#コラム

★メモる2007年-4-

★メモる2007年-4-

 赤い腹巻のお猿さんはスターだった。どこへ行っても「カワイーッ」と子供たちから歓迎された。手を合わせて拝むお年寄りもいた。4月21日、能登半島地震(3月25日)の被害がもっとも大きかった石川県輪島市門前町の避難所で「猿回し」の慰問ボランティアを行った。私が所属する金沢大学社会貢献室の主催だった。

       お猿さんはスターだった

  金沢大学では震災後、医療のほか復興のためのボランティア活動を学生や職員に呼びかけた。避難所生活が長期化し、落ち着かない日々を過ごす人たちを元気づけようと、社会貢献室ではかねてから交流のあった山口県岩国市の「猿舞座」座長の村崎修二さんと連携して開いた。体長1.2㍍のサル「安登夢(あとむ)」が跳び上がって輪をくぐる「ウグイスの谷渡り」などの芸を披露すると、会場は歓声と拍手に包まれた。

  客席では、大学の市民ボランティア「里山メイト」の女性たちがお茶と草もちのサービスをし、「がんばってくださいね」と声をかけた。

  この慰問ボランンティアにはちょっとした仕掛けがあった。被災者へのアンケート調査も同時に実施したいという「魂胆」があった。というのも、4月下旬、被災者が寝泊りする避難所ではメディアの取材も学術調査も立ち入りが断られていた。避難所は生活の場でもあり、また当時、家屋リフォームや古物の買い入れと称したいかがわしいセールスなどが問題となっており、避難所の運営担当者らは警戒していた。でも、外に出てきた被災者にアンケートをするのは構わないと聞いていたので、それだったら猿回しを見に避難所前の広場に集まってきた被災者にアンケートをしようというわけ。お猿さんの人気にあやかって、避難所の外では110人もの被災者アンケートを得ることができた。そのアンケートが「メモる2007年-2-」で紹介した震災とメディアに関する調査だった。

  実はその後、「猿舞座」の一座の主役ともいえる安登夢は高齢のため引退することになる。代わって、若手の「夏水(なつみ)」が一座とともに全国を回っている。安登夢にとって能登の慰問ボランティア公演は、拍手を浴びながらダイナミックな芸を演じた晴れの大舞台でもあった。彼はいま岩国で静かに余生を送っている。

 ⇒19日(水)朝・金沢の天気  くもり  

☆メモる2007年-3-

☆メモる2007年-3-

  ことし8月、石川県輪島市三井町の小学校の校長だった岩田秀男氏(故人)の遺族宅を訪ねた。岩田氏は昭和30年代から、能登で生息してた本州最後のトキを熱心に撮影して歩いた人だった。遺族から能登のトキを写真を見せられた時、胸が熱くなった。写真のトキが「ワタシは能登に帰りたい」と叫んでいるような、そんな衝撃を受けた。岩田氏のクレジットを必ず入れることを条件に写真の使用許可をいただいた。

  トキが再び能登の空に舞う日

 トキが急激に減少したとされる1900年代、日本は食糧増産に励んでいた。レチェル・カーソンが1960年代に記した名著「サイレント・スプリング」で、「春になっても鳥は鳴かず、生きものが静かにいなくなってしまった」と記した。農業は豊かになったけれども春が静かになった。1970年1月、日本で本州最後の1羽のトキが石川県能登半島で捕獲された。オスの「能里(ノリ)」だった。繁殖のため佐渡のトキ保護センターに送られたが、翌1971年に死亡した。解剖された能里の肝臓や筋肉からはDDTなどの有機塩素系農薬や水銀が高濃度で検出された。2003年10月、佐渡で捕獲されたキンが死亡し、日本産トキは沈黙したまま絶滅した。

  その後、同じ遺伝子の中国産のトキがトキ保護センターで人工繁殖し、2007年7月現在で107羽に増殖している。環境省では、鳥インフルエンザへの感染が懸念されることから場所を限定しての本州での分散飼育を検討し、08年にも分散場所の選定がなされる見込み。石川県能美市にある県営「いしかわ動物園」は分散飼育の受け入れに名乗りを上げ、近縁種のシロトキとクロトキの人工繁殖と自然繁殖に成功し、分散飼育の最有力候補とされている。分散飼育の後、人工増殖したトキを最終的に野生化させるのが国家の目標である。

  金沢大学「里山プロジェクト」では、平成18年度三井物産環境基金の支援を得て、「能登半島 里山里海自然学校」(石川県珠洲市)を設立した。その活動の一つであるポテンシャルマップ作成は、奥能登における生物多様性の調査である。珠洲市や輪島市の4ケ所の重点調査地区を設定し詳細なデータの蓄積を進めている。この生物多様性調査から、トキが再生する可能性を能登に見出している。奥能登には大小1000以上ともいわれる水稲栽培用の溜め池が村落の共同体により維持されている。溜め池は中山間地にあり、上流に汚染源がないため水質が保たれている。ゲンゴロウやサンショウウオ、ドジョウなどの水生生物が量、種類とも豊富である。溜め池にプ-ルされている多様な水生生物は疏水を伝って水田へと分配されている。

  また、能登はトキが営巣するのに必要なアカマツ林が豊富である。かつて、昭和の中ごろまで揚げ浜式塩田や、瓦製造が盛んであったため、高熱を発するアカマツは燃料にされ、伐採と植林が行なわれた。さらに、能登はリアス式海岸で知られるように、平地より谷が多い。警戒心が強いとされるトキは谷間の棚田で左右を警戒しながらドジョウやタニシなどの採餌行動をとる。豊富な食糧を担保する溜め池と水田、営巣に必要なアカマツ林、そしてコロニーを形成する谷という条件が能登にある。

  来年度から、金沢大学の生態学と環境経済の研究者を中心にトキならびにコウノトリが生息できるための学際研究を行なう。ポイントは2点。①トキが能登に再生するための具体的な適地のモデル選定とステークホルダー(自治体、地域住民、地権者、生産者)との合意形成、②水田の減農薬化と生態環境のための基礎調査を実施する。トキはコウノトリ目の鳥であり、コウノトリとは絶滅の経緯などで類似点が多い。そのコウノトリが兵庫県豊岡市で野生復帰し、43年ぶりに自然繁殖した。豊岡市での取り組みなどをお手本に、本州最後の1羽のトキがいた能登半島で、野生化する最初の1羽のトキを再生させたい。そのためのロードマップを描き、ステークホルダー(自治体や地域住民、地権者、生産者)との合意形成ならびに協働するプログラムを作成する。その上で、トキの生息地として適しているとされる谷間の棚田フィールドの確保(20haほどを想定)、生産者による減農薬での水田栽培を一斉に実施し、GIS(地理情報システム)などの技術を用いて数年かけ生態環境の基礎調査を実施する。

  生態ピラミッドの頂点に立つトキを野生復帰させるためには生態系自体の修復(再生)が必要であるのは言うまでもない。しかし、昔に戻って過去の環境を復元するのは無理としても、同じものをつくり出せる要点を明らかにして、部分的にでも徐々に創出していくというアプローチが必要である。そのためには科学的な手法を取り入れる。うまくいかなければ何が問題なのかを、考えられる順応的な研究を行う。

  こうした研究の成果は2010年に予定される生物多様性締約国会議(「COP10」、名古屋市)のエクスカショーン等で発表することを目指している。金沢大学が独自に研究調査をする意味合いは、ともすれば政治案件化するトキの野生化の候補地選定を客観的なデータと研究調査で担保したいと思うからである。 ※写真は石川県輪島市三井町で営巣していたトキの親子(昭和32年・岩田秀男氏撮影)

     2008年1月26日に「トキ」シンポジウムを開催

⇒18日(水)朝・金沢の天気   くもり

★メモる2007年-2-

★メモる2007年-2-

 能登半島地震(今年3月25日発生)では死者1人、300人以上の重軽傷者を出した。この震災で一番被害を受けたのは、メディアとの接触機会が少なく「情報弱者」とされる高齢者が多い過疎地域だった。被災者はどのようにして情報を入手し、その情報は的確に伝わったのだろうか。そんな思いから金沢大学震災学術調査班に加わり、「震災とメディア」をテーマに被災者アンケートやメディアへのヒアリング調査などを実施した。

           震災では誰もが「情報弱者」に

  アンケートの調査は、震度6強に見舞われ、住民のうち65歳以上が47%を占める石川県輪島市門前町で行った。当初は地震発生の翌日に被災地に入り、地域連携コーディネーターとして、学生のボランティア支援をどのようなかたちで進めたらよいか調査するのが当初の目的で被災地に入った。そこで見た光景が「震災とメディア」の調査研究をしてみようと思い立った動機となる。震災当日からテレビ系列が大挙して同町に陣取っていた。現場中継のため、倒壊家屋に横付けされた民放テレビ局のSNG(Satellite News Gathering)車をいぶかしげに見ている被災者たちの姿があった。この惨事は全国中継されるが、地域の人たちは視聴できないのではないか。また、半壊の家屋の前で茫然(ぼうぜん)と立ちつくすお年寄り、そしてその半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと、ひたすら余震を待って身構えるカメラマンのグループがそこにあった。こうしたメディアの行動は、果たして被災者に理解されているのだろうか。それより何より、メディアはこの震災で何か役立っているのだろうか、という素朴な疑問だった。

  被災者へのアンケート内容は、①地震発生時の状況や初期行動、②最も欲しいと思った情報や情報の入手手段、③発生1ヵ月後よく利用する情報源や求める情報内容などで、学生に手伝ってもらい聞き取り調査を行った。

  震災は日曜日の午前9時42分に起きた。能登地方は曇り空だった。震災発生時の居場所は、居間など自宅にいたのは60人で、うち24人がテレビを見ていた。回答者110人の自宅は「全壊」18人、「半壊」19人、「一部損壊」60人で、「被害なし」は10人にすぎなかった。地震直後の初期行動として、屋内にいた36人が「屋外へ避難」した。「テレビをつけた」は4人、「ラジオをつけた」は6人である。つまり、震度6強の激しい揺れの直後、真っ先にメディアに接触を試みた人は1割に満たなかったわけである。

  事実、震災の翌日26日に被災地入りし、何軒かの家の中を見せてもらったところ、一見被害がないように見える家屋でも、中では仏壇やテレビが吹っ飛んでいた。震災直後、さらに続いた余震(26日正午までに190回)の恐怖、そして一瞬の破壊で茫然自失としていた被災者が最初に接した情報源は何だったのか。ヒアリングでも多くの人が指摘したのは「有線放送」だった。同町にケーブルテレビ(CATV)網はなく(注=2006年度整備予定)、同町で有線放送と言えば、スピーカーが内蔵された有線放送電話(地域内の固定電話兼放送設備)のこと。この有線放送電話にはおよそ2900世帯、町の8割の世帯が加入する。利用料は月額1000円の定額で任意加入だ。普段は朝、昼、晩の定時に1日3回、町の広報やイベントの案内が流れる。防災無線と連動していて、緊急時には消防署が火災の発生などを生放送する。この日も、地震の7分後となる午前9時49分に「ただいま津波注意報が発表されています。海岸沿いの人は高台に避難してください」と放送している。街路では防災無線が、家の中では有線放送電話から津波情報が同時に流れた。ここで茫然自失としていた住民が我に返り、近所誘い合って高台の避難場所へと駆け出したのだ。この有線放送電話では、避難所の案内や巡回診療のお知らせなど被災者に必要なお知らせを26日に7回、27日には21回放送している。昭和47年(1972)に敷設が始まった「ローテク」とも言える有線放送電話が今回の震災ではしっかりと「放送インフラ」として役立ったのである。

  震度6強の揺れにもかかわらず、道路が陥没して孤立した一部地区を除き、ほとんどの電話回線は生きていた。なぜか。北陸総合通信局情報通信部の山口浩部長(当時)によると、「本来あのくらいの規模の地震だと火災が発生しても不思議ではない。今回、時間的に朝食がほぼ終わっていたということで火災が発生しなかったために電話線が切れなかった。不幸中の幸いだった」と分析している。この有線放送電話には、一般加入電話や携帯電話のような震災発生時の受発信の規制はなく、安否情報の交換などにフルに利用された。  その後、同町では家屋の損壊あるいは余震から1500人が避難所生活を余儀なくされ、多くの住民は避難所で新聞やテレビやラジオに接触することになる。ここで、注目すべきメディアの活動をいくつか紹介しておきたい。震災の翌日から避難所の入り口には新聞各紙がドッサリと積んであった。新聞社の厚意で届けられたものだが、私が訪れた避難所(公民館)では、避難住民が肩を寄せ合うような状態であり、新聞をゆっくり広げるスペースがあるようには見受けられなかった。そんな中で、聞き取り調査をした住民から「かわら版が役に立った」との声を多く聞いた。  そのかわら版とは、朝日新聞社が避難住民向けに発行した「能登半島地震救援号外」だった。タブロイド判の裏表1枚紙で、文字が大きく行間がゆったりしている。住民が「役に立った」というのは、災害が最も大きかった被災地・輪島のライフライン情報に特化した「ミニコミ紙」だったからだ。

  救援号外の編集長だった同社金沢総局次長の大脇和男記者から発行にいたったいきさつなどについて聞いた。救援号外は、2004年10月の新潟県中越地震で初めて発行したが、当時は文字ばかりの紙面で「無機質で読み難い」との意見もあり、今回はカラー写真を入れた。だが、1号(3月26日付)で掲載された、給水車から水を運ぶおばあさんの顔が下向きで暗かった。「これでは被災者のモチベーションが下がると思い、2号からは笑顔にこだわり、『毎号1笑顔』を編集方針に掲げた」という。さらに、長引く避難所生活では、血行不良で血が固まり、肺の血管に詰まるエコノミークラス症候群に罹りやすいので「生活不活発病」の特集を5号(3月30日付)で組んだ。義援金の芳名などは掲載せず、被災地の現場感覚でつくる新聞を心がけ、ごみ処理や入浴、医療診断の案内など生活情報を掲載した。念のため、「本紙県版の焼き直しを掲載しただけではなかったのか」と質問をしたところ、「その日発表された情報の中から号外編集班(専従2人)が生活情報を集めて、その日の夕方に配った。本紙県版の生活情報は号外の返しだった」という。

  カラーコピー機を搭載した車両を輪島市内に置き、「現地印刷」をした。ピーク時には2000部を発行し、7人から8人の印刷・配達スタッフが手分けして避難所に配った。夕方の作業だった。地震直後、同市内では5500戸で断水した。救援号外は震災翌日の3月26日から毎日夕方に避難所に届けられ、給水のライフラインが回復した4月7日をもって終わる。13号まで続いた「避難所新聞」だった。

  高齢者だけでなく、誰しもが一瞬にして「情報弱者」になるのが震災である。問題はそうした被災者にどう情報をフィードバックしていく仕組みをつくるか、だ。聞き取り調査の中で、同町在住の災害ボランティアコーディネーター、岡本紀雄さん(52)の提案は具体的だった。「テレビメディアは被災地から情報を吸い上げて全国に向けて発信しているが、被災地に向けたフィードバックが少ない。せめて地元の民放などが協力して被災者向けの臨時のFM局ぐらい立ち上げたらどうだろう」「新聞社は協力して避難住民向けのタブロイド判をつくったらどうだろう。決して広くない避難所でタブロイド判は理にかなっている」と。岡本さんは、新潟県中越地震でのボランティア経験が買われ、今回の震災では避難所の「広報担当」としてメディアとかかわってきた一人である。メディア同士はよきライバルであるべきだと思うが、被災地ではよき協力者として共同作業があってもよいと思うが、どうだろう。

  もちろん、報道の使命は被災者への情報のフィードバックだけではないことは承知しているし、災害状況を全国の視聴者に向けて放送することで国や行政を動かし、復興を後押しする意味があることも否定しない。  今回のアンケート調査で最後に「メディアに対する問題点や要望」を聞いているが、いくつかの声を紹介しておきたい。「朝から夕方までヘリコプターが飛び、地震の音と重なり、屋根に上っていて恐怖感を感じた」(54歳・男性)、「震災報道をドラマチックに演出するようなことはやめてほしい」(30歳・男性)、「特にひどい被災状況ばかりを報道し、かえってまわりを心配させている」(32歳・女性)。

  こうした被災者の声は誇張ではなく、感じたままを吐露したものだ。そして、阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた被災者の意見だろうと想像する。最後に、「被災地に取材に入ったら、帰り際の一日ぐらい休暇を取って、救援ボランティアとして被災者と同じ目線で現場で汗を流したらいい」と若い記者やカメラマンのみなさんに勧めたい。被災者の目線はこれまで見えなかった報道の視点として生かされるはずである。

 ⇒17日(月)夜・金沢の天気  あめ

☆メモる2007年-1-

☆メモる2007年-1-

 2007年も余すところ20日となった。振り返れば、さまざまな出来事に遭遇した。その折、自分なりに取材し、調査をしてきたことを記す。題して「メモる2007」。

      「FMピッカラ」のメディア魂

  ことし3月25日の能登半島地震で「震災とメディア」の調査をした。その中で、「誰しもが一瞬にして情報弱者になるのが震災であり、電波メディアは被災者に向けてメッセージを送ったのだろうか」「被災地から情報を吸い上げて全国へ発信しているが、被災地に向けたフィードバックがない」と問題提起をした。その後、7月16日に新潟県中越沖地震が起きた。そこには、「情報こそライフライン」と被災者向け情報に徹底し、24時間の生放送を41日間続けた放送メディアがあった。

  中越沖地震でもっとも被害が大きかった新潟県柏崎市を取材に訪れたのは震災から3ヵ月余りたった10月下旬だった。住宅街には倒壊したままの家屋が散見され、駅前の商店街の歩道はあちこちでひずみが残っていて歩きにくい。復旧半ばという印象だった。コミュニティー放送「FMピッカラ」はそうした商店街の一角にある。祝日の午前の静けさを破る震度6強の揺れがあったのは午前10時13分ごろ。その1分45秒後には、「お聞きの放送は76.3メガヘルツ。ただいま大きな揺れを感じましたが、皆さんは大丈夫ですか」と緊急編成に入った。午前11時から始まるレギュラーの生番組の準備していたタイミングだったので立ち上がりは速かった。

  通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、緊急編成は24時間の生放送。柏崎市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、市の災害対策本部にスタッフを常駐させ、被災者が当面最も必要とする避難所や炊き出し、仮設の風呂の場所などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。  コミュニティー局であるがゆえに「被災者のための情報」に徹することができたといえるかもしれない。パーソナリティーで放送部長の船崎幸子さんは「放送は双方向でより深まった」と話す。ピッカラは一方的に行政からの情報を流すのではなく、市民からの声を吸い上げることでより被災者にとって価値のある内容として伝えた。たとえば、水道やガスの復旧が遅れ、夏場だけに洗髪に不自由さを感じた人も多かった。「水を使わないシャンプーはどこに行けばありますか」という被災者からの質問を放送で紹介。すると、リスナーから「○○のお店に行けばあります」などの情報が寄せられた。行政から得られない細やかな情報である。

 また、知人の消息を知りたいと「尋ね人」の電話やメールも寄せられた。放送を通して安否情報や生活情報をリスナー同士がキャッチボールした。市民からの問い合わせや情報はNHKや民放では内容の信憑性などの点から扱いにくいものだ。しかし、船崎さんは「地震発生直後の電話やメールに関しては情報を探す人の切実な気持ちが伝わってきた。それを切り捨てるわけにはいかない」と話す。

  7月24日にはカバーエリアを広げるために臨時災害放送局を申請したため、緊急編成をさらに1ヵ月間延長し8月25日午後6時までとした。応援スタッフのオファーも他のFM局からあったが、4人のパーソナリティーは交代しなかった。「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」(船崎さん)という理由だった。このため、リスナーから「疲れはないの、大丈夫ですか」と気遣うメールが届いたほどだ。

  ピッカラの放送は情報を送るだけに止まらなかった。夜になると、「元気が出る曲」をテーマにリクエストを募集した。その中でリクエストが多かったのが、女性シンガー・ソングライターのKOKIAの「私にできること」だった。実は、東京在住のKOKIAが柏崎在住の女性ファンから届いたメールに応え、震災を乗り越えてほしいとのメッセージを込めて作った曲だった。KOKIAからのメールで音声ファイルを受け取った女性はそれをFMピッカラに持ち込んだ。「つらい時こそ誰かと支えあって…」とやさしく励ますKOKIAの歌は、不安で眠れぬ夜を過ごす多くの被災者を和ませた。そして、ピッカラが放送を通じて呼びかけた、KOKIAによる復興記念コンサート(8月6日)には3千人もの市民が集まった。人々の連携が放送局を介して被災地を勇気づけたのだった。

  ピッカラの災害放送対応を他のコミュニティー放送が真似ようとしても、その時、その場所、その状況が違えば難しい。災害放送はケースバイケースである。ただ、「情報こそライフライン」に徹して、コミュニティー放送の役割を見事に果たした事例としてピッカラは評価されるのである。

 ⇒11日(火)午後・金沢の天気   くもり

★デープな能登=9=

★デープな能登=9=

 能登の輪島で一度だけ食べたことがある。サバの刺し身を。サバは「生き腐れ」といわれるように傷み速い。しかし、輪島では釣り上げてから3時間以内なら大丈夫という経験則のようなものがあって、食することを勧められた。軟らかく、あまい赤身。ダイコンおろしにしょう油、一味唐辛子を混ぜた「弁慶しょう油」をちょっと付ける。その味が忘れられず、以来、鯖(さば)好きになった。20年も前の話である。

         輪島で教わったサバの食し方3題

  さらに同じ輪島でサバのダイナミックな食べ方を教わった。塩サバである。8月下旬、輪島の大祭が恒例だ。祭りが終わり、神輿や奉灯キリコをしまう。その後、直会(なおらい)があり、神饌(しんせん)やお神酒(みき)のお下がり物を参加者が分かち飲食する。このときに、塩漬けされたサバが大皿に乗って出てくる。お神酒を飲みながら、塩で身が硬くなったサバを手でむしって食べる。これがなんとも言えず美味なのだ。残暑の中、塩サバに日本酒を食するので当然、喉が渇く。そこで水の代わりにお下がりのスイカを食べる。冷やしてはないが清涼感があり甘い。するとまた塩サバが食べたくなる。手はサバの脂でベタベタになるが気にせず、むしり取る。そして飲む。またスイカを食べるという繰り返し。

  日差しがまだ高い、日中での昼酒である。外に出ると一瞬、白昼夢でも見ているような錯覚に陥ったことを覚えている。

  その後、珍しいサバ料理を食べさせてもらった。サバのスキヤキである。輪島塗作家の角偉三郎さんのお宅に招かれたときに出された料理だった。肉ではなく、サバの赤身を入れる。豆腐にも、糸コンニャクにも、ネギにも合う。肉の代用ではなく、れっきとしたサバ料理なのである。

  そのサバスキをつつきながら、角氏は夢を語って聞かせてくれた。その後、角氏は話通りに、日展を脱会して、「日常の生活に生かされる器(うつわ)」をめざし、合鹿(ごうろく)椀などの能登に古来からある漆器を発掘して、独自の道を歩む。無骨ながら使いこなされてこそ器である、と。気取らず、朴訥とした風貌だったが、眼光は鋭かった。05年10月に他界。享年65歳だった。

※写真は、セリが始まる前の輪島市漁協の様子

⇒28日(水)夜・金沢の天気   はれ 

☆デープな能登=8=

☆デープな能登=8=

 能登半島から見える絶景と言えば、海に浮かぶ立山連峰(標高3015㍍)であろう。その眺望も毎日見えるのではなく、「たまに」というところに価値がある。とくに初夏のころ、雪の山々はコバルト色の海の上で青空に映えて浮かび、神々しさを感じる。

        立山の観天望気

 ふもとの富山県の人たちにとって立山連峰は古来より信仰の山であり、心の風景であるのかもしれない。立山が望める奥能登の穴水町でかつて別荘地が造成された。真っ先にその別荘地を買ったのは富山の人たちだったと聞いたことがある。「立山を見て余生を暮らせたら」。そんな思いが募ったのかもしれない。

  ところで、能登の人たちは立山に対しては別の見方もしている。「立山がくっきり見えたら、あすは雨」と。長年の経験から得た「観天望気(かんてんぼうき)」である。観天望気はもともと雲や風や空の色などを目で観察して、経験的に天気を予想することなのだが、この観天望気は実に分かりやすい。見える見えないで判断でき、しかも端的に当たるのである。だから子供でも「きょう立山が見えた、あすは傘がいる」などと言っている。

  写真は、金沢大学が「里山マイスター能登学舎」として使用している旧・小学校(珠洲市三崎町小泊)の玄関に飾ってある絵画だ。ご覧のように海の向こうに立山が描いてある。手前には、子供たちの遊びやお手伝いなど戸外活動の四季が描かれている。草相撲、モチつき、稲刈り…ほほ笑ましい光景ではある。あすは雨、いまのうちに遊びもお手伝いもやるべきことはやってしまおうというメッセージの絵画なのかもしれない。

  立山はいつも見えるわけではないと冒頭で書いた。しかも雨の日の前日に必ず見えるというわけでもない。ただ、くっきりと見えたら確実に「あすは雨」になる。微妙な見え方、たとえば薄く見えるときがある。この場合は「あすは曇り」となる。このあたりの「立山の見立て」となると地元の漁師がもっと詳しいだろう。

  ところで、観天望気は金沢にもある。金沢大学角間キャンパスがある田上(たがみ)、角間(かくま)地区では「医王山(いおうぜん、標高939㍍)の初雪から3度目の雪で角間も初雪」。古老から聞いた話である。もっとも街中にもある。「12月に入って、片町・香林坊が雨なら、小立野はみぞれ、そして湯涌は雪」と言った程度のものなのだが、これが結構、的を得ている。酔いどれ達の長年の観天望気術である。

 ⇒26日(月)夜・金沢の天気   くもり

★続・金沢-フィレンツェ壁画物語

★続・金沢-フィレンツェ壁画物語

 金沢大学で復元されたのはイタリア・フィレンツェのサンタ・クローチェ教会大礼拝堂の壁画「聖十字架物語」の一部だ。もとのサンタ・クローチェ教会の壁画修復作業は金沢大学と国立フィレンツェ修復研究所、そして同教会の日伊共同プロジェクトとして進行している。金沢大学が国際貢献の一つとして位置づけるこのプロジェクトだ。昨年1月、プロジェクトの進みを報告するため、大学側の責任者として指揮を執る宮下孝晴・教育学部教授(イタリア美術史)をフィレンツェに訪ねた。

                  ◇

  壁画「聖十字架物語」の修復現場=写真・上=は足場に覆われていた。鉄パイプで組まれた足場は高さ26㍍、ざっと9階建てのビル並みの高さである。天井から吊られた十字架像、窓にはめられたステンドグラスなどの貴重な美術品や文化財はそのままにして足場の建設が進んだのだから、慎重さを極めた作業だったことは想像に難くない。平面状に組んだ足場ではなく、立方体に組んであり、打ち合わせ用のオフィス空間や照明設備や電気配線、上下水道もある。下水施設は洗浄のため薬品を含んだ水を貯水場に保存するためだ。それに人と機材を運搬するエレベーターもある。

  「さあ、歩いて階段を上りましょう」。現場に同行してくれた修復研究所壁画部長のクリスティーナ・ダンティさんがそう言って階段を上り始めた。エレベーターによる振動は壁画の亀裂や剥(はく)落の原因にもなりかねないので、測定機材などを運ぶ以外は極力使わないようにしているのだという。

  足場の最上階に上がると大礼拝堂の天井に手が届くほどの距離に達する。「壁画に触れないように気をつけて」とダンティさんは念を押す。宮下教授は「足場が出来る前までは下から双眼鏡で眺めていたのですが、足場に上がって直に見ると予想以上に傷みが激しく愕(がく)然としましたよ」と話す。ステンドグラス窓の一部が壊れ、そこから侵入した雨水とハトの糞で傷んだところや、亀裂やひび割れが目立つ=写真・下=。また、専門家の目では、70年ほど前の修復で廉価な顔料が施され変色が進んだところや、水分や湿気が地下の塩分を吸い上げ壁画面に吹き出した部分もある。

  修復研究所では、プロパンガスのファンヒーターを足場の床面に約2分間均等に照射し、間接的に壁画面の温度を上昇させた後に壁面から放射される遠赤外線量の違いを赤外線カメラで画像化するというサーマルビジョン(サーモグラフィ)調査を行っている。これだとまるでレントゲン撮影のように、壁画の奥深いところまでの状態を観察することができる。一方で、4人の修復士たちが「目による画面の状況確認」も行いながら、剥落や剥離がひどいところには応急処置として、傷口にバンドエイドを貼るように、小さく切った紙を慎重に貼って進行を防いでいる。専門家の目と検査器械による診断は人間ドックならぬ、「壁画ドック」とでもたとえようか。

  サンタ・クローチェ教会財産管理部の部長、カルラ・ボナンニさんは「この壁画はスケールが大きすぎて、修復のチャンスがなかなか回ってこなかったのですが、ようやく緒につき感謝しています」と金沢大学の協力を高く評価している。足場の工事看板にはアカンサスの葉を図案化した金沢大学の校章が真ん中に記されている。

 (※文は金沢大学地域貢献情報誌「地域とともに」(2006vol.4)に寄稿したものを再構成した)

 ⇒25日(日)午前・金沢の天気  はれ

☆金沢-フィレンツェ壁画物語

☆金沢-フィレンツェ壁画物語

 イタリアのフィレンツェはユネスコの世界遺産に指定されている歴史の都である。「美術のパトロン」といわれたメデイチ家が庇護した街でもある。このフィレンツェの精神的な拠りどころがサンタ・クローチェ教会。何しろ、科学者のガレリオ・ガリレイや彫刻家のミケランジェロ、政治理論家のマキアヴェッリなど世界史に燦(さん)然と名を残す偉人たちの墓がある。そのサンタ・クローチェ教会の大礼拝堂の壁画の一部が金沢大学教育学部棟で復元された=写真=。

  壁画は「聖十字架物語」という14世紀のフレスコ画。フレスコ画は、壁に漆喰(しっくい)を塗り、乾かないうちに顔料で絵を描く技法だ。復元された壁画の大きさは幅7㍍、高さ5㍍にもなる。学生、教員のほか、卒業生も加わって、32分割した壁画を1日一部分ずつ描き、今月23日までにほぼ描き終えた。顔料など多くの材料はイタリアで調達した。

  壁画復元に至る背景には金沢大学のサンタ・クローチェ教会壁画修復・調査研究プロジェクトがある。教育学部の宮下孝晴教授(イタリア美術史専攻)がNHK教育テレビ「人間講座」でルネサンス黎明期のフレスコ壁画を紹介したことがきっかけで、東京の篤志家から壁画修復のための寄付金(2億円)の申し入れがあった。金沢大学は国際貢献活動との位置づけで、大学として寄付金を管理、修復作業にあたっては国立フィレンツェ修復研究所、そしてサンタ・クローチェ教会の3者による日伊共同プロジェクトとしてスタートした。2005年から5年計画。修復の過程で、宮下教授らが復元を試みることで実践的な教育として生かせないかと昨年からプランを練ってきた。

  今回復元された壁画は、1380年代にアーニョロ・ガッティが描いた大作。実際の壁画は幅8㍍、高さ21㍍もある。7階建てのビルの壁面に絵が施されていると表現した方が分かりやすいかもしれない。そこには旧約聖書のエデンの園から始まり、7世紀の東ローマ皇帝ヘラクリウスの時代に及ぶキリスト教の黄金伝説が描かれている。今回金沢大学で復元された壁画は、キリスト教を国教として公認したコンスタンティヌス帝の母ヘレナの話。熱心なキリスト教徒であったヘレナはエルサレムを巡礼し、苦労の末にキリストがはり付けにされた十字架をゴルゴダの丘で発見する。しかし、十字架は3本あり、どれがキリストの十字架であるか分からない。そこで、通りかかった葬列に3本の十字架をかざすと、最後の一本で死者が蘇った。そこで、「真の十字架」が判明したという伝説が描かれている。

  ある意味で宗教色が強いので、論議の末、イスラム圏からの留学生が多い理系の建物を復元場所として避けるなどの細やかな配慮もなされ、実現にこぎつけた。

 ⇒24日(土)夜・金沢の天気  くもり 

★雪モードの朝

★雪モードの朝

 けさ(19日)の屋外の光景を見て、金沢の人、あるいは北陸人の季節感は一気に「冬モード」にスイッチが切り替わったのではないだろうか。薄っすらと雪化粧、初雪である。11月半ば、こんなに早く冬の訪れを感じたのは何年ぶりだろう。

 雪国の人に冬モードのスイッチが入るとどんな思考をするか。まず、車のタイヤをスノータイヤ(スタッドレス)に交換しようと考える。しかし、今回の初雪は早すぎる。おそらく一度雪が降ると、次に来るのは12月下旬だろう。すると早計にタイヤを交換すると、スノータイヤの磨耗がそれだけ大きい。でも、週間の天気予報をチェックすると、23日(金)にも雪マークが付いている。「さて、どうしよう」などと考えながら、今度は除雪用のスコップを収納小屋から出し、雪道用のブーツを用意した。で、山手にある金沢大学では雪も多いに違いないと、きょうはブーツを履いて出勤した。

 雪の予感は昨夜からあった。東京からの客人を迎えに夜の街に出た。みぞれまじり、氷雨だった。犀川大橋に立つと、身を刺すような冷たい風が一瞬に頬に当たった。

 きょうは午前9時すぎごろから、日差しが出て、屋根や街路の雪はまたたく間に消えていく。ブーツは早まった判断だったかと思いながら、大学の長い坂道を急いだ。

※写真は、金沢大学創立五十周年記念館「角間の里」の周辺。屋根に雪が載り、ダイコンの葉も雪で重そうだ。

⇒19日(月)朝・金沢の天気   はれ

☆ペーパーナイフ付の月尾本

☆ペーパーナイフ付の月尾本

 東大名誉教授で「ITの伝道者」、そして文明批評家でもある月尾嘉男氏が一風変わった本を出版した。限定1000冊、私が人を介していただいた本は520番のナンバリングがされている。著書名は「鄙には稀なる」(117頁)。読み仮名はふられていないが、「鄙(ひな)には稀(まれ)なる」と読むのだろう。地方には優れた人、モノが…と言った意味合いだろうか。
 
 国内外の広告業界の動きや広告活動を紹介する週刊の専門紙「電通報」に平成18年4月から1年間連載された文をまとめたもの。主に月尾氏が全国18ヵ所で主宰する月尾塾での講演旅行などで出会った地域の愉快な人々が稀人(まれびと)として紹介されている。ちなみに、「加賀の稀人」は白波の立つ日本海をクルーザーで出航する豪快な上場企業の会長の話。この会長は創業者だけあって、物怖じしないのだが、暗雲の方向へ向かっていくので、さすがに地元の案内役が止め入った。「途中で日本海で行方不明」となっていたかもしれないと。そんな豪快さの持ち主は今日では稀人なのだろう。

 地方の疲弊が新聞メディアなどで取り沙汰されている。しかし、「鄙には稀なる」という一見、都を中心にした発想は文面からは感じられない。全国を歩く月尾氏にとって、都市とは全く違う斬新な発想が生まれる場が鄙だといわんばかりに、地域の人々に秘める力強さや情熱、心意気が行間からにじみ出ている。

 月尾氏とは遠巻きながら2度、宴席でご相伴させていただいたことがある。酔うほどに笑顔で、講演でのシャープな語りとは違って寡黙になる。おそらく翌朝、趣味のスポーツであるカヤックをこぐためのエネルギーを蓄えておられるのだと察した。

 そして、この著書の最大の特徴はカヤックのパドル型のペーパーナイフがついることだ=写真=。ページの上部をナイフで切ってページを開く。木製のペーパーナイフなので切り開くときに少々力が要る。ところで、パドルとオールはどう違うのか。調べてみると、パドルはシートに座って前向きに進む船を漕ぐ場合にパドルを使用します。後ろ向きに進む船を漕ぐときにはオールを使うのだという。大学の職場で、私はこのペーパーナイフを「逸品だろう」と見せびらかしたところ、女性スタッフが横目で「バターナイフにいいかも」とさりげなく…。

 挿画は日本画家の平松礼二氏画伯。平松氏とは高校時代の同級生にして、カヤックの弟子だとか。ナンバー付きの限定本、超有名な画伯による挿絵画、パドル型ペーパーナイフ…。おそらく2度手にすることはない稀本である。

⇒15日(木)午後・金沢の天気  くもり