#コラム

★「午前9時42分」という時間

★「午前9時42分」という時間

 能登半島地震から早いもので2ヵ月がたった。被害が大きかった輪島市門前町では、避難住民は避難所から仮設住宅へと移った。いま振り返り、つぶさに検証してみると、この震災は「奇跡的に・・・」という場面が多い。

 地元の人たちが「有線」と言っているシステムがある(※4月30日付「メディアのツボ-51-」参照)。同町にケーブルテレビ(CATV)網はなく、同町で有線放送と言えば、スピーカーが内臓された有線放送電話(地域内の固定電話兼放送設備)のこと。この有線放送電話にはおよそ2900世帯、町の8割の世帯が加入する。

 普段は朝、昼、晩の定時に1日3回、町の広報やイベントの案内が流れる。防災無線と連動していて、緊急時には消防署が火災の発生などを生放送する。地震があった日、地震の7分後となる午前9時49分に「ただいま津波注意報が発表されています。海岸沿いの人は高台に避難してください」と放送している。街路では防災無線が、家の中では有線放送電話から津波情報が同時に流れた。ここで自失茫然としていた住民が我に返って、近所誘い合って避難場所へと駆け出したのである。この有線放送電話が「ミニ放送局」となって、避難所の案内や巡回診療のお知らせなど被災者が必要なお知らせを26日に7回、27日には21回放送している。昭和47年に敷設が始まったローテクともいえる有線放送電話が今回の震災ではしっかりと放送インフラとして役立ったのである。

 震度6強の揺れにもかかわらず、道路が陥没して孤立した一部の地区を除き、ほとんどの電話回線は生きていた。なぜか。専門家は「本来あのくらいの規模の地震だと火災が発生しても不思議ではない。今回、時間的に朝食がほぼ終わっていたということで火災が発生しなかったために電話線が切れなかった。不幸中の幸いだった」と分析している。

 震災が一番大きかった輪島市門前町は300軒が全半壊などの家屋損傷。しかも、65歳以上のお年寄りが47%という高齢化地区である。しかし、命を落とした人はいなかった。学術調査でアンケート(被災者110人)を取ったところ、震災が起きた「午前9時42分」という時間で自宅にいた人は60人(54%)、うち「寝室」にいたという人は5人である。もし1時間早かったら、この数字は大きくなり、結果として逃げ遅れた人は多かったかもしれない。震災から2ヵ月、いろいろと考えることが多い。

⇒28日(月)夜・金沢の天気   はれ

☆たかが電子データ、されど…

☆たかが電子データ、されど…

 パソコン生活で起きた「事件」だった。今月20日、日曜日のこと。急ぎの用事があったので、ノートPCのメディア・プレーヤーを再生途中に強制終了(リブート)をかけた。すると、いつもはプシュという音で終了するのに、パツッという音がした。いやな予感がして、今度は立ち上げようとしたが立ち上がらない。

  そこで、金沢大学近くにあるPCの修理店に持ち込んだ。店員は、OSを再インストールする必要があるという。そして念のために、ハードディスクがどんな状態かみてもらった。すると、反応がない。コツコツと軽くたたいても反応がない。店員は「やられていますね」と。つまり、壊れている。この一言で頭の中が真っ白になった。ファイルなどのデータは全滅。なかには翌日(21日)と次週28日のメディア論の授業で使うパワーポイントも入っていたのだ。

  自失茫然。涙が込み上げてくる。そして、「なんと浅はかなことをしたのだ」と自分自身に対する怒りも。店員から「お客さん、大丈夫ですか。真っ青ですよ」と顔を覗き込まれ、我に返った。PCの修理を依頼して自宅に帰ったが、哀しさや怒りが収まらない。そうは言っても、当面、あすの授業をどうするか。新たにポワーポイントを作成しようにもPCがない。すると今度は手元にPCがないことの恐怖感が襲ってきた。メールの受発信をどうするか、自らが孤立するような不安感である。

  そして、PCが修理されて帰ってきても、これまで使っていたソフトのインストール作業の手まひまとコストを考えるとまた暗澹(あんたん)たる気持ちに陥った。

  ハードディスクが壊れただけで、たかが電子データを失っただけで、失ったことのはかなさと哀しさ、自らへの怒り、ネット環境からはぐれてしまうことへの恐怖を感じてしまう。そして、いま代替機でブログを書いているが、ブログを書こうと気を取り戻すまでに5日間もかかったのである。

  ただ、唯一の救いだったのは先月末に外付けのハードディスクに一部のデータを保存してあったことだった。たかが電子データ、されど電子データの1週間だった。

 ⇒25日(金)朝・金沢の天気  くもり 

★つゆの世ながら さりながら

★つゆの世ながら さりながら

 お坊さんの話に初めて耳を傾けた。何かと相談に乗っていただいていた金沢大学のS教授が急逝し、昨夜通夜に参列した。57歳。急性心不全だった。

  S教授はインド哲学が専門で、自ら僧籍にもあった。酒を飲み、タバコも手放さなかった。急逝する前夜も知人と楽しく酒を飲んでいた、という。遺族の話では「人間ドックにひっかかるものは何もなかった」。社会貢献室の室長であり、大学教育開放センター長という学外に開かれたセクションの現場責任者だった。センター長室の机には花が飾られ、「未決」の決済箱には本人が印を押はずだった書類がたまっていた。

  57歳という仕事盛りの年齢が悔やまれる。「人間ドックにひっかかるものは何もなかった」という健康状態でありながら、なぜ。「その死は理不尽ではないのか」と思ってしまうほどに悔やまれる。肉親ならなお強くそう思うに違いない。

  通夜の読経の後、「身内」であるというお坊さんがあいさつした。誰しもが同じ思いの、割り切れなさに、そのお坊さんは応えようとしていた。話の中に小林一茶の句を紹介した。

     「つゆの世は つゆの世ながら さりながら」  

この句は一茶が幼い娘を亡くしたときに詠んだ句だという。人生を葉の上のつゆにたとえて、そのはかなさを詠むと同時に、それを受け入れることができない人間の本性を伝えていると、お坊さんは説いた。現代風に解釈すれば、「人生というのはね、はかないものなんだけど、わかっているんだけど、でもね…」という感じだろうか。別の言葉で言えば、「人は突然前触れもなく、こんなふうに逝ってしまうことがあるのはわかっているけど、でも…」ということだろうか。

  もっと前向きの解釈もある。職場の同僚の尊父はこう意味付けしたそうだ。「人の人生は露のようにはかないけれども、それでもすばらしい」と。S教授の人生は人より短かったけれども、それでもすばらしい物を私たちに残してくれた。その事を忘れないでおこう。S教授の死を、次に生き抜く私たちへのメッセージとしてとらえたいと思う。

 ⇒15日(火)夜・金沢の天気  はれ

☆値千金の「ナンセンス」

☆値千金の「ナンセンス」

 もう36年もたつのに、その時の記憶はいまも鮮明だ。生まれて初めて浴びた報道カメラのフラッシュ。いまにして思えば、あのフラッシュの感激がその後の私自身の進路を大きく左右したのかもしれない。

  能登で生まれ、金沢で高校時代を過ごした。2年生の冬、クラブはESSに所属していて、県英語弁論大会に出場する幸運に恵まれた。高校は同大会で4連勝を果たしていて、5度目の栄誉がかかっていた。このため、前年度優勝者の先輩からイントネーションや発音の厳しいチェックを受けたことを覚えている。また、当時貴重だったテープレコーダーをESSの仲間から借りて、下宿で練習したものだ。

  私が選んだスピーチのテーマは「学生運動について」だった。入学した年には大阪万博が華やかに開催され、南沙織の「17才」がヒット曲となっていた。世の中が芳しくカラフルに彩られた時代の始まりでもあった。その一方で、赤軍派による「よど号」のハイジャック事件があり、連合赤軍による浅間山荘事件もその後に起きた。金沢大学でも学生運動が盛んで、新聞紙面をにぎわせていた。そんな闘争の時代の残影に私は違和感や憤りを感じていた。

  英語弁論大会でのスピーチはその気持ちをストレートに表現したものだった。金沢市本多町の県社会教育センター分館で開かれた第7回石川県英語弁論大会は大学の部もあり、金大生も多く客席にいた。私のスピーチが余りにもストレートな表現だったせいか、大学生数人から「ナンセンス」と大声のヤジが飛び、会場は一時騒然となった。

  高校の部では、私を含め4人が参加した。審査委員の講評はいまでもよく覚えている。「これだけ会場をにぎわせた高校生のスピーチはこれまでなかった」と。自分自身それほど英語の発音が上手ではないと分かっていた。詰まるところ、大学生からヤジを浴びせられた分、ほかの3人より目立ったことがどうやら優勝の理由だった。この講評のあと、冒頭に記した新聞社の写真撮影となる。その後、後輩たちも優勝を重ねた。が、その後次第に弁論大会から英語劇へと表現方法がシフトしていった。

  私はと言うと、スピーチコンテストでの優勝経験が忘れられず、東京の大学では日本語の弁論部に入った。そこで、調査と統計、そして憲法の精神に裏打ちされた弁論の手法を徹底的にたたき込まれた。マスコミをこころざし、Uターンして地元の新聞社に入社、その後、テレビ局へとマスメディアの世界を渡り歩いた。こうして振り返ると、あの英語弁論大会が私の人生を方向づけたのだと思う。

  後日談がある。新聞社時代によき先輩に恵まれ、居酒屋に誘われた。先輩はかつて学生運動でならした人だったと別の先輩から聞いていた。その彼が「君は○○高校の出身か。そう言えば、5年か6年前に英語で学生運動を批判した生意気そうなヤツがいたぞ」と言う。私はピンときて「それは私です」と告白した。その時の先輩のびっくりした様子は今でも思い出す。話のつじつまから、ヤジを飛ばした一人がどうやら先輩だということが分かった。彼はその後退社、音信はない。ただ、優勝に導いてくれたあの「ナンセンス」のヤジに私は今でも感謝している。

 ⇒12日(土)夜・金沢の天気   くもり

★能登のオキャン

★能登のオキャン

 このゴールデンウイークで行われた石川県七尾市の青柏祭(せいはくさい)を見物してきた(5月4日)。この祭りの山車(だし)の大きさが半端ではない。高さ12㍍だ。ビルにして4階建ての高さになる。車輪の直径が2㍍もある。民家の屋根より高い。通称「でか山」がのっそりと街を練る様はまさに怪獣映画に出てきそうなモンスターではある。

  でか山を出すのは、「山町(やまちょう)」と呼ぶ府中・鍛冶・魚町の3つの町内会。それぞれ1台の山車が神社に奉納される。山車の形は、末広形とも北前船を模したものとも言われる。先述したように、山車の高さは12㍍、上部の開きは13㍍、車輪の直径2㍍あり、山車としては日本最大級。上段に歌舞伎の名場面をしつらえるのが特徴だ。

  この山車を通すためにルートを横切る区間の電柱が極めて高く設置されている。電線を地中へ埋設する計画もあったが、この高い電柱のために祭りの存在を知る旅行客も多い、とか。

  このでか山を引っ張りまわす元気な女性グループがいた。粋なスタイルで、なんと表現しようか、オキャンなのである。つまり「おてんば」。祭りを楽しんでいるという感じだ。彼女たちの存在が、この祭りをとてもあか抜けしたイメージにしている。

  七尾市も能登半島地震(3月25日)では被害を受けた。とくに和倉温泉だけで6万余りのキャンセルがあったといわれる。震災による風評被害でもある。でも、今回の祭りを見て、七尾の人たちは震災にめげず、乗り切っていくのではないか、そんな元気を感じた。あのオキャンたちがいれば…。

 ⇒8日(火)夜・金沢の天気  はれ 

☆被災地でツバメが巣づくり

☆被災地でツバメが巣づくり

4月29日に能登半島地震の被災地、輪島市門前町を訪れた。被災家屋の軒下でツバメが巣づくりをしていた。帰巣本能で飛来したツバメは家屋の様相が一変しているのに戸惑ったに違いない。ツバメは3月25日の能登の震災を知らない。季節は移ろっているのだ。

 門前を訪れたのは、金沢大学の震災に関する学術調査で、私の研究テーマ「震災とメディア」の被災者アンケートがその目的だった。当日は日曜日ということもあって、調査に訪ねた諸岡公民館(避難所)では見舞い客が大勢訪れていた。被災者の世話をしている災害ボランティアのコーディネーター、岡本紀雄さん(52)から「あす(30日)から仮設住宅への引越しが始まるので、みんな(被災者)はその準備で忙しい。アンケートも手短に」とアドバイスを受けた。

 岡本さんは以前、「自在コラム」で紹介したように、阪神淡路大震災(震度7)と能登半島地震(震度6強)を体験し、自ら「13.5の人」と称している。新潟県中越地震(2004年10月)で被災地の支援活動をした経験を生かし、今回も震災当日(3月25日)から避難所やボランティアセンターで活動を続けた。途中、過労でドクターストップがかかり、兵庫県宝塚市の自宅で数日静養し、また能登に戻ってきた。岡本さんにとっては、被災者が仮設住宅に移るというのは、これまでの活動の一つの区切りになるはず。

 その岡本さんから5月1日にメールが届いた。ひと区切りをつけたボランティア活動家の心情吐露とでも言おうか、被災地で汗まみれになった人間の生き様が見えて、すがすがしい。能登出身者の一人として、「お疲れさま」と感謝したい。岡本さんの許可を得て、その文面を紹介する。

               ◇

みなさんへ

ごぶさたしています 2週間ほったらかしでしたね 私の体調は大丈夫です 血圧は132/80と正常に戻っています でも頭はダメです 地震関係以外のことはまだ長時間考えられません 何を考えていてもそっちに戻ってしまいます

昨日 諸岡公民館避難所は終わりました 避難所から公民館に戻りました 夕方6時に前を通るとカーテンが閉まり、消し忘れのトイレの電気だけがさびしそうに灯っているだけでした 最後までいた約40名は最後の朝食を食べて朝の6:30過ぎには挨拶をして順番に出て行かれました ほとんどが仮設住宅に移られました

多くの皆さんに感謝です 「ありがとネ」です こんな私を受け入れてくれた道下・諸岡の方々、こんな私を助けてくれたボランティアの方々、こんな私を取り上げてくれたマスコミの皆様、私の呼びかけに応えて各集落宛に義援金を送ってくれた方々 こんな私を許してくれた妻と子どもたち・親戚、そして能登を応援して頂いている皆様 本当にありがとうございます

でもこれからです 住宅問題です 地域再生です 仮設は終の住家ではありません 2年限定です 昨日も能登や金沢の有志とそのことの打合せもしました 自力建て替え・公共住宅・老人住宅・ケアハウス・グループハウス/町並み保全・子どもたちからの「こっちへ来んかえ」の声・出て行く人出て行けない人・限界集落・お仕事などなど 今までは言葉だけの世界だったものがドット目の前に一気に迫ってきています これからは皆さんの知恵のボランティアをお願いしなければなりません

今日から仕事 ソフトボールの子どもたちを預かります その後宝塚に戻り東京へも行きます 決算もしなければなりません 補助事業の報告書作成も でも…

門前は非日常から日常へ 田植えも始まっています 観光客も帰ってきています マスコミは帰りました 私もいつまでも非日常でいられません 働きます

今日も長い駄文付き合っていただき「ありがとネ」

のと 岡本 紀雄

⇒3日(木)午前・金沢の天気  はれ

★メディアのツボ‐51-

★メディアのツボ‐51-

 能登半島地震(3月25日)をさまざま視点で検証する金沢大学の震災学術調査に参加している。テーマは「震災とメディア」である。これまで3回にわたり、被害が大きかった輪島市門前町に入り、110人余りの被災者にアンケートを実施した。「震災直後、最初に使ったメディアはなんですか」と。

       ユウセンの威力

   現在、集計中なので気がついた点だけを述べる。実は「最初に使ったメディア」はテレビでもラジオでもなく、「ユウセン」なのだ。カラオケなどの音楽配信サービスのユウセンではない。門前町地区の人たちがユウセンと呼ぶのは防災無線と連動した有線放送のこと。街頭のスピーカーと、家庭で特別に敷設したスピーカー内臓の有線放送電話が同時に音声を発する。門前町地区オリジナルの防災情報システムだ。

  震災当日、発生5分後の午前9時47分に津波情報を発し、「沿岸の人は高台に逃げてください」と呼びかけた。「天地がひっくり返るほど」の揺れで、自失茫然としていた住民を我に戻させ、高台へと誘導にしたのはユウセンだった。

  普段は朝、昼、夜の定時配信で門前町地区のお知らせを有線放送電話室から録音で流している。ところが、いざ火災など緊急連絡となると、輪島消防署門前分署の署員が生で放送する。電話の利用料は月額1000円で同地区の8割が加入し、加入者同士ならば、かけ放題となる。さらにこの有線放送電話の優れた点は、同地区のさらに小単位の各公民館エリアでの放送も可能であること。震災後、診療時間のお知らせや、避難所での行事の案内などきめ細かく放送している。

  地震の際、テレビは吹っ飛び、配線はちぎれ、しかも停電した。ところが、震度6強の地震にもかかわらず、縦揺れだったために電信柱の倒伏が少なく、火災も発生しなかったので、市街地の電話ケーブルは切れなかった(門前分署)。つまり、有線放送電話は生きていたのである。これに加え、同地区の人たちが一斉に高台に避難できたのは、去年10月にユウセンを利用して津波と地震を想定した防災訓練を実施していたということも起因している。

  この防災無線と連動した有線放送電話システムば、30年以上もたったアナログ技術である。でも、その威力は大きかった。

 ⇒30日(月)夜・金沢の天気   くもり

☆メディアのツボ‐50-

☆メディアのツボ‐50-

 能登半島地震(3月25日)の被災地・輪島市門前町を訪ねて、被災者から話を聞いている。中には何度かマスメディアから取材された人もいる。被災者から語られるメディアを紹介する。

         報道の二面性

  現在は無職の32歳の男性の話だ。震災では自宅が全壊した。9時41分、母親はたまたま愛犬をシャンプーするため、風呂場に入っていて被災した。家は全壊したものの、ユニットバスというある意味で「シェルター」に守られ、九死に一生を得た。男性は、全壊した自宅や地域の惨状をなんとかしてほしいと思い、取材に来た新聞記者に惨状を訴えるつもりで上記の話をした。

  ところが、数日して大阪から匿名で現金封筒に入った1万円の見舞金が送られてきた。「愛犬に好物を食べさせてあげてください」と手紙が添えられていた。文面を読むと、どうやら惨状を訴えたつもりが、愛犬の世話をしていて命拾いをしたという「美談」として新聞記事に紹介されていたことが分かった。

  男性は苦笑する。「美談に仕立てられたという複雑な思いです。記事を読んで、見舞金として気持ちを寄せてくれる人もいるので、うれしいのですが・・・」

  メディアの取り上げ方には二面性があり、問題提起と話題性に分類される。一物二価ともいえるかもしれない。震災が起き、マスメディアがリアリティを持って被災地の様子を取り上げれば、その映像なり記事が行政や国を動かし、復興作業の大きな原動力になる。事実、能登半島地震では、4月13日に安倍総理が来訪し、その1週間後の20日には局地激甚災害に指定された。復興に国の大きな支援を得ることになったのである。

 その一方で、観光地でもある能登は大きな風評被害に見舞われている。震災発生から3日間だけでも、和倉温泉を中心として4万人の宿泊のキャンセルがあったとされる。輪島市のツーリスト会社の代表は、「能登半島地震ではなく、能登門前地震と命名してくれた方がよかった。能登半島全体が被災したイメージだ」とこぼしていた。新聞の見出しやテレビに「能登半島地震」と繰り返されるたびに風評被害が広がる、というのだ。

  このマスメディアの二面性の溝は簡単には埋まらないし、埋める妙手もいまのところない。

⇒25日(木)朝・金沢の天気  はれ 

★続・モンキーパワーを借りよう

★続・モンキーパワーを借りよう

 4月10日付の「自在コラム」で、能登半島地震で避難所生活を余儀なくされている被災者がストレスや疲労、エコノミークラス症候群などに罹りやすいので、なるべく外に出てリフレッシュしてもらおう、そのために、お猿さんのパワーを借りようという内容のコラムを書いた。今回はその続編である。

  なんとかお年寄りに外に出てもらう方法はないかと一計を案じ、ひらめいたのが周防(すほう)猿回しの伝統芸で全国を旅している「猿舞座」座長の村崎修二さん(59)=山口県岩国市=と、相棒の安登夢(あとむ)=オスの15歳=にひと役買ってもらおうというアイデアだった。それは4月21日に実現した。金沢大学が提供した慰問ボランティアというかたちをとった。

  公演会場の一つである輪島市門前町の諸岡(もろおか)公民館では、午後2時からの公演だったが、すでに30分も前から、お年寄りが玄関で一座を待ち構えていた。写真は、客寄せ太鼓が鳴り響く中、村崎さんとお年寄りがおしゃべりをしている光景である。村崎さんは以前、この地区で公演したことがあり、「お懐かしや」とお年寄りから歓迎されていた。

  公演では、安登夢が跳び上がって輪をくぐる「ウグイスの谷渡り」などの芸を披露。会場は歓声と拍手に包まれました。公演は30分余りだったが、お年寄りは帰らない。安登夢が次の会場への移動のために車の中に入るまで、じっと見つめていたのである。村崎さんの持論は「お猿とお年寄りは相性がいい」「猿回しの芸を一番喜んでくれるのはお年寄り、それもおばあちゃんが喜ぶ」「安登夢が棒のてっぺんに上ってスッと立つと、たいがいのお年寄りは『有り難い、有り難い』と合掌までしてしてくれる」とよく言う。そのモンキーパワーが今回も発揮されたようだ。

  村崎さんはこの日、観客の前で重大なことを言った。「安登夢は15歳、人間の年齢ならば還暦は過ぎている。来月(5月)、山口県に帰りますが、そこで引退の公演をします」と。安登夢の芸歴の最後に「被災地慰問」が加わったことになる。

 今回の公演に先立つ20日、奥能登のある旧家を村崎さんと訪れた。この旧家に江戸時代から残る猿回しの翁(おきな)の置き物を見せていただくためだ。チョンマゲの翁は太鼓を抱えて切り株に座っている。その左肩に子ザルが乗っている。村崎さんによると、古来からサルは水の神の使いとされ、農村では歓迎された。それを芸として、全国を旅したのが周防の猿回しのルーツである。この置き物のモデルはひょっとして、村崎さんの先祖かも知れない。

  ショーアップされたテンポのよい猿回し芸もあるが、村崎さんの芸は古来からの人とサルが一体化となった、どちらかというと「人の芸8割、サル2割」の掛け合い芸である。見せる芸というより、人を癒(いや)す芸なのだ。安登夢が突然、ストライキを起こしてふて寝することや、木の登ってなかなか下りてこない、村崎さんを引っかく、かみつくこともしばしば。観客はそれも芸の一つとして笑い、和む。

  村崎さんの一座は4月25日から5月2日まで金沢で公演する。そのうち、28日午前11時と午後2時の2回、金沢大学角間キャンパスで公演する。これが安登夢の金沢での最後の公演となる。

 ⇒23日(月)朝・金沢の天気   くもり

☆メディアのツボ‐49‐

☆メディアのツボ‐49‐

 3月25日の能登半島地震を受けて、金沢大学震災対策本部に学術調査部会が立ち上がったことは以前、このブログで述べた。今回はその続き。学術調査には自身のテーマとして「震災とメディア」を設定した。今回の震災で被害がもっとも大きかった輪島市門前町は住民の47%が65歳以上、高齢化が進む地域である。この地域で震災がメディアがどのような果たした役割を果たしたのだろうかとの視点で調査に入っている。

         解けた疑問

  被災者へのアンケート調査や、マスメディアへのヒアリングなどを重ね、全体像を浮かび上がればと考えている。しかし、足元がおぼつかない。アンケート調査では、学生の協力を得ようと先日、講義室で100人ほどの学生に「被災者の生の声を聞いてみよう」と呼びかけたが、反応はいまひとつ。19日と20日に開くアンケートの事前説明会では学生が集まるだろうかと不安もよぎる。何しろ新学期で、学生は何かと忙しそうだ。

  ところで、マスメディアへのヒアリングを進める中で、解けた疑問が一つあった。その疑問とは、3月25日の地震の直後、私がとっさにつけたテレビはNHK総合だった。「災害のNHK」が無意識のうちに脳裏に刷り込まれているようだ。画面を見ると、能登半島沖が震源地で、輪島では震度6強というのに、NHK金沢放送局の映像がなかなか出てこない。最初の映像はNHK富山放送局の局内の揺れであったり、天気カメラが撮影した富山市内の様子だったりした。石川県金沢市に住む身とすれば、NHK金沢の映像が出ないので、「さてはNHK金沢に大きな抜かりがあったでは」と思ったりもした。これは「災害のNHK」を刷り込まれ、いち早くNHKにチャンネルを合わせた石川県の視聴者の多くが感じたことに違いない。

  そこで、きのう(17日)NHK金沢をヒアリングで訪ねた折、トップの放送局長に率直に切り出して聞いてみた。「地震情報がカットインしてから、なかなか金沢の映像が出ませんでした。何か理由があったのでしょうか」と。すると、「そのことはよく言われ困惑したことなのですが…」との前置きで、以下の説明をいただいた。地震発生時、震度6強の奥能登の映像を入手するまでにある程度の時間がかかる。すると手早く映像を出せるのは県庁所在地に位置する放送局となる。そうなると石川県の県庁所在地の金沢放送局からとなる。が、金沢市は震度4で、富山市は震度5弱だった。つまり、NHKの本局(東京)では当然、富山放送局の揺れの方が大きいと判断し、「能登の映像が入るまでは富山でつなげ」と指示を出したわけである。

  震度4の金沢放送局より、震度5弱の富山放送局の局内の映像や市内の映像の方が迫力がある。事実、富山県内でも多数の負傷者が出た。能登は石川と連想すると、当然、石川県に住む視聴者は金沢放送局の映像が先に出ると思ってしまう。ところが、地震は広域だ。テレビ局は見せる映像をどこが持っているかで判断するので、まず揺れが大きいほうの富山にとなったの当然だった。その後、NHKの映像にはその倒壊した輪島市の寺社や民家の凄まじい光景が次々と入ってきて、圧倒されることになる。

  近くであるがゆえに見えないこと。遠く離れているからよく見え、判断できることがある。今回は、「近くて見えないから生じた疑問」だったようだ。ぶしつけな質問にもかかわず、丁寧に答えていただいた放送局長に感謝したい。(※写真は、NHK金沢放送局の正面玄関に立つ震災の義援金受付の看板)

⇒18日(水)朝・金沢の天気   くもり