#コラム

☆続・地球世直し水戸黄門

☆続・地球世直し水戸黄門

 「地球世直し水戸黄門」、レスター・ブラウン氏にはそんな言葉がふさわしいかもしれない。レスター氏の講演(6月7日・金沢市)で印象に残るフレーズをノートからいくつかピックアップしたい。

  国連世界食糧計画(WFP)と国連食糧農業機関(FAO)は毎年、緊急の食料援助を必要とする国をリストアップしている。2007年5月にリストアップされたのは33カ国。このうち17カ国は内戦と紛争で、食料援助しようにも、その活動が阻まれるところ多い。つまり、援助部隊が襲撃されることもある。そんな国は間違いなく破綻に向かう。

  レスター氏は講演で「これら破綻に向かっている国の中にパキスタンがある」と力を込めたのか。パキスタンは核保有国だからだ。仮に、暴動が蔓延し、無政府状態になった場合、誰がその核兵器を管理するのか、とレスター氏は問題を投げかけたのである。一国のフード・セキュリティーを超えて、アジアの安全保障の問題になりかねない。

  この講演が気になって、レスター氏の近著「プランB 3.0」(ワールドウオッチジャパン)を読み込むと、「平和基金とカーネギー国際平和財団は『”破綻国家”は世界政治の脇役から、まさに主役になった』と指摘している」と記されている。かつての国際政治は核軍縮であったり、デタント(政治的な緊張緩和)がキーワードだった。それが、破綻国家が国際政治の主役に躍り出たとういことだろう。その典型的な例がパキスタンなのである。

  国際政治はイデオロギーや資源戦争、国境紛争を民族紛争、宗教戦争のレベルを超えて、気候変動による食糧不足、食糧高騰、内戦、政情不安、そして破綻国家という図式でもはや国際政治の主流になった。

  ところで、きょう(28日)早朝から金沢はバケツの底が抜けたような大雨に見舞われた。金沢市や白山市付近では1時間に120㍉を超える激しい雨となった。市内を流れる浅野川は数カ所で氾濫し、竹久夢二ゆかりの湯涌(ゆわく)温泉の旅館街でも土砂崩れた起きた。そして、午前8時50分に浅野川流域の2万世帯余りに、市から避難指示が出された。このゲリラ雨はひょっとして気候変動のせいか。

 ⇒28日(月)朝・金沢の天気   雨

★地球世直し水戸黄門

★地球世直し水戸黄門

 6月7日に環境学者のレスター・R・ブラウン氏を招いて、「2008環境フォーラムin金沢」を開催した。510人の方々が、「地球温暖化と人類文明の危機」をテーマにしたレスター氏の講演に耳を傾けた。

 その講演会でのこぼれ話。レスター氏はペットボトルの水を嫌がった。水をわざわざペットボトルに入れなくても、水差しでよい、石油を原材料にする経済の仕組みはもう転換すべきだとはレスター氏の主張だ。そして講演20分前には瞑想に入り、スニーカーで登壇した。

  金沢の前は上智大学、その前は中国、金沢の翌日はソウルと世界を駆け回って、地球温暖化問題を訴え続けている。その情報は新しく、数字も正確。その講演の一部始終を聴いたある友人の感想は、「レスター・ブラウンは現代の『地球世直し水戸黄門』といった雰囲気があるね」と。

  このフォーラムの模様はきょう(21日)午後4時からCS放送「朝日ニュ-スター」で放送される。番組タイトルは「地球温暖化と人類文明の危機~レスター・ブランの警鐘~」(90分)。

⇒21日(祝)午前・金沢の天気  はれ

☆暑気払い、ショートな話題

☆暑気払い、ショートな話題

 ガソリン高騰、連日30度を超える猛暑、うだる暑さ。こんなときにこと、軽いタッチでブログを書いてみよう。題して「暑気払いブログ」を…。
 
         ベートーベンと能登通い
 
 この「自在コラム」でも何度か取り上げたベートーベンの話を再度。昨年10月から、金沢大学が運営する「能登里山マイスター」養成プログラムに携わっていて、能登通いが続いている。車で大学から片道2時間30分(休憩込み)をみている。何しろ能登学舎があるのは能登半島の先端、距離にしてざっと160㌔にもなる。早朝もあれば、深夜もある。体調がすぐれないときや、疲れたときもある。運転にはリスクがつきまとう。同乗者がいればまだよいが、怖いのは一人での運転である。眠気が襲う。

  この眠気対策に、イヤホンをしてベートーベンを聴いている。この話を同僚にすると、「えっ、クラシック。逆に眠くならない」と言われる始末。ところが、私の場合は「特異体質」なのか覚醒する。交響曲の3番、5番、6番、7番、8番などはドーパミンがシャワーのように降り注いでくるのを実感できる。さらに都合がよいのは、演奏時間が3番47分、5番30分、6番35分、7番33分、8番26分、しめて171分だ。すると、能登の片道2時間半にはお釣りがくるくらいに楽しめるというわけ。こんな調子だから、能登通いは苦痛どころか楽しい。バスだとさらに山並み田園の景色が楽しめる。

  話は横道にそれる。5月にドイツを訪れたとき、オーバタールのホテルで前田幸康氏とあいさつをさせていただく機会に恵まれた。前田氏は加賀藩前田家の末裔の方で、ドイツのフライブルク弦楽四重奏団のチェリストである。帰国して、お礼のメールを差し上げた。その折、一つだけ質問を試みた。「前田さんは、ベートーベンのシンフォニーの中で一番のお気に入りはなんでしょうか」と。演奏者はベートーベンと一番近い存在であり、ぶしつけな質問を承知だった。後日、丁寧なメールをいただいた。

  「交響曲の中で何がというご質問であれば、6番の田園と申し上げましょう。自然描写の素晴らしさ、その裏付けが出来たのが1974年に私自身このハイリゲンシュタットというベートーヴェンの散歩道を歩いた時でした。(ウイーン郊外)まさにのどかな丘陵地帯、緑が多く当時ではブドウ畑につながり、鳥のさえずり、若い私は田園風景とその描写に、『なるほど』と感激をいたしました。これこそ作曲家の技術と感性の相互作品と思いました。」

  追想する風景にその感性が潜み、それを見事に描き切っているのは田園である、と。短文ながらも、前田氏の的確な表現である。

 ⇒20日(日)午前・金沢の天気   はれ

★Keith Jarrettの調べ

★Keith Jarrettの調べ

 「麦屋弥生」という女性とは面識はなかった。6月16日付の朝刊を読んで、「もしやこの人か」と思った。岩手・宮城内陸地震(6月14日発生)で、宮城栗原「駒の湯温泉」で被災し亡くなられた。

 3年前の冬だった。金沢の行きつけのスナックに入ると、珍しくジャズピアノのキース・ジャレット(Keith・Jarrett)のCDがかかっていた。キース・ジャレットは1975年に初めて、当時のPLで「ケルン・コンツェルト」を聴き、すっかりファンになった。鍵盤を回すような軽快な旋律、そして興に乗って発せられるキース・ジャレット自身の呟きが、いかにも即興ライブという感じで、心に響く。

 「このCDはマスターの趣味」と尋ねると、「最近よく店に来てくれる女性がこれかけてと持ってきてくれたもの。元JTBにいて、いま金沢で観光プランナーの仕事をしているとか。なかなかセンスのいい女性でね」とマスター。「同好の士だよ。お話をしてみたいな」と返した。それだけのことだった。CDアルバムのタイトルは「The Melody At Night、With You」。その後もスナックにはたびたび通ったが、キース・ジャレットのCDを持ち込んだ女性とは言葉を交わすチャンスは巡ってこなかった。

 その人は、「観光・交流による地域づくりプランナー」の肩書きを持つ麦屋弥生(むぎや・やよい)さん。日本交通公社に勤め、その後独立して温泉観光地の再生や自治体の観光振興計画の策定に携わった。2004年4月から、金沢市を拠点に「観光・交流による地域づくり」のフリープランナーとして活躍した。

 先日、そのスナックに久しぶりに足を運んだ。マスターと3年前のことを話し、そのCDをかけてもらった。故人が好きだったという曲を改めて聴くと、静かな夜想曲(ノクターン)のような曲だった。面識はなかったが、彼女はどれだけキース・ジャレットに癒されたことだろうと想像した。聴き入っているマスターのメガネの奥には涙がにじんでいるのが見えた。麦屋弥生、享年48歳。

⇒12日(土)夜・金沢の天気  はれ

 

☆コウノトリのいる風景

☆コウノトリのいる風景

 能登半島の先端の水田にコウノトリが飛来しているというので、先日、観察にでかけた。昼過ぎだったが、あいにくお目にかかれなかった。近所の人の話だと、午前か夕方の方が現れる確立が高いという。

 飛来しているコウノトリには足環がないことから、兵庫県豊岡市で野生放鳥されているコウノトリではなく、どうやら大陸から飛んできたらしい。2005年7月にも飛来が確認されていて、3年ぶりということになる。近所の人の話が面白い。この水田地帯にはサギ類も多くエサをついばみにきている。羽を広げると幅2mにもなるコウノトリが優雅に舞い降りると、先にエサを漁っていたサギはサッと退く。そして、身じろぎもせず、コウノトリが採餌する様子を窺っているそうだ。ライオンがやってくると、退くハイエナの群れを想像してしまった。サギ類はコウノトリ目サギ科の鳥である。

 今回のコウノトリの滞在は前回より長い。前回は2週間ほど姿を見せただけだった。今回は、5月中ごろからなのでもう2ヵ月ほどになる。おろらくいつか飛び立っていくだろう。今度くるときは、パートナーを連れてきてほしい。近所の人たちは、そんな話をしている。(写真は、坂本好二氏撮影・6月9日)

⇒9日(水)夜・金沢の天気  はれ

☆ドイツ黙視録‐5-

☆ドイツ黙視録‐5-

  5月27日、アイシャーシャイド村の生け垣の景観を眺めながら、愛用のICレコーダーで聴いたベートーベンのシンフォニー第6番「田園」。その日の夕方、生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)の関連会議が開かれるボンに入った。午後7時半から開催される、ボン市長のベルベル・ディークマン女史主催のディナーレセプションに出席するためだ。会場となったのはボン大学付属植物園だった。18世紀に造られたという宮殿とその庭園がいまは植物園になっている。ハスの池からはカエルの鳴き声が聞こえ、ここにいても「田園」の心象風景がぴったりくる。おそらく、レセプション会場を選定するにあたって、COP9の開催地を相当意識してこの場を選んだのだろうと、市長の心意気を感じた。25ヵ国80人ほどがガーデンパーティーを楽しんだ。

           ボンの謎、ベートーベンとワイン

  このパーティーが始まる前、少し時間があったのでボン大学近くにあるベートーベンの生家=写真・上=を訪ねた。夕方であいにく閉まっていた。外観だけの見学となった。ベートーベンの誕生は1770年12月16日。通称「ベートーベンハウス」は、注意していないと見落とすくらい街に溶け込んで、日本でいう町家という感じ。ガイドブックに載っていた、ベートーベンが使ったバイオリンやピアノ、ラッパのように大きな補聴器をぜひ見たいと思ったのだが。それにしても、ベートーベンは意外と「都会っ子」だったのだと認識を新たにした。

  その時代をウイキペディアなどで調べてみた。18歳のベートーベンはケルン選帝侯マキシミリアン・フランツが開いたとされるボン大学の聴講生となる(1789年5月)。その翌年90年にボンに演奏にやってきたハイドンと出会う。1792年11月、ハイドンに師事する許しを選帝侯から得て、ボンからウィーンへ旅立つ。青年ベートーベンは人生の選択をしたのである。フランス革命が派手に展開し、ルイ16世がジロンド派による人民投票でわずか1票差でギロチン台に上がったのは3ヵ月ほどたった93年1月21日のことである。

 ベートーベンが大学の聴講生だったころによく通ったという書店兼レストラン(現在はレストランのみ)=写真・下=が今でもあり、ボン市長主催のガーデンパーティーの後に訪れた。奥の広まったホールの一角に、ベートーベンがよくすわっていたという座席があった。その場所にベートーベンの肖像がかかっている。読書会によく参加していたらしい。1389年に創業したというその店の自慢は牛肉をワインで漬けて煮込んだもの。それに自家製の白ワイン。かつてベートーベンも愛飲したというシロモノで、味わい深く飲んだ。

  ところで、20代後半から難聴に悩まされたベートーベン。確か中学校のころに音楽の先生から学んだ記憶では、父親ヨハンから音楽のスパルタ教育を受け、たびたび頬をぶたれたことが聴覚障害の原因と脳裏に刷り込まれている。ところがウイキペディアでは、若いころ愛飲したワインに起因する新説が出ている。それは、最近の研究で、「ベートーベンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出され、これが肝硬変を悪化させ死期を早めた(ベートーヴェンはワインが好物で常飲していたが、当時のワインには酢酸鉛を含んだ甘味料が加えられており、鉛はこの酢酸鉛に由来する)とも」と。

 当時のワインが聴覚障害を引き起こす原因になったとは信じ難い。が、くだんの店で飲んだあのワインがひょっとして、と思うと少々複雑な気分に陥った。

⇒21日(土)夜・金沢の天気  くもり

★ドイツ黙視録‐4‐

★ドイツ黙視録‐4‐

 前回も述べたようにミュンスターば「ウェストファリア条約」が締結された地。1618年から30年間続いたヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタントによる宗教戦争が話し合いによって解決した。そのウェストファリア条約が結ばれた歴史的な建造物が今はミュンスター市役所となっている。その1階の「フリ-デンスザール(平和の間)」=写真=で歴史的な誓約調印が行なわれた。チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世がこのフリ-デンスザールを訪れたのは昨年(07年9月20日)のこと。

        ミュンスターの「平和の間」とダライ・ラマ

  実は、ダライ・ラマはヨーロッパで抜群の集客力を誇る仏教徒だ。ことし5月13日から23日にイギリスとドイツを巡った折、ブランデンブルクの集会には2万人を集めたという。しかも、講演会形式で日本円換算で数千円を払ってである。ダイラ・ラマは、経済のグローバル化が進展するのであれば、それにふさわしい倫理もまた必要と説いたそうだ。ダライ・ラマは1973年に初めてヨーロッパの地を踏んで、毎年のように欧米を訪れ一般市民らと対話を交わしてきた。確固たる人気は、その積み重ねなのだろう。しかも、異教の地で。北京オリンピックの聖火リレーで反中国の狼煙(のろし)が上がり、妨害が先鋭化したのはヨーロッパだった。中国政府がダライ・ラマをバッシングすれば反中国のリアクションがヨーロッパで起きるという構図が出来上がっているかのようである。

  5月23日、そのフリ-デンスザール(平和の間)に入った。ミュンスター市副市長、カルン・ライスマン女史が石川からの訪問団をこの部屋で迎えてくれた。この部屋の家具はオリジナルで、第二次世界大戦の間は疎開して、連合軍の空爆を免れたことなどの説明があった。部屋の壁面にはウェストファリア条約の締結に立ち会った各国の代表の肖像画が掲げられている。何か、「歴史の舞台」という重厚さを感じた。

  その後、ミュンスターで3番目に古いというビアホールに入り、食事を取った。ライスマン女史も同席されたので、ちょっと意地悪な質問を試みた。「中国政府はダライ・ラマ氏について中国政府は中国分断を図る活動家と評しているが、あなたはどう思うか」と。ちょっとためらいながらライスマン女史は「その質問は答えにくい。ドイツ、そしてミュンスターの企業も中国に進出している。そうした事情を察してほしい。ただ、チベットの問題は話し合いで解決してほしい」とだけ。ライスマン女史はキリスト教民主同盟の市議会議員のリーダーで副市長。副市長という立場ではそこから先の言葉は控えたのだろう。

 食後、お別れの握手した折、何か言いたそうだったが、通訳の女性がたまたま離れていて言葉を交わすことができなかった。

 ⇒15日(日)夜・金沢の天気   くもり

☆ドイツ黙視録‐3-

☆ドイツ黙視録‐3-

 ドイツでミュンスターといば、世界史の教科書に「ウェストファリア条約」が締結された地として出てくる。1618年から30年間続いたヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタントによる宗教戦争が講和条約の締結によって終止符が打たれた。つまり、戦争が話し合いによって解決した史上初のケースとなり、内政不干渉など近代国際法の原型ともなった条約、とここまでは世界史で習った。ウェストファリア条約から350周年を祝う行事が1998年10月、ミュンスターで開かれた。条約の調印に参加した各国代表の子孫たちが集まり、単一通貨ユーロの導入(99年1月)に至るまでに結束した欧州連合(EU)の発展を祝ったのである。

     ミュンスター・「環境首都」の試み

  そのミュスターでいま注目されるのが環境である。その取り組みを象徴する言葉として、自転車、エネルギー・パス、エコ・プロフィットがある。以下は、ミュスター市環境保全局長のハイナー・ブルンス氏の説明による。同市は、ドイツのNGOであるドイツ環境支援支援協会(DUH)が選ぶ「ドイツ気候保護首都」に1997年と2006年の2回認定された。2004年には国連環境計画暮らしやすい街コンテストで金賞も得ている。とにかく、省エネルギーを徹底している。ミュスターでは住宅でも古い建物が多く、これをリフォームによって高気密・高断熱化することでエネルギー効率を高めようという政策である。窓を2重、3重ガラスにしたり、外壁の断熱材を10㎝から15cmに、また屋根にも断熱材を入れて熱を逃がさない。

  何しろドイツでは9月ごろから徐々に寒くなり、冬は11月から3月と長い。この間は暖房に頼った生活になる。ドイツ全体では、二酸化炭素の排出量の約3分の1が室内暖房や温水利用に起因とすると言われている。しかもエネルギー料金は確実に値上がりしており、暖房費をいかに安く抑えることができるかということに自然と市民の関心も集まる。さらに、市では住宅改修の補助金を、改修前と比較した建築物の省エネルギー率を高めるほど補助金額が高くなる仕組み(1997年‐2005年)にした。ちなみに省エネ率を30%以上にすると、補助金率15%(上限約350万円)だ。また、毎年、「ハウス・オブ・ザ・イヤー」賞を設け、優れた改築を行なった住宅を表彰している。

  2004年、EUは「建築物における総合エネルギー効率に関する指令」によって、ヨーロッパの建築物の所有者は、エネルギー消費量等を示した「エネルギーパス」を住宅の購買や賃貸契約の際に提示することを義務付けた。エネルギーパスは建築物に関する情報の他に、エネルギー需要のレベルや年間の暖房需要量、最終エネルギー消費量、二酸化炭素の排出量などが明記される。これを受けて、ミュンスターでは、住宅のエネルギー消費量を、自主的なレベルで、住民が知ることができる仕組みを作った。これには意外な効果があった。省エネ率が高ければ高いほど家賃が高く取れることにもなり、ビルのオ-ナーたちがこぞって省エネのために改修投資をし、「雇用の創出にもなった」(ブルンス局長)。

  続いて、ミュンスター単科工科大学を訪れた。この大学は「エコ大学」としての取り組みを行なっている。たとえば、学生たちに「窓を開けたら、暖房を消せ」と注意するステッカーを窓に貼っている。乾電池やプリンターカートリッジを所定の箱に入れて電気店に持っていくと、抽選でプレゼントが当たるお楽しみをつける。トイレで流す水を雨水にし、紙タオルを布タオルに替えた。さらにゴミの分別を徹底するなど生きた環境教育を8000人の学生に施している。そして、環境マネジメントシステム「エコプロフィット」の認証を取得した。エコプロフィットは、「統合的環境技術のためのエコロジープロジェクト」の略称。ミュンスター市の主導によって、地域の企業が、環境専門機関の指導を受け、環境保護と光熱費といった経費の削減を実現することを目的にした環境マネジメントシステムのこと。同市内の企業の10%余りが認証を受けている。

  さらに同市にはドイツで最も先進的といわれる熱電供給プラント(天然ガス使用)や、風力発電は22基、ソーラー発電にも取り組んでいる。こうやって、ミュンスター市では1990年を基準に2005年までに21%の二酸化炭素削減に成功し、2020年までに40%の削減を目指している。

  最後に面白い話を聞いた。ミュンスターは別名「自転車の首都」とも言われている。何しろ人口28万人に対し30万台以上の自転車があり、職場や学校に、買い物にと、老若男女、市長もシスターもパトロール中の警官も、多くの人々が自転車で移動している。ブルンス局長ももちろん愛用の自転車で通勤している。

 ⇒3日(火)夜・金沢の天気   くもり 

★ドイツ黙視録‐2-

★ドイツ黙視録‐2-

 ドイツを訪れるに際して、ベートーベンのシンフォニー3番、5番、6番、7番、8番がダビングしてある愛用のICレコーダーを携えた。故・岩城宏之が05年12月31日の大晦日に東京芸術劇場で指揮したベートーベン全交響曲のライブ演奏を私的に録画したものだ。ケルンの街には5番が合うなどと思いながら、移動のバスやホテルの窓から街を眺め、そして街を歩きながらイヤホーンを耳に聴いていた。中でも、5月27日に訪れたアイシャーシャイド村は、6番の心象風景にぴったりだった。

     アイシャーシャイド・美しすぎる村

  アイシャーシャイド村は、生け垣の景観を生かした村づくりで、ドイツ連邦が制定している「わが村は美しく~わが村には未来がある」コンクールの金賞を受賞(07年)した、名誉ある村である。景観という視点で地域づくりを積極的に行なっている村の政策や経緯を知りたいというのが知事ミッションがこの村を訪れた理由だ。

  人口1300人ほどの村が一丸となって取り組んだ美しい村づくりとはこんなふうだった。クリ、カシ、ブナなどを利用した「緑のフェンス」が家々にある。高いもので8mほどにもなる。コンクリートや高層住宅はなく、切妻屋根の伝統的な家屋がほどよい距離を置いて並ぶ。村長のギュンター・シャイドさんが語った。昔は周辺の村でも風除けの生け垣があったが、戦後、人工のフェンスなどに取り替わった。ところが、アイシャーシャイドの村人は先祖から受け継いだその生け垣を律儀に守った。そして、人工フェンスにした家には説得を重ね、苗木を無料で配布して生け垣にしてもらった。景観保全の取り組みは生け垣だけでなく、一度アスファルト舗装にした道路を剥がして、石畳にする工事を進めている。こうした地道な村ぐるみの運動が実って、見事グランプリに輝いた。

  おそらくこの村には北ヨーロッパの三圃式農業の伝統があるのだろう。かつて村人は、地力低下を防ぐために冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)とローテーションを組んで農地を区分し、共同で耕作することを基本とした。このため伝統的に共同体意識が強い。案内された集会場にはダンスホールが併設され、バーの施設もある。ここで人々は寄り合い、話し合い、宴席が繰り広げられるのだという。おそらく濃密な人間関係が醸し出されているに違いない。ベートーベンの6番「田園」の情景はアイシャーシャイド村そのものである。第1楽章は「田舎に到着したときの晴れやかな気分」、第2楽章「小川のほとりの情景」、第3楽章「農民達の楽しい集い」・・・。のどかな田園に栄える美しきドイツのコミュミティーなのである。

  しかし、私には「わが村は美しすぎる」と感じた。濃密な人間関係で築かれた美観というのはどこか息苦しさを感じさせる。次元は異なるかもしれないが、金沢の町内会で道路の一斉除雪に参加しないと近所から白い目で見られるような、そんな雰囲気がひょっとしてあるのではないか、と…。

⇒31日(土)夜・金沢の天気  くもり 

☆ドイツ黙視録‐1‐

☆ドイツ黙視録‐1‐

 石川県知事の訪独ミッション(5月22日から30日)に加わり、ドイツの環境政策の現場や大学における環境教育の取り組みを見学させてもらった。28日には生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)の関連会議に参加した。「ドイツは環境先進国」と呼ばれるが、どの点が先進なのかつぶさに観察を試みた。題して「ドイツ黙視録」-。

        シュバルツバルトの爪痕

  5月25日、ドイツの南西部に位置するオーバタール村にバスは着いた。ドイツの里山とも言えるシュバルツバルト(黒い森)が広がる。これまで勘違いをしていた。第二次大戦後、スイスやフランスの工業地帯と接しているため、酸性雨の被害によって、多くのシュバルツバルトの木々が枯死した。黒い森とはこうした状況を指しているのかと思っていた。が、黒い森はかつてモミの木が生い茂り山々が黒く見えたことから付いた名称なのである。黒い森と名付けたのはローマ人という説もあるくらい、昔からの呼称だった。

  案内してくれたバーデン=ヴュルテンベルク州森林局長、フロイデンシュタット氏は「昔から森の木々は私たちのパンなんです」とドイツ人と森のかかわりについて話してくれた。ドイツ人はもともと「森に入る民」だった。木を切り、建築材やエネルギー(薪など)を産出した。切った跡には牧草を植え、ヤギやヒツジを飼った。シュバルツバルトは200年ほど前まで牧草地が広がっていた。産業革命の波がヨーロッパにも及び、森にはトウヒ(唐檜)が計画的に植林され、良質の建材、電柱、船のマスト、楽器の素材を産出する一大植林地帯へと変貌していく。現在、山の木の70%が植林によるトウヒだ。かつてシュバツルバツトの語源ともなったモミの木は20%、マツは10%、ブナ3%とすっかり山の様相が変わった。

  「森の木々はパン」のお手本のような森林産業がシュバルツバルトに実現したのだった。ところが、人の手によって、トウヒの森へとモノカルチャー化した山々にはさまざまな問題が生じるようになる。密植により、低木に光が当たらなくなり、保水性が失われた山肌には地滑りが頻発するようになった。そして戦後の経済成長に伴って、酸性雨の問題が生じる。さらに、気候変動によって嵐が襲うようになったのはここ10年ほどのこと。1999年のクリスマスにやってきた「ローター(Lothar)」と呼ばれた大嵐による森林被害の爪痕(つめあと)は1万haにも及んだ。

  その大嵐の被害状況を保存し、記念公園にした「Lothar pfad(ローターの足跡)」をフロイデンシュタット氏に案内してもらった。「根こそぎ」とはこの状態を言うのだろう。直系6mにも広がるトウヒが根ごと倒れている=写真=。トウヒの根はもともと浅い。深く根をはるはモミの木などは途中でボキリと折れた。このときのトウヒやモミの森林被害は3000万立米と推測され、シュバルツバルトの20年分の木材出荷量に相当する損害となった。トウヒは種が取りやすく大規模な植林に適しているものの、根が浅く風に弱い。その盲点を突くかのように大嵐が数年に一度の割で襲ってくる。当然、単一樹林化への反省が生まれ、森林局では複層林へと森林政策の転換を図っている。

  ここで疑問が湧いた。根こそぎ倒れ荒廃した森林を公園として見せる価値はあるのだろうか。まして、キクイムシなどの害虫が異常繁殖すれば2次被害が生じる。この質問にフロイデンシュタット氏はニコリと笑って、我々にこう説明した。「幸いキクイムシの2次被害はいまのところ出ていない。それより、倒れた木の間に若い木が伸びてきているでしょう。私たちは森の自然の治癒力というものを子供たちに学んでほしいと思いこの一角を保存したのです」と。確かに倒木の隙間からトウヒやモミなどの針葉樹のほか、ナナカマドやブナなどの広葉樹の若木が育っている。倒木の根に巣をかけた鳥たちのさえずりもにぎやかだ。

  この「Lothar pfad」には年間5万人の見学者がやってくるという。カタストロフィ(破壊)から再生へ。大嵐の爪痕は生きた環境教育の場として生かされている。

 ⇒30日(金)夜・金沢の天気   くもり