#佐渡

★本州最後の一羽のトキ「能里」が残した教訓

★本州最後の一羽のトキ「能里」が残した教訓

   本州最後の一羽のトキは愛称「能里(のり)」と呼ばれていた。能登半島で生息していたが、国の指示で1970年1月に捕獲され、繁殖のために佐渡トキ保護センターに移された。しかし、翌71年3月13日にケージの金網でくちばしを折ったことが原因で死んでしまった。もう半世紀も前のことだが、能登の人たちの中には、「昔ここには能里が飛んで来とった」と今でも懐かしそうに話すシニアの人たちもいる。

   こうした能登のトキへの想いが伝わったのだろう、環境省は去年8月、佐渡市で野生復帰の取り組みが進むトキについて、本州で放鳥を行う候補地として能登半島と島根県出雲市を選定し、能登での放鳥は2026年以降と発表した。これを受けて、石川県は先月15日に発表した2023年度の当初予算案で、放鳥のための生息の環境づくり関連費として1億360万円の「トキ予算」を盛り込んだ。また、国連が定める「国際生物多様性の日」である5月22日を「いしかわトキの日」と決め、県民のモチベーションを盛り上げる。(※写真は石川県歴史博物館で展示されている「能里」のはく製)

   トキ放鳥のムードが盛り上がる中で、懸念も増している。このブログでも何度か取り上げた、能登半島で進む風力発電の増設計画についてだ。長さ30㍍クラスのブレイド(羽根)の風車が能登には現在73基あるが、新たに12事業・171基が計画されている。

   自然保護の観点から懸念されるのはバードストライク問題であり、景観上もふさわしくない。そして、地域住民への影響もある。去年7月で開催された「能登地域トキ放鳥推進シンポジウム」(七尾市田鶴浜)で、地元の環境保護団体の代表と立ち話で意見交換をした。代表が住む地域の周囲には10基の風車が回り、「風が強い日の風車の風切り音はとてもうるさく、滝の下にいるような騒音だよ」「これ以上、増設する必要はない」と強調していた。

   石川県は今月5日、能登でのトキの放鳥に向けた「ロードマップ」案を作成。それによると、能登の9つの自治体などと連携し、トキが生息できる環境整備として700㌶の餌場を確保する方針で、化学肥料や農薬を使わない水田など「モデル地区」を設けて生き物調査を行い、拡充していく。

   能登はトキが営巣するのに必要なアカマツ林が豊富だ。そして、リアス式海岸で知られる能登は平地より谷間が多い。警戒心が強いとされるトキは谷間の棚田で左右を警戒しながらドジョウやタニシなどの採餌行動をとる。豊富な餌を担保する溜め池と水田、営巣に必要なアカマツ林、そしてコロニーを形成する谷という条件が能登にはある。佐渡に次ぎ、能登半島が本州のトキの繁殖地となることを期待したい。

⇒12日(日)午後・金沢の天気    はれ

☆能登をトキとコウノトリの楽園に

☆能登をトキとコウノトリの楽園に

   佐渡市で野生復帰の取り組みが進む国の特別天然記念物トキについて、環境省はきょう、本州などでも放鳥を行う候補地「トキの野生復帰を目指す里地」として能登半島と島根県出雲市を選定したと発表した(5日付・環境省公式サイト「報道発表資料」)。今後、環境省は受け入れる地方公共団体などと、生息環境の保全やトキとの共生を理解する地域づくりをしながら、2026年以降での放鳥を目指すことになる。

   本州最後の1羽だったトキが1970年に能登半島で捕獲され、繁殖のため佐渡のトキ保護センターに送られた実績があることから、石川県と能登の4市5町、JAなど関係団体は5月6日に「能登地域トキ放鳥受け入れ推進協議会」を結成。環境省に受け入れを申請していた。

   去年10月、佐渡でトキを観察する機会があった=写真・上=。説明によると、野生繁殖は480羽近くになるが、一つの地域に限られた生息だと鳥インフルエンザにより絶滅する可能性もあるとのことだった。環境省の佐渡以外での放鳥計画はそうしたリスク分散でもある。今回の環境省の決定で能登に再びトキが舞う日がいよいよ現実になってきた。

   先月24日、トキ放鳥受け入れ推進協議会が能登半島の七尾市で開催したシンポジウムに参加。その足でコウノトリのひな3羽が育つ、志賀町の山地に赴いた。初めて見に行ったのは6月24日だったので、ちょうど1ヵ月ぶりだった。

   ひなを育てているつがいは足環のナンバーから、兵庫県豊岡市で生まれたオスと、福井県越前市生まれのメスで、ことし4月中旬に志賀町の山の中の電柱の上に巣をつくり、5月下旬には親鳥がひなに餌を与える様子が確認された。初めて見た1ヵ月前より、相当大きくなっていて、時折羽を広げて飛び立とうとしている様子だった=写真・下=。この場所はコウノトリのひなが育った日本での最北の地とされていて、これからの定着と繁殖を期待しながら巣を見上げていた。

   タイムリーなことに、環境省は6月14日、海岸線が中心だった能登半島国定公園(1968年指定)を内陸部の里山を含め広げる拡張候補地として選んだと発表した。新たな公園エリアの候補地は2030年度をめどに決めるようだ。トキもコウノトリも国の天然記念物だ。その生息地が国定公園に選ばれることになれば、景観と自然保護、そして天然記念物の鳥たちの楽園としてのストーリーが描けるのではないか。

   また、能登半島は2011年6月に国連食糧農業機関により、世界農業遺産(GIAHS)「Noto’s Satoyama and Satoumi(能登の里山里海)」が認定されている。その認定要件には景観、そして生物多様性があり、トキとコウノトリが定着すれば、能登GIAHSに新たな価値を注ぐことにもなり、国際的な評価が高まるに違いない。

   ただ、一つ懸念するのは、このブログでも何度か取り上げた、能登で進む風力発電の増設計画だ。長さ30㍍クラスのブレイド(羽根)の風車が能登半島には現在73基ある。岸田政権は2050年までにカーボンニュートラルの実現を目指していて、風力発電の増設計画が全国で加速。能登半島にも新たに12事業、171基が計画されている。

   自然保護の観点から懸念されるのはバードストライク問題であり、景観上もふさわしくない。風車が乱立するような場所は国定公園にそぐわない(環境省「国立・国定公園内における風力発電施設の審査に関する技術的ガイドライン」)。風力発電そのものを否定しているのではない。これ以上、能登に増やす必要はないというのが持論だ。

⇒5日(金)夜・金沢の天気   くもり時々はれ

☆世界遺産めざす「佐渡金山」の価値とは

☆世界遺産めざす「佐渡金山」の価値とは

   ユネスコ世界文化遺産への登録を目指す「佐渡島の金山」をめぐって、ユネスコ側から推薦書類の不備が指摘され、来年の登録が困難になっている問題。さらに、霊感商法や献金強要によって巨額の金を集めが問題となっている「世界平和統一家庭連合」(旧「統一教会」)の名称変更をめぐる問題。所管する文科省と文化庁にとってはダブルパンチに違いない。

   去年10月、佐渡市で世界農業遺産(GIAHS)認定10周年記念フォーラムが開催され、個人として参加した。国連食糧農業機関(FAO)から2011年6月、日本で初めて佐渡と能登がGIAHS認定を受け、10年経ったことを記念するイベントだった。2泊3日のスケジュールの最終日にはエクスカーションがあった。

   ツアーのテーマは「佐渡GIAHSを形成したジオパークと佐渡金銀山、そして農村の営み」。佐渡の金山跡に入ると、ガイドの女性が詳しく説明してくれた。島内には55の鉱山があり、江戸時代から約390年間に産出された金は78㌧、銀は2330㌧に上った。佐渡金山は幕府直轄の天領として奉行所が置かれ、金銀の採掘のほか小判の製造も行われた。鉱山開発の拠点となった佐渡には国内各地から山師や測量技術者、労働者が集まった。最前線で鉱石を掘ったのは、「金穿大工(かなほりだいく)」と呼ばれた採掘のプロだった。

   鉱山特有の難題があった。地下に向かって鉱石を掘れば水が湧き出るため、放っておけば坑道が水没する。そこで、手動のポンプ「水上輪(すいしょうりん)」が使われた。紀元前3世紀にアルキメデスが考案したとされるポンプを応用したもので、ヨーロッパで開発されたものが幕府経由で佐渡にもたらされた。水を汲み上げて排水溝に注ぐ水上輪だが、ハンドルを回すのは相当な力仕事。水上輪だけでなく、桶でくみ上げる作業も必要となる。そうした坑道の排水作業は「水替人足(みずかえにんそく)」の仕事だった。

   そこで、ガイドの女性に質問した。「水替人足はどんな人たちだったのですか。島流しの人たちですか」と。すると、ガイドは「佐渡金山は流刑の地ではありません。水替人足は無宿人(むしゅくにん)と呼ばれた人たちが行いました。無宿人は凶作や親から勘当を受けるなどさまざまな理由で故郷を離れ江戸や大阪にやってきた人たちで、江戸後期(安政7年=1778)から幕末までの記録で1874人が送られてきたそうです」と。重い罪で島流しになった「流人」とは異なる人たちだった。

   島の農民はコメに限らず換金作物や消費財の生産で安定した生活ができた。豊かになった農民は武士のたしなみだった能など習い、芸能も盛んになった。現在でも島内に能舞台が33ヵ所もあり、国内の能舞台の3分の1が佐渡にある計算だ。

   世界文化遺産「佐渡島の金山」として申請対象になっているのは「西三川砂金山」と「相川鶴子金銀山」の2ヵ所。金銀の生産体制と技術に関して道具や記録、そして採掘された坑道が記録として残っている。さらに、鉱山と集落が「遺跡」として一体化して現存していることで世界遺産の価値が高まる。

   申請で問題もあった。対象時期を「戦国時代末~江戸時代」とした点だ。これまで報道があったように、この鉱山に戦時中、朝鮮半島からの人たちが強制労働をさせられたと韓国側からクレームがあった。もし、そのような歴史があるのであれば、無給で強制だったのか、有給だったのか、労働条件・待遇など、文書など記録を記載して、再申請すればよいのではないか。

   明治・大正、そして戦時下を経て、平成元年(1989)に資源枯渇のため長い歴史の幕を閉じた。最盛期の江戸時代だけではなく衰退に向かう歴史的事実もすべて説明したほうがよいのではないか。世界文化遺産は栄枯盛衰の歴史そのものに価値があるのではないだろうか。

⇒3日(水)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

☆佐渡金山を深堀りすれば

☆佐渡金山を深堀りすれば

   去年秋に佐渡の金山を見学した。佐渡市で開催された「GIAHS(世界農業遺産)認定10周年記念フォーラム」(10月29-31日)のエクスカーションだった。中学生の歴史教科書にも出て来るように、佐渡金山は徳川幕府の直轄の天領として奉行所も置かれ、金銀の採掘のほか小判の製造も行われていて幕府の財政を支えた。

   ガイドの女性の案内で坑道に入って行き、最前線で鉱石を掘る「金穿大工(かなほりだいく)」と呼ばれた採掘のプロたちの説明があった。坑道で使われた器具の中で、「水上輪(すいしょうりん)」も興味深かった。長さが「9尺」(2.7㍍)ある円錐の木筒で、内部にらせん堅軸が装置されている。上端についたハンドルを回転させると、水が順々に汲み上げられて、上部の口から排出される仕組みになっている。紀元前3世紀にアルキメデスが考案したアルキメデス・ポンプを応用したものだという。

   水上輪は坑道の安全を守るために必要だった。地下に向かって鉱石を掘れば掘るほど水が湧き出るため、放っておけば坑道が水没する恐れがあった。そこで、手動のポンプである水上輪を導入し、水を汲み上げて排水溝に注いだ。ただ、ハンドルを回すのは相当な力仕事だった。水上輪だけでなく、桶でくみ上げる作業と合わせて坑道の排水作業は「水替人足(みずかえにんそく)」の仕事だった。

   そこで、ガイドの女性に質問した。「水替人足はどんな人たちだったのですか。島流しの人たちですか」と。すると、ガイドは「そうおっしゃる方もいますけど、佐渡金山は流刑の地ではありません。水替人足は無宿人(むしゅくにん)と呼ばれた人たちが行いました。無宿人は凶作や親から勘当を受けるなどさまざまな理由で故郷を離れ江戸や大阪にやってきた人たちで、江戸後期(安政7年=1778)から幕末までの記録で1874人が送られてきたそうです」と。重い罪で島流しになった「流人」とは異なる人たちだった。「そうなんですね。認識不足で申し訳ありません」と詫びた。

   幕府の鉱山開発の拠点となった佐渡へは日本各地から山師、測量技術者、商人などが集まり人口も急増した。食糧需要が増えて島の農民はコメに限らず換金作物や消費財の生産で潤った。豊かになった島の人々は武士のたしなみだった能を習った。いまでも島内の能舞台は33ヵ所あり、国内の能舞台の3分の1は佐渡にある。

   そうした佐渡金山について、岸田総理は28日、ユネスコ世界文化遺産の候補として推薦する方針を表明した。推薦期限となるあす2月1日に閣議了解を得て、2023年の登録を目指す。今回の推薦について、韓国は佐渡金山で「強制労働」があったと反発している。佐渡金山の申請対象は、韓国側の主張と直接関係ない「江戸時代まで」に限定している。登録までには紆余曲折も予想されるが、歴史遺産が対立の火種にならないよう願いたい。

⇒31日(月)午後・金沢の天気      はれ

☆トキと共生する佐渡のGIAHSストーリー(下)

☆トキと共生する佐渡のGIAHSストーリー(下)

   最終日のきょうはエクスカーションに参加した。テーマは「佐渡GIAHSを形成したジオパークと佐渡金銀山、そして農村の営み」。佐渡の金山跡に入った。2012年7月にも訪れている。ガイドの女性が丁寧に説明してくれた。金銀山を中心に相川地区などは一大工業地となった。島の農民はコメに限らず換金作物や消費財の生産で安定した生活ができた。豊かになった農民は武士のたしなみだった能など習い、芸能が盛んになった。

        トキが飛び交う農村の日常風景

   金山の恩恵を受けたのは人間だけではなかった。農家は農地拡大のため山の奥深くに棚田を開発した。その人気(ひとけ)の少ない田んぼは生きものが安心して生息するサンクチュアリ(自然保護地域)にもなった。臆病といわれるトキにとってこの島は絶好の住みかとなった。そのトキがいまでは佐渡の人々に農業の知恵と希望、そして夢を与えている。その大きなきっかけが、2008年に市独自で創った「朱鷺と暮らす郷認証米」制度だった。そのコメづくりをベースにした農村開発は、2011年6月、国連の食糧農業機関(FAO)が世界農業遺産に「トキと共生する佐渡の里山(SADO’s Satoyama in harmony with the Japanese crested ibis)」に認定された。

   GIAHS認定をステップにして、翌2012年7月に「第2回生物の多様性を育む農業国際会議」(佐渡市など主催)が開催された。この会議には日本のほか中国、韓国の3ヵ国を中心にトキの専門家や農業者ら400人が参加した。国際会議が開かれるきっかけとなったのが、2010年10月に生物多様性第10回締約国会議(COP10)だった。湿地における生物多様性に配慮するラムサール条約の「水田決議」をCOP10でも推進することが決まった。この決議で佐渡の認証米制度が世界各国から注目されることになる。

   ではどこが注目されたのか。認証米制度では「生きものを育む農法(減農薬)」の実施と、「生きもの調査」を義務づけていることだ。一方でトキにはGPSを付けて飛来のデータを観測している。これにより生きものを育む農法が、生物へ与える効果やトキが好む餌場の把握が科学的にできる。つまり、トキの生息環境を把握する科学的データの評価手法として導入されている。この取り組みは、農業の視点だけで見ると、作業量やコストの負担を増加させる。農業国際会議では、農地=食糧生産拠点という発想をしがちな中国や韓国の代表団も、水田がそれほど多面的な価値を持つという捉え方に、新鮮な驚きを覚えたと感想を語っていたことを覚えている。

   認証米制度によるコメづくりは佐渡の全稲作面積の2割(1200ha)に達している。トキの野生復帰活動を契機に始まった生物多様性の保全を重視した独自の農業システムは、日本の新たな農業の姿となり、また、世界の環境再生モデルとなりえる。そして、年間500人といわれる若者を中心とした移住者の受け皿にもなっている。

   エクスカーションの午後の日程では中山間地を訪れた。中山間地から平野を見渡すと、トキの群れが飛び交っている。そして、田んぼで羽を休め=写真=、また飛び立つ。その田んぼの近くでは子どもたちが遊んでいて、軽トラックも農道を走っている。日常の農村の風景の中にトキがすっかり溶け込んでいる。

⇒31日(日)夜・金沢の天気     くもり時々あめ  

★トキと共生する佐渡のGIAHSストーリー(中)

★トキと共生する佐渡のGIAHSストーリー(中)

   初日(29日)に記念講演があり、環境省環境事務次官の中井徳太郎氏が「トキ野生復帰の意義とGIAHS(世界農業遺産)」と題して、佐渡のトキの野生復帰に向けた環境省の取り組みなどについて話した。2008年9月に10羽のトキが放鳥され27年ぶりにトキが佐渡の空に舞った。その後も放鳥は続き、ことし9月現在で野生のトキの生息数は484羽になった。

       佐渡と能登をつなぐトキの「縁」と「愛着」

          一方で、地元の農家は農薬や化学肥料の削減により、魚や昆虫などの動物のほか水辺の植物を育み、トキが暮らしやすい生息環境をつくることにいそしんできた。それを「生きものを育む農法」や「朱鷺と暮らす郷づくり」認証制度というカタチで農法を統一化することでトキの生息環境とコメのブランド化を進めてきた。2011年6月、国連の食糧農業機関(FAO)が世界農業遺産に「トキと共生する佐渡の里山(SADO’s Satoyama in harmony with the Japanese crested ibis)」を認定した。中井氏が強調したのは「トキとの共生を目指す里地づくりの強みを生かした地域循環共生圏」という言葉だった。

      二日目(30日)の基調講演で、公益財団法人「地球環境戦略研究機関」の理事長、武内和彦氏が「日本の持続可能な農業とは~佐渡GIAHSの農村文化から考える~」と題して、「世界農業遺産は過去の遺産ではなく、生き続ける遺産」と説明した。「朱鷺と暮らす郷づくり」認証農家は現在407戸に。佐渡の積極的なトキの米づくりを目指す新規就農者は2019年度実績で67人に。学校ではトキとコメ作りをテーマに環境教育や食育教育が行われている。佐渡は多様な価値観を持った人たちが集う「コモンズ」共同体へと進化している。農業だけでなく観光や自然環境、コミュニティーの人々が連携することで横つながり、そして世代を超えるという新たなステージに入っている。武内氏が強調したのは「佐渡GIAHSにおける新たな農村文化の展開」という言葉だった。

   今回のGIAHS認定10周年記念フォーラムで発表された事例報告など聞いて、佐渡の人たちの「トキへの愛着」というものを感じた。そして、トキをめぐっては能登と佐渡の「縁」もある。1970年1月、本州最後の1羽だったオスのトキが能登半島で捕獲された。能登では「能里(のり)」の愛称があった。能里は佐渡のトキ保護センターに送られた。佐渡にはメスのトキ「キン」がいて、人工繁殖が期待された。しかし、能里は翌1971年に死んだ。キンも2003年10月に死んで、日本のトキは絶滅した。本来ならば、ここで人々のトキへの想いは消えるだろう。ところが、佐渡の人々、そして環境省はあきらめなかった。1999年から同じ遺伝子の中国産のトキの人工繁殖を始め、冒頭のように2008年9月に放鳥が始まった。(※写真・上は石川県歴史博物館で展示されている「能里」のはく製)

   きょうパネルディスカッション=写真・下=では「これからの日本農業への提言」をテーマに話し合った。能登GIAHSから参加した珠洲市長の泉谷満寿裕氏から意外な発言があった。「トキを能登で放鳥してほしい」と。この発言には背景がある。環境省は今後のトキの放鳥について、2025年までのロードマップをことし6月に作成し、トキの受け入れに意欲的な地域(自治体)を中心に、トキの生息に適した環境の保全や再生、住民理解などの社会環境の整備に取り組む(6月22日付・読売新聞Web版)。トキは感染症の影響を受けやすい。さらに、佐渡で野生生息が484羽に増えており、今後エサ場の確保などを考慮すると、佐渡以外での複数の生息地を準備することが不可欠との判断されたのだろう。泉谷氏の発言は地元佐渡で受け入れの名乗りを上げたことになる。

   これまで、佐渡のトキが海を超えて能登に飛来して話題になったことが何度かある。2014年2月にはメスのトキが珠洲市に飛来して、半ば定着したことから、地元の住民に親しまれ、「美すず」の愛称もつけれられた。15年4月にオスのトキも飛来してきて、美すずと巣をつくれば、本州では絶滅後、初めてのつがいとなる可能性があると能登の人々は想像を膨らませた。が、美すずもオスもいつの間にか佐渡に戻った。泉谷氏の発言は能登の人々のトキへの愛着を代弁していたようにも聞こえた。

⇒30日(土)夜・佐渡の天気     くもり

★トキが能登の空に戻るとき

★トキが能登の空に戻るとき

   環境省は国際保護鳥であるトキについて、新潟県佐渡島の以外でも放鳥を検討するため、生息環境を本年度から5ヵ年かけて調査する、とメディア各社が伝えている。トキの生息についてはこのブログでも何度か取り上げた。1970年1月、本州最後の1羽だったトキが能登半島で捕獲された。オスで「能里(のり)」の愛称があった。能里は佐渡のトキ保護センターに繁殖のため送られたが、翌1971年に死んだ。2003年10月、佐渡で捕獲されていたメスの「キン」が死んで、日本のトキは絶滅した。その後、同じ遺伝子の中国産のトキの人工繁殖が佐渡で始まり、2008年から放鳥が行われている。現在、野生で約450羽が生息している(2021年6月現在、環境省佐渡自然保護官事務所調べ)。

   順調に繁殖してきたトキだが、佐渡だけで定着が進んでも病気が広がるなどして一気に数が減ってしまうおそれがある。そこで環境省は、複数の場所で野生繁殖の取り組みを進める必要があるとして、2026年度以降で本州での放鳥を行う方針を決めたようだ。これまで佐渡のトキが能登をはじめ本州に飛来することはあったが、定着してはいない。

   では、どこで放鳥が始まるのか。やはり、本州最後の一羽が生息していた能登ではないだろうか。奥能登(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)には大小1000ヵ所ともいわれる水稲用の溜め池がある。溜め池は中山間地にあり、上流に汚染源がないため水質が保たれている。ゲンゴロウやサンショウウオ、ドジョウなどの水生生物が量、種類とも豊富である。これらの水生生物は疏水を伝って水田へと流れていく。

    また、奥能登はトキが営巣するのに必要なアカマツ林が豊富だ。また、リアス式海岸で知られる能登には平地より谷間が多い。警戒心が強いとされるトキは谷間の棚田で左右を警戒しながらドジョウやタニシなどの採餌行動をとる。豊富な食糧を担保する溜め池と水田、営巣に必要なアカマツ林、そしてコロニーを形成する谷という条件が奥能登にはある。

   佐渡の西側から能登は距離にして100㌔余りで、気象条件もよく似ている。トキのつがいを奥能登で放鳥すれば、第二の繁殖地になるのではないか、などと夢を描いている。(※写真は輪島市三井町で営巣していたトキの親子=1957年・岩田秀男氏撮影)

★世界が認める「生き物ブランド米」

★世界が認める「生き物ブランド米」

   あさニュースをチェックしていて目に留まる記事は、「環境」や「エコロジー」といったワードが入っていたりする。NHKニュースWeb版(2月9日付)の記事。兵庫県北部の但馬地域のブランド米「コウノトリ育むお米」は、国の特別天然記念物、コウノトリの野生復帰を促す活動に協力するため、農薬をできるだけ使わずに作られている。ブランド米を販売する地元の農業協同組合が、フランスへの輸出を始めることになった。環境に配慮した栽培方法をアピールし、環境問題への関心が高い現地のニーズを取り込みたいとしている。

   今月下旬にもフランス南部のマルセイユにおよそ100㌔を輸送し、日本の食材を扱う小売店などに卸す予定だという。このブランド米はすでにアメリカやアラブ首長国連邦など世界6ヵ国に輸出しているが、ヨーロッパへの販路拡大は初めて(同)。

   この記事を読んで、豊岡とコウノトリの「物語」を思い出した。豊岡にはコウノトリが舞い降りる名所だった。ところが、戦時中には巣をつくる営巣木であるマツが大量に伐採され、さらに、戦後はコメの増産から農薬が普及して、コウノトリは激減していた。そこで、2005年9月に「コウノトリの里」の復元を目指して、秋篠宮ご夫妻を招いてコウノトリの放鳥が行われた。カゴから飛び立った5羽のうち一羽が近くの田んぼに降りてエサをついばみ始めた。その田んぼでは有機農法で酒米をつくっていた。金沢の酒蔵「福光屋」が酒米農家に「農薬を使わないでつくってほしい」と依頼していたものだった。

   このことがきっかけでJAなどが中心となってコウノトリにやさしい田んぼづくりを始めるようになった。その後、豊岡ではコウノトリが野生復帰した。農家は農薬を使わず、手で雑草を取っているという光景がみられるようになった。コウノトリが舞い降りる田んぼの米「コウノトリ米」には付加価値がついた。それをブンラド化した。コウノトリを見ようと毎年50万人が訪れ、エコツーリズムの拠点にもなった。福光屋は地元での限定販売で「コウノトリの贈り物」という純米酒を造っている。

   こうした、生き物と稲作が共生することで、コメの付加価値を高めることを「生き物ブランド米」と呼んでいる。まさに、豊岡の成功事例がお手本となった。自身もこれまで、新潟県佐渡市の「トキ米」や、地元石川県白山市での「ホタル米」などを見学したことがある。農家の人たちは実に熱心でブランド価値を高めることに余念がない。有機農業はヨーロッパなど世界では常識だが、それにさらに生き物を冠してのブランド米となると注目されるかもしれない。ヨーロッパでは「赤いクチバシ」のコウノトリは幸せを運んでくると言われるそうだ。

(※写真は、「JAたじま」公式ホームページより)

⇒10日(水)朝・金沢の天気    はれ