#コラム

☆先端はフロンティア

☆先端はフロンティア

 春の嵐のように北陸地方は荒れ模様だ。きょうは思いつくままに書く。金沢大学里山プロジェクトの代表研究者、中村浩二教授は常日頃、「大学らしからぬことをやろう」と周囲に話している。中村教授が先頭に立って、2006年10月に三井物産環境基金を得て、能登半島の最先端に「能登半島 里山里海自然学校」を開設した。これまでの、あるいは今でも、大学の在り方は、学問や勉強をしたい人は大学の門をたたけば入れてあげるというスタンスだ。中村教授の「大学らしからぬこと」は、能登へ出掛けようと言い切って実行したこと。この点がこれまでの大学の流儀と全然違うところだ。

 石川県珠洲市で廃校になっていた「小泊小学校」という学校施設を借りして、研究と交流の拠点をつくった。このとき、地域の人からこんなことを言われた。輪島の人は「奥能登の中心と言ったら輪島やぞ。なんで輪島につくらんがいね」と。そして、珠洲の人は「珠洲の中心は飯田やがいね。なんで辺ぴな小泊みたいなところにつくるのや。なんで飯田につくらんがいね」と。中村教授を始めとして我われは天邪鬼(アマノジェク)でもあり、なるべく過疎地へ行って拠点を構える。そうすることによって、新たな何か発見があると考えたのだ。買い物や人集めに便利だとか考えて中心に拠点を構えて何かをやろうとするのはビジネスの世界だ。研究の世界ではそうはいかない。まず、人気(ひとけ)のいない過疎地で研究拠点を構え、そこでじわじわと地域活性化の糸口をつかんでいく、あるいは大学の研究のネタを探していく。足のつま先を揉み解すと血行がよくなり体の全体がポカポカしてくるのと同じだ。

 いま、能登半島の先端の珠洲市は風力発電やマグロの蓄養など環境を生かした産業づくりに頑張っている。すると、周辺の自治体も負けてはいられないと、木質バイオマスや里海を生かした施策に乗り出してきている。先端が中心を刺激するというスパイラルが我々が理想としていたことだ。

 さらに、先端は研究のフロンティアでもある。珠洲の人が「辺ぴなところ」と呼んだ片田舎の小学校だが、もしこれがテナントビルだったら「満室御礼」だ。1階に「能登半島 里山里海自然学校」。ここでは生物多様性の研究をしている。2階は科学技術振興調整費による「能登里山マイスター」養成プログラム。これは環境人材の養成、いわば社会人教育の拠点。ここで35人の人材を育成している。来月から3期生20人余りが新たに受講にやってくる。5年間で60人を養成する予定。さらに3階には「大気観測・能登スーパーサイト」(三井物産環境基金の支援)が入り、黄砂の研究をしている。

 先端に拠点を構えたから、研究のフロンティアとしての価値が見出され、続々と研究者が集まってくるようになった。「大学らしかぬこと」とは研究のチャンスを冒険的に見出すことと考えると分かり易い。

※廃校だった小学校を研究交流拠点としてリユースし、校庭では黄砂採取の気球が上がる。

★福沢諭吉とメディア-下-

★福沢諭吉とメディア-下-

 「福沢諭吉とメディア」のタイトルで連載しているが、福沢のもう一つのメディアが出版だった。明治2年(1869)に「福沢屋諭吉」名義で出版業組合に加入し、「西洋事情」を初出版。アメリカ、イギリスなど当時の先進国の社会や政治経済を紹介した。これが当時、人口3000万人といわれた日本で25万部売れた。明治5年(1872)の「学問のすすめ」もベストセラーとなった。鎖国から文明開花に急転した時代、人々は活字情報に目覚めていたに違いない。福沢のメディア戦略はこの時代の雰囲気を十分に読み取って展開していく。その延長線上で、新聞事業である時事新報が合資会社「慶応義塾出版社」を母体に立ち上がった(明治15年、1882)。

        コンテンツビジネスの元祖

  福沢は新聞事業と出版事業を巧みにメディアミックスしている。時事新報の社説で自らの論説を一つのテーマで連続的に掲載していく。そのテーマの中から読者から手応えがあったものを、今度は出版するという手法だ。「時事大勢論」「帝室論」などのヒット作品が次々生まれた。いまの手法で言えば、コンテンツの二次利用。テレビの連続ドラマの中で視聴率が高かったものを映画化して劇場公開、その後にDVD化、BC放送やCS放送で放送し、最後に「地上波初放送」とPRして自社の映画番組で放送する。一粒で二度も三度もおいしい(利益が出る)コンテンツビジネスの先駆けである。

  ビジネスと順風満帆でスタートした新聞事業だったが、創刊して3ヵ月後の6月8日付が突然、発行停止となる。当時、新聞は「新聞紙条例」(明治8年)で規制されていた。「国安の妨害」の理由に内務大臣が発行禁止あるいは停止にできた。5月1日にスタートさせた連載社説「藩閥寡人政府論」を時の政府は咎(とが)めた。薩摩と長州で主要閣僚が占められるのでは、日本が今後国会を開設する際の妨げになるとの論調だったといわれる。4日後の12日に停止処分は解かれるが、権力側からの警告メッセージだったのだろう。「次は発禁(=廃刊)」との。

  もともと福沢の政府への論調は敵対ではなく、調和である。政府の参議であった大隈重信、伊藤博文、井上馨からイギリス流の議会を開設するので、国民を啓蒙するような新聞をつくってほしいと請われ、議会開設論者だった福沢は3参議に協力を約束し、準備に入る。ところが、大隈、伊藤、井上の不和が表面化し、議会開設のプロモーターだった大隈が明治14年(1881年)10月に突然辞任する。議会開設プランが事実上、頓挫してしまう。機材、人材を用意し新聞発行の準備を整えていた福沢は引くに引けない状態に陥るものの、中上川彦次郎(後に「三井中興の祖」と呼ばれる)の協力を得て、時事新報の創刊に踏み切る。だから、もともと政府権力と敵対する目的で新聞事業を始めたわけではない。議会開設を先導するこそが自らの信念の具現化だった。「藩閥寡人政府論」も議会開設に向けた正論を押し出したものだった。その議会が開設するのは大隈辞任の9年後の明治24年(1891)のことである。

  「独立自尊迎新世紀」の揮毫を最後に一つの時代を駆け抜けた福沢は明治34年(1901)2月3日に脳溢血で亡くなる。時事新報はその後、昭和10年(1935)11月、大阪進出が裏目に出て経営が傾き廃刊に追い込まれる。昭和21年(1946)元旦に復刊するものの、昭和25年(1950)に産経新聞と時事新報が統合するかたちで「産経時事」の題字として再スタート。が、昭和33年(1958)7月にその題字は産経新聞に戻る。新聞としての時事新報はなくなったが、株式会社としての時事新報社はまだ産経新聞社が引き継ぐかたち存続しているという。※写真は、慶応義塾大学三田キャンパスの福澤諭吉像

 <参考文献>「新聞人福澤諭吉に学ぶ」(鈴木隆敏著・産経新聞の本)

⇒10日(火)朝・金沢の天気  くもり

☆福沢諭吉とメディア-中-

☆福沢諭吉とメディア-中-

 東京国立博物館の「福沢諭吉展」を見終え、売店で絵葉書を5枚買い求めた。葉書の裏の絵は「文明論之概略」の表紙、「慶応義塾之目的」書幅、「学問のすすめ」(初版)、慶応義塾図書館ステンドグラス原画(和田英作)、福沢諭吉ウェーランド経済書講述図(安田靫彦)。絵葉書の裏絵とは言え、それぞれに歴史的あるいは文化的な価値があり、少々重い。ちなみに値段は一枚50円だった。

       政府の提灯は持たぬ  

  「政府の提灯は持たぬが、国家の提灯は持つ」。そう言い切って、福沢は明治15年(1882)3月1日に「時事新報」を発刊した。いまから127年のことだ。紙名もイギリスのタイムズにちなんだといわれる。

  当時、新聞はすでに相次ぎ創刊されていて、2つの系統に分かれていた。自由民権運動のさなかで、「自由新聞」は板垣退助の自由党の機関紙、「郵便報知新聞」は大隈重信がつくった立憲改進党の機関紙だった。これら政党色の強い新聞を当時、大(おお)新聞と呼んだ。一方、娯楽性を強調した大衆紙を小(こ)新聞と呼んで区別した。読売新聞(1874年発刊)、朝日新聞(1879年発刊)のスタートはこの小新聞だった。大新聞は政府の弾圧を受けたりと消長が激しかった。小新聞は徐々に大新聞の要素を吸収して「中新聞」として生き残った。

  明治初期にあって、現在の新聞のポリシーに最も近かったのは時事新報だった。福沢は、大新聞とは違って、財政的な独立なくして言論の独立はないと考え、広告を重視して経営基盤を固めた。どの政党にも属さずに、言論の独立性を高め、タイムズのような高級紙を目指すにはまず経営基盤を高めるというのは自明の理と言える。そして、福沢は門弟たちに、広告の取次業として起業することをすすめる。いわば、明治のニュービジネスである。もちろん、当時の新聞はニューメディアだ。福沢にはこうしたビジネス感覚があったのだ。

  もう一つ、福沢のメディア的な感覚が見て取れるのは「漫画」である。文字ばかりの紙面では当然読みづらい。そこで、視覚的な要素を紙面に取り込んだ。アメリカ帰りの挿し絵作家、今泉秀太郎を時事新報に迎え、腕を振るわせた。今泉の代表作に「北京夢枕」がある。四書五経を枕にアヘンを吸いながら横たわる中国人(ガリバー)の足元で、欧州勢(小人の国の兵隊)が勝手なことをしでかしている錦絵だ。こうなると、現在の漫画のイメージをはるかに超えて、「漫画ジャーナリズム」というタッチである。

  明治29年に、アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)で鉄道工学を学んだ二男の捨次郎が時事新報の社長に就く。時事新報は発刊から海外ニュースを売りにしていたが、明治30年4月、イギリスのロイターと記事配信の独占契約を結ぶ。他紙は時事新報より一日遅れで海外ニュースを掲載せざるを得なかった。福沢は当時62歳。時事新報は大新聞や小新聞ではなく、高級紙としての地位を次第に確立していく。

※写真は、福沢が明治8年(1875)に創設した三田演説館。英語のスピーチを「演説」、デベートを「討論」と訳したのは福沢だった。社会活動として一般市民向けに演説が行われた。自身は236回、熱弁を振るったといわれる。 

⇒8日(日)夜・金沢の天気 はれ

★福沢諭吉とメディア-上-

★福沢諭吉とメディア-上-

 東京・上野の東京国立博物館で開催されている「未来をひらく 福沢諭吉展」を鑑賞する機会に恵まれた。訪れた日の関東地方は肌寒く、桜の名所・上野で咲いていたのは早咲きのオオカンザクラ一本だけ。それでも、人々は足を止め、桜に見入っていた。

      「独立自尊迎新世紀」      

  福沢諭吉展のテーマは「異端と先導~文明の進歩は異端から生まれる」。1万円札に描かれている人のどこが異端なのかというと、明治維新後、蘭学を修めたような知識人たちはこぞって官職を求めたが、福沢は生涯を無位無官、一人の民間人で通した。「独立自尊」を身上とし、政党に属さず、民間人の立場から演説をし、言論というものを追求していった。請われても、権力に属さなかった。幕府を打倒し新たな権力構造をつくり上げていった薩摩や長州の「藩閥の群像」とは明らかに異なる。「際立つ個」、明治という時代にあってこれは異端だった。

  このエピソードは有名だ。明治4年(1868)5月15日、上野の彰義隊が寛永寺で新政府軍と衝突した。砲音が響き、火炎が立ち上る中、すでに慶応義塾を主宰していた福沢は時間割通り、塾生たちに経済学の講義(フランシス・ウェーランドの経済学綱要)を行った。福沢は「この慶応義塾は、日本の洋学のためには和蘭の出島と同様、世の中に如何なる騒動があつても変乱があつても、未だ曾て洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ」と、当時の文明であった洋学の吸収と普及に毅然とした。彰義隊を粉砕した新政府軍の指揮官は西郷隆盛だった。

  では、福沢はいわゆる「西洋かぶれ」だったのか。福沢諭吉展で紹介された諭吉の写真のほとんどは和服姿である。「身体」を人間活動の基盤と考え、居合刀を日に千回抜き、杵(きね)と臼(うす)で自ら米かちをした。身を律して、4男5女の子供を育て、家族の団欒(だんらん)という当時新しいライフスタイルを追求した。公費の接待酒を浴びるほど飲んで市中を暴れまわった新政府の官員(役人)たちを横目に、「官尊民卑」と「男尊女卑」に異議を唱えた。明治33年に夫妻そろって撮影した記念写真が会場に展示されている。夫婦ツーショットはひょっとして日本初ではなかったか。

  先のエピソードで紹介した西郷と、福沢は面識がなかった。が、晩年の福沢は西南戦争で没した西郷を称えた。新政府で天下をとり栄華に浸る者たちと一線を画し、下野した西郷の「無私」に共感した。そして、政府官員が西郷を「賊」と決めつけたことに怒りを感じたのだった。  福沢は維新とは一体何だったのかと問うた社説を、自ら興した新聞「時事新報」に「明治十年丁丑公論」のタイトルで連載していく。明治十年は西郷が自刃した年である。記事の連載中だった明治34年2月3日に脳溢血で亡くなる。享年66歳。当時、「24年にも経ってなぜ福沢が西郷をほめるのだ。時代がずれている・・・」といぶかった読者もいたであろうことは想像に難くない。明治34年は1901年。福沢はその年の元旦に「独立自尊迎新世紀」と揮毫した。「明治十年丁丑公論」を連載したのも、20世紀を迎え、維新という時代を自ら総括しておきたいという意図があったに違いない。

  むしろ評価すべきは、この明治の時代に「新世紀」という発想をもった福沢の大局観だろう。世界観をもって在野を貫き、権力を批判する。これは、ジャーナリストの素養でもある。東京都港区元麻布の善福寺に葬られており、法名は「大観院独立自尊居士」。

 ⇒6日(月)夜・金沢の天気  くもり

☆抜けた指輪の話

☆抜けた指輪の話

 来年2010年は国際生物多様性年である。この年の10月には、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が名古屋市を主会場に開催されるが、そのほかの地域でも環境と生態系を世界にアピールする好機ととらえ、COP10の関連会議を誘致する動きが起きている。石川県でも国際生物多様性年を盛り上げようと去年9月、金沢大学に事務局を設け、石川県、奥能登2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)、国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット、NPOなどが協働して、「能登エコ・スタジアム2008」を実施した。里山里海国際交流フォーラム(9月13日・金沢市)を手始めに3つのシンポジウム、5つのイベント、2つのツアーを実施し、4日間で延べ540人が参加した。異彩を放ったのは、この期間中に生物多様性条約事務局(カナダ・モントリオール)のアハメド・ジョグラフ事務局長が能登視察に訪れたことだった。
                         
 ジョグラフ氏は名古屋市で開催された第16回アジア太平洋環境会議(エコアジア、9月13日・14日)に出席した後、15日に石川県入り、16日と17日に能登を視察した。初日は能登町の「春蘭の里」、輪島市の千枚田、珠洲市のビオトープと金沢大学の能登学舎、能登町の旅館「百楽荘」で宿泊し、2日目は「のと海洋ふれあいセンター」、輪島の金蔵地区を訪れた。珠洲の休耕田をビオトープとして再生し、子供たちへの環境教育に活用している加藤秀夫氏(同市西部小学校長)から説明を受けたジョグラフ氏は「Good job(よい仕事)」を連発して、持参のカメラでビオトープを撮影した。ジョグラフ氏も子供たちへの環境教育に熱心で、アジアやアフリカの小学校に植樹する「グリーンウェーブ」を提唱している。翌日、金蔵地区を訪れ、里山に広がる棚田で稲刈りをする人々の姿を見たジョグラフ氏は「日本の里山の精神がここに生きている」と述べた。金蔵の里山に多様な生物が生息しており、自然と共生し生きる人々の姿に感動したのだった。

 ジョグラフ氏がまぶたに焼き付けた能登のSATOYAMAとSATOUMI。このツアーはCOP10の関連会議を石川に誘致する第一歩だった。では、どのようなプロセスを経て、ジョグラフ氏は能登を訪れたのだろうか。実は、3人の仕掛け人がいる。谷本正憲知事、中村浩二教授(金沢大学)、あん・まくどなるど所長(オペレーティング・ユニット)である。その年の5月24日、3人の姿はドイツのボンにあった。開催中だった生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)にジョグラフ氏を訪ね、COP10での関連会議の開催をぜひ石川にと要請した。あん所長は谷本知事の通訳という立場だったが、身を乗り出して「能登半島にはすばらしいSATOYAMAとSATOUMIがある。一度見に来てほしい」と力説した。このとき、身振り手振りで話すあん所長の右手薬指からポロリと指輪が抜け落ちたのだった。3人の熱心な説明に心が動いたのか、ジョグラフ氏から前向きな返答を得ることができた。この後、27日にはCOP9に訪れた環境省の黒田大三郎審議官にもCOP10関連会議の誘致を根回し。翌日28日、日本の環境省と国連大学高等研究所が主催するCOP9サイドイベント「日本の里山里海における生物多様性」でスピーチをした谷本知事は「石川の里山里海は世界に誇りうる財産である」と強調し、森林環境税の創設による森林整備、条例の制定、景観の面からの保全など様々な取り組みを展開していくと述べた。同時通訳を介してジョグラフ氏は知事のスピーチに聞き入っていた。能登視察はその4ヵ月後に実現した。

 能登視察はジョグラフ氏にとって印象深かったのだろう。その後、生物多様性に関する国際会議で、「日本では、自然と共生する里山を守ることが、科学への崇拝で失われてしまった伝統を尊重する心、文化的、精神的な価値を守ることにつながっている。そのお手本が能登半島にある」と述べたそうだ。能登のファンになってくれたのかもしれない。

  ※この文は橋本確文堂が発行する季刊誌「自然人」(第20号/春)に寄稿したものを採録したものです。

★能登と金大のいま‐下

★能登と金大のいま‐下

 去年の9月25日に佐渡でトキが10羽放鳥された。そのトキが40キロある佐渡海峡を飛び越え本州に飛んでいったというニュースがあった。見つかったのは新潟県胎内市なので、放鳥されたところからダイレクトに飛んでいたら60キロ。これまで、飛べて30キロ程度だろうといわれていたので、関係者に驚きを隠さなかった。

  トキが復帰できる環境づくり

  佐渡から胎内市まで60キロなら、佐渡から能登半島までは70キロ。それなら能登半島にも飛んでくるにちがいない。北風に乗ればそんなに難しい話ではないはず、と、能登の人たちはトキの飛来を期待している。能登半島は本州で最後の野生のトキがいたところ。1970年に最後の一羽が捕獲されて、本州のトキがいなくなった。繁殖のために能登から佐渡の保護センターに移されたが、翌年に死んでしまう。解剖した結果、内臓から有機水銀が高い濃度で検出され、農薬の影響を受けていたことが分かった。

  トキはいろいろなものを食べている。サンショウウオ、ドジョウ、カエル、サワガニ、ゲンゴロウなど。トキが一羽生息するには多様な水生生物がいるということが前提になる。ということは、自然の力でこういった生物が田んぼや小川に蘇ってくるような農業をやらないといけないということにる。お手本になるのは兵庫県豊岡市。豊岡の人はコウノトリを大切にしていて、高いところにねぐらを作ったり、コウノトリと共生している。コウノトリも魚を食べるから食物連鎖の頂点に立っているが、昭和30年ごろから大量に農薬をまくようになって、数が減り、捕獲して人工繁殖を始める。「きっと大空に帰すから」と地元の人たちもコウノトリが再び舞う田んぼづくりに協力した。いま豊岡ではコウノトリが野生復帰した。人間はなるべく農薬を使わず、手で雑草を取っているという光景がみられるようになった。もちろん農家の人たちはボランティアでやっているわけではない。コウノトリが舞い降りる田んぼの米「コウノトリ米」は、1俵(60㎏)が4万円する。通常スーパーなどで買える米は1俵1万2千~3千円なので、それだけ付加価値がつく。

  金沢大学は、新潟大学や総合地球環境学研究所の研究者にも参加してもらって、能登でどういう農村づくりをやっていけばトキがくるようになるか調査研究を始めている。環境にやさしい農業をすることによって、田んぼ周辺の生物多様性が高まり、将来トキがいつ飛んできてもいいような環境をつくる。トキがいる田んぼは、安心で安全なお米がとれる。そしてそのお米には付加価値がつく。さらにトキがくることによって新たな観光地としてエコツーリズム、グリーンツーリズムが生まれる。豊岡では年間49万人の観光客がやってくるそうだ。環境に配慮する地域づくりをすることによって、能登半島のイメージをアップしたい。それができれば、若者が生きがいや夢を感じて、あるいはビジネスチャンスを見越して来てくれるのではないか。少なくても人口流出に歯止めをかけたい。

  いま「里山」はわれわれの想像を超えて、世界から注目されている。去年5月、ドイツのボンで開かれた生物多様性条約第9回締約国会議(COP9)で日本の環境省と国連大学高等研究所が主催した「日本の里山里海における生物多様性について」の発表会は随分と反響があった。事務局長のアハメド・ジョグラフ氏は環境省の「SATOYAMAイニシアティブ」計画を高く評価して、「これまで産業一途に走ってきた日本が、こんどは自らの生き方を環境という視点で見直す壮大な試みではないか。ぜひ世界に向けて情報発信してほしい」とエールを送った。  2010年、名古屋を中心にして生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が行われる。金沢市ではCOP10のクロージング会議が予定され、同時に能登エクスカーションも計画されている。

  能登半島に新たな風を吹き込むことで、アジアの里山里海の再生モデルを能登から発信していきたい、金沢大学ではそのような構想を具体化する動きが始まっている。 ※写真は、08年1月に能登空港ターミナルビルで開催された金沢大学「里山プロジェクト」主催の「トキを呼び戻す生物多様性シンポジウム」。

☆能登と金大のいま‐中

☆能登と金大のいま‐中

 金沢大学はかつて城下町の中心街にあったが、20年ほど前に金沢近郊の里山に移転した。山の中なので、タヌキ、キツネ、ときにはクマも出る。「せっかくだから、この周囲の森を利用しよう」と自然生態学の研究者たちは意気揚々となった。それが金大の里山活動の第一歩になった。1999年からキャンパスの里山を研究し、その森を市民参加で活用することがスタートした。10年ほど前に「エコ」という言葉が一種のブームになり、エコがいっぱいの森の大学で、野鳥観察会などが始まった。いまでは市民ボランティア650人が登録していて、毎月第2と第4土曜日に活動している。小学校の子供たちにも総合学習の場として提供し、竹林の整備やキャンパス内の棚田で農薬を使わない50年前の米作りを市民ボランティアの人たちと一緒にやっている。無農薬の田んぼにはゲンジボタルやヘイケボタルがやってきてちょっとした名所にもなっている。

  「里山マイスター」目指す35人

  そして、能登半島では社会人の人材養成に「里山マイスター養成プログラム」が動いている。社会人を対象にして、特に能登半島で農業や漁業をやりたいという都会からの再チャレンジ組み、I/Uターンの人たち。われわれが目指しているのは環境配慮型。なるべく農薬や除草剤を使わない、そんな農業を能登半島でどうやったら実現できるか。現在1、2期生を合わせて35人が学んでいる。目指す人材育成の3つの要素は「環境配慮と生産技術に工夫を凝らす篤農(とくのう)人材」、「農産物に付加価値をつけるビジネス人材」、「地域と連携し新事業を創造するリーダー人材」。このどれか一つではなく、これら三つを兼ね備えた人材を作っていこうというのがこのプログラムの欲張りなところだ。

  授業は毎週土曜日と隔週金曜日にあって、ワークショップや実習が中心の授業である。農業人を育てると公言しているが、実は金沢大学には農学部がないので、実地の部分は地元の農業・林業・水産業のプロの人たちに指導を願っている。農業、水産業、林業をひととおり体験してもらうことで、自分は農業だけしかやったことがなかったけれど、林業もできるかもしれないとか、水産加工物と農作物をミックスしてお漬け物のかぶら寿司(ブリと青カブラのこうじ漬け)を作ったりと、発想が柔軟になる。

  また、リモートセンシングの衛星データを解析して作柄の管理をするなど、新技術の習得もやる。この人材養成プログラムは、国の委託を受けてやっているので授業料は無料。2年間のプログラムを学んで卒論を書くと「里山マイスター」の称号が学長から授与される。5年間で60人の里山マイスターを育成することが目標だ。

  さて、これまで環境配慮、里山と言ってきたが、果たしてこのプログラムが地域再生につながるのか、たかだか農業人材や一次産業の人材を60人養成したからといって、過疎がとまるのか、と我々もそんなに簡単ではないと考えている。むしろ、必要なのは能登の将来ビジョン、あるいは戦略や仕掛けといったものだ。(次回に続く) ※写真は、里山マイスター養成プログラムの田植え実習。

★能登と金大のいま‐上

★能登と金大のいま‐上

 能登半島というとどんなイメージをお持ちだろうか。おそらく東京からみると、裏日本とか、どこか最果てのような感じをお持ちではないか。昭和36年、能登半島の先端の岬に立った俳人・山口誓子は「ひぐらしが 鳴く奥能登の ゆきどまり」と、非常に寂しいところに来てしまったという句を読んだ。かと思えば、この先端に立ったとき「アジアが近いね」と中国大陸の方を眺める人も多い。能登半島を日本の行き止まりと感じる人と、ここからアジアが見えてくると表現される人。おそらくそこは、その人の世界観ではないか。

    「大学らしからぬこと」

  石川県に3年ほど赴任したことがある国連環境計画(UNEP)のアルフォンス・カンブ氏は、日本海をじっと眺めて、「1976年に地中海の汚染防止条約ができました。日本海にも条約をつくって、日本海の環境を守りたいですね」と持論を述べたことがある。彼はUNEPで条約づくりに携わっている。また、金沢大学で黄砂の研究をしている岩坂泰信特任教授は「能登は東アジアの環境センサーじゃないのかな」と感想を述べた。大陸から舞い上がった黄砂が日本海をずっと渡ってくる。そのときにウイルスが付いたり化学物質が付いたりしていろいろ変化している。岩坂教授は昨年、「大気観測・能登スーパーサイト」構想を打ち上げ、観測拠点を着々と整備している。日本海を眺めながら、いろいろなことを考えている人がいる。

  能登半島の先端に金沢大学の人材育成拠点「能登里山マイスター養成プログラム」の拠点がある。ここでは、廃校になった小学校を珠洲(すず)市から借りて、研究交流施設として利用している。金沢大学からは約150キロ離れていて、常駐の研究者が6人いる。この能登プロジェクトを立ち上げた中村浩二教授の口癖は「大学らしからぬことをやろう」である。そして、能登半島にとうとう大学のキャンパスらしきものをつくった。

 中村教授は能登に非常に危機感を持っている。輪島の千枚田などは、海に浮き出た棚田で観光名所にもなっているが、その半分以上が後継者不足、過疎化などで耕されない田んぼであるという現実がある。さらに07年3月25日に能登半島地震があって家屋が多く倒壊した。こんな能登半島になんとか若い人を残し、活気ある社会を築いていくために、どうすればよいか。中村教授の結論は「能登に大学が出かけていくこと」であった。07年7月に金沢大学と能登にある輪島市や珠洲市など2市2町の自治体が協力をして「地域づくり連携協定」を結んだ。(次回に続く) ※写真は、能登半島の先端、珠洲市にある金沢大「能登学舎」。

☆ガレリオの墓

☆ガレリオの墓

 ことしは「天文学の父」ガレリオ・ガリレエ(1564~1642)の当たり年なのだろう。先月(12月)の新聞でローマ法王ベネディクト16世がガレリオの地動説を公式に認めたとの記事が掲載されていた。今度はガレリオが失明した原因を解明するため、埋葬地を掘り起こして遺体をDNA鑑定することになったと報じられた(23日付・朝日新聞シンターネット版)。ことしはガリレオが望遠鏡で天体観測を始めて400年にあたることから、調査が決まったという。以下、記事の要約。

 イタリアの有力紙「コリエレ・デラ・セラ」を引用した記事は、フィレンツェの光学研究所を中心に英ケンブリッジ大学の眼科の権威やDNAの研究者らが調査に参加する。フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に埋葬されている遺体の組織の一部からDNAを採取するという。ガリレオは若い頃から遺伝性とみられる眼病に悩まされ、晩年に失明。地動説を唱えたことでローマ法王庁の宗教裁判で有罪となり、軟禁生活を送った。死後95年たってサンタ・クローチェ教会に埋葬されてた。

 一方で困惑の声も上がっているという。ガリレオ研究の第一人者でフィレンツェ天文台のフランコ・パッチーニ教授は朝日新聞の取材に「なぜ博物館にある指を鑑定せず遺体を掘り起こしてまで調べるのか。彼も不愉快だろう。そっとしておくべきだ」と語った。

 ガレリオの墓は06年1月に訪れた。サンタ・クローチェ教会にはガレリオのほか彫刻家のミケランジェロ、政治理論家のマキアヴェッリなど世界史に燦(さん)然と名を残す偉人たちの墓がある。このサンタ・クローチェ教会大礼拝堂の正面壁画「聖十字架物語」の修復作業が金沢大学と国立フィレンツェ修復研究所、そして同教会の日伊共同プロジェクトとして進行している。金沢大学が国際貢献の一つとして位置づけるこのプロジェクトの進み具合を視察・報告するため、同教会を訪れた。

 修復現場はどうなっているのかというと、鉄パイプで組まれた足場は高さ26㍍、ざっと9階建てのビル並みの高さである。平面状に組んだ足場ではなく、立方体に組んであり、打ち合わせ用のオフィス空間や照明設備や電気配線、上下水道もある。下水施設は洗浄のため薬品を含んだ水を貯水場に保存するためだ。それに人と機材を運搬するエレベーターもある。つまり「何百年に一度の工事中」なのである。ガレリオの墓は教会大礼拝堂にある。墓を解体して、遺体を掘り起こすというのはおそらく相当の作業だろうが、教会とすると、修復作業の工事中であり、ガレリオの墓の掘り起こしもタイミング的には観光的なダメージはないと読んだのだろうか。記事を読みながら、そんなことをふと思った。

※写真は、サンタ・クローチェ教会大礼拝堂にあるガレリオ・ガリレエの墓

⇒23日(金)夜・金沢の天気  はれ

★雪原の遠い記憶

★雪原の遠い記憶

  雪原を見ると妙にファイトが湧いてくる。狩りがしたくなるのである。小中学生のころだ。野ウサギを狩るため、針金で仕掛けをつくった。ダイナミックだったのは、雪原を駆ける野ウサギの頭上をめがけて60センチほどの棒を投げ、野ウサギが雪に頭を埋めるのを獲った。棒が回転しながら頭上をかすめると、ビュンビュンという風を切る音を野ウサギは猛禽類(タカなど)と勘違いして、雪の中に身を隠そうとする習性を狩りに生かしたものだ。その耳を切って2枚持っていくと、森林組合の窓口では50円で買ってくれたと記憶している。

 人類学者の埴原和郎氏(故人)のことを記す。東京の学生時代に埴原氏の研究室を訪ねると、いきなり「君は北陸の出身だね」と言われ、ドキリとした。その理由を尋ねると、「君の胴長短足は、体の重心が下に位置し雪上を歩くのに都合がよい。目が細いのはブリザード(地吹雪)から目を守っているのだ。耳が寝ているのもそのため。ちょっと長めの鼻は冷たい外気を暖め、内臓を守っている。君のルーツは典型的な北方系だね。北陸に多いタイプだよ」。ちょっと衝撃的な指摘だったものの、目からウロコが落ちる思いだった。もう30年余りも前の話だ。

 埴原氏は、古人骨の研究に基づいた日本人の起源論が専門。とくに、弥生人は縄文人が進化したものではなく、南方系の縄文人がいた日本列島に北方系の弥生人が渡来、混血したことによって、日本人が成立したとする「二重構造モデル」を打ち立てたことで知られている。

 雪原におけるファイティング。これはひょっとしてDNAが騒ぎ出すのか。ながらくシベリア大陸をさまよって、かつてはマンモスを駆っていた北方系の血か。冬は動物の動きが鈍くなる。最高の猟場が雪原なのである。雪原を見ると血が騒ぎ出す。これは遠い記憶か。

⇒18日(日)午後・金沢の天気   くもり