#ブリゴジン

★プリゴジン氏「墜落死」はプーチン大統領の「粛清」なのか

★プリゴジン氏「墜落死」はプーチン大統領の「粛清」なのか

   ロシアには「チーストカ(чистка、粛清)」の歴史がある。あのソビエト連邦時代の最高指導者だったスターリン(1878-1953)は国内の反革命や不正者を徹底的に弾圧したことで歴史上で知られる。粛清は、ある意味で敵の脅威をつくり出すことで国民を恐れさせ、団結させることにあるとされる。たった一日とは言え、私兵を率いて政府軍に盾突いたプリゴンジ氏はプーチン大統領にとっては、いわゆる「反逆者」だ。はたしてプーチン氏は彼を許すだろうか。

   その結末が、プリゴジン氏が搭乗していた自家用ジェット機が今月23日、モスクワ北西のトベリ州で墜落し、乗客乗員10人全員死亡したことだ。ジェット機はモスクワからサンクトペテルブルクに向かっていた。

   この事故について、アメリカの複数のメディアは機内に仕掛けられた爆発物が爆発したことによって墜落した可能性があると伝えている。24日付の「ウォール・ストリート・ジャーナル」は、「Early Intelligence Suggests Prigozhin Was Assassinated, U.S. Officials Say」の見出し=写真=で、アメリカ政府当局者の初期段階の分析として、機内に仕掛けられた爆発物が爆発したか、あるいは破壊工作がなされたことによる墜落と見られると報じている。また、イギリス政府当局者のコメントとして、ロシアの連邦保安庁(FSB)が関与した可能性が高い、と伝えている。

   「ニューヨーク・タイムズ」は、欧米の政府当局者の初期段階の分析としてジェット機内に仕掛けられた爆発物が有力な原因だとする一方、不純物が混ざった燃料が爆発を引き起こした可能性もあると報じている。

   この事故について、プーチン大統領は24日、ウクライナ東部ドネツク州の親ロシア派の代表と会談した際、「犠牲者の家族に哀悼の意を表したい」「プリゴジン氏のことは1990年代初めからよく知っている。複雑な運命を背負った男だ。人生で重大な過ちを犯したが、私の求めには必要な結果も達成した。才能のある人物だった。彼はきのう、アフリカから戻ったばかりでここで何人かの関係者と会っていた」などと述べ、プリゴジン氏の死亡を認めた(25日付・NHKニュースWeb版)。

   以下は憶測だ。プーチン大統領はプリゴジン氏の遺体があったとしてもおそらく遺族には引き渡さずに、完全に消去するのではないだろうか。ロシアの粛清方法は、墓などをつくらせずに、地上に存在したことを消すことだ。

⇒25日(金)夜・金沢の天気   はれ

☆粛清へと向かうのか 「プリゴジンの乱」の余波

☆粛清へと向かうのか 「プリゴジンの乱」の余波

   たった一日とは言え、私兵を率いて政府軍に盾突いたプリゴンジはプーチン大統領にとっては、いわゆる「反逆者」だ。はたしてプーチン氏は彼を許すだろうか。ロシアには「チーストカ(粛清)」の歴史がある。あのソビエト連邦時代の最高指導者だったスターリン(1878-1953)は反革命や不正者を徹底的に弾圧したことで歴史上で知られる。粛清は、ある意味で敵の脅威をつくり出すことで国民を恐れさせ、団結させることにあるとされる。プーチン大統領も国民の団結の「道具」として、プリゴジンの粛清を行うのではないか、との読みもある。(※写真は、6月25日付・BBCニュースWeb版)

   たとえは適切でないかもしれないが、ロシアにはもう一つの粛清の方法がある。それは墓などをつくらず、地上に存在したことを消去することだ。第二次世界大戦で、ヒトラー率いるドイツ軍は1945 年5月 8 日に無条件降伏したが、ヒトラーは降伏前の4月30日に自決する。遺体はヒトラーの遺言によって焼却されたものの、焼け残った遺体は当時ベルリンを占領していたソ連軍によって東ドイツのマクデブルクに運ばれ、ソ連諜報機関の事務所前の舗装の下に埋められた。1970年になって、ネオナチの崇拝目的になることを怖れ、遺体を再び焼却して遺灰をエルベ川に流したとされる(Wikipedia「アドルフ・ヒトラーの死」より)。

   この粛清の方法はロシアだけではない。第二次大戦後、極東軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けた元総理の東條英機ら7人のA級戦犯の遺骨もそうだった。アメリカ軍は1948年12月23日、東京・巣鴨プリズンから遺体を運び出し、横浜市内の火葬場で焼かれ、遺骨は別々の骨つぼに納められた。そして、小型の軍用機に載せられ、上空から太平洋に散骨されている。

   また、ニューヨークの同時多発テロ(2001年9月11日)の首謀者とされたオサマ・ビン・ラディンに対する斬首作戦が2011年5月2日、アメリカ軍特殊部隊によって実行された。パキスタンのイスラマバードから60㌔ほど離れた潜伏先を奇襲して殺害。DNA鑑定で本人確認がなされた後、アラビア海で待機していた空母カール・ビンソンに遺体は移され、海に水葬された。

   遺骨が遺族に返還され、墓がつくられることになれば、その墓が将来、聖地化や崇拝の地になることを想定しての処置なのだろう。「死をもって罪をあがなう」という発想ではなく、存在証明を許さないのだ。プリゴジンの処遇をめぐっての書き出だしだったが、話がずいぶんと逸れた。

⇒29日(木)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

★たった1日の「プリゴジンの乱」でもプーチンは許すか

★たった1日の「プリゴジンの乱」でもプーチンは許すか

   BBCニュースWeb版(25日付)はそのことを、「Prigozhin was adamant this was “a march for justice”, not a coup. Whatever it was, it came to an end very fast.」と伝えている=写真=。プリゴジンは、これはクーデターではなく「正義のための行進」であると断固として主張した。それが何であれ、それは非常に速く終わった。BBCはじつに簡潔な表現で伝えている。

   ウクライナへの軍事侵攻をめぐり、ロシア国防省を非難する民間軍事会社ワグネルは24日朝にロシア南西部のロシア軍の拠点に入った。これに対し、プーチン大統領は同日午前、緊急テレビ演説を行い、ワグネルの行動は「我が国民を後ろから刺す」「裏切り」と非難した。これに対し、ワグネル創設者のプリゴジン氏は、この行動はロシア国民のためで、「正義のための行進」だと述べ、モスクワへと北上を続けた。

   それが一転、部隊を引き返す。プリゴジン氏は24日夜(日本時間の25日午前2時すぎ)にSNSの音声メッセージで、「われわれは正義の行進に出た。しかし、ロシア人の血が流れることへの責任を自覚し、部隊を拠点に戻すことにした」と、流血の事態を避けるための決断だと述べた(25日付・NHKニュースWeb)。

   一連のニュースに注目していて、プリゴジン氏は反乱者なのか英雄なのかと思っていたが、どうやらただの反乱者のようだ。メディア各社の報道をまとめると、ロシアと同盟関係にあるベラルーシのルカシェンコ大統領がプリゴジン氏と直に協議を行い、プリゴジン氏がルカシェンコ大統領の申し出を受け入れた。プリゴジン氏をベラルーシに亡命させる。ワグネルの部隊はロシア国防省に組み入れる。プーチン大統領は緊急テレビ演説で「国家反逆罪と見なす」「全員処罰すると」と述べていたが、ロシア大統領府の報道官は、プリゴジン氏ならびにワグネルの戦闘員に対して、「罪は問わない」と表明した。

   以下は憶測だ。プリゴジン氏は現政権にたった一日とは言え、反旗を翻した反乱者であることは事実である。この「プリゴジンの乱」をプーチン大統領は許すだろうか。今後プリゴジン氏はベラルーシに逃れるとは言え、将来、同調する勢力が現われ再び反旗を翻すとも限らない。プーチン氏はそう考えるのではないか。覚悟なき反乱の報い、その顛末はどうなる。

⇒25日(日)夜・金沢の天気    くもり