#一村一墓

★白い花のヒガンバナ 「彼岸の入り」あれこれ

★白い花のヒガンバナ 「彼岸の入り」あれこれ

   きょうは「彼岸の入り」。これまでよく、「暑さ寒さも彼岸まで」と季節の会話を交わすことはあったが、ことしは使えそうもない。きょう金沢の予想最高気温は30度、最低気温は25度と真夏日だ。あすも32度だ。

   きのう近くのお寺の境内を歩くとヒガンバナが咲いていた。ヒガンバナというと、赤い花というイメージがあるが、この寺のヒガンバナは白い花で知られる=写真=。40年ほど前に白い花が咲いていたのを檀家が株分けして数を増やしていったという伝えがある。そのせいか、花だけでなく境内も整備されて、ちょっとした「お寺の公園」というイメージだ。

   話は少し逸れる。近くに「野田山墓地」という山そのものが墓苑という広大な墓地がある。加賀藩の藩祖・前田利家の墓などあり、金沢で由緒ある墓地といえる。たまに通るだけなのだが、10年ほど前に比べて「無縁墓」が増えている。放置されて雑草が生い茂っている。一部は墓石が傾いて、倒壊しそうなものもある。

   この光景を見て、能登の「一村一墓」のことを思い出す。能登半島の尖端・珠洲市三崎町の大屋地区での伝え話だ。江戸時代に人口が急減した「天保の飢饉」。能登も例外ではなく、食い扶持(ぶち)を探して、若者が大量に離村し人口が著しく減少した。村のまとめ役が「この集落はもはやこれまで」と一村一墓、つまり集落の墓をすべて集め一つにした。そして、ムラの最後の一人が墓参りをすることで「村じまい」とした。しかし、集落は残った。江戸時代に造られた共同墓と共同納骨堂は今もあり、一村一墓は地域の絆(きずな)として今も続いている。現在の「共同墓」の先駆けだったかもしれない。

   以前、東京に住む友人から共同墓の権利を購入したとのメールをもらった。費用が安く、供養してもらえるようだ。ただ、遺骨は永久供養ではなく33回忌で、他の遺骨と一緒に合祀されるとのこと。「家族に迷惑がかからない分、すっきりしていい」と本人は納得していた。

   葬式や墓造りには当然ながら多額の費用がかかる。墓を造ると墓守りもしなければならない。死後になぜこれほど経費をかけるのか、むしろ残された家族のために使うべきだという発想が現役世代には広がっているのではないだろうか。
   彼岸の入りにあれこれ思ったことをしたためた。意図した文脈があるわけではない。

⇒20日(水)午前・金沢の天気   くもり時々あめ

☆能登半島の尖端で震度6弱、やはり来たか

☆能登半島の尖端で震度6弱、やはり来たか

   そのとき、民放テレビが放送していた能登がテーマのバラエティ番組を楽しく見ていた。グラグラと揺れを感じた。同時に、スマホの緊急警報(Jアラート)が高々と鳴り響いた。「19日午後3時08分ごろ、能登地方で強い地震」。NHKは番組そのものが地震速報に切り替わった。地元・北陸放送のアナウンサーはヘルメット姿で速報を伝えていた=写真・上=。

     能登半島の尖端部分を震源とする、深さ10㌔、マグニチュードは5.2の揺れ。震度6弱は珠洲市、震度5弱は能登町、震度4が輪島市と。石川県内だけでなく、震度3の揺れが新潟県上越市、富山県高岡市、氷見市、福井県あわら市で観測された。(※その後、震源の深さは13㌔、マグニチュードは5.4に修正されている)

   番組では、珠洲市の泉谷市長が電話でのインタビューで揺れについて語っていた。「発生当時、市役所の3階の市長室にいた。突然、突き上げられるような揺れが10秒ほど続いた。棚から書類などがほとんど落ちた。現時点で被害情報はまだ入ってきていないが、市内をパトロールしてなるべくはやく被害を把握したい」と述べていた。NHKでは午後3時50分から、松野官房長官が記者会見を行い、志賀原発ではいまのところ異常は報告されていないと語っていた。「やはり来たか」。テレビにくぎ付けになった。

   能登地方では2018年から小規模な地震活動が確認され、おととし2020年12月以降で活発化している。去年9月16日には珠洲市で震源の深さ13㌔、マグニチュード5.1、震度5弱の地震があった。同市では「奥能登国際芸術祭2020+」が始まっていたが、展示作品などに影響はなかった。能登半島では震度6以上の強い地震がこれまでも起きている。15年前の2007年3月25日の「能登半島地震」ではマグニチュード6.9、震度6強の揺れが七尾市、輪島市、穴水町を襲った。

   話は変わる。きょうの午前中、菩提寺(曹洞宗)で催された「普度会(ふどえ)」の法要に参列していた=写真・下=。10年に一度開催される法要でそれまでは父親が参列していたので、自身は初めてだった。和尚の説明書きによると、冷害や干ばつ、震災などの自然災害で江戸時代中ごろに飢饉(きん)が全国でまん延した。飢饉でなくなったすべての人たちを弔う法要として、曹洞宗では普度会が始まったそうだ。「普(あま)ねく度(ど)す会」、これは僧と檀家が一堂に会して、この法要を営む。

   日本史で習う「天保の飢饉」は加賀藩も例外ではなかった。能登には「一村一墓(いっそんいちぼ)」という仕組みができた。集落の墓をすべて一つにまとめ、最後の一人が墓参することで「村終い(むらじまい)」とすることを村の定めとした。その集落は消滅せずにいまも存在する。集落は珠洲市にあり、一村一墓の定めは現代でも継がれている。

   きょうの能登半島の地震、そして普度会法要でふと一村一墓の集落のことを思い起こした。

⇒19日(日)夜・金沢の天気     はれ  

☆ 「多死社会」と「一村一墓」

☆ 「多死社会」と「一村一墓」

   少子高齢化の日本は、死亡数が増加し人口減少が加速する、いわゆる「多死社会」ともいわれる。2019年に日本で亡くなった人の数は137万人、ちなみに出生数は86万人だ(厚生労働省令和元年人口動態統計の年間推計)。旧盆の墓参りに出かける予定だが、最近思うことは故人の弔い方や墓参りのあり方が大きな曲がり角に来ている、ということだ。 

   お盆にもかかわらず、草が伸び放題の荒れた墓を金沢でもよく目にする。何らかの事情で家族や親族が墓参りに来ていない無縁墓なのだろう。最近は、墓を造らず納骨もしないという人も増えている。樹木葬や遺灰を海にまく、あるいは、葬儀もせず遺体を火葬して送る「直葬(ちょくそう)」という言葉も最近聞く。葬式や墓造りには当然ながら多額の費用がかかる。墓を造ると墓守りもしなければならない。死後になぜこれほど経費をかけるのか、むしろ残された家族のために使うべきだという発想が現役世代には広がっているのではないだろうか。確かに、生前に本人の遺志があったとしても、死後にはすべて昇華してしまうのだ。

   そこで最近よく聞くのが、共同墓だ。以前、東京に住む友人から共同墓の権利を購入したとのメールをもらった。費用が安く、供養してもらえるようだ。ただ、遺骨は永久供養ではなく33回忌で、他の遺骨と一緒に合祀されるとのこと。「家族に迷惑がかからない分、すっきりしていい」と本人は納得していた。共同墓がこれからのトレンドではないだろうか。

   以下は参考事例だ。能登で「一村一墓(いっそんいちぼ)」という言葉を聞いて、その地を訪れたことがある。珠洲市三崎町の大屋地区だ。江戸時代に人口が急減した時代があった。日本史で有名な「天保の飢饉」。能登も例外ではなく、食い扶持(ぶち)を探して、若者が大量に離村し人口が著しく減少した。村のまとめ役が「この集落はもはやこれまで」と一村一墓、つまり集落の墓をすべて集め一つにした。そして、ムラの最後の一人が墓参りをすることで村じまいとした。しかし、集落は残った。江戸時代に造られた共同墓と共同納骨堂=写真=は今もあり、一村一墓は地域の絆(きずな)として今も続いている。

   現実問題として一村一墓は今の時代こそ必要になのかもしれない。多死社会にあって、都会にいる子孫たちはわざわざ墓参にくるだろうか。縁が薄れていく墓はさらに増えるだろう。むしろ、共同墓にして、誰かが供養に来てもらえばそれでよい。町内会で一墓、もうそんな時代ではないだろうか。

⇒14日(金)朝・金沢の天気    はれ