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☆ニュースは流れを読む

☆ニュースは流れを読む

   総務省幹部への接待問題は論点がまだ見えて来ない。東北新社だけでなくNTTにも広がり、公務員倫理の遵守が問われているが、メディア報道に国民は怒っているのだろうか、呆れているのだろうか、あるいは無関心なのだろうか。自身の周囲(職場の人や知人たち)と話していても、このニュースがほとんど話題に上らない。その理由を考察してみる。

   率直に言えば、接待問題は贈収賄事件と展開しないと事件としての迫力がない。もちろん、公務員倫理の遵守意識を軽んじているのではない。なぜ総務省でこれほど接待問題が頻発しているのかと言えば、放送や電波、通信などの割り当てをめぐって巨大な権限を総務省が有しているからだ。根源的な課題として、この規制と権限にも目を向けないと、いつまでたっても接待問題はなくならないだろう。

   この問題を定点観測していくポイントは3つあると考察する。一つは、東京地検特捜部などが動いているのかどうかだろう。昔からよく言われたきたことだが、許認可の判断を官公庁が持ち、政治家が仲介して企業・団体(受益者)に使用権が与えられる。もし、電波の割り当てをめぐって金が動いているのであれば、現職総理のファミリーを巻き込んだ贈収賄事件へと展開する。地検も接待の陰に政治家や金の匂いがしないか虎視眈々と捜査を進めているだろう。接待を受けた1人に総務省事務方のNo2の大物の名前も挙がっていて、検察とすれば「大捕り物」になるからだ。メディアの記者たちも横目で検察の動きを注視しているのではないか。

   2つめのポイントは行政改革だろう。デジタル社会の要(かなめ)は電波だ。その電波割当に関わる権限を総務省から9月1日に設置予定の「デジタル庁」に移管してよいのではないか。ひょっとして菅総理は「デジタル庁」への移管を念頭に置いているかもしれない。

   そして、3つめは規制改革ではないだろうか。電波の割当を省庁の権限ではなく、単純にオークション化すればいい。何しろ、携帯キャリアが国に納めている電波利用料は端末1台当たり年間140円。令和元年度でNTTドコモは184億円、ソフトバンクは150億円、KDDは114億円だった(総務省公式ホームページ「令和元年度 主な無線局免許人の電波利用料負担額」)。NTTドコモは国へ電波利用料184億円を納め、携帯電話の通信料としてユーザーから3兆943億円を売り上げている(2019年度)。電波をオークション化することによって、その利益を納税者に還元すべきではないだろうか。

   上記の3つのポイントで接待問題の成り行きを注視したい。ニュースは刻々と変化していく。その流れを読んで行く。

⇒15日(月)午後・金沢の天気    はれ  

★「賭けマージャン」略式起訴と首里城「あうん」竜

★「賭けマージャン」略式起訴と首里城「あうん」竜

   きょう気になったニュースから。昨年の新型コロナウイルスの緊急事態宣言の中、東京高検検事長と新聞記者らによる賭けマージャン問題はこのブログでも何度か取り上げた。NHKニュースWeb版(3月14日付)によると、民間団体から刑事告発され、起訴猶予になった東京高検の黒川弘務元検事長について、東京地検は検察審査会の「起訴すべきだ」との議決を受けて再捜査し、一転して賭博の罪で略式起訴する方針を固めた。新聞記者ら3人については改めて不起訴とする見通し。

   略式起訴は検察が簡裁に書面だけの審理で罰金などを求める手続きで、今後、簡裁が検察の請求が妥当だと判断し、元検事長が罰金を納付すれば、正式な裁判は開かれず審理は終わることになる(同)。事件が発覚したきっかけは「文春オンラン」(2020年5月20日付)と週刊文春の記事だった=写真・上=。賭けマージャンは月1、2回の頻度で、賭け金は1千点を100円に換算する「点ピン」と呼ばれるレートで、1回で1万円から2万円程度の現金のやり取りをしていた。

   昨年7月、東京検察は「1日に動いた金額が多いとは言えない」「娯楽の延長線上にある」などとして起訴猶予にしていた。その後、12月に検察審査会は黒川氏に対して「違法行為を抑止する立場にあった元検事長が漫然と継続的に賭けマージャンを行っていたことが社会に与えた影響は大きい」と起訴相当を議決。また、記者ら3人については捜査が不十分として「不起訴は不当」と判断していた。きょうのニュースを見て、ようやく「けじめ」がついたとの印象だ。

   沖縄・那覇市の首里城は戦前、正殿などが国宝に指定されていた。戦時中、日本軍が首里城の下に地下壕を築いて司令部を置いたことから、1945年にアメリカの砲撃にさらされた。戦後に大学施設の建設が進み、城壁や建物の基礎がわずかに残っていた。大学の移転で1980年代から正殿などの復元工事が始まり、1992年に完成した。そして、2019年10月31日未明に出火し、無残な姿となった=写真・中=。政府は沖縄の本土復帰50年にあたる2022年に復元工事に着手し、2026年に正殿の完成を目指している。

   復元に向けての明るいニュースがあった。朝日新聞Web版(3月12日付)によると、正殿の彫刻に使われた下絵が、金沢市の彫刻作家・今英男(いまひでお)氏(1937-2014)の自宅で約30年ぶりに見つかった。下絵は縦約60㌢、横約4.5㍍。向き合う2頭の「あうん」の竜と、その間に宝の玉「宝珠(ほうじゅ)」が描かれている。「宝珠双龍文様」と呼ばれる図柄の彫刻で、正殿の玉座の背後にある「内法額木(うちのりがくぎ)」と呼ばれる部分に施してあった。下絵には「全体的に少し上げる」など、手書きの修正点や注意点が複数書き込まれている。

   自身は2009年5月に首里城を訪れ、正殿の玉座などつぶさに見学した。内法額木の2頭の「あうん」の竜の精細な彫りと金色の塗りに目を奪われ、カメラに収めた=写真・下=。当時、金沢の彫刻作家の手によるものだとは知らなかった。今回のニュースで、彫りは今英男氏、そして塗りは琉球漆器の職人たちの合作ではないかと憶測する。「あうん」の竜が蘇ることを期待したい。

⇒14日(日)夜・金沢の天気    はれ

★「受け狙い」言葉遊びのワナ

★「受け狙い」言葉遊びのワナ

   今度の差別問題は責任は明らかだ。きょう12日、日本テレビの朝の情報バラエティー番組『スッキリ』でアイヌ民族を傷つける不適切な表現があった。問題の発言は、動画配信サービス「Hulu」の番組を紹介するコーナーで、アイヌ女性のドキュメンタリー「Future is MINE ―アイヌ、私の声―」を紹介した後、お笑い芸人の脳みそ夫が「この作品とかけまして動物を見つけた時ととく。その心は、あ、犬」と謎かけをした。番組の放送後、SNS上などで批判が挙がった。局側は取材に「当該コーナーの担当者にこの表現が差別に当たるという認識が不足しており、放送前の確認も不十分でした。その結果、正しい判断ができないまま、アイヌ民族の方々を傷つける不適切な表現で放送してしまいました」と説明した(3月12日付・朝日新聞Web版)。

   記事を読んで、ネット上にどのような批判が挙がっているのか検索すると、手厳しいコメントが。「ん?なんかさり気なくアイヌをぶっ込んできたが、『ア、犬』って、バカにしとるやないか!」「スッキリのアイヌのギャグのやつ昔実際にあった差別用語だよね。あれはないわ」「スッキリのhuluのアイヌの謎かけは本当に良くない! 差別用語で使われてた言葉だからしっかり調べてからそういうことをいって欲しい」

   ネットで番組の動画を視聴すると、脳みそ夫がリスのぬいぐるみを着て、「あ、犬」のテロップも入っていて、ていねいに犬のイラストまである。生番組だが、お笑い芸人の即興ではなく、事前に作成されたVTRを流したもの、ということになる。つまり、テレビ局の制作スタッフが構成した演出と断定してよい。番組の流れを見ていても、差別的な意図は感じない。が、ネット上で批判が起きているように、かつて差別用語で使われていた言葉であることを認識していなかったという制作ディレクターの見識が問われる。テレビ局によくある、受け狙い先行型のミステイクとも言えるかもしれない。

   森喜朗元総理のJOC臨時評議員会(2021年2月3日)での発言、「女性がたくさん入っている理事会は、理事会の会議は時間がかかります」「女性っていうのは競争意識が強い。誰か一人が手を挙げて言われると、自分も言わないといけないと思うんでしょうね。みんな発言される」。この発言が女性蔑視とレッテルを貼られて、辞任することになった。

   予め考えておいたエピソードを連ねて場の雰囲気を盛り上げ、会場の笑いを取れても話の内容がずさんになることはままある。受け狙いの言葉遊びのワナに自らはまることは、自身も何度も経験している。

(※写真は、日本テレビ公式ホームページより)

⇒12日(金)夜・金沢の天気      あめ

☆「3・11」とクライストチャーチ

☆「3・11」とクライストチャーチ

    2006年8月に家族でニュージランドのクライストチャーチを訪れ、ここを拠点に3泊4日の旅を楽しんだ。19世紀半ばに4隻の船でイギリス人800人がこの島にやってきて、いまでは南島最大の35万人都市をつくり上げたとガイドから説明を受けた。すさまじい人口増の背景には歴史があった。ニュージーランドへの移民が始まって間もなく、サザン・アルプスの各地で金鉱脈が発見され、1860年代からゴールドラッシュが沸き起こる。これで、ヨーロッパやアジアからも人が押し寄せた。さらに、1870年代からはヨーロッパでウール(羊毛)の人気が高まり、ニュージーランドはその原料の主力供給基地へと実力をつけていった。

   このサクセスストーリーを背景に、街は活気にあふれた。1864年から40年かけて、街の中心部にイギリスのゴシック様式による大聖堂が建設された。クライストチャーチ大聖堂=2006年8月撮影=だ。見学でガイドからこの大聖堂は大きな地震に3度も見舞われながら40年の歳月を費やし1905年に完成したと説明を受けたのを覚えている。その大聖堂が2011年2月22日にクライストチャーチ近郊で発生した大地震で、シンボル的存在だった塔は崩れ落ちた。そして、「ガーデンシティ(庭園の街)」と称されるまでに美しい街にがれきがあふれ、ビルの倒壊で日本人28人を含む185人が亡くなった。思い出のある街だけに、震災のニュースはショックだった。そして、17日後の3月11日に東日本大震災(マグニチュード9.0)が起きた。

   ニュージーランドの研究機関「GNSサイエンス」のホームページで、ガイドから聞いた大聖堂を造営する40年間で起きた3度の大震災を調べると、南島のクライストチャーチがある南島の北側では1868年10月19日にマグニチュード7.5、1888年9月1日に同7.3、1893年2月12日に同6.9の大きな地震が起きている。同じころ、日本でも濃尾地震(マグニチュード8.0、1891年10月28日)や明治三陸地震(同8.2、1896年6月15日)など大地震が8回も起きている。

   今月5日、ニュージーランド北島のマディック諸島付近でマグニチュード8.1の地震が発生した。先月2月13日、福島県沖で同7.3、震度6強の揺れがあった。日本とニュージーランドは同じで環太平洋火山帯(Ring of Fire)の真上にあるため地震が比較的多い国だといわれる。両国での地震に連動するような関連性があるのか、ないのか。

   GNSサイエンスによると両国の地震学者が研究を進めているとの記事「Japanese plate boundary findings have relevance to NZ」(2017年6月20日付)がある。この中で、「The Nankai Trough results are important for understanding the risk of large earthquakes and tsunamis generated at offshore plate boundary zones worldwide」(意訳:南海トラフの結果は、世界中の沖合プレート境界帯で発生する大地震と津波のリスクを理解するために重要である)。ボーリング調査や海底の震度センサーなど機器のデータを共有することで、地震学者によるネットワークの強化に期待を寄せる記事で、日本とニュージーランドで起きる地震の連動性については研究が始まったばかりのようだ。

   クライストチャーチ大聖堂はまだ再建途上だ。完成したあかつきにはぜひ訪れてみたいと思う。震災からの復興の意志を貫く人々を称えるために。

⇒10日(木)夜・金沢の天気     くもり

★あれから10年「3・11」の記憶~下~

★あれから10年「3・11」の記憶~下~

   東日本大震災から2ヵ月後の5月11日に気仙沼市を訪れたのは、NPO法人「森は海の恋人」代表の畠山重篤氏に有志から集めたお見舞いを届ける目的もあった。ただ、アポイントは取っていなかった。昼過ぎにご自宅を訪れると、家人から本人はすれ違いで東京に向かったとのことだった。そこで家人から電話を入れていただき、翌日12日に東京で会うことにした。

      「森は海の恋人」畠山重篤氏が語った津波のリアル

   畠山氏と知り合いになったきっかけは、前年の2010年8月に金沢大学の社会人人材育成事業「能登里山マイスター養成プログラム」で講義をいただいたことだった。畠山氏らカキ養殖業者が気仙沼湾に注ぐ大川の上流の山で植林活動を1989年から20年余り続け、5万本の広葉樹(40種類)を植えた。同湾の赤潮でカキの身が赤くなったのがきっかけに、畠山氏の提唱で山に大漁旗を掲げ、漁師たちが植林する「森は海の恋人」運動は全国で知られる活動となった。

   12日午前中に東京・八重洲で畠山氏と会うことができた。頭髪、ひげが伸びていて、まるで仙人のような風貌だった=写真・上=。この折に、9月2日に輪島市で開催する「地域再生人材大学サミットin能登」(能登キャンパス構想推進協議会主催)の基調講演をお願いし、承諾を得た。4ヵ月後、畠山氏と輪島で再会した。人は自然災害とどのように向き合っていけばよいのか、実にリアルな話だった。以下、講演の要旨。

             ◇

   3月11日、仕事をしていた最中に地震があった。この数年地震が多く、「地震があったら津波の用心」という碑が道路などあるが、「またか」という気持ちもあった。30分後に巨大津波が押し寄せた。三陸は、吉村昭(作家)の『三陸海岸大津波』にもあるように、津波の歴史を持つ地域だ。私も50年前、高校2年生の時にチリ地震津波を経験していて、今回はチリ地震津波くらいのものが来るのかなという感覚はあった。気仙沼の南にある南三陸町はチリ地震津波で死者が50人ほど出たため、防潮堤を造るなど津波対策を施したが、それはあくまでチリ地震津波の水位を基準にしたものだった=写真・中=。ところが今回の津波は、チリ地震津波の約10倍にもなるようなものだった。

   私の家は海抜20㍍近くだが、自宅すぐ近くまで津波は押し寄せた。津波は海底から水面までが全部動く。昨晩、(輪島市の)海辺の温泉のホテルに泊まらせていただいた。窓を開けるとオーシャンビューで、正直これは危ないと思った。4階以下だったら、山手の民宿に移動しようかと考えたが、幸い8階と聞き安心した。温泉には浸かったが、安眠はできなかった。あの津波の恐怖がまだ体に染み込んでいる。

   過去に10㍍の津波を経験している地域は日本各地にある。日本海側は、太平洋側よりは津波の規模は小さいと思うが、覚悟はしておくべき。皆さんは、いざというときは海岸から離れればよいと思っているかもしれないだが、いくら海岸から離れても、あくまで津波というのは高さなので、絶対に追いつかれてしまう。だから、海辺に暮らしている方は、どうすれば少しでも高い所に逃げられるかを念頭に置いた方がいい。

   地域再生を考えるとき、人口が減る、仕事がない、農業・漁業が大変だという諸問題が横たわっている。しかし、それ以前に沿岸域の場合は津波に対してどういう備えをするかが第一義だと考える。三陸はリアス式海岸だが、どんな小さい浦々も一つも逃れようがなく全滅だった。盛岡の岩手医大の先生が言うには、震災の晩、大勢のけが人が出るからと病院に指示をして、けが人を受け入れる準備をした。ところが、けが人は一人も搬入されなかった。津波では、けが人はいない。死ぬか生きるかになる。そういう厳しさがある。地域づくりをする前に、もし大津波警報が発令されたらまずどの高さの所に逃げるか、山へ行くのかビルに行くのかを考える。そこから出発しなければいけないと思う。

   津波が起きてしばらくは、誰もが元の所に帰るのは嫌だと言っていた。しかし、2ヵ月くらいすると、徐々に今まで生活した故郷を離れられないという心情になってきた。ただ恐れていたのは、海が壊れたのではないかということだった。震災後2ヵ月までは海に生き物の姿が全く見えなかった。ヒトデやフナ虫さえ姿を消していた。しかし2ヵ月したころ、孫が「おじいちゃん、何か魚がいる」と言うので見ると、小さい魚が泳いでいた。その日から、日を追ってどんどん魚が増えてきた。京都大学の研究者が来て基礎的な調査をしているが、生物が育つ下地は問題なく、プランクトンも大量に増えている。酸素量も大丈夫で、水中の化学物質なども調べてもらったが、危ないものはないと太鼓判を押してもらった。これでいけるということで、わが家では山へ行ってスギの木を切ってイカダを作り、カキの種を海に下げる仕事を開始した=写真・下=。

   塩水だけで生物が育つわけではなく、私たちの気仙沼の場合は、川と森が海とつながる「森は海の恋人」運動を通して自然の健全さを保ってきた。海のがれきなどの片付けが終わればあっという間に海は戻ってくる。これが希望だと思っている。森と川の流域に住んでいる人々の心が壊れていれば、漁師はやめるしかない。しかし、森と川と海が健全なので、大丈夫だなという気持ちが盛り返して、今、再出発が始まっている。

⇒10日(水)朝・金沢の天気

☆あれから10年「3・11」の記憶~中~

☆あれから10年「3・11」の記憶~中~

   東日本大震災では報道する側も被災者となった。震災からちょうど2ヵ月の5月11日に気仙沼市、そして翌12日に仙台市に向かった。仙台に本社があるKHB東日本放送を訪ねた。自身のテレビ局時代に懇意にしてもらった報道関係者がいて、震災当時の報道現場の様子を聴くことができた。

      報道する側も被災者、命を救う情報発信に徹する

   案内された部屋に入ると天井からボードが落ちていて、当時の揺れの激しさを目の当たりにした。震災直後の報道現場の様子を生々しく語ってくれた。余震が続く中、14時53分に特番を始めた。それ以降4日間、15日深夜まで緊急マナ対応を継続した。空からの取材をするため、14時49分に契約している航空会社にヘリコプターを要請した。しかし、仙台空港に駐機していたヘリは津波で機体が損壊していた=写真・上=。空撮ができなければ被害全体を掌握できない。さらに、21時19分、テレビ朝日からのニュース速報で「福島原発周辺住民に避難要請」のテロップを流した。震災、津波、火災、そして原発の未曽有の災害の輪郭が徐々に浮き彫りになってきた。

   同社の社長は社員を集め指示した。「万人単位の犠牲者が出る。長期戦になるだろうが、報道部門だけでなく全社一丸となって震災報道にあたる」と、報道最優先の方針を明確に打ち出した。それは、命を救うための情報発信に専念せよとの指示だった。また、被害を全国に向けて発信し、一刻も早く救援を呼ぶことも当面の方針だった。そのため、全国へは「被災の詳報」、そして宮城県の放送エリアへは「安否情報」「ライフライン情報」を最優先とした。

   持久戦に備えてロジスティックス(補給管理活動)を手厚くした。取材人員・伝送機材を確保し、応援到着まで社員全員で乗り切る初動態勢を組んだ。テレビ取材の要(かなめ)である収録用テープの確保を最優先した。さらに、食料補給の充実が欠かせない。数種類の弁当の他、常時大鍋で味噌汁、スープを提供、コーヒー、紅茶、お茶、カップ麺のためにお湯も沸かした。ロジ担当が常駐して疲れて帰る取材スタッフへの声掛け、ねぎらいの言葉を張り出すなどした。情報共有のための「立会い朝会議」をほぼ毎日午前9時から実施した(3月16日-4月28日まで)。立会い朝会議は録音、議事録を当日中に作成し全社にメール配信した。非常事態であるがゆえに徹底した情報共有や気配りが必要なのだと教えられた。

   被災しながらも報道を続けたのは新聞も同じだった。宮城県の地域紙「石巻日日新聞」は停電と輪転工場の損壊で新聞発行ができなくなった。そのとき記者たちはどのような行動をとったのか。そのドキュメンタリーが新書本『6枚の壁新聞 石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録』(角川SSC新書)で描かれている。同紙は夕刊紙で、県東部の石巻市や東松島市、女川町などエリアに1万4000部を発行し、翌年には創刊100周年を迎える老舗だった。新聞発行がストップして社長は決断した。「今、伝えなければ地域の新聞社なんか存在する意味がない」「紙とペンさえあれば」「休刊はしたくない。手書きでいこうや」と。そして、3月12日付=写真・下=から6回にわたって壁新聞づくりが始まり、避難所などに貼り出した。おそらく、大手紙やブロック紙と呼ばれる新聞社だったら思いもつかなかったことだろう。

   伝える使命感が手書きの壁新聞へと記者たちを走らせた。ただ、記者にたちとって忸怩(じくじ)たる思いがなかったわけではない。壁新聞は量産できないので、貼り出した場所(避難所など)でしか読まれない。手書きの壁新聞では字数が限られ、取材した情報のほとんどは掲載されない。電気が来て、パソコン入力でA4版のコピー新聞を配布できたのは18日。そのコピー新聞を手にした記者デスクは「サイズは小さくとも、活字で情報を伝えられることに喜びがあふれた。早くいつもの新聞を作りたい」と記している。そして、輪転機が再稼働したのは翌日19日だった。

⇒9日(火)午前・金沢の天気      はれ

★あれから10年「3・11」の記憶~上~

★あれから10年「3・11」の記憶~上~

   震災・津波を自身が初めて経験したのは1983年(昭和58年)5月26日の日本海中部地震だった。午前11時59分に秋田県能代市沖の日本海側で発生した地震で、マグニチュード7.7、10㍍を超える津波が発生した。そのころ、地方紙の記者で能登半島の輪島支局に赴任していた。金沢本社のデスクから電話で「津波が能登半島にまもなく来る」との連絡だった。急いで輪島漁港に行くと、漁港内に巨大な渦が巻いていて、渦に飲み込まれる寸前の漁船があり、足元まで波が来ていたが写真を1枚だけ撮って一目散に現場から離れた。欲を出して2、3枚と撮っていたら逃げ遅れるところだった。それ以来、震災・津波の現場を訪れるようになった。

       大漁旗に込められた「祈」、気仙沼で見た復興の願い

   2011年3月11日の東日本大震災。14時46分、その時、金沢大学の公開講座で社会人を対象に広報をテーマに講義をしていた。すると、事務室でテレビを見た講座の主任教授が血相を変えて講義室に駆け込んできた。そして耳打ちしてくれた。「東北が地震と津波で大変なことになっている」と。受講生にはそのまま伝えた。講義室は一瞬ざわめいたが、講義はそのまま続けた。2005年から金沢大学に転職していたが、自身の中では被災地をこの目で確認したいとい思いが募った。

   2ヵ月後の5月11日に仙台市と気仙沼市を調査取材に訪れた。当時、気仙沼の街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船「第十八共徳丸」(330㌧)があった。津波のすさまじさを思い知らされた。

   気仙沼市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた。気仙沼は漁師町。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。その大漁旗を市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた=写真・上=。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗は大空に映えていた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものが数枚あった=写真・下=。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。「14時46分」に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で、祈る人々、すすり泣く人々の姿が今でも忘れられない。

   2015年2月10日、気仙沼を再び訪れた。同市に住む、「森は海の恋人」運動の提唱者、畠山重篤氏に講演をお願いするためだった。畠山氏との交渉を終えて、4年前に訪れた市内の同じ場所に立ってみた。「第十八共徳丸」はすでに解体されていた。が、震災から2ヵ月後に見た街並みの記憶とそう違わなかった。当時でも街のあちこちでガレキの処理が行われていた。テレビを視聴していて復興が随分と進んでいるとのイメージを抱いていたが、現地を眺めて愕然としたのだった。

⇒8日(月)午後・金沢の天気     くもり

☆ジェネリック医薬品は「他人事」なのか

☆ジェネリック医薬品は「他人事」なのか

   小さいころ、親から「薬クソ売」という少々下品な響きの言葉を聞いた。効き目のない薬を高く売ってボロ儲けしている業者を皮肉る意味で使っていた。その後、「薬九層倍」という四字熟語を知る。薬の売値は原価に比べて非常に高く、利益が多いことから、巨大な利益を得ることのたとえ(三省堂「現代新国語辞典」)。今まさに「薬クソ売」、「薬九層倍」の背景が解き明かされるニュースが相次いでいる。それも北陸で、だ。

   富山市に本社を置くジェネリック医薬品製造大手の「日医工」に対し、富山県があす3日、業務停止命令を出す方針を固めたことがわかった。記録の不備など、管理体制に問題があったと判断したもので、期間はおよそ1ヵ月となる見込み。日医工では、滑川市の工場で品質試験の際の記録の不備などが発覚し、高血圧薬など75製品を自主回収している。健康被害は確認されていないが、県は自主回収した製品数が多いことから、管理体制に問題があったと判断し、行政処分を出す方向で検討を進めている。処分は、「許可取り消し」「業務停止」「業務改善」のうちの「業務停止」で、期間は富山第一工場の製造部門が30日前後、子会社などから医薬品を仕入れ販売することなどを含む製造販売部門が20日前後となる見込み(3月2日付・北日本放送ニュースWeb版)。

   75製品にも及ぶ自主回収だ。ニュースから読めることは、品質試験で不適合となった製品を廃棄せずに、再試験を行って通していた。その再試験の記録は破棄していたということだろうか。品質管理の重大な問題であり、メーカーは自ら真相を発表すべきだ。

   そこで、日医工の公式ホームページをチェックするとプレスリリース(2月25日付)が掲載されていた=写真=。文面は「本日、一部の業界紙において、富山県が当社に対して業務停止命令を出す方向で調整に入ったとの報道がありましたが、当社が発表したものではございません。また、富山県より現在、業務停止命令は受けておりません。」とまるで他人事のようだ。3月1日付では「組織変更および人事異動について」と題して、 製剤技術本部を新設し、既存品が抱えている課題の早期解決は図るなどと説明している。

   ジェネリック医薬品をめぐってはさらに不信が募る。水虫などの皮膚病治療薬に睡眠導入剤成分が混入していた福井県あわら市の医薬品メーカーの「小林化工」に対し、県は2月9日、医薬品医療機器法に基づき、同社に6月5日まで116日間の業務停止処分と業務改善命令を出した。県は、小林化工の経営陣が法令違反を把握していながら改善策を講じなかったことなどを問題視。同社は問題の治療薬以外でも、虚偽記録の作成や品質試験結果の捏造などの違反を長年続けていたという(2月9日付・時事通信Web版)。多品種生産による製造機の使い回しで、このような成分の混入は得てして起こる。怖い話だ。

   上記の一連のジェネリック医薬品メーカーの不祥事を見て、社内のガバナンスの問題が深刻だと察する。その問題の背景は何か。先発メーカーがコストと時間をかけて開発した新薬(先発医薬品)の特許が切れた後、ジェネリック医薬品として上記のメーカーなどが製造している。そして、政府が医療費抑制の切り札としてジェネリック医薬品をまさに国策として推奨してきた。言葉は悪いが、製造も販売も他人事のようだ。

   使う側にも、ジェネリック医薬品メーカーは果たして先発メーカーと同様にきちんと製造しているのかと心にわだかまりを持つ患者は今も多い。今回の不祥事で、先発メーカーのものを希望する人たちが増えるだろう。

⇒2日(火)夜・金沢の天気    くもり

★「易地思之」という言葉

★「易地思之」という言葉

   きょうから3月、季節は移ろう。金沢では日中の最高気温が21度まで上がり、春というより5月の初夏を感じさせる暖かさだった。ふと気づくと、すでに樹木の葉が芽生えて、地べたでは雑草が生えている。「草木萌え動く」。冬の間に蓄えていた生命の息吹が一気に現れる季節でもある。さらに、世界も動き出すのか、隣国から強烈なメッセージが届いた。

   読売新聞Web版(3月1日付)によると、中国国防省は1日、沖縄県・尖閣諸島の周辺海域で続いている中国当局による領海侵入について、「中国公船が自国の領海で法執行活動を行うのは正当であり、合法だ。引き続き常態化していく」とする方針をSNS上で発表した。一方、海上保安機関・海警局(海警)などの船が尖閣諸島に上陸する目的で島に接近した場合、日本側は相手を負傷させる可能性のある「危害射撃」を行える場合があるとの見解を日本政府が示したことについて、中国外務省報道官は1日の定例記者会見で「いかなる挑発行為にも断固対応する」と反発を示した。

   脅しの口実とタイミングが巧妙だ。中国は先月、海警局の船に武器の使用を認める「海警法」を施行したことから、日本では懸念が高まり、相手を負傷させる可能性のある「危害射撃」を行える場合があるとの見解を示していた。それを中国は「いかなる挑発行為にも断固対応する」と反発した。中国は明らかに尖閣支配に向けてギアを上げている。

   さらに注目していたのは韓国からのメッセージだった。韓国の中央日報Web版日本語(3月1日付)によると、文在寅大統領は、1919年3月1日に日本の統治下で起きた独立運動を記念する三一節記念式典で演説した。日本と韓国の関係については「韓国政府は常に被害者中心主義の立場で賢い解決策を模索する」と述べ、「わが政府はいつでも日本政府と向き合って対話をする準備ができている」とし「易地思之(相手の立場に立って考える)の姿勢で向き合えば、過去の問題も賢明に解決できると確信している」と強調した。

   さらに、「今年開催される東京オリンピックは韓日間、南北間、日朝間、そして米朝間の対話の機会になる可能性がある。韓国は東京五輪の成功に向けて協力する」と語った(同)。

   文氏のメッセージは強烈かと思ったが、ある意味で肩透かしだった。ただ、「易地思之」という言葉が気になった。自身はこの四字熟語を初めて見た。ネットで調べると韓国の政治家がよく使う言葉のようだ。この言葉は注意する必要がある。自分が相手の立場に立って考えるのか、相手に自分の立場を考えさせるのか、使い方によって二通りある。日本の政治家が真似してヘタに使うと、いわゆる元慰安婦問題や元徴用工問題で日本側が理解を示したと喧伝されるかもしれない。ハニートラップのような政治の言葉かもしれない。

⇒1日(月)夜・金沢の天気     はれ

☆能登・千里浜から見える海の問題の数々

☆能登・千里浜から見える海の問題の数々

   波打ち際を乗用車やバスで走行できる海岸は世界で3ヵ所と言われる。アメリカ(フロリダ半島)のデイトナビーチ、ニュージーランド(北島)のワイタレレビーチ、そして能登半島の千里浜(ちりはま)海岸だ。全長8㌔だが、うち6㌔を車で走行することが可能で「千里浜なぎさドライブウェイ」とも呼ばれる。砂のきめの細かさと、適度に海水を含んで引き締まっていることでビーチが道路のようになる。観光バスでも走ることができ、能登半島の観光名所としても知られる=写真・上=。

        車だけではない。人も違和感なく走ることができる。 5月21日と6月1日には東京五輪・パラリンピックの聖火ランナーが石川県を走るが、このビーチもそのルートに入っている。ところが、この名所が危機に瀕している。このところ、地元メディアでも大きく報じられているが、波による砂浜の浸食で幅が狭まっている、うち300㍍ほどが消滅した状態になっている。

   浸食は以前から問題となっていた。河川災害を予防するためにつくられた砂防ダムや、コンクリートの護岸が設置されて、陸からの砂が海岸に運ばれなくなった。とくに、金沢港に建設された長い堤防の影響で、砂を含んだ加賀地方からの海流がせき止められて、千里浜海岸への流れが少なくなってしまった。波による砂浜の浸食は常に起こるが、それを補給する砂の海流が細ってしまったということだ。県や関係自治体では2011年に「千里浜再生プロジェクト」を設置して対策を検討している。

   さらに不安をかき立てるのが、地球温暖化による海面上昇だ。気象庁の調べによると、昨年の日本沿岸の平均の海面水位は、平年と比べて8㌢余り高く、統計を取り始めてから最も高くなった。地球温暖化の影響で海面上昇が進展していることに加え、特に昨年は周囲より暖かい黒潮が日本の沿岸付近を通ったことが背景にあると指摘している(2月28日付・NHKニュースWeb版)。1960年から2020年までの海面水位の変化を海域別に見た場合、北陸から九州の東シナ海側で他の海域に比べ大きな上昇傾向がみられる(気象庁公式ホームページ「日本沿岸の海面水位の長期変化傾向」)

   千里浜はもう一つの名所でも知られる。春や秋の波打ち際にシギやチドリといった渡り鳥の群れが次々と降りてきて、人々を和ませる=写真・下=。渡り鳥はオーストラリアから日本を経由してシベリアを往復する。その途中で、能登半島の千里浜海岸に立ち寄る。お目当ては全長数㍉から1㌢ほどの小さなエビ、ナミノリソコエビだ。鳥たちは波が引いた砂の上に残るナミノリソコエビを次の波が打ち寄せるまでのごくわずかな時間でついばむ。

   ただ、このエビは砂質が粗くなり汚泥がたまると生息できなくなる。つまり、シギやチドリが降りる海岸はきれいな海のバロメーターでもある。しかし、砂浜の浸食によって波打ち際の生態系も危うくなっているのではないだろうか。

   砂浜の浸食だけでなく、能登半島の対岸からはポリタンクやペットボトル、食品トレー、医療系廃棄物(注射器、薬瓶、プラスチック容器など)の漂着がある。海洋プラスティックごみ、そして海中のマイクプラスティックと海のめぐる問題は複雑化している。

⇒28日(日)午後・金沢の天気     はれ