☆阪神淡路大震災から30年、能登地震1年 被災地との心のギャップどう埋める
「1995年1月17日」、いまから30年前のことだ。午前5時46分、金沢の自宅で睡眠中だったが、グラグラと揺れたので飛び起きた。テレビをつけると最大震度7に見舞われた神戸の悲惨な映像が映し出されていた。当時民放テレビ局の報道デスクで、着の身着のままで出勤した。テレビ朝日の系列局だったので、同じ系列のABC朝日放送(大阪)に記者とカメラマンを応援に出すことを決め、取材クルーを現地に向かわせた。見送りながら、無事を祈ると同時に、日本の安全神話が崩壊したような無念さが込み上げてきたことを今でも覚えている。「いよいよ日本沈没か」と。
この阪神淡路大震災をきっかけにテレビ局系列の研修会や仲間内での勉強会で災害報道の在り様について議論するようになった。キーワードは2つ、「風化」と「既視感」だった。テレビ局の役割として、この震災を風化させてはならない。ニュース特集やドキュメンタリー番組などを通じて、復興の問題点など含めて取り上げて行こうという主旨の発言が相次ぎ、研修会は熱くなった。(※写真は、黒煙が上がる阪神淡路大震災の災害の様子=写真提供・神戸市役所)
一方で既視感という、視聴者や読者が有するハードルについても議論になった。「いつもいつも同じ映像シーンを流している」「以前に視聴した番組と同じ」「以前どこかで読んだ記事」などと、視聴者や読者から指摘されることをメディアは嫌がる。なので、新たな映像や、これまでとは別の視点でのニュース特集や番組に取り組むことになり、ディレクターや記者、カメラマンは懸命になった。が、時間の経過とともにネタ切れとなり限界も見えてきた。
この風化と既視感は情報化社会の特性のようにも指摘されることがあるが、むしろ人間の特性だとの指摘は昔からあった。266年も前にイギリスの経済学者アダム・スミスは著書『道徳感情論』で、災害に対する人々の思いは一時的な道徳的感情であり、人々の心の風化は確実にやってくる、と述べている。日本人に限らず、災害に対する人々の心の風化や記憶の風化は人としての自然な心の営みと説いている。18世紀中ごろのイギリスはまさに産業革命のただなかで、都市部への人口集中や資本家と労働者の対立など激動の世紀の中で、平静さを求める人々の心情を読み解いたのだろうか。
ただ、被災地の人々の心情は変わらない。「忘れてほしくない」という言葉に尽きるだろう。被災地の復旧や復興は一般に思われているほど簡単には進まない。最近では、被災者への「共感」、あるいは「意識の共有」という言葉がよく使われるようになってきた。また、クラウドファンディングというネットを通じた支援もあるが、被災地の人々と一般の人々の意識のギャップをどうしたら埋めることができるのか。阪神淡路大震災から30年、能登半島地震から1年、いろいろと考えさせられる。
⇒14日(火)夜・金沢の天気 あめ
ニュースを見ていると、世界が「晴れもつかの間」状態に陥っているようだ。アメリカ大統領選で共和党のトランプ前大統領が返り咲き、あと1週間もすれば大統領の座に就く。「アメリカ第一主義」を掲げるトランプ氏の再来は、国際社会にどのような影響をもたらすのか。「Tariff. It’s the most beautiful word in the dictionary.」(関税。辞書のなかで最も美しい言葉だ)と、関税男を自称するトランプ氏は執着深い。関税にこだわるのは、海外製品を締め出し自国の製造業を守るとの姿勢が有権者の支持を得ているからだ。ただ、関税をかけられたメキシコやカナダ、中国などは報復関税をかけることになり、世界経済に混乱をもたらしかねない。
それにしてもアニメを用いたポスターは、少々派手で楽しい雰囲気を醸し出している。アニメそのものが素人ぽくない。ポスターを制作したのは輪島市教委の生涯学習課で、SNSで話題になり、参加者が増えるように仕掛けたのかもしれない。
240棟が焼け、東京ドームの広さに匹敵すると広さといわれる4万9000平方㍍が焼失した朝市通りの周辺地域。ここは公費解体による撤去作業がほとんど終わっていた。復旧・復興に向けて動きも始まっている。地元メディアの報道によると、震災からの復興計画を進めている行政の復興まちづくり計画検討委員会は先月20日に計画案をとりまとめ、市長に提出した。目玉となるプロジェクトに「朝市通り周辺再生」を掲げ、商店街や住まいの共生を目指して市街地整備を行う。行政は市民から意見を求め、ことし2月中に正式決定する。復興は10年計画で、上下水道などのインフラ整備などを進める「復旧期」、朝市通り周辺の新たな街づくりを進める「再生期」、地域資源を活用した新たな観光や産業を創出する「創造期」を段階的に定め、復興プロジェクトを推進していくという。
この検討委員会には地元の若手経営者らも出席し、朝市通りの「にぎわい創出」の提案を行っている。市内外の新たな事業者を受け入れる賃貸型店舗を整備することや、建物の高さや色に制限を設け朝市通りの外観を統一すること、海産物の共同加工場を併設した公設市場を整備することなどを要望している。じつに具体的なプランではないだろうか。
のような木造2階建ての建築が進められていた。数えると12棟ある。工事看板を見ると、「西ノ草仮設住宅」とある。西ノ草はこのあたりの地名だ。そこで、現場を見守っていた作業スタッフに「雪の中たいへんですね」とさりげなく尋ねると、「能登豪雨の仮設住宅です」と答えてくれた。工事看板をさらに見ると、完成が「2月下旬」とあるので、あと50日ほどだ。着手したばかりの現場もあり、作業をはやく進めなければとの緊張感が現場に漂っていた。
では上記の西ノ草仮設住宅を含め4ヵ所で264戸、珠洲市では1ヵ所22戸、合わせて286戸の設置を準備している。
奥能登では平地で20㌢余り積もっているとニュースで知って、去年元日の能登地震、そして9月の奥能登豪雨の被災地はどうなっているのかと思い、きょう現地の様子を見に、二重被害が大きかった輪島市に向かった。金沢と能登を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」は多いところで30㌢ほどの積雪だった。路面は除雪されていたが、道路の両サイドが雪で覆われていて=写真・上=、時折吹く強風でその雪が車のフロントガラスに吹き付ける。
輪島市街地の入り口に当たる熊野トンネル周辺では地震による土砂崩れが起きた。このため、落石から通行する車を守る屋根「プロテクター」が設置されている。プロテクターの上をよく見ると、土砂崩れの跡がスコップの底のようにわん曲になっていて=写真・中=、今後さらに雪が積もると雪崩が発生し、道路を塞ぐのではないだろうかと案じた。
さらに進み、市街地の手前にある河原田小学校グラウンドの仮設住宅(44戸)に行くと、20㌢ほどの積雪だった=写真・下=。住宅と住宅の間隔が2.5㍍ほどあり、この程度の雪だったら住宅の出入りに問題はなさそうだ。が、1㍍くらいの大雪になるとどのように除雪すればよいのか。小型除雪車は入れるかどうか。さらに雪捨て場をどこに設定すればよいか。他人事ながら心配になる。
展覧会場は石川県立美術館(11月15日-12月21日)、金沢21世紀美術館(12月13日-来年3月1日)、国立工芸館(12月9日-来年3月1日)で、金沢での3ヵ所となる。展示品はそれぞれの会場で異なるので、一定期間(12月13-21日)では3ヵ所を見て回れる。収益の一部は被災者へ義援金として寄付される。東京国立博物館では「所蔵する文化財に復興への祈りを込めたメッセージを託す事業を実施します」と述べている(同館公式サイト「プレスリリース」より)。
まも能登の浜辺でよく見かける風景だ。(※写真・下は国宝「松林図屏風」=国立文化財機構所蔵品統合検索システムより)
能登生まれの自身は「能登駅伝」という言葉は脳裏に浮かんでくる。昭和39年(1964)9月に国鉄能登線が半島先端まで全線開通したことから、能登に観光ブームが盛り上がった。さらに、同43年(1968)に能登半島国定公園が指定され、これを記念して1968年に始まったのが能登駅伝だった。名勝地を走る駅伝として、箱根駅伝や伊勢駅伝と並ぶ「学生三大駅伝」の一つとされていた。富山県高岡市を出発し、半島の尖端の珠洲市や輪島市などの海沿いを通って金沢市に至る26区間、342㌔を3日間かけてたすきをつなぐ行程だった。ただ、リアス式海岸の能登の道路はアップダウンが続き、当時は「日本一過酷な駅伝」とも称されていた。観光ブームでバスや乗用車の台数が急激に増えことなどから、1977年の第10回で終えていた。
には4.7㍍の津波が押し寄せ、火災も発生した=写真・下、4月16日撮影=。面識はないが、「坂口さん」と呼ばせていただき、以下、20ページにまとめられた紙面を拾い読みした感想を。
に、近所のお姉さんに乗せてもらって私だけ金沢に戻ることになりました。帰り道、自衛隊や支援物資のトラック、県外からのパトカー等、たくさん見ました、本当にありがとうございます、、、」(1月7日付)
ら出張して久しぶりの店なんやけど、出張経費がかってるんで、5800円でどうかね」、客「そうか、出張経費がかさんでいるんだね。では、ありがたく5800円で」。この客は2セット購入していた。