#コラム

☆能登半島地震 地震と津波をセットで考える心構え

☆能登半島地震 地震と津波をセットで考える心構え

  能登半島地震は地震、火災、そして津波の複合災害の現場でもある。珠洲市の海岸沿いには津波が押し寄せた。メディア各社の報道は、マグニチュード7.6の地震発生後まもなくして3㍍ほどの高さの波が来たと住民の話を伝えている。きのう(16日)津波に見舞われた被災地をめぐった。

  海岸沿いにある珠洲市飯田町のショッピングセンター「シーサイド」=写真・上=。店舗は閉じられたままだった。食品スーパーや書店など10店舗が入る2階建てのショッピングセンターで、元旦は福袋を買い求める客などが訪れていた。強烈な揺れがあり、従業員たちが「津波が来ます」と叫び、客を誘導して高台にある小学校に避難した。揺れから10分ほどして、70㌢ほどの津波が1階の店舗に流れ込んできた。従業員がいち早く自発的に動いたことから人的被害は出なかった。シーサイドでは年2回、避難訓練を実施していた。

  観光名所である見附島を一望する同市宝立町も津波の被害が大きかった。ホテル「珠洲温泉のとじ荘」は建物の被害のほか、水道などのライフラインが復旧しておらず休業が続いている。ホテル近くの海岸には津波で漁船が陸に打ち上げられていた。そして、見附島も変わり果てた。その勇壮なカタチから通称「軍艦島」と呼ばれていたが、2023年5月5日の震度6強、そして今回と度重なる揺れで「難破船」のような朽ちた姿になった。

  ホテル近くの住宅地では波をかぶり倒壊した2階建ての家屋があった。そして、道路では突き上げているマンホールがいくつもあり、中には1㍍余りの高さのものもあった=写真・中=。アスファルトの道路だが、砂が覆っていた。おそらく津波で運ばれてきた砂、そして液状化現象で地下から噴き出した砂が混在しているようにも思えた。マンホールは道路下の下水管とつながっている。液状化で水分を多く含んだ地盤が激しい揺れで流動化したことでマンホールが突き上がったのかもしれない。下水管の損傷も相当なものだろうと憶測した。

  珠洲市の海岸沿いの道路を車で走ると、「想定津波高」という電柱看板が目に付く。中には「想定津波高 20.0m以上」もある=写真・下=。同市では2018年1月に「津波ハザードマップ」を改訂した際にリスクがある地域への周知の意味を込めて電柱看板で表記した。石川県庁がまとめた『石川県災異誌』(1993年版)によると、1833年12月7日に新潟沖を震源とする大きな津波があり、珠洲などで流出家屋が345戸あり、死者は約100人に上ったとされる。1964年の新潟地震や1983年の日本海中部地震、1993年の北海道南西沖地震などでも珠洲などに津波が押し寄せている。

  半島の尖端という立地では地震と津波をセットで考える日ごろの心構えが必要なのだろう。シーサイド従業員の率先した避難誘導や「想定津波高」の電柱看板からそんなことを学んだ。

⇒17日(日)夜・金沢の天気     くもり

★能登半島地震 「震災復興モデル」熊本からのメッセージ

★能登半島地震 「震災復興モデル」熊本からのメッセージ

        2016年4月14日と16日に震度7の揺れに2度見舞われた熊本地震。災害関連死を含む270人余りが死亡し、19万棟以上の建物が全半壊するなどの被害が出た。震災から半年後の10月8日に熊本市など被災地を訪ねた。かろうじて「一本足の石垣」で支えられた熊本城の「飯田丸五階櫓(やぐら)」を見に行った。ところが、石垣が崩れるなどの恐れから城の大部分は立ち入り禁止区域になっていて、見学することはできなかった。櫓の重さは35㌧で、震災後しばらくはその半分の重量を一本足の石垣が支えていた=写真・上、熊本市役所公式サイトより=。飯田丸五階櫓は石垣部分の積み直しが終わったものの、熊本城の復旧工事は2037年度まで続く。

  この熊本地震に当時から対応した熊本市の大西一史市長がその教訓を伝えようときのう(14日)珠洲市の泉谷満寿裕市長を表敬訪問した(14日付・NHKニュース)。大西市長は「熊本地震から8年となり復興は進んでいる。状況は全く同じではないが、必ず復興はできる」と激励した。また、「子どもたちの生活が戻ると、大人の生活も戻りやすくなり復興が進んでいく。断水が夏場まで続くと衛生環境も悪化すると思うので、それまでに子どもたちの生活を取り戻すことが重要だ」などとアドバイスした。訪問のあと、大西市長は「珠洲市は相当苦しい状況だと感じる。今後も中長期的な支援が必要になってくるので、全国市長会に協力を呼びかけながら支援を続けたい」と述べた(同)。 

  大西市長が「必ず復興はできる」と励ましたように、熊本は復興に向けて突進した。被災地ではいち早く復興計画案を打ち出し、例えば益城町では市街地の北側に新たに「住宅エリア」を、熊本空港南側には新たな「産業集積拠点」などを設けるとビジョンを提示した。そして、同じ被災地の菊陽町は、世界の最先端半導体生産の圧倒的シェアを占める台湾積体電路製造(TSMC)の熊本工場を誘致に成功し、先月24日に稼働が始まった。(※写真・下は、左から泉谷珠洲市長を激励に訪れた大西熊本市長=14日付・NHKニュース)

  言葉で「復興」「復旧」「再生」は簡単だが、それを実施する行政的な手続き、復興政策の策定には時間がかかる。時間と戦いながら丁寧な行政手続きを進め、復興ビジョンを着実に実現化していく。「一本足の石垣」のギリギリから生き残りをかけ、TSMC工場の誘致へと展開する被災地・熊本は「震災復興のモデル」ではないだろうか。

⇒15日(金)夜・金沢の天気    はれ

☆能登半島地震 自民裏金を被災地に寄付するのか

☆能登半島地震 自民裏金を被災地に寄付するのか

  寄付は善意で賄われるものだが、政治の駆け引きに使うなと言いたくなるニュースだ。共同通信Web版(13日付)によると、自民党は派閥の政治資金パーティー裏金事件をめぐり、議員ら85人が受け取った還流資金の相当額を寄付する方向で検討に入った。能登半島地震の被災地支援に充てる案が浮上している。政治資金収支報告書に記載せず裏金化したのは2018年からの5年間で総額約5億7949万円に上る。

  いわゆるキックバック(還流資金)は税務上は「雑所得」であって、個人所得として納税しないのはまさに脱税行為だろう。税金の使い道を決める国会議員が税逃れをしてきたことにこの裏金事件の根深さがある。

  きょう午前10時からの参院政治倫理審査会がNHKで生中継されていた。政治資金収支報告書への不記載が1542万円とされる世耕前参院幹事長が弁明に立ち述べていた。「問題となっている還付金は、事務所に現金で渡され、現金のまま管理・運用され、収支報告書の簿外での管理であったため、私自身のチェックに引っ掛かることがなかった。還付金を受け取っていたことを、長らく把握できなかったことは管理・監督が不十分であったとのそしりは免れない」

  こうした自覚があるのなら、自民党として裏金事件にしっかりけじめをつけるべきではないか。まず、関係した議員に脱税した分を納税させ、その議員に対して処分を下す。それを行ってからの寄付ならばそれほど問題視はされないかもしれない。それをせずに、政治の駆け引きのように被災地支援という名目での寄付をすることで済まそうとすれば、問題の本質を「善意」で覆い隠す、まさに「偽善」のそしりは免れないだろう。

  そして、能登の人たちはどう感じるだろうか。「自民党の裏金で行われた震災復興」というイメージがつくことを嫌がるのではないか。能登の放言で「だらくさい」がある。割に合わない、理不尽な、という意味で使う。「だらくさい金もらってどうする」と能登の人たちは戸惑うに違いない。(※写真・上は国会議事堂、写真・下は自民党の政治資金パーティー裏金事件を伝える14日付の紙面)

⇒14日(木)夜・金沢の天気    はれ時々くもり

★能登半島地震 危機に瀕する観光、一次産業、伝統工芸

★能登半島地震 危機に瀕する観光、一次産業、伝統工芸

  元旦の地震が能登の経済に与える影響は計り知れない。その大きな一つは観光産業だろう。七尾市の和倉温泉は年間宿泊客数が90 万人とされるが、震災で22の旅館(収容人数6600人)すべてが休業に追い込まれている。元湯は復活したものの、断水が続いていて旅館営業の再開には困難な状況が続いている。

  和倉温泉観光協会の推計によると、1月と2月で7万7000人の予約が入っていたが、震災ですべてキャンセルとなり、これだけで20億円の売上損失となった。さらに、旅館や温泉施設などの建物・施設損害などで1000億円以上の被害が出ている。(※写真・上は、液状化現象で盛り上がった和倉温泉街の歩道)

  農林漁業などの第一次産業にも影響が大きい。農水省によると、石川県内の69漁港のうち60港が損壊や地盤隆起の被害を受けた。転覆や沈没、座礁などの被害を受けた漁船は230隻以上。荷さばきなどを行う水産業共同利用施設や漁業用施設は50カ所以上で損壊が確認された。ことしの冬はブリが豊漁で、地震後の1月10日に七尾市で、11日には能登町でブリの定置網漁が再開された。しかし、地震で製氷機が破損し、競り場も壊れ、水道などのインフラ整備が追い付かず、流通が一部滞った。

  200隻の漁船が湾内の海底の隆起で船が出せない状態だった輪島漁港では湾内の底ざらえをする浚渫(しゅんせつ)作業が行われているが、まだ漁の再開のめどはたっていない。本来なら、ノドグロやアマダイ、メバルのシーズンだ。同じ輪島市門前町の鹿磯漁港では海底が最大4㍍隆起して港そのものが使えなくなっている=写真・中=。このほか隆起があった3市町(輪島市、珠洲市、志賀町)の22漁港の漁協組合員は2640人、年間漁獲高は69億円(2022年実績)になる。そして、農業も水田の耕作時期を迎えるが、ひび割れが入った田んぼが目に付く。

  伝統産業の輪島塗も苦境に陥っている。輪島市は大規模な火災に見舞われ、国土交通省の発表(1月15日付)によると、焼失面積約5万800平方㍍、焼失家屋約300棟におよぶ。輪島塗は漆器の代名詞にもなっている。職人技によってその作業工程が積み上げられていく。木地、下地、研ぎ、上塗り、蒔絵といった分業体制で一つの漆器がつくられる。ただ、同じテーブルで作業をするわけではなく、それそれが工房を持っている場合が多い。火災と震災でそのかなりの工房が被災した。さらに、1000人ともいわれる職人の多くが避難所などに身を寄せている。(※写真・下は、輪島朝市通りに軒を並べていた漆器販売店など商店が火災で焼失した)

  輪島塗の作製は再開できるのだろうか。作業をする場と職人技に欠かせない道具(蒔絵の筆など)の確保が難しい。バルブ経済絶頂のころは年間生産額180億円(1991年)もあったが、このところ28億円に落ち込んでいる(令和3年版輪島市統計書)。かつて、「ジャパン(japan)は漆器、チャイナ(china)は陶磁器」と習った。日本を代表する伝統工芸、その輪島塗がいま危機に瀕している。

⇒13日(水)夜・金沢の天気   くもり時々あめ

☆能登半島地震 風力発電止まる、再稼働めど立たず

☆能登半島地震 風力発電止まる、再稼働めど立たず

  日本海に突き出た能登半島では風が絶え間なく流れる。秋から冬にかけて強く冷たい季節風が続き、春から夏にかけては沖から生暖かい風が吹く。この生暖かい風のことを能登では「あいの風」や「あえの風」と言ったりする。車で走行していて、能登の絶え間ない風を意識するのは風力発電かもしれない。能登には長さ30㍍クラスのブレイド(羽根)の風力発電が73基もあり、見慣れた風景でもある。ところが、元旦の地震以降、風車がストップしている。(※写真・上は能登半島の尖端、珠洲市に立地する風力発電=同市提供)

  地元メディア各社の報道によると、震度7の大きな揺れによって、回線が切れて電気が共有できなくなったほか、安全装置が作動して自動停止するなどして能登にある風力発電73基すべてが停止した。中には、ブイレイドそのものが折れるなど損傷したものが2基ある(今月10日付・北陸中日新聞)。

  震災から70日余り経ち、運転再開できたのは志賀町にある日本海発電(本社・富山市)が所有する9基のみだ(同)。ではなぜ再稼働が進まないのだろうか。以下は憶測だ。メンテナンスを施して順次稼働させればよいのではと考えるが、風車は山地にあり、たどり着くまでの山の道路に亀裂ができたり、土砂崩れなどで寸断されているのだろう。風力発電が立地する場所は珠洲市が30基、輪島市が11基、志賀町が22基、七尾市が10基で、いずれも震度6弱以上の揺れがあった地域だ。(※写真・下は、半島中ほど志賀町にある日本海発電の風車。1月19日の撮影時では停止していたが、2月に再稼働した)

  能登半島では今後さらに風力発電の増設が計画されていて、13事業・181基について環境アセスメントの手続きが進んでいる。風力発電は再生可能エネルギーのシンボルでもあり、珠洲市で現地見学をさせてもらったことがある。風速3㍍でブレイドが回りはじめ、風速13㍍/秒で最高出力1500KWが出る。半島の沿岸部、特に北側と西側は年間の平均風速が6㍍/秒を超え、一部には平均8㍍/秒の強風が吹く場所もあり、風力発電には最適の立地条件にある、と説明を受けた。

  今回能登での風力発電の立地に地震というネックがあることが露呈した。果たしてこのまま181基の立地計画が進むのか注目したい。

⇒12日(火)夜・金沢の天気    くもり時々あめ

★能登半島地震 能登の特色「九六の家」は解体にも時間

★能登半島地震 能登の特色「九六の家」は解体にも時間

  さきほど午後4時53分に能登でマグニチュード3.4、震度1の揺れがあった。きょうで3度目となる(気象庁公式サイト「地震情報」)。揺れが収まらない中ではあるものの、被災した家々では修繕の動きが始まっている。きのう立ち寄った穴水町で屋根の修繕が行われていた=写真・上=。また、別の場所では半壊となった家屋の解体作業が行われていた。

  今回の地震では石川県全体で全半壊・一部損壊が7万9700棟にも及んでいる(3月8日現在・石川県危機管理監室まとめ)。このうち全半壊した家屋については所有者の申請に基づいて、自治体が費用を負担して解体ならびに撤去をする。いわゆる「公費解体」で、県では2万2000棟が対象になると推計している。これを来年の秋、2025年10月までに処理するとの流れだ。ただ、ことは予定通り運ぶだろうか。

  2万2000棟の解体で出る災害廃棄物は244万㌧にも及ぶ。問題は解体する数の多さに見合う業者を確保できるのだろうか。解体業者でつくる石川県構造物解体協会(金沢市)は富山、福井、新潟各県の業者にも協力を求め、2500人規模の態勢で作業にあたることを目指しているという(3月1日付・日経新聞)。244万㌧の災害廃棄物は石川県で出るごみの7年分に相当するとされる。量的にそう簡単ではない。

  ことが予定通りとならないのではと懸念するもう一つの理由は能登の家の特色にある、家の大きさだ。とくに、奥能登の家は「九六の家」と呼ばれる、間口9間(約16㍍)奥行き6間(約11㍍)の大きな家が多い=写真・下、能登町で1月5日撮影=。さらに、その中から屋内に残る家財などを手作業で分類することになり、家人が立ち会いするとなると時間がかかることになるだろう。思い出の品や仏壇、そして先祖代々伝わる逸品、いわゆる「家宝」が残されている場合はそう簡単ではない。通常の解体作業よりさらに時間がかかるのではないだろうか。

⇒11日(月)夕・金沢の天気   くもり

☆能登半島地震 あれから13年、復興が見通せない気仙沼

☆能登半島地震 あれから13年、復興が見通せない気仙沼

  被災地の復旧は順調に進むのだろうか。地元メディア各社の報道によると、一部区間で運休が続いている「のと鉄道」は来月6日に全線再開となる。また、ほぼ全域で断水が続いている珠洲市ではきょうから市内中心部の一部110戸で上下水道が復旧する見通し。ただ、断水は4650戸で及んでいて、復旧率は2%余りにとどまる。

  あす「3・11」東日本大地震から13年となる。宮城県気仙沼市の被災地に足を運んだのは、2ヵ月後の5月11日だった。当時、街には海の饐(す)えたような匂いが立ち込めていた。岸壁付近では津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があり、津波のすさまじさを実感した=写真・上=。そして、2015年2月10日、再び気仙沼を訪れた。巻き網漁船はすでに解体されていたが、最初に見た街並みの記憶とそう違わなかった。4年経っても街ではガレキの処理が行われていて、復旧・復興はそう簡単なものではないことをこの時に初めて気づいた。

  きょうの読売新聞は、東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島3県の沿岸と東電福島第一原発周辺の42市町村の首長に対して行ったアンケート結果を掲載している。それによると、国の復興計画では2025年度までに復興工事が完了することになっているが、12人の首長が防潮堤や道路整備などハード面の工事について「完了しない」と回答し、うち8人が「完了時期が見通せない」と回答している。この8人の中には気仙沼市も入っていて、記事を読んで「やはり遅れているのか」と少々ショックだった。気仙沼市の場合は防潮堤の整備事業が遅れている。遅れの理由について、コロナ禍による人手不足と資材高騰などの影響があると、宮城県の担当者の説明を記事で紹介している。  

  元日の能登半島地震後に初めて輪島市の被災地を見たのは2月5日だった。1ヵ月以上経ってはいたものの、焼けこげた臭いがした。トラロープの結界を超えて、朝市通りに入ると焦土と化した光景が目に入って来た。店舗や住宅など200棟が焼けて、焦土と化していた。中心部の河井町の通りには輪島塗の製造販売会社の7階建てのビルが転倒し、横たわっていた=写真・下=。

  この横倒しになったビルは、陸に打ち上げられた気仙沼の漁船のように能登半島地震の「シンボル」の一つになるのかもしれない。と同時に、気仙沼と同じように、復旧・復興には相当な年月を要することになるのではと考え込んだ。というのも人出不足と資材高騰は今後さらに深刻になっていくように思えるからだ。

⇒10日(日)夜・金沢の天気   くもり時々あめ

★能登半島地震 「上善水の如し」加賀の酒蔵が能登の応援酒

★能登半島地震 「上善水の如し」加賀の酒蔵が能登の応援酒

  日本酒を評するときに、「上善水の如し」という言葉が使われる。理想とする酒は水のようにすっきりしていて飲みやすいという意味だ。きのう(7日)近所のスーパーに行くと、入り口に「酒蔵復興応援酒」という棚があった=写真・上=。石川県白山市の酒蔵が地震で倒壊した能登の酒蔵を応援するためにコラボレーションで造った酒を販売するコーナーだ。酒造メーカーはそれぞれつば競り合いを演じているとの印象があったので、コラボは意外だった。 

  白山市はいわゆる加賀であり、石川県民にとっては加賀の酒蔵が能登の酒蔵を応援して造った稀な酒だ。加賀の酒蔵は「車多酒造」、能登の酒蔵は珠洲市の「桜田酒造」と能登町の「数馬酒造」。3つの酒蔵の酒は金沢に住んでいてもなじみがあり、車多は『天狗舞』、桜田は『初桜』と『大慶』、数馬は『竹葉』のブランド酒で知られ、それぞれにファンが多い。個人的な趣向だが、冬の季節だと能登の酒はズワイガニのぴっちりと締まった身や味噌(内臓)にしっくりなじで実に相性がいい。

  応援酒の棚には車多酒造の添書が貼られていた。「能登半島地震で、桜田酒造は一瞬で全滅しました。蔵元杜氏の桜田博克氏は、一面に広がる瓦礫の中から一歩ずつ酒蔵の再興を目指しています。このお酒は、奇跡的に残った初桜本醸造と天狗舞をブレンドしたものです。利益は桜田酒造の復興資金となります。ぜひ、初桜を応援してください。なお、このお酒は桜田氏が味わいの監修を行いました。能登に想いをはせお楽しみください」(一部略)と。同様に竹葉の添書もある。(写真・下は、酒蔵が倒壊した珠洲市の桜田酒造=「令和6年能登半島地震 酒蔵支援プロジェクト」公式サイトより)

  その添書からは、同業他社ではあるものの、さらりと手を差し延べる気持ちが伝わってくる。そしてうれしいことに、その添書を読んだ買い物客が次々と初桜や竹葉を購入していたことだ。もちろん自身も買った。上善水の如く穏やかに気持ちが流れて消費者の心も癒やす。酒蔵の連携にそんなことを感じた。

⇒8日(金)午前・金沢の天気   くもり時々はれ 

☆能登半島地震 工夫凝らした仮設住宅あれこれ

☆能登半島地震 工夫凝らした仮設住宅あれこれ

  仮設住宅が各地で造られている。被害が大きかった輪島市、珠洲市、能登町、穴水町、七尾市、羽咋市、志賀町、そして液状化現象に見舞われた内灘町の7市町であわせて4600戸におよぶ。

     今月4日に輪島市の千枚田の被災状況を見に行くため国道249号を車で走っていると、目的地の手前付近で巨大な白いキノコのようなものが見えてきた=写真・上=。周囲には人の気配はなかった。おそらく災害支援ボランティアの宿泊施設で、作業のため出払っているのかもしれない、と勝手に想像した。後でネットで調べると、仮設住宅だった。「インスタントハウス」との名称で、名古屋工業大学の教授が考案した製品。防炎シートを空気で膨らませ、1棟あたり2時間で完成するという。   

  直径およそ5㍍、高さ4㍍ほどのいわゆる簡易住宅。中の広さは15平方㍍(4.5坪ほど)ほどで、5人から8人がカーペットを敷いて寝転がったりできるスペースになっている。中は断熱材が施してあり、寒さはしのげるようだ。住宅の中を見学できなかったが、それにしてもカタチが面白い。

  志賀町富来地区で設置されている仮設住宅は「トレーラーハウス」と呼ばれ、リゾート地の別荘のような外観が特徴=写真・中=。近くにはスーパ-マーケットや薬局などもあり、とても便利な場所だ。ネットで調べると、トレーラーハウスの高さは4㍍、幅11㍍、奥行き3.4㍍の1LDK。洋室やキッチン、浴室、トイレを備え、1戸当たり4人から6人が生活できるという。家賃は無料だが、電気・上下水道料金などは各自負担となる(志賀町役場公式サイト)。入居申請は227戸分あり、町役場としては全員が入居できるよう施工主の県庁と調整している。

  そして、完成したらぜひ見てみたい仮設住宅がある。このブログ(2月18日付)で取り上げた、世界的な建築家で知られる坂茂(ばん・しげる)氏の設計した仮設住宅。珠洲市で着工している木造2階建てで、6棟で計90戸が建つ。小さな棒状の木材を差し込んでつなげる「DLT材」を使用する。DLT材を積み上げ、箱形のユニットを形成し、これを組み合わせて6、9、12坪の住戸をつくる。内装は加工せずに木のぬくもりを生かすという。その設計構造をこの目で見てみたい。(※写真・下は、坂茂建築設計公式サイト「令和6年能登半島地震 被災地支援プロジェクト」より)

  これらのユニークな仮設住宅に入居できる条件は、住宅が全壊あるいは半壊以上でやむを得ず住宅を解体する人などに限られる。仮設住宅に入居してもホッとするのは束の間かもしれない。損壊した住宅の撤去と再構築、今後の人生や家族設計などさまざま難題に取り組むことになるのだろう。

⇒7日(木)午前・金沢の天気    くもり

★能登半島地震 仮設住宅の設置で救われるのか「消滅集落」

★能登半島地震 仮設住宅の設置で救われるのか「消滅集落」

  奥能登の輪島市町野町の金蔵(かなくら)地区は田園と集落がまるで絵に描いたように広がる里山で知られる=写真=。2008年9月に第16回アジア太平洋環境会議(エコアジア、名古屋市)に出席した生物多様性条約事務局長のアフメド・ジョグラ氏がこの地に立ち寄り、棚田で稲刈りをする人々の姿を見て、「日本の里山の精神がここに生きている」と述べた。金蔵の里山にクロサンショウウオなど貴重な生物が生息しており、自然と共生し生きる人々の姿に感動したのだった。2009年には「にほんの里100選」に選定されている。

  自身が大学教員だったころ、何度か学生や留学生たちを連れて能登をスタディ・ツアーで訪れ、金蔵に立ち寄った。人気だったのが、昼食に地域の人たちが用意してくれた「ジビエカレー」だった。ジビエはイノシシ肉で、地域の実情について話していただいた世話役の人は「金蔵の人口が減るごとに反比例してイノシシが増えている」と苦笑いしていたのを覚えている。2014年のツアーのときに聞いた話では、人口は130人だった。2009年の「にほんの里100選」に選ばれたときは160人と聞いていた。

  そして、再び金蔵の人口のことが話題になった。地域メディア各社の報道によると、金蔵地区の区長が今月4日に輪島市役所を訪れ、同地区内に仮設住宅を設置する申し入れた。要望書などによると、金蔵では地震前に53世帯95人が暮らしていたが、現在はそのうちの70人が金沢市などへ避難し、現在は25人に減少している。避難した多くの世帯は地元に仮設住宅ができれば金蔵に戻る意向を示していると区長は説明した。

  同地区では地震で3割近くの家屋が損傷し、市街地へ向かう道路が寸断されている。このため支援物資は届かず、受け取りに車を1時間走らせることになる。こうした不便な生活が長引く中、人々は集落から離れている。

  もしここで市役所が仮設住宅設置の要望を受け入れなければ、「集落消滅」は現実に起きるのではないか。アフメド・ジョグラ氏がこの地の里山の風景を絶賛してから16年目になる。

⇒6日(水)夜・金沢の天気   くもり