#コラム

☆能登半島地震 良寛の禅の言葉「災難に逢うがよく候」

☆能登半島地震 良寛の禅の言葉「災難に逢うがよく候」

     能登の名刹、輪島市門前町の総持寺を訪ねた(今月5日)。参道入り口の灯籠は倒れ、石畳が一部はめくれ上がっていた。参道を上ると右手にある、加賀百万石の礎を築いた戦国武将・前田利家の正室まつの菩提寺である芳春院は見る影もなく全壊していた=写真・上=。そして、総持寺の山門の左右に延びる回廊の正面右手が崩れ落ちていた=写真・下=。座禅堂の屋根の瓦もはがれ落ちている。総持寺の公式サイトによると、今回の地震で建物の多くは全壊や半壊、部分損壊の状態となり、国の登録有形文化財17棟全てが被災した。

   1321年に開創された総持寺は曹洞宗の禅の修行寺として知られ、末寺は1万6千余を数える。1898年、明治の大火で七堂伽藍の大部分を焼失。これを契機に1910年、布教伝道の中心は横浜市鶴見区に移る。能登の総持寺は「祖院」と改称され別院扱いとなった。その後の再建で山門や仏殿などがよみがえり、周囲の山水古木と調和して大本山の面影をしのばせる(総持寺パンフ)。

   その総持寺が2007年3月25日に発生した震度6強の揺れで甚大な被害を被る。坐禅堂などは倒壊状態となった。寺では復興委員会を立ち上げ、「耐震保存復興」を掲げて修復工事を開始。推定200㌧とされる山門の全体を持ち上げて移動させ、耐震のための地盤改良なども行った。寄付など40億円を集め、14年の歳月をかけて再建。開創700年に当たる2021年4月には落慶法要も営まれた。また、輪島市とともに復興を宣言し、観光誘客も順調に進んでいた。そして、2024年元旦に震度7の揺れに見舞われた。

   今回の地震で拝観は中止となっている。拝観中止は2007年3月以来となる。翌年2008年の8月に知人たちと総持寺を訪れ、「瓦寄進」をしたことを覚えている。瓦に祈願の文字を書き、お布施をした。ふと見た、前の人が書いた瓦の祈願の文字が印象に残っている。禅僧の良寛の言葉と書いてあった。「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候」。避けようがない災難には目をそむけたりせず、まずは受け容れるしかない。そこから善処を尽くす。そんな意味だと自分なりに解釈している。

⇒8日(木)夜・金沢の天気   くもり

★能登半島地震 「板子一枚、下は隆起」漁船は出漁できず

★能登半島地震 「板子一枚、下は隆起」漁船は出漁できず

   「板子一枚、下は地獄」。能登の漁師たちがよく口にする言葉だ。漁は危険を伴う職業だ。自然への恐れや畏怖の念を抱きながら、海からの恵みを得ようと生業を続けている。今回の地震で港はどうなったのか、輪島漁港に行った(今月5日)。同港は年間漁獲量(2022年実績)6000㌧の水揚げがあり、停泊する漁船も200隻余りと石川県最大の港だ。

   行ってみると港には刺し網漁船や底引き網漁船などが肩を寄せ合うように停泊していた=写真・上=。冬場はタラやブリ、ズワイガニなどの水揚げでにぎわうのだが、静まり返っている。漁港の様子を見にきていた近くの輪島前町の漁師がいたので聞くと、海底が隆起して水深が足りないので船が出せないのだという。実際、港内で漁船2隻が座礁していた。   

   県農林水産部による被害状況のまとめ(2月5日現在)によると、県内69漁港のうち60漁港で岸壁や防波堤などに損傷が確認された。漁船は233隻が転覆、沈没、座礁、損壊、流失している。そして、地盤の隆起は半島北側のいわゆる外浦(そとうら)側の志賀、輪島、珠洲の3市町22漁港で顕著で、水深の不足や海底の露出で多くの漁船が出せない状態となっている。

   県農林水産部などの調査によると、漁港の海底の隆起は1㍍から1.5㍍ほど。もともと日本海側は満潮干潮の潮位の変動は少なく、1年を通じても50㌢から60㌢ほど。なので、日本海側の漁港では干潮を見込んでの深めの水深を設定しておらず、3㍍から4㍍のところが多い。そこに1㍍から1.5㍍ほどの海底の隆起となると船底がつかえる漁船が出てしまう。

   輪島漁港から西よりの同市門前町の漁港に行く。小さな漁港の海底や防波堤が隆起して、陸と化していた=写真・下=。向こうに見える海面から目測して2㍍余りの隆起ではないだろうか。こうした能登の漁港の光景を見ると、むなしくなる。一方で、半島の富山湾に面したいわゆる内浦(うちうら)側の漁港は海底の隆起は免れていて、ブリやタラなどの漁獲を再開している。なんとか能登の漁業を繋いでほしい。

⇒7日(水)夜・金沢の天気     くもり

☆能登半島地震 焦土と化した「能登のトト楽」朝市通り

☆能登半島地震 焦土と化した「能登のトト楽」朝市通り

   「能登のトト楽」という言葉がある。妻がよく働くので夫が楽をするという意味で使われる。NHKの連続テレビ小説『まれ』(2015年)では、主人公の希(土屋太鳳)が輪島塗店の女将とケーキ店のパティシエの二つの仕事をこなしながら、双子の子育てもこなしていくという、頑張るお母さんの物語で、「能登のトト楽」をイメージした番組だった。実際には、輪島の朝市のおばさんたちや海女さんたちが頑張る能登の女性たちではないだろうか。メディア各社の報道によると、今回の地震で朝市通りの周辺の200棟が焼損し、10人の遺体が見つかっている。

   その火災の様子をNHK中継番組で視聴していた=写真・上=。なぜこんなに燃える広がるか少々疑問に思った。元旦だったので、消防士の人数が不足していて消火活動が十分にできないのかといぶかった。その後、消火栓が断水で使用できず火災が広がったと報じられていた。そのときも、それなら朝市通りは海岸に近いので海の水をポンプでくみ上げて消火に使えばよかったのではと、またいぶかった。ところが、津波警報が出ていて、海に近づくことすらできなかったとことも後で理解した。さらに、朝市通りの近くを流れる河原田川も地震による地盤の隆起で当時は干し上がった状態になっていたようだ(2月1日付・NHKWeb特集)。

   いろいろな悪条件が重なって焦土と化した朝市通り周辺に行った(今月5日)=写真・下=。1ヵ月以上経ってはいるものの、焼けごげた臭いがした。トラロープの結界を超えて、朝市通りに入ると懐かしさもこみ上げてきた。おばさんたちの「買うてくだぁー」「買うてくだぁー」の呼び声があちらこちらから響いてくるようだ。海の幸と山の幸の物々交換がルーツとされ、千年の歴史を有する輪島朝市。確かここには蒸しアワビを売るおばさんのテントの店があった。1個1万2千円の「蒸しアワビ」(120㌘)を思い切って買った、6年前のことを思い出した。

   朝市通りの露店の場所は母親から嫁、娘へと代々受け継がれている。なかなか商売上手だ。別の店で1個700円のカラスミ(ボラの卵巣の塩漬け)を「2個ください」と言うと、おばあさんが「3個でおまけ」と差し出したので手に取ると、すかさず「100円おまけで2000円」と請求された。2個買ったので1個はおまけだと受け取ったのに、「100円まけるから3個買って」という意味だった。かなり高齢に見えたが、言葉の手練手管には舌を巻いて買ってしまった。

   朝市のおばさんたちから「亭主の一人や二人養えないようでは、一人前の女ではない」や「亭主の一人や二人養えない女は甲斐性なし」と聞いたことがある。冒頭の「能登のトト楽」を地で行く女たちではある。その活躍の場が消失したと思うと胸が痛む。

⇒6日(火)午後・金沢の天気   くもり時々あめ

★能登半島地震 「震度7の地」で見たこと感じたこと

★能登半島地震 「震度7の地」で見たこと感じたこと

   震度7を記録した能登半島の西端の志賀町香能(かのう)地区は小高い山の中にある=写真・上=。周囲にはレストランや牧場もあり、民家も点在している。外見を見る限り、建物の倒壊や屋根のめくれなどの被害もなく、道路などでの地割れも見られなかった。むしろ、香能から5㌔ほど離れ、震度6弱の揺れに見舞われた富来領家(とぎりょうけ)地区の方が被害は甚大と感じた=写真・中=。海沿いの平地で家並みが続く。両地点のこの違いは地盤の固さによるものなのか。富来領家地区のすぐそばには富来川が流れていて、地盤が柔らかかったことが被害拡大の要因なのだろうか。

   その富来領家地区では、仮設住宅の建設が進んでいた=写真・下=。いわゆる「トレーラーハウス」で、説明書を見ると、高さ4㍍、幅11㍍、奥行き3.4㍍、広さ37平方㍍の1LDKだ。浴室やトイレのほか、キッチンやエアコンも備え付けられている。水道などが整えば、早ければ今月下旬ごろ入居が可能になるようだ。

   志賀町ではトレーラーハウス22戸に加えて、プレハブ住宅77戸の準備が進んでいる。でも、まだまだ足りない。何しろ石川県のまとめ(2月1日付)では、志賀町での全壊・半壊・一部損傷の住宅は4749棟になる。そして、石川県全体では4万7904棟にも及ぶ。これに対し、馳県知事は先月23日の記者会見で、被災者向けの仮設住宅を3000戸、賃貸住宅を借り上げる「みなし仮設住宅」を3800戸、県内の公営住宅800戸、県外(富山、愛知両県や大阪府など)の公営住宅8000戸の計1万5600戸を3月末までに確保すると発表している。

   ただ、現実問題がある。震度6強の揺れに見舞われた輪島市や珠洲市の全域など、県内の4万490戸(今月1日付・県発表)でいまだに断水状態が続いている。仮設住宅の建設が進んだとしても、水道というライフラインが追いつくのかどうか。自宅が倒壊を免れた人でも風呂に入れず、トイレも流せない状態で、避難所から住まいに戻る妨げになっている現状がある。

   先日の馳知事の発言に違和感を感じた。BSフジ『プライムニュース』(2月2日)で、リモート出演した馳知事が、「大阪万博、ぜひやっていただきたいと思っております。それも身の丈に合ったカタチでやっていただきたい」と話していた。この発言に司会の反町キャスターもエッという表情を浮かべていたが、自身も同じだった。万博会場の建設と能登地震の復旧は今後、同時進行で進むことなる。そこで、当該の責任者である知事の言葉とすれば、「能登地震の復旧を最優先でお願いしたい」を冒頭に持ってくるべきだろう。震度7の地を訪れて感じたことだ。

⇒5日(月)夜・金沢の天気    くもり

☆能登半島地震 赤い糸『時を運ぶ船』は残った

☆能登半島地震 赤い糸『時を運ぶ船』は残った

   今回の大地震で半島の尖端、珠洲市は震度6強に見舞われた。先日(1月30日)同市を訪れた際にこの目で確かめておきたいところがあったが、時間がなかったことと、がけ崩れなどで通行止めとなっていてそれは叶わなかった。

   この目で確かめたかったこと、それは珠洲市で開催された奥能登国際芸術祭の作品だった。金沢市在住のアーティスト山本基氏の作品『記憶への回廊』(2021年制作)=写真・上=が倒壊したとメディア各社が報道していた。作品がある場所は、旧・保育所の施設。真っ青に塗装された壁、廊下、天井にドローイング(線画)が描かれ、活気と静謐(せいひつ)が交錯するような空間が演出されている。遊戯場には塩を素材にした立体アートが据えられ、天空への階段のようなイメージだ。途中で壊れたように見える部分は作者が意図的に初めから崩したもので、地震によるものではない。作品には10㌧もの塩が使われている。2023年5月5日に起きた震度6強の揺れには耐えたが、今回の地震では塩の作品が崩れたという(※写真は2022年8月23日に撮影)。

   塩田千春氏(日本/ドイツ)の作品『時を運ぶ船』=写真・下=は芸術祭の公式ガイドブックの表紙を飾るなどシンボル的な作品だ。この作品は2017年の第1回芸術祭で制作された。赤い毛糸は強烈なイメージで、作品を観賞するたびに人間の本能をくすぐるような感動を覚える。この作品は無事だったようだ(※写真は2023年8月23日に撮影)。

   珠洲市で展示されていた作品の多くはダメージを被った。メディアの報道によると、奥能登国際芸術祭の総合ディレクターである北川フラム氏は震災に関する支援を行う「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」を立ち上げた。アーティストやサポーターで構成する有志グループで、被災した人たちと協力しながら、同地の復興に寄与していくという。北川氏は述べている。「珠洲の人々と他地域の人々を結びつけるアート作品や施設の撤去、修繕、再建などを行い、珠洲に思いを寄せる人々の力を結集したいと考えます」(「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」公式サイト)。

   「ヤッサー」は珠洲の祭りの掛け声で、若い衆が力を合わせて巨大なキリコや曳山を動かすときに「ヤッサーヤッサー」と声を出して気持ちを一つにする。北川氏は芸術への想い、地域復興への願いを一つに込めて動き出そうとしている。

⇒4日(日)夜・金沢の天気   くもり

★能登半島地震 コウノトリは再び舞い降りるのか

★能登半島地震 コウノトリは再び舞い降りるのか

   震度7の揺れがあった志賀町富来地区を訪ねた(1月31日)。気象庁や国土地理院の分析によれば、能登半島西端から新潟・佐渡島近くの日本海まで長さ130-150㌔に達する断層が破壊されたとみられている。その半島西端の部分が富来地区にあたる。

           志賀町の全壊・半壊など家屋被害は4900棟におよび、その多くがこの富来地区での家屋だった。増穂浦海岸は、さくら貝が流れ着く観光名所として知られる。8月になれば30基の奉灯キリコが威勢よく担がれ冨木八朔祭礼が行われる。町の中を歩くと、本祭りで神輿が集う住吉神社の鳥居が砕け落ちていた=写真・上=。2007年3月25日の能登半島地震は震度7クラスの揺れだったが、石灯ろうが倒れるくらいで済んだ。しかし、今回倒壊した鳥居を見ると相当な揺れだったことが分かる。全壊の家も数多く、全壊は免れても窓ガラスが割れたり、屋根の瓦が崩れ落ちたりしている家は相当な数にのぼる。

    富来地区でさらに気になることがあり、山中に入った。同地区は国の特別天然記念物のコウノトリの営巣地としては日本で最北の地だ。去年5月、誕生したばかりの3羽のヒナを観察するため現地を訪れた。当地でのヒナの誕生は2年連続だった。気になるというのも、コウノトリの巣が地震で落ちたり、壊れたりしているのではないかと思ったからだ。
 
   現地に到着すると、電柱の上につくられた巣は無事にあった=写真左=。電柱は傾いてもおらず、巣も崩れてはいないようだった。ただ、よく見ると巣がかなり小さくなっている。巣の下を見ると、巣に使われていたであろう木の枝がかなり落ちている。地震の揺れで、落ちたのだろう。去年5月に撮影した様子=写真右=と比べると、巣の大きさは2分の1ほど。巣とすると半壊状態なのではないだろうか。
 
   自身はコウノトリの専門家ではないので、以下は憶測だ。ことしもコウノトリのつがいが営巣に来て、どのような営巣本能が働くのだろうか。巣が壊れているから別の場所に行こうとするのか、あるいは枝を足すなど修復してこの地で営巣を続けるのか。コノトリが再びこの地に舞い降りるのか気になった。
 
⇒3日(土)夜・金沢の天気   くもり

☆能登半島地震 「誰一人取り残さない」文化風土

☆能登半島地震 「誰一人取り残さない」文化風土

            災害下でも互いに助け合う能登の被災者の心意気を「能登はやさしや土まで」という言葉でこのブログ(1月27日付)で書いた。衆議院・参議院の本会議(1月30日)で岸田総理が施政方針演説の中で能登半島地震の対応について触れていた。「厳しい状況の中でも、なによりも素晴らしいのは、被災者の皆さん、また、支援に携わる皆さんの整然とした行動と『絆の力』です。発災直後の大混乱した状況は、皆さんの忍耐強い協力によって段々と落ち着きを取り戻しています。『能登はやさしや土までも』と言われる、外に優しく、内に強靱な能登の皆さんの底力に深く敬意を表します」

   この「能登はやさしや土まで」には奥深さがある。文献で出てくるのは、元禄9年(1696)に加賀藩の武士、浅加久敬が書いた日記『三日月の日記』。「されば・・・能登はやさしや土までも、とうたうも、これならんとおかし」。浅加は馬に乗って、石動山という山に上った。七曲がりという険しい山道を、能登の馬子(少年)は馬をなだめながら、そして自分も笑顔を絶やさずに一生懸命に上った。武士は馬にムチ打ちながら上るものだが、馬子が馬を励まし、やさしく接する姿に感心し、「能登はやさしや」という杵歌(労働歌)の言葉にたとえて日記に綴った。

   「能登はやさしや」に障がいを持った人たちへの気遣いも感じる。ユネスコ無形文化遺産にも登録されている能登の農耕儀礼『あえのこと』は、目が不自由な田の神様を食でもてなす行事だ=写真=。働き過ぎで眼精疲労がたたって失明した、あるいは稲穂で目を突いてしまったなど云われがある。目が不自由であるがゆえに、農家の人たちはその障がいに配慮して田の神に接する。座敷に案内する際に段差がある場合は介添えをし、供えた料理を一つ一つ口頭で説明する。じつに丁寧なもてなしだ。

   能登出身のパテシエ、辻口博啓氏から聞いた話だ。辻口氏の米粉を使ったスイーツは定評がある。当初、職人仲間から「スイーツは小麦粉でつくるもので、米粉は邪道だよ」と言われたそうだ。それでも米粉のスイーツにこだわったのは、小麦アレルギーのためにスイーツを食べたくても食べれない人が大勢いること気が付いたからだ。高齢者やあごに障害があり、噛むことができない人たちのために、口の中で溶ける「ナノチョコレ-ト」もつくっている。

   能登には「誰一人取り残さない」という心意気がある。まさにSDGsの精神風土ではないだろうか。「能登はやさしや土までも」からそんなことを感じ取る。

⇒2日(金)夜・金沢の天気    くもり

★能登半島地震 カーボンニュートラルな生業の再構築

★能登半島地震 カーボンニュートラルな生業の再構築

          元日を襲った最大震度7の揺れからひと月たった。犠牲者は240人に増え、重軽傷者は1180人、行方不明者が15人いる。地元の1次避難所には8230人、金沢などの場所に移動した避難者を含めれば1万4000人にもなる。全壊や半壊の住宅被害は4万7900棟におよび、道路や水道といったインフラやライフラインが壊滅的な被害を受けた(石川県危機管理監室まとめ・2月1日午後2時現在)。冬の冷え込みもきつく、被災地では過酷な状況が続いている。

   前回ブログの続き。珠洲市に行き、山の中で製炭業を営む大野長一郎氏を訪ねた。茶道用の炭である「菊炭」を生産する県内では唯一の業者でもある。今回の地震で稼働していた3つの炭焼き窯が全壊した=写真・上=。2022年6月19日の震度6弱の揺れで窯の一部がひび割れ、工場の天井が一部壊れた。2023年5月5日の震度6強では窯の一部が崩れた。支援者の力添えを得ながら修復してようやく炭を焼き始め、品質にもメドがたちこれからというときに今回全壊となった。

   大野氏の茶道用の炭=写真・下=はススが出ず、長く燃え、燃え姿がいいと評価が高く、金沢をはじめ全国から茶人が炭窯を見学に訪れている。日本の茶道文化の一端を担えてうれしいと話していただけに、窯の全壊は相当ショックだったようだ。

   窯をじっと見つめる大野氏の口から「でも、やめませんよ」の言葉が出た。1971年に父親が創業した製炭業を2003年に引き継いだ。茶炭に使うクヌギの木は炭焼き工場の近くの山でボランティアを募り植林した。そして、二酸化炭素を増やさない「カーボンニュートラルな生業(なりわい)」を目指すことを決意する。

   ライフサイクルアセスメント(LCA=環境影響評価)の手法を用い、過去6年間の製造、輸送、販売、使用、廃棄、再利用までの各段階における環境負荷を検証した。事業所の帳簿をひっくり返しガソリンなどの購入量を計算。2年かけて二酸化炭素の排出量の収支計算をはじき出した。また、環境ラベリング制度であるカーボンフットプリントを用いたCO²排出・固定量の可視化による、木炭の環境的な付加価値化の可能性などもとことん探った。

   そして得た結論は、生産する木炭を2割以上を不燃焼利用の製品にすれば、排出するCO² 量を相殺できるということが明らかになった。そこで商品生産の方針を決め、生産した炭を床下の吸湿材や、土壌改良材として商品化することにした。この生業のポリシーを自らの人生として実践していくことを決意している。

   炭窯をどのように再構築していくかまだ思案中とのことだった。従来の炭窯ではなく、小規模になるが鉄製の窯もこれからの多品質の生産には欠かせないと具合的なアイデアも語った。「この土地で炭焼きを続ける。この際、窯も見直して持続可能な方法で続けたい」との前向きな言葉に、自身も励まされた思いだった。

⇒1日(木)夜・金沢の天気    くもり

☆能登半島地震 震源地の珠洲は津波と土砂崩れ複合被害

☆能登半島地震 震源地の珠洲は津波と土砂崩れ複合被害

   能登半島地震の震源地は半島の尖端部分の珠洲市。きょうその珠洲市に所用があり一日がかりで往復した。これまで金沢の自宅から市役所までは車で1時間30分ほどだが、今回は4時間かかった。幹線道路「のと里山海道」を北上すると崩落の箇所などがあり、う回路を経由して走行することになる。そのう回路には警察のパトカ-や自衛隊のトラック、救急車、支援物資を運ぶ車が列をなしていてゆっくり運転が続く。(※NHK図=✖が震源とされる珠洲市大谷・馬緤地区)

   珠洲市には去年秋の「奥能登国際芸術祭2023」に何度か訪れている。元旦の震度6強に見舞われ、街並みは変わり果てた。石川県危機管理監室がまとめた被害状況(30日午後2時現在)によると、犠牲者は101人、重軽傷者249人、全壊2092棟、半壊1036棟だ。同市は約6000世帯なので、半数超えが全半壊となった。2022年6月19日に震度6弱、2023年5月5日に震度6強の揺れがあり一部地域に損壊があったものの、それでも芸術祭は実施できた。ところが今回はさらに幅広い場所で被害が出た。海岸沿いでは4㍍の津波による被害、そして山沿いでは土砂崩れとまさに複合被害だ。(※写真・上=地震と土砂崩れで崩壊した住宅)

   珠洲市の観光名所として知られる見附島も変わり果てていた。そのカタチから通称「軍艦島」と呼ばれていたが、2022年と2023年、そして今回と度重なる揺れで、勇壮な面影は変化した。(※写真・下=津波で海岸に打ち上げられた漁船、地震で崩れた見附島)

   震源地にもっとも近いとされる同市の大谷・馬緤(まつなぎ)地区。所用の帰りにここを通って帰ろうとしたが、土砂崩れなどで通行止めとなっていた。馬緤という地名には伝説がある。壇ノ浦の戦い(1185年)で名を上げた源義経が兄・頼朝との仲違いで京を追われ、奥州・平泉に逃げ延びる途中で一行がここで滞在した。そのため馬をここで繋いだので、「マツナギ」という地名になったという。大谷地区にも平家伝説があり、歴史と伝統がある地区でもある。ふるさとを離れる避難者の想いはいかほどか。

⇒30日(火)夜・金沢の天気   くもり

★能登半島地震  復旧に向けた動きも徐々に

★能登半島地震  復旧に向けた動きも徐々に

   能登半島地震の発生からきょうで4週間が経った。半島の中ほどに位置し、人口4万7千人と能登で最も大きな自治体である七尾市を訪ねた。同市での最大の震度は6強、中心市街地は6弱の揺れに見舞われ、犠牲者は5人、住宅や店舗の全壊・半壊など被害は1万550棟に及んだ。

   中心街の老舗が並ぶ一本杉商店街を歩くと無残にも倒壊した店も。創業130年の和ろうそくの店で知られる「高澤ろうそく」は、建物が国の有形文化財に登録されているが、今回の地震で軒先が倒壊し、母屋も傾くなど大きな被害を受けた=写真・上=。同店はそれにもめげず、フランス・パリで開かれた世界最大規模のインテリアとデザイン関連の国際見本市「メゾン・エ・オブジェ」(今月18-22日)に出品し注目を集めたようだ(29日付・NHKニュースWeb版)。復興へのともし火のようなニュースだ。

   七尾市の中心街から北側にある和倉温泉に車で移動した。途中でJR七尾線の線路の修復工事が行われていた=写真・中=。金沢駅から七尾駅は今月22日に運転を再開したものの、七尾駅から和倉温泉駅の間は終日運転を取り止めている。レールのゆがみや架線柱が傾斜している箇所もあり、JRは2月中旬の運転再開を目指して復旧作業を進めている。

   和倉温泉街に入ると、いつものにぎわいはなく、閑散としていた。開湯1200年の歴史がある和倉温泉。建物の損壊などで22の旅館すべてが休業に追い込まれている。「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」(旅行新聞社主催)で通算40回総合1位に輝くなど、「おもてなし日本一」の旅館として知られる「加賀屋」でも入り口に立ち入り禁止の規制線がはられていた=写真・下=。入り口には歪んでいるところもあり、建物を眺めると外壁の一部が落ちてる。内部は揺れで食器なども相当に散乱したに違いない。

   ただ、復旧に向けた動きも始まる。七尾市では1万5100戸が断水となっていたが、水道の送水は順次復旧しており、和倉温泉地区への送水は3月中頃の見通しだ(28日付・七尾市役所公式サイト「水道 県・自エリア別一覧及び復旧状況確認表」)。電気はすでに復旧しており、水道の復旧で温泉街に一日も早く活気が戻ることを祈る。

⇒29日(月)夜・金沢の天気   くもり