍉の非常に激しい雨が観測され、七尾市の崎山川や熊木川などが一部氾濫した。   

   話は変わるが、熊木川にはちょっとした思い入れもある。川の河口の七尾西湾は「能登かき」で知られる養殖カキの産地でもある。里山の栄養分が熊木川を伝って流れ、湾に注ぎこむ。その栄養分が植物プランクトンや海藻を育み、海域の食物連鎖へと広がり、カキもよく育つとされる。とくに、里山の腐葉土に蓄えられた栄養分「フルボ酸鉄」が豊富にあると現地で学んだことがある(2010年5月・金沢大学「里山里海環境調査」)。学習的なことは別として、能登かきのファンにとっては気になる場所なのだ。

   和歌をたしなむ人々にとっても気にかかるのが「熊来」(のちに熊木村、現在の中島地区)かもしれない。天平20年(748)に越中国の国司だった大伴家持が能登を巡行している。そのときに詠んだ歌が万葉集におさめられている。「香島より熊来をさして漕ぐ舟の梶取る間なく都し思ほゆ」。以下、自己解釈で。(七尾の)香島から熊来の在所に向かって舟を漕いでいく。舟舵を取るのも忙しいが、それ以上に都のことがひっきりなしに思い浮かんでくる。

   作者は不詳だが、万葉集にはさらに2つの「熊来」が出て来る。「梯立の熊来のやらに新羅斧堕入れわし懸けて懸けて勿泣なかしそね浮き出づるやと見むわし」「梯立の熊来酒屋に真罵らる奴わし誘い立て率て来なましを真罵らる奴わし」(※七尾市「能登国府」パンフより)

   ある愚か者が鉄斧を熊来の河口の海底にうっかり落とした。海に沈んでしまえばもう浮かび上がることはないのに泣いてばかりいるので、しかたなく「そのうち浮かんで来るよ」とみんなでなだめた。熊木の在所の酒蔵でえらく怒鳴られている従業員がいたので、誘って連れ出そうかと思ったが、「怒鳴られているあんたはどうする」と。

   8世紀に成立した日本最古の和歌集に、おそらく当時の最先端の言葉であったであろう「酒屋」と「新羅斧」が出てくる能登はどのような風景だったのか。豪雨の熊木川から連想した。

⇒1日(土)夜・金沢の天気     あめ

☆「海女の島」舳倉 その歴史とアワビの価値

☆「海女の島」舳倉 その歴史とアワビの価値

   前回ブログで能登半島の輪島市から49㌔沖にある舳倉島(へぐらじま)の北北西250㌔に北朝鮮の弾道ミサイル2発が落下したことについて述べた。その続き。ミサイル落下をニュースで知って一番驚いたのは、舳倉島の海女さんたちではないだろうか。周囲5㌔ほどの小さな島ではあるもの、アワビが採れる島で「海女の島」として知られる。

   舳倉島にはアワビの長い歴史がある。万葉の歌人・大伴家持が越中国司として748年、能登を巡行している。島に渡ってはいないが、輪島で詠んだ歌がある。「沖つ島 い行き渡りて潜くちふ あわび珠もが包みて遣やらむ」。沖にある舳倉島に渡って潜り、アワビの真珠を都の妻に送ってやりたい、との意味だろう。この和歌から分かることは、少なくとも1270年余り前の昔からこの島ではアワビ漁が連綿と続いるということだ。

   輪島市や舳倉島を拠点に現在でも200人ほどの海女さんたちがいる。ウエットスーツ、水中眼鏡、足ひれを着用して、素潜り。アワビ漁の解禁は来月1日からなので、いまの時期は体調の整えなどで緊張するころだ。島から250㌔離れたところでのミサイル落下とは言え、緊張はさらに高まっただろう。

   今から38年も前の話になるが、新聞記者時代に舳倉の海女さんたちを年間を通して取材したことがある。深く潜る海女さんたちは「ジョウアマ」あるいは「オオアマ」と呼ばれていた。18㍍の水深を重りを身に付けて潜る。これだけ深く潜ると自力で浮上できない。そこで、海女さんの夫が船上で、命綱から引きの合図があるのを待って、海女の命綱を引き上げる。こうして夫婦2人でアワビ漁をすることを「夫婦船(めおとぶね)」と呼んでいた。信頼できる夫婦関係だからできる漁なのだ。

   海女さんから怖い話も聞いた。アワビが大好物なのは人間だけではない。ウミガメも好物なのだ。海女さんが採ったアワビをめがけてウミガメが食らいついてくることがある。そんなときは、アワビを捨てて逃げるのだそうだ。アワビが分厚い殻で岩にへばりつくのも、大敵ウミガメから身を守ることだったのだとこのとき知った。

   舳倉島でのルポルタージュは新聞で連載(分担執筆)され、その後『能登 舳倉の海びと』(北國新聞社)のタイトルで出版された。記者時代の思い出の地でもあるこの島や周囲に弾道ミサイルを落とさせてなるものか。そのような想いを込めている。

⇒17日(土)夜・金沢の天気    はれ

★群発地震で土煙を上げて細る「珠洲の海」

★群発地震で土煙を上げて細る「珠洲の海」

   群発地震が続く能登半島の珠洲市できょう21日午前10時42分に震度3の地震があった。ショッキングな映像もユーチューブで流れている。観光名所の一つでもある見附島の側面崩落の様子だ。19日午後3時8分の震度6弱、そして20日午前10時31分の震度5強の揺れで、見附島の側面の土煙を上げて側面が崩れた=写真・上=。

   見附島周辺は海水浴場にもなっていて、これまで何度も行ったことがある。高さ28㍍、周囲400㍍の島で、軍艦がこちらに向かってくるかのようなスケール観があるので、「軍艦島」とも呼ばれている。珠洲市は珪藻土の産地で、見附島も珪藻土からなる島で長年の風化や浸食でいまのようなカタチになったとされる。

   見附島の海岸一帯は能登半島国定公園に指定されている。眺めていて面白いのはヘッドの部分の「原生林」だ。珪藻土は雨水を蓄えるため、植物の生育にはとてもよい環境でもあり、クロマツやシイ、ツバキなどが生い茂る。そして、島の森にはカラスやサギ、ウ、カモメなどの鳥も飛び交っている。

   見附島の近くにある海岸べりの公園に、万葉の歌人として知られる大伴家持が珠洲を訪れたときの歌碑がある=写真・下=。「珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり」。748年、越中国司だった家持は能登を巡行し、最後の訪問地だった珠洲で朝から船に乗って越中国府に到着したときは夜だったという歌だ。ルートからすれば、船に乗ってしばらくすると見附島の横を通って航行していたはずだ。しかし、見附島を詠んだ歌はない。

   ここからは空想だ。見附島の名前は弘法大師(空海)が佐渡島から珠洲に船で渡ってきたときに名付けたとの言い伝えがある。空海の生まれは宝亀5年(774)なので、家持が珠洲を訪れたのはそれ以前の話だ。つまり、家持の「珠洲の海」は当時この島を称した言葉ではなかったか。文献をベースにした訳ではなく、勝手な解釈である。

   話は冒頭に戻る。見附島は波浪風雨による侵食で岩盤が年々削り落とされている。今回の地震でもさらに側面が崩落した。自然の猛威にさらされながらカタチを変えてきた。何万年とかかって変貌してきた島の歴史の一端を見た思いがした。

⇒21日(火)夜・金沢の天気     くもり