#上時国家

★寒波の3連休 被災地・輪島に行く~続~

★寒波の3連休 被災地・輪島に行く~続~

  3連休の寒波はようやく峠を越えた。きょう午前9時ごろから、曇り空の隙間から、日差しが入り込んできた。日中の最高気温は金沢市で9度、輪島市で8度ときのうに比べて大きく上がると予想されている(25日付・金沢地方気象台)。ただ、不安もある。きのうから頻繁に起きている石川県西方沖を震源とする地震はきょう未明にも震度1以上が2度起きている。

  雪原と化した朝市通り、白い千枚田と紺碧の海、文化財復旧いつ動く

  寒波の最中(23日)に輪島市をめぐった話の続き。去年元日の能登地震で商店や民家など240棟が焼けた朝市通り周辺に行くと雪原が広がっていた=写真・上=。焼け焦げたビルなどの解体作業が進み、かつて朝市でにぎわった風景とは一変した。行政は、地域復興のシンボルプロジェクトとして、「輪島朝市周辺再生」を掲げている。朝市と商店街、住まいの共生を目指した市街地整備を行うとのコンセプトで、市民からの意見を募るパブリックコメントを経て、今月中には正式に決定すると報じられている。ところで気になるのは人気スポットの一つだった「永井豪記念館」のことだ。あの『マジンガーZ』や『キューティーハニー』などの漫画家・永井豪氏は同市出身で、2009年に行政が記念館を創り、永井氏は名誉館長を務めていた。記念館は再建されるのだろうか。

  観光名所として知られる白米千枚田に行った。分厚い雲に荒波が打ち寄せている。日本海の冬の海を感じさせる。大雪で千枚田はすっぽり雪に埋もれていた。秋には黄金の絨毯を敷き詰めたような稲穂で覆いつくされる棚田が白く染まっている。ネイビーブルーの海の色とのコントラストが印象に残る。白米千枚田は4㌶の斜面に1004枚の棚田が広がり、2001年に文化庁の「国指定文化財名勝」に指定され、2011年には国連食糧農業機関(FAO)から認定された世界農業遺産「能登の里山里海」のシンボル的なエリアだった。ところが能登地震で田んぼの多くに亀裂が入り、去年耕作されたのは120枚だった。その後、田んぼの修復はどこまで進んだのだろうか。4月に入ると田起こしが始まる。

  雪に埋もれた文化財。日本史で知られる平氏と源氏が一戦を交えた壇ノ浦の戦い(1185年)。平家が敗れて一族の平時忠が能登に流刑となり、その子孫が輪島市町野地区に根付いて製塩業や海運業など営み、現在も2軒の時国家が継承されている。2軒の住宅(国の重要文化財・2003年指定)のうち上時国家が去年元日の地震で倒壊した。9月の記録的な大雨では裏山が崩れ、敷地全体に被害が及んでいた。現地をめぐると、主屋の屋根にこんもりと雪が積もり、倒壊家屋の様子すらうかがえない。能登の歴史を語る古文書などは国立文化財機構のスタッフが中心となって「文化財レスキュー」活動を行い運び出している。被災地では一般住宅の公費解体は進んでいるが、上時国家を含めた文化財の復旧が本格的に動き出すのはいつなのか。まだ見えてこない。

⇒25日(火)午後・金沢の天気       はれ

☆能登の歴史を語る「上時国家文書」 倒壊家屋から救出

☆能登の歴史を語る「上時国家文書」 倒壊家屋から救出

  能登には平家伝説が数々ある。能登半島の尖端、珠洲市馬緤(まつなぎ)集落に伝わる言い伝えだ。平氏と源氏が一戦を交えた壇ノ浦の戦い(1185年)で平家が敗れ、平時忠が能登に流刑となった。時忠は平清盛の後妻である時子の弟であったものの、いわゆる武士ではなく、「筆取り武士」と呼ばれた文官だったこともあり死罪は免れた。

  その時忠を源義経が能登に訪ねて来た。兄・頼朝と仲違いし追われ、奥州・平泉に逃げ延びる途中に加賀の安宅の関をくぐり、そして能登に流された時忠のもとに来た。一説に、義経の側室だった蕨姫は時忠の娘で父親とともに能登に流されていたので、義経は蕨姫に会いに来た。義経の一行がしばらく滞在するため、この地に馬を繋いだので、「マツナギ」という地名になり、その後「馬緤」の漢字が当てられた。

  伝説の続き。その時忠の子孫が輪島市町野町の時国家とされる。2軒ある時国家のうち丘の上にある「上時国家」は去年8月まで一般公開されていたので、これまで何度か訪ねた。入母屋造りの主屋は約200年前に造られ、間口29㍍、高さ18㍍に達する。幕府領の大庄屋などを務め、江戸時代の豪農の暮らしぶりを伝える建物でもある。国の重要文化財指定(2003年)の際には、「江戸末期の民家の一つの到達点」との評価を受けていた。

  時国家を学術調査したのが歴史学者の網野善彦氏(1928-2004)だった。1980年代から古文書調査を行い、時国家が北前船の交易ほか山林経営、製炭、金融などを手掛ける多角的企業家だったことが分かった。さらに、時国家が船を用立てるために、いわゆる土地を持たない「水吞百姓」の身分の業者から金を借りていたことから、「百姓」という言葉は農民と理解されてきたが、むしろ多様な職を有する民を指す言葉ではなかったかと指摘している(網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』)。

  網野氏が読み解いた膨大な上時国家文書8千点余(石川県指定文化財)が、元日の地震で家屋の下敷きになった。厚さ約1㍍におよぶ茅葺の屋根が地面に覆いかぶさるように倒壊した。メディア各社の報道によると、今月20日に国立文化財機構文化財防災センターのスタッフ、石川県教委や輪島市教委の職員、大学教授ら20人が「文化財レスキュー」活動を行い、主屋と離れを結ぶ廊下に保管されていた古文書を運び出した。一部に水ぬれやカビが見られ、現地で修復作業が施されるようだ。

  古文書は地域の歴史を語る貴重な史料でもある。被災家屋の解体が本格化するのを前に、そして梅雨の季節を前に懸命な文化財の救出活動が行われている。

(※写真・上は、上時国家の賓客をもてなす「大納言の間」=2010年8月撮影。写真・下は、能登半島地震で倒壊した上時国家の主屋=2月22日撮影)

⇒23日(火)夜・金沢の天気   くもり

☆能登半島地震 国の重文建築の修復に途方もない時間

☆能登半島地震 国の重文建築の修復に途方もない時間

   道路が修復されて輪島市町野町に行けるようになったで、きのう(22日)見てきた。「上時国家」(かみときくにけ)が倒壊したとの報道があったので、この目で確認したいという思いがあった。というのも、金沢大学の教員時代に学生たちを連れて毎年秋に「能登スタディ・ツアー」を実施し、能登の歴史の一端を学ぶ場として上時国家を訪れていた。

   上時国家は1185年(文治元年)の壇ノ浦の戦いで平家が敗れ、能登へ配流になった平時忠の子孫・時国に由来する住宅で、国の重要文化財に指定されている。今回の地震では1階部分がつぶれ、厚さ約1㍍におよぶ茅葺の屋根が地面に覆いかぶさるように倒壊していた=写真=。

   観光パンフによると、入母屋造りの主屋は約200年前に造られ、間口29㍍、高さ18㍍に達する。部屋は金を施した「縁金折上格(ふちきんおりあげごう)天井」など手の込んだ内装や巨大な梁はりが特徴。幕府領の大庄屋などを務め、江戸時代の豪農の暮らしぶりを伝える建物でもある。2003年の重文指定の際には、「江戸末期の民家の一つの到達点」との評価を受けていた。

   ただ、個人所有であり、新型コロナウイルス禍で観光客が減少したことなどから維持管理費の捻出が難しくなり、2023年9月以降は一般公開を終了し、閉館としていた(Wikipedia「上時国家住宅」)。

   国や自治体が指定・登録する国宝などの文化財などが今回の地震で損傷したケースは328件に上り、石川県だけでも111件が確認されている(2月15日付・文科省まとめ)。今後、文化財をどう修復していくのか、時間との戦いが始まるのだろう。何しろ、上時国家のように国の重要文化財の指定を受けている場合、建築当時と同じ材料や技法で修復しなければならないため、調査や材料の調達に途方もない時間がかかるのだ。

⇒23日(金・祝)午後・金沢の天気   あめ