#コラム

☆床の間の生命感

☆床の間の生命感

  古色蒼然とした床の間をいきいきとしたオブジェの空間に変えたのは一葉の植物だった。

   私のオフィスである金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」は築280年の古民家を再生したものだ。黒光りする柱や梁(はり)に風格というものを感じている。以前にもこの「自在コラム」で触れたが、この柱や梁(はり)を眺めていると、イギリス大英博物館の名誉日本部長、ヴィクター・ハリス氏のことを思い出す。去年7月9日だった。ハリス氏は日本の刀剣に造詣が深く、宮本武蔵の「五輪書」を初めて英訳した人だ。日本語は達者である。年季の入ったこの建物の梁や柱を眺めて、「この家は何年たつの?えっ280年、そりゃ偉いね。大英博物館は250年だからその30年も先輩だね」と、ハリス氏は黒光りする柱に向かって軽くおじぎをした。古きもの、価値あるもを見抜く目利きのスペシャリストの所作というものを垣間見た思いだった。

   きょうの話はここからだ。私はハリス氏が講演した1階奥の間の床の間になぜか据わりの悪さを感じていた。掛け軸はかかっているが、どこか古めかしく、山水画の絵柄もいまひとつ雰囲気とマッチしない。床の間全体が古色蒼然とした感じなのだ。

   そこで一枚の葉っぱを置いてみることにした。するとどうだろう、床の間に命が吹き込まれたかのようにいきいきとした空間になったではないか。床の間に緑の配色は似合う。さらに、葉から出ている2本の新芽が生命の躍動感というものを感じさせるのである。見向きもされないデッドスペースだった床の間が生命感あふれるオブジェの空間に様変わりした瞬間だった。

   周囲のスタッフに尋ねると、この葉はセイロンベンケイソウ、沖縄では子宝草とも言う。あるいは、葉から芽が出ているのでハカラメとも呼ばれるそうだ。底浅の皿に水をためて葉を浮かべておくと発芽する。手のかからない観葉植物だ。葉がこれ以上大きいと床の間のバランスが崩れ見栄えはしないだろう。そして新芽が出たものこそ価値がある。

   一枚の葉で人の感動が生み出せる。人の造形など自然のそれにはかなわない。

⇒27日(火)午後・金沢の天気  くもり

★バス代ランキング上位の理由

★バス代ランキング上位の理由

  ニュースの面白さというのは記事の長さだけでは測れない。そのニュースのバックグラウンドを読み手が理解できていれば、長短にかかわらず、「なるほど」とうなずけるものだ。書き手はそこまで意識して書いているのか、と逆に推測したりする。

   きょう25日の朝日新聞第2石川面の記事。「なんでもランキング」で1世帯当たりの年間支出額の統計(県庁所在地と政令指定都市など)から、タクシー代とバス代のランキングを上げていて、そのトップ(1位)がともに長崎市であるという解説記事を読んだ。で、そのランキングトップの理由は、坂道が多い街の地形による。長崎市はことし3月にプライベートで旅行をしたので、実感としてうなずける。坂道の街なので自転車の購入額は、長崎市が下から2番目という裏づけ記事も好感が持てる。

   少々不満に思ったのはバス代の支出額である。ランキングでは、1位は前出の長崎市なのだが、金沢市も9位にランキングされている。タクシー代とバス代は地形という事情から相関関係にあり、上位のランキングはほとんどだぶると思ったらそうでもない。上位10でだぶりがあるのは長崎を除いて2都市(札幌、神戸)だけである。バス代では福島、奈良、徳島などが金沢と並んで上位にランキングしてくる。ところが記事にはその言及がない。では、なぜなのだろうか。これは当地に住んでいる人は実感として理解できるかもしれない。バス運賃が高いのである。もっと有り体に言えば、地域交通の独占度が高いエリアだ。

   金沢市を例にとれば、民間のほぼ1社独占。JRバスも走ってはいるが特定路線のみ。だから高い。最近では100円で乗ることができる区間を設けたりして、その批判をかわす努力はしている。金沢大学のバス停を利用する特定区間でも「100円バス」を試験的に実施しているが、去年5月の同区間の利用は9420人だったのが、100円バスを実施したことし5月は26245人に伸びた。ざっと2.8倍である。バスの運賃が下がれば、利用者も増えるという証左である。通勤でバスを利用している身なので目に止まった記事かもしれない。

   もう一つ。そのランキングの下の記事。福井県が1口5万円(年利1.34%、1人当たり100万円限度)の新幹線債を発行した。すると10億円分が3時間半で売り切れた、というニュース。新幹線債は新幹線福井駅の建設に充てる。短時間で売り切れた理由の分析記事がないので、ここからは私見である。共働き率が高く年間世帯収入は全国一、失業率の低さも全国一、世帯当たりの貯蓄残高も全国一という福井県は経済的な充実度が高い。預貯金の額が多ければ、それだけ金利には敏感になる。現在の金利が低すぎる。それに比べ、県の公募債の金利1.34%は魅力である。この思惑がどっと「3時間半」の間に流れた。これは郷土愛のバロメーターなどではない。

 ⇒25日(日)夜・金沢の天気  くもり

☆見栄あり母心あり

☆見栄あり母心あり

  北陸・石川県は四季を通して食材の宝庫でもある。飲んで食べてさまざな話題が弾むのだが、実は人間模様もその食には投影される。きょう打ち合わせ先でふと手にした「いしかわ食の川柳入選集」(社団法人石川県食品協会刊)が面白い。川柳に映す家族の情景である。

  北陸といえば冬の味覚、カニである。冬のシーズン、金沢の近江町市場では観光客がよく手にぶら提げる姿を目にする。「加賀の旅帰りはカニと手をつなぎ」(三重・男性)。太平洋側の人にとっては日本海のカニは珍味でもある。それを持って帰宅するのだが、「手をつなぎ」でニコニコと連れて帰ってきたという雰囲気、そしてどこか誇らしげな雰囲気が伝わる。

  もう一つカニの句を。「香箱の卵をねらう父の箸」(金沢・男子高校生)。金沢ではズワイガニのメスを香箱(こうばこ)ガニという。金沢人には身がつまって小ぶりの香箱ガニを好む人が多い。何より、高くても1匹1000円前後でオスのズワイガニより格段に安い。そしてその卵は酒のサカナである。家族の食卓で、晩酌の父親の箸が妙に小まめに動くのが気になる。そんな家族の光景である。

   もう一つの冬の味覚は「かぶら寿し」だろう。青カブにブリの切り身をはさんで漬け込む。ただ、漬かり具合でカブの部分がまだ硬かったりする。でもそれは食べてみなければ分からない。そこで「かぶらずし入れ歯の意地の見せどころ」(金沢・女性)。少々硬くても食べなければ、金沢を冬を食べたことにはならない。何しろかぶら寿しは料亭ものだと1枚1000円もするのである。そして、食べた感想がご近所の女性同士のあいさつにもなる。「暖冬のせいか、(かぶら寿しは)あんまりいいがに漬かっとらんね」といった具合である。高根の花のかぶら寿しをもう食べたという見栄の裏返しと言えなくもない…。一方、男は単純だ。「かぶら寿し九谷に盛って炬燵酒」(鳥取・男性)。とっておきの九谷焼の皿に盛るかぶら寿しはそれだけで最高の贅沢ではある。こたつに入って辛口の吟醸酒でも飲めば、天下人になったような気持ちにもなる。これは男の妄想である。

  さらに、「からすみを高価と知らず丸かじり」(金沢・女子高校生)。からすみはボラやサワラなどの卵巣を塩漬けにした高級珍味。これをがぶりと食べるのは若気のいたりである。

  最後に、「芝寿しを土産に持たす母が居る」(松任・男性)。これは石川の多くの人が経験していることだろう。帰省した息子や娘がUターンする際、母親が「小腹すいたら食べて」と持たすのがこの芝寿しなのである。寿しネタを笹の葉でくるんだ押し寿しで、地元では本来、笹寿しと呼ぶ。これを手土産に持たせる。母心がにじみ出る、しばし別れの光景でもある。

  ところで、この芝寿しは金沢市にある笹ずしの食品メーカーの社名である。もともと東芝系列の街の電気屋さんだった。電機炊飯器を売るために、「笹寿しもおいしくつくれます」と実演して見せた。この笹寿しが人気を呼んで業種転換した。そして社名に東芝の「芝」を一つをつけて「(株)芝寿し」とした。いまでは社名が笹寿しの代名詞のようになった。甘系の酢の利いた押し寿司である。

⇒22日(木)夜・金沢の天気  雨     

★ベートーベンの「田園」を愛す

★ベートーベンの「田園」を愛す

  今月13日に亡くなった指揮者の岩城宏之さんのことを今回も書く。岩城さんはベートーベンの「田園」が好きだった。交響曲第6番である。ちょっとしたエピソードがある。

   2004年の大晦日(12月31日)、東京文化会館でベートーベンの交響曲1番から9番をすべて演奏するという大勝負をした。その時のことである。5番「運命」を終えて、夕食をとり、続いて6番へと続けた。ところが05年の大晦日に再度ベートーベンの連続演奏に挑戦したときは、4番を終えてから夕食に入った。この違いについて岩城さんはこう説明した。「曲の順番からも『運命』が一つのヤマなのでこれを越えてひと安心して、前回は夕食を食べた。ところが、『運命』が終わったのと、夕食を食べたのとで、『田園』になかなか気持ちのエンジンがかからなかった。そこで、今回は工夫して『運命』の前に食事を済ませることにしたんだ」と。気が乗らないとの理由で、大休憩(食事)の時間を大幅に前倒しした。そのほどの思い入れが「田園」にあった。

  もう一つエピソードを。このベートーベンの連続演奏に鹿児島の麦焼酎の造り酒屋がスポンサーについた。なぜか。この焼酎メーカーが発売している「田苑ゴールド」という銘柄は、すばり「田園」を聞かせて熟成させた酒なのである。コンサートのスポjンサーになったのも、あやかったというわけだ。会場でその説明を受けた岩城さんが思わず手を打って、「モーツアルト熟成は聴いたことがあるけど、ベートーベン熟成ね…」とニコリ。それまで緊張の面持ちだったのが相好を崩した瞬間だった。

  ベートーベンは、この曲に小川のせせらぎや小鳥のさえずりをイメージさせた。詩人のロマン・ローランは次のように言ったという。「私は第2楽章の終わりに出てくる小鳥のさえずりを聴くとき、涙が出てくる。なぜなら、この曲をつくったとき、ベートーベンにはもはや外界の音は聞こえなかったからだ。彼は心の中の小鳥のさえずりを音符を書きつけたのである」と。

 「マエストロの最期」で岩城さんが容態が急変するまで病院のベッドの中にあっても両腕で小さく円を描き、まるでタクトを振っているかのようであったと書いた。話せる状態ではなく、何の曲を指揮していたのかは周囲も分からない。が、ひょっとして、その曲は小川のせせらぎや小鳥のさえずりの「田園」ではなかったのか…。ベートーベンをこよなく愛した岩城さんの冥福を祈る。

 ⇒19日(月)午後・金沢の天気   はれ

☆ブログの技術-25-

☆ブログの技術-25-

  ブログというのはある意味で「個人メディア」でもある。面白いもので、別にお願いをしたわけではないか、それを見て評価してくれ人もいる。そして、ついにテレビに出ることになった。

     番外編:ブログをテーマにテレビ出演

  6月13日、金沢市に本社がある、地元民放テレビ局のMRO北陸放送の取材を受けた。テーマはズバリ、ブログだ。ブログを作成するノウハウや楽しみ方、注意点などについてインタビューがあった。なぜ私にというと、実は私のかつての同業のM氏は現在MROの報道制作担当の現場のトップ。取材の数日前、彼から「宇野さんのブログ(「自在コラム」)をたまに読ませてもらっている。ぜひインタビューさせて」と電話で取材の依頼があった。インタビューというからにはインタビューに耐えるだけのレベルのブロガーであると評価してくれた証左でもあると勝手に解釈し、「OKですよ」とその場で返事をした。

   13日の取材では、アップロードのノウハウや、作成する上での注意、たとえばこの「ブログの技術」のシリーズでも何度か書いた著作権やプライバシーの侵害に対する注意事項などリポーターに説明した。もちろん、説明というのはすなわちインタビューである。また、インタビューのほかに、金沢市のブログ仲間で動画ブログに挑戦しているK氏を紹介した。どうやら、私の後、取材を受けたK氏は取材ディレクターをその場で逆取材して動画ブログのテーマにするらしい。ここが個人メディアの小回りの効くところなのである。

   6月23日(金)午後4時45分からのMROワイド番組「金沢発イブニング5」のコーナー「おさえと考」で紹介される。上の写真はリポートしてくれた小野ちづるアナウンサー。本人の許可を得て、番組のPRのためならという条件で使用の許可をもらっている。念のために。

 ⇒18日(日)午前・金沢の天気   くもり  

★マエストロの死、その後

★マエストロの死、その後

  オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督だった岩城宏之さんが13日に急逝した。地元金沢では後継者問題などいろいろと話題が出始めている。そして追悼の番組やコンサート、追悼行事が具体化してきた。マエストロの死のその後を…。   

  地元テレビ局の北陸朝日放送はきょう16日(金)午前10時半から、岩城さんがベートーベンの交響曲1番から9番を演奏し終えるまでを描いたドキュメンタリー番組「人生振るマラソン」(55分)を再放送した。2004年12月31日から翌1月1日までの9時間40分にも及ぶ演奏。指揮者控え室に固定カメラを置いて、ベートーベンの交響曲の一曲一曲ごとの指揮者の息遣いを撮り続けた。控え室で休憩中、苦しげでうなだれるマエストロ岩城が、「時間ですよ」のステージマネージャーのひと声で気を取り直してまたステージへと向かう。プロの宿命と気迫、そして使命感をタクトのひと振りひと振りに刻んでいく姿がリアルに描かれる。見ていて、なぜそこまで人生を追い詰めるのかと物哀しくもあり、また「ベートーベンを指揮してステージで倒れるなら本望」と言い切る姿はまさに悟りの人であり神々しくもある。その生き方をどう受け止めるかは、視聴する側の人生観によるだろう。

  6月18日(日)午後11時10分からNHK総合テレビでは05年12月31日のベートーベン演奏を追ったドキュメンタリー番組「岩城宏之ベートーヴェンとともにゆかん」が予告されている。

  追悼コンサートは7月16日(日)午後3時から石川県立音楽堂で。指揮者は岩城さんと親交があった外山雄三、OEK初代常任指揮者の天沼裕子。武満徹、モーツアルトなどの曲が予定されている。その2日後の7月18日(火)午後2時から東京・サントリーホールの小ホールで「岩城宏之お別れの会」がある。岩城さんが拠点としていたNHK交響楽団、OEK、東京コンサーツ、メイ・コーポレーション(三枝成彰事務所)の4者が実行委員会をつくり追悼の会を催す。

  今月26日(月)午後7時から朝日新聞金沢総局の4階ホールで講演が開かれる。講師はOEKゼネラルマネジャーの山田正幸さん(63)88年の創設当初からのメンバーで、岩城さんが「ジミー」とニックネームで呼んで信頼を置いた人だ。舞台裏から見た岩城さんの知られざるエピソードが語られるかもしれない。

  ところで、岩城さんの後継について、岩城さんがだれかれと具体名をあげたという話を聞いたことがない。むしろ、周囲には「そろそろ考えて置けよ」と笑いながら言っていた。人事に頓着せず、だった。  

 ⇒16日(金)夜・金沢の天気  くもり

☆マエストロの最期

☆マエストロの最期

 きょう14日、東京の文部科学省へ仕事の打ち合わせのため出張した。小松空港の発券カウンター近くでかつての会社の上司の顔が見えたので声をかけた。すると向こうから「東京へ行くの、岩城さんの…」と。私の顔を見て「岩城さん」を連想してくれたのはある意味でうれしかった。半面、生前お世話になりながら、東京へ行くのにお線香の一つも上げることもできない自分にもどかしさも感じた。

  13日逝去した指揮者の岩城宏之さんの密葬がきょう都内で営まれた。葬儀に参列したオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の関係者によると、岩城さんは生前、「荼毘(だび)に付すまで秘してほしい」と言葉を遺していたようだ。この遺志に沿って、付きあいがあった指揮者仲間からの参列の申し入れも遠慮願っての、ごく内輪の密葬になった。

  岩城さんは胃がんや咽頭がん、肺がんなどこれまで30回近くも手術を繰り返した。5月25日に容態が悪化し、聖路加病院に入った。6月1日に見舞った上記のOEK関係者によると、この時点で話ができる状態ではなかった。でも、午前10時ごろになると、両腕で小さく円を描いた。オーケストラの練習の時間になると、決まってその仕草をした。そして、夫人の木村かおりさん(ピアニスト)が「休憩ですよ」と声をかけるとその両腕は止む。そしてゲネプロ(本番前のリハーサール)の時間である午後4時ごろになるとまた両腕で円を描く。その繰り返しだった。「10時と4時のタクトは長年しみついた指揮者の職業病のようなもの。それにしても何を演奏していたのでしょうか」と、1988年のOEK創立からの関係者は顔を曇らせた。

  東京出張の目的地に向かう際、少し時間があったので上野の東京文化会館に立ち寄った。04年12月31日、岩城さんがベートーベンの交響曲1番から9番の連続公演の「偉業」を初めて成し遂げたホールである。チラシのスタンドを見ると、岩城さんが指揮する予定だった東京フィルハーモニー交響楽団の公演チラシが置いてあった。そのチラシを手にして、ふとある考えがよぎった。この東京文化会館を「ベートーベン演奏の聖地(メッカ)にしてはどうか」と。岩城さんが偉業を打ち立てたこのホールを。ベートーベンの1番から9番の連続演奏を試みる次の指揮者をここで待ちたいと思った。

 ⇒14日(水)夜・金沢の天気 くもり 

<「自在コラム」で紹介した岩城さんの人となり、業績などは以下の通り>
05年5月14日・・・岩城流ネオ・ジャパネスク
05年6月10日・・・マエストロ岩城の視線
05年6月12日・・・続・マエストロ岩城の視線
05年10月5日・・・「岩、動く」「もはや運命」
05年12月20日・・・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月21日・・・続・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月22日・・・続々・岩城宏之氏の運命の輪
06年1月1日・・・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年1月2日・・・続・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年2月6日・・・ちょっと気になった言葉3題
06年6月13日・・・マエストロ岩城の死を悼む
06年6月13日・・・ベートーベンに抱かれ眠る

 

☆マエストロ岩城の死を悼む

☆マエストロ岩城の死を悼む

 日本を代表する指揮者の一人、岩城宏之(いわき・ひろゆき)さんが13日午前0時20分、心不全のため東京の聖路加病院で死去した。73歳。夫人はピアニストの木村かをりさん。

  1932(昭和7)年、東京生まれ。東京芸術大学音楽学部に進学。在学中から指揮者を志し、56年にNHK交響楽団を指揮してデビュー。ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなど、世界的なオーケストラの指揮台に迎えられた。正指揮者を務めたNHK交響楽団をはじめ、札幌交響楽団、音楽監督として設立に尽力したオーケストラ・アンサンブル金沢など、多くのオーケストラを率いた。

  近年の顕著な活動としては、2004年12月31日午後3時30分から翌2005年1月1日午前1時にかけて、東京文化会館でベートーベェンの全交響曲を一人で指揮したのが知られている。この企画は、05年12月31日にも東京芸術劇場で行われた。

  「初演魔」として知られ、特にオーケストラ・アンサンブル金沢ではコンポーザー・イン・レジデンス(座付き作曲家)制を敷き、委嘱曲を世界初演することに意欲を燃やした。

  指揮者の職業病ともいうべき頸椎後縦靭帯骨化症を皮切りに、2001年喉頭腫瘍、05年には肺がんと立て続けに病魔に襲われたものの、その度に復活し力強い指揮姿を披露した。手術は実に25回、「手術が元気の素と」とも本人が言っていた。ことし5月末に体調を崩して東京の病院に入院していた。

  岩城さんの生前のご厚情に感謝し、ご冥福を祈ります。

※上が岩城さんのステージ写真(01年3月)。下が06年1月1日にベートーベンの交響曲1番から9番までの演奏を終えて歓談する岩城さん=東京芸術劇場で

<「自在コラム」で紹介した岩城さんの人となり、業績などは以下の通り>
05年5月14日・・・岩城流ネオ・ジャパネスク
05年6月10日・・・マエストロ岩城の視線
05年6月12日・・・続・マエストロ岩城の視線
05年10月5日・・・「岩、動く」「もはや運命」
05年12月20日・・・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月21日・・・続・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月22日・・・続々・岩城宏之氏の運命の輪
06年1月1日・・・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年1月2日・・・続・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年2月6日・・・ちょっと気になった言葉3題

 

 

 

 

 

★ベートーベンに抱かれ眠る

★ベートーベンに抱かれ眠る

 「この世」と「あの世」がもしあるのならば、いまごろ岩城宏之さんは「あの世」で待つ武満徹や山本直純、黛敏郎らの手招きで三途の川の橋を渡ろうとしているのかしれない。そして、岩城さんは「向こうへ行けばベートベンに会えるかも知れない」と胸を弾ませているに違いない。

   もう10年以上も前の話になる。テレビ朝日系列ドキュメンタリー番組「文化の発信って何だ」を制作(1995年4月放送)する際に、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督で指揮者だった岩城さんにあいさつをした。初めてお会いしたので、「岩城先生、よろしくお願いします」と言うと、ムッとした表情で「ボクはセンセイではありません。指揮者です」と岩城さんから一喝された。そう言えば周囲のオーケストラスタッフは「先生」と呼ばないで、「岩城さん」か「マエストロ」と言っている。初対面で一発かまされたのがきっかけで、私も「岩城さん」あるいは「マエストロ」と呼ばせてもらっていた。

  そのドキュメンタリー番組がきっかけで、足掛け10年ほど北陸朝日放送の「OEKアワー」プロデューサーをつとめた。なかでも、モーツアルト全集シリーズ(東京・朝日新聞浜離宮ホール)はシンフォニー41曲をすべて演奏する、6年余りに及ぶロングランリシーズとなった。あの一喝で「岩城社中」に仲間入りをさせてもらったというそんな乗りで仕事を続けてこられたのである。

  私は「岩城さんの金字塔」と呼ばれるベートーベンの交響曲1番から9番の連続演奏に2年連続でかかわった。2004年12月31日はCS放送の中継配信とドキュメンタリーの制作プロデュースのため。そして05年1月に北陸朝日放送を退職し、金沢大学に就職してからの05年12月31日には、この9時間40分にも及ぶ世界最大のクラシックコンテンツのインターネット配信(経済産業省「平成17年度地域映像コンテンツのネット配信実証事業」)のコーディネーターとしてかかわった。

  それにしても、ベートーベンの交響曲を1番から9番まで聴くだけでも随分と勇気と体力がいる。そのオーケストラを指揮するとなると、どれほどの体力と精神を消耗することか。04年10月にお会いしたとき、「なぜ1番から9番までを」と伺ったところ、岩城さんは「ステージで倒れるかもしれないが、ベートーベンでなら本望」とさらりと。当時岩城さんは72歳、しかも胃や喉など25回も手術をした人である。体力的にも限界が近づいている岩城さんになぜそれが可能だったのか。それは「ベートーベンならステージで倒れても本望」という捨て身の気力、OEKの16年で177回もベートーベンの交響曲をこなした経験から体得した呼吸の調整方法と「手の抜き方」(岩城さん)のなせる技だったのである。

   このインターネット配信はオーストリアのウイーンから17のIPアクセス(訪問者)があるなど、総IPアクセスは2234にのぼり、実証事業としては大成功だったと言える。インターネット配信事業は実のことろ難題があった。その一番の大きな障害が演奏者の著作権(隣接権)だった。この権利処理に関して、「オーストラリアやヨーロッパの友人が見ることができるのなら、それ(インターネット配信)はいいよ」と岩城さんの理解をいただいたからこそ実現したのである。

  「ベートーベンで倒れて本望」と望んだ岩城さんの願いは叶い、ベートーベンに抱かれて眠ったのではないだろうか。インターネット配信では岩城さんに最初で最後の、そして最大にして最高のクラシックコンテンツをプレゼントしてもらったと私はいまでも感謝している。

 ※写真:ことし1月1日午前1時、ベートーベンの交響曲9番が終わり、観客からのスタンディング・オベイションの嵐は鳴り止まなかった=東京芸術劇場

 ⇒13日(火)夜・金沢の天気   はれ

<「自在コラム」で紹介した岩城さんの人となり、業績などは以下の通り>
05年5月14日・・・岩城流ネオ・ジャパネスク
05年6月10日・・・マエストロ岩城の視線
05年6月12日・・・続・マエストロ岩城の視線
05年10月5日・・・「岩、動く」「もはや運命」
05年12月20日・・・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月21日・・・続・岩城宏之氏の運命の輪
05年12月22日・・・続々・岩城宏之氏の運命の輪
06年1月1日・・・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年1月2日・・・続・「拍手の嵐」鳴り止まず
06年2月6日・・・ちょっと気になった言葉3題
06年6月13日・・・マエストロ岩城の死を悼む

 

★野武士のごとく

★野武士のごとく

  ブログを書いている途中で何とも残念な結果が。サッカーのワールドカップ・ドイツ大会の日本の初戦、対オーストラリア戦で、日本は前半を1-0とリードしたものの、後半で一気に3点を入れられ逆転負けを喫した。1点リードで守りの姿勢に入ってしまった日本は、何も失うものがないオーストラリアの気迫に負けた。まるで心理戦だった。

     ~   ~   ~

 古くからの街並みと新しい建物が妙に調和するのが金沢という街である。その金沢の景観賞ともいえる金沢都市美文化賞に、私のオフィスである金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」が選ばれた。金沢都市美文化賞そのものも昭和53年(1978年)から始まった歴史ある賞だ。

  築300年の黒光りする柱や梁(はり)など古民家の持ち味を生かし再生したという建築学的な理由のほかに、周囲の里山景観と実によくマッチしているという点が評価された。その建物の中をご覧いただきたい。青々としたヨシが廊下に生けられ、気取らぬ古民家の廊下に野趣の雰囲気を醸す。ちなみに、ヨシはアシの別名。「悪(あ)し」に通じるのを忌んで、「善(よ)し」にちなんで呼んだものといわれる。

  住人として私がこの「角間の里」を一つだけ自慢する点といえば、野武士のようなたたずまいである。派手さや彩りは似合わない。黒光りする柱のように凛(りん)とした風格がある。

      ~   ~   ~

  サッカーの話に戻る。緒戦は落とした。しかし、もう日本は何も失うものはない。18日のクロアチア、22日のブラジル戦は正々堂々と勝負すればいい。孤高の野武士のような気迫を持って。

  念のために言うと、この古民家とサッカーの脈絡はまったくない。ただ、野武士のイメージだけで2つのことを書いた。

 ⇒12日(月)夜・金沢の天気  くもり