#コラム

☆オクトパス伝説

☆オクトパス伝説

 前回に引き続き、七尾市能登島での話題。16日に訪れた能登島で、「ちょっと面白いから」と石川県水産総合センター水産部能登島事業所の永田房雄さんに誘われて行った先が、野崎地区にあるタコの蓄養所、通称「タコ牧場」だった。個人の漁協者の経営で、タコ壺漁などで採れたマダコを一箇所に集め、大きく太らせてから出荷する。5メートル四方ほどの水槽がいくつかあり、常時、数百匹のタコが飼われている。

 なぜ蓄養かというと、市場では小さなタコは値がしない。すくなくとも1キロは必要で、キロ1000円が相場。難しいのは、水温が上がるとタコが弱ってしまうこと。このタコ牧場では海水をそのまま汲み上げている。太平洋側に比べ、日本海側は海水温が一定していない。そこで、水温が高くなるころを見計らって、大きなものから出荷する調整も必要とのこと。タコを飼うのも簡単ではない。

 ところで、「イモ、タコ、ナンキン」と呼ばれるくらい、日本人にとってタコはお気に入りの食材である。が、ヨーロッパやアフリカでは、タコやイカを「デビル・フィッシュ」(悪魔の魚)と呼び、忌み嫌う。海底の大ダコや大イカが人間を襲うという設定の映画もあるくらいで、まるで怪物か怪獣の扱い。前回のブログを読んでくれた友人から、「能登島ではタコは神様ですよ」とメールをもらった。以下、要約して紹介する。

 能登島・向田地区の愛宕(あたご)神社で執り行われる蛸祭。11月3日の祭りは神官の家から飯びつに2升に飯を盛り、蛸の頭の形にして、3日の未明に神社近くの中屋家のカマドの上に黙って置いてくる。家の主(あるじ)がこれでおにぎりを作り、隣近所に配る。300年ほど前の昔、向田地区で大火が相次いだ。すると、大ダコに乗った神様が中屋家にやってきて、「高台に祠(ほこら)を造れ」と告げた。当主がその通りすると、同地区では火災など災害がピタリと止んだという伝説である。以来、中屋家ではタコを食べることをタブーとしている。その祠が愛宕神社の由来だという。

⇒18日(土)朝・珠洲の天気  あめ

★「子落とし」狛犬の話

★「子落とし」狛犬の話

 神社の神殿や社寺の前庭には、さまざまな表情をした一対の狛犬(こまいぬ)が置かれているものだ。きょう(6月16日)訪ねた、石川県七尾市能登島の大宮神社の狛犬は凄みがあった。「獅子の子落とし」がモチーフなのである。

  大宮神社の狛犬は、獅子(ライオン)が千尋の谷に子供を落として、その子供を見守っているという姿で、左手の子は千尋の谷に落ちて仰向けになり、右手の子供は崖を這い上がっているという構図=写真=になっている。説明書きには、台座に使われている岩は富士山から運んだ溶岩であると記されている。これが黒く、ゴツゴツした感じで、崖というイメージにぴったり合っている。

  「獅子の子落とし」は、自分の子供に厳しい試練を与えて、立派な人間に育て上げることのたとえで使われる。インターネットで検索をかけてみると、「子落とし」をモチーフにした狛犬は、東京・赤坂の氷川神社など関東地方にいくつかある。この狛犬の寄進者が裏面に記されている。昭和14年(1939)、東京・亀戸の「野中菊太郎」となっている。ちょうど70年前のことだ。今回ガイド役を引き受けてくれた県水産総合センター水産部能登島事業所の永田房雄所長の話だと、野中は当地出身という。財を成して、生まれ故郷に報いたのだろう。

  内湾のため穏やかな七尾湾と海辺に青々と広がる田の海。のどかな半農半漁の里に似つかわしくない、激しいモチーフである。ただ、写真のように、崖を這い上がる子をじっと見守る親の表情がどことなく優しい。能登人の気風にあっているのかもしれない。

                  ◇

  ここからはお知らせ。では、なぜ能登島を訪ねたかというと、金沢大学と石川県が主催して実施する環境ツアー「能登エコ・スタジアム2009」の見学コースの確定のため。ツアーの詳細はきょう16日付の読売新聞石川版で記事紹介された。この狛犬はツアー2日目、午前の能登島バスめぐりのコースで見学できる。

⇒16日(木)夜・金沢の天気  あめ

☆「忘れざる日々」

☆「忘れざる日々」

 6月20日の75歳の誕生日を前にして一人のジャーナリストが逝った。鳥毛佳宣(とりげ・よしのり)さん。中日新聞の記者として、石川と東京で政経、文化、事件を担当した。後に文化事業も担当し、北陸で初めての開催となる中華人民共和国展覧会を誘致するなど腕利きのプロモーターでもあった。退職後に記者生活30年余の回想をつづった本を著した。そのタイトルが「忘れざる日々」(1994年6月出版)である。出版のときに贈呈されたその本を読み返して、故人を偲んだ。

 記者の生活には日曜日や休み、時間外、オフという概念がない。いつでも、どこでも事件は記者を駆り立てる。そのエピソードが「忘れざる日々」で紹介されている。鳥毛さんが結婚して間もなく金沢市内で3日続けて深夜の火災があった。警察担当だったが、一夜、二夜とも気づかず、出社して先輩記者に大目玉を食らった。しかし、さすがに三夜目は「きょうは寝ない」と覚悟を決めた。事件に予定はないが、消防団の半鐘が鳴り、鳥毛さんは真っ先に現場に駆けつけた。記者としての瞬発力は定評だったが、若き日の苦い経験をバネとした。東京報道時代にはホテルニュージャパンの火災、日航機の墜落事故などを担当した。このエピードは妻の美智子さんが本のあとがきで紹介している。

 鳥毛さんはある意味で目利きだった。筋をきっちりと掴んで真贋を見分けていく。「忘れざる日々」で面白い記事が紹介されている。「禅の壁」というコラムで、金沢・湯涌にある康楽寺のことを書いている。昭和19年に建てられたその寺は、仏教王国と称される北陸では「乳飲み子」のような歴史しか持たない。が、この寺はかつて加賀藩前田家の重臣、横山章家氏の別邸だったもので、明治時代の金沢の代表的な建物だった。それを戦前の政治家、桜井兵五郎氏(1880‐1951年)が譲り受け、同氏が経営する白雲楼ホテル(今は廃業)の近くに寺として再建した。鳥毛氏の謎解きはここから始まる。なぜ寺としたのか、釈迦の遺骨と称されるものをビルマの要人からもらった桜井氏が寺を建て安泰したと、桜井氏の関係者から取材している。おそらく普通の記者だったら、このエピソードを持って、この取材は終わっていたかもしれない。鳥毛氏の真骨頂はここからである。その関係者から「昭和40年4月に東京・三越本店で開催された鶴見・総持寺展で展示された仏像10体のうち7体がこの康楽寺のものだった」と聞きつける。さらに、東急電鉄の創業者で美術品収集家として知られた五島慶太氏(1882-1959年)が寺の愛染明王像を所望したが、適わなかったとのエピソードを五島氏の周辺に取材して紹介している。寺とは言え、実質的に個人が収集した仏教美術の「倉庫」と化している寺の有り様に、鳥毛氏は「言い表せないむなしさを覚えた」とジャーナリスとしての感性をこぼしている。

 鳥毛さんは1934年6月20日、東京生まれ。戦時下の空襲で父方の親戚を頼って、能登半島・柳田村(現・能登町)に疎開し、終戦を迎える。その縁で、「故郷は柳田」と言い、能登半島にも眼差しを注いだ。私が鳥毛さんと親しくさせてもらったのも、同郷のよしみだった。

 病の床でうわごとのように「つくづく疲れた、精も根も」と言っていたと、美智子さんは19日の通夜の式場で話した。全力投球するタイプ、そんな記者時代の思い出の一つ一つが走馬灯のように死の直前の脳裏を駆け巡っていたのだろうか。

※写真は鳥毛さんが愛用したペンと原稿=「忘れざる日々」より。

⇒6月20日(日)朝・金沢の天気 はれ

★ワンセグとNHK

★ワンセグとNHK

  金沢大学で「マスメディアと現代を読み解く」というメディア論の講義を担当している。先日の授業で、「地上デジタル放送の問題点」をテーマに2011年7月24日のアナログ波停止、それに伴う「地デジ難民」の発生、ワンセグ放送などメリットとデメリットを織り交ぜて話し、最後に学生に感想文を書いてもらった。この日の出席は145人だったが、10人余りがNHKのワンセグ放送の受信契約について記していた。その内容に驚いた。「NHKの集金人(※NHKと業務委託契約を結んだ「地域スタッフ」)がアパートにやってきて、テレビはないと応えると、パソコンのTV線は、ケータイのワンセグはとしつこく聞かれました」(理系の1年女子)、「一人暮らしは受信料を払うべきでしょうか。実家の自分の部屋にテレビを持つのとの同じことだから払う必要はないのでは」(理系の1年男子)と、NHKの受信契約のストームに学生たちが戸惑っている様子が浮かび上がってきた。

  ワンセグの受信契約についてNHKのホームページで確認すると、「ワンセグ受信機も受信契約の対象です。ただし、ご家庭ですでに受信契約をいただいている場合には、新たにワンセグの受信機を購入されたとしても、改めて受信契約をしていただく必要はありません」と記載されている。問題は、一人暮らしの学生の場合である。そこで、視聴者コールセンターに電話(5月11日)をして、①学生は勉強をするために大学にきているので、受信料契約は親元がしていれば、親と同一生計である学生は契約する必要がないのではないか②携帯電話(ワンセグ付き)の購入の際、受信契約の説明が何もないのもおかしい、携帯所持後に受信契約を云々するのでは誰も納得しないーとの2点を、学生たちの声を代弁するつもりで問うてみた。すると、電話口の男性氏は「ワンセグの受信契約の対象になります。いろいろご事情はあるかと思いますが、別居の学生さんの場合は家族割引(2ヵ月で1345円)がありますのでご利用ください」と、要約すればこのような言葉を繰り返した。

  放送法第32条では、「受信設備を設置した者は、(日本放送)協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」とあり、地域スタッフはこの部分を全面的に押し出して、一人暮らしの学生に契約を迫っているようだ。中には、「受信機の設置と携帯は違う、納得できない」と拒み、地域スッタフを追い返したという猛者もいるが、年上の大人が法律をかさに着て迫れば、新入生などは渋々と契約に応じる。電話の翌日(5月12日)の授業で、地域スタッフの訪問を受け、ワンセグの受信契約に応じた学生に挙手してもらったところ、20人ほどの手が上がった。「学生が狙いうちされている」と私は直感した。NHK資料(平成19年6月)によれば、契約対象4704万件のうち、契約しているものの不払いと、未契約が計1384万件にも上り、契約対象の29%を占める。つまり3件に1件が払っていない計算だ。一般家庭の未契約と不払いはそれぞれに「払えない」「払わない」「契約しない」の主張がはっきりしているので、地域スタッフにとってはここを説得してもなかなか成績が上がらない。ところが、学生ならば攻めやすいということだろう。

  私は学生たちに不払いを奨励しているのではない。契約は納得して応じるべきで、決してうやむやのうちにハンコを押してはならない、後悔する契約はしてはならないと説明しているのである。地域スタッフから「経営の安定がNHKの放送の自由度を高める」といった本来されるべき説明は受けていないようだ。いきなり「ワンセグ付いたケータイ持っているか」では、学生は納得しない。それより何より、親元と同一生計にある一人暮らしの学生に関しては、ワンセグ、一般受信機を含めて受信料を取るべきではないと考える。

☆再訪・琉球考-下-

☆再訪・琉球考-下-

那覇市の国際通りで、昼食を取るためレストランに入った。首里城正殿をイジージした構えの店で1階が土産品、2階がレストランになっている。メニューでお勧めとして大きく写真入りで出ていたタコライスを注文した。タコライスは、もともとメシキコ料理だが、アメリカ版タコスの具(挽肉、チーズ、レタス、トマト)を米飯の上に載せた沖縄料理と説明書きがあった。辛みをつけたサルサ(ソース)を乗せて食べる。このタコライスのメニューは名護市のドライブインにもあった。アメリカの影響を受け、沖縄流にアレンジした料理として定着しているようだ。

         琉球=沖縄の気分

  戦後長らくアメリカの占領下にあり、1950年に朝鮮戦争が、1959年にはベトナム戦争が起き、戦時の緊張感を沖縄の人たちも同時に余儀なくされ、日本への復帰は1972年(昭和47年)5月15日である。しかも県内各地にアメリカ軍基地があり、沖縄県の総面積に10%余りを占める(沖縄県基地対策課「平成19年版沖縄の米軍及び自衛隊基地」)。時折、新聞で掲載される沖縄の反戦や反基地の気運は、北陸や東京に住む者にはリアリティとして伝わりにくい。沖縄は今でも闘っている。

  2007年11月に完成した沖縄県立博物館・美術館を訪れた。美術館を見れば、その土地の文化が理解できる。琉球=沖縄は日本の最南ではあるものの、沖縄の人たちの地理感覚では日本、韓国、台湾、中国に隣接する東アジアの真ん中に位置する。歴史的にも交流があり、外交的にも気遣ってきたのだろう。その一端が美術館コレクションギャラリー「ベトナム現代絵画展~漆絵の可能性~」から伝わってきた。パンフレットに開催趣旨が記されている。「中国の影響を受けながら自らの文化を築いてきたベトナムは、同様の背景を持つ沖縄と共通するものが多く見られ、私たちにとって最も身近な国のひとつです。しかしながら、多くの米軍基地を抱える沖縄は、ベトナム戦争では米軍の後方支援基地となる時期もありました。その不幸な歴史を乗り越え・・・」。ベトナム戦争における「米軍の後方支援基地」は沖縄の人々の責任ではない。それでも、あえて文言に入れて、ベトナムと沖縄の友好関係を求める。パンフとはいえ、これをそのまま政府間文書にしてもよいくらいに外交感覚にあふれる。そしてベトナムの暮らしぶりを描いた数々の漆絵の中に、さりげなくホー・チミンが読書をする姿を描いた作品(1982年制作)を1点入れているところは、すこぶる政治的でもある。

  沖縄県立博物館・美術館のメインの展示は「アトミックサンシャインの中へin沖縄~日本国平和憲法第九条下における戦後美術」(4月11日-5月17日)。ニューヨーク、東京での巡回展の作品に加え、沖縄現地のアーチストの作品を含めて展示している。「第九条と戦後美術」というテーマ。作品の展示に当たっては、当初、昭和天皇の写真をコラージュにした版画作品がリストにあり、美術館・県教委側とプロモーター側との事前交渉で展示から外すという経緯があった、と琉球新報インターネット版が伝えている。さまざまな経緯はあるものの、美術館側が主催者となって、「第九条と戦後美術」を開催するというところに今の「沖縄の気分」が見て取れる。

 那覇市内をドライブすると、道路沿いに、青地に「琉球独立」と書かれた何本もの旗が目についた。ホテルに帰ってインターネットで調べると、旗の主は2006年の県知事選、2008年の県議選にそれぞれぞ立候補して惨敗している男性だった。供託金も没収されるほどの負け方で、「琉球独立」は沖縄の民意とほど遠い。ただ、道州制論議が注目される日本にあって、「独立」を政治スローガンに掲げる候補者がいるのも、また沖縄=琉球の気分ではある。

※写真・上は、沖縄県立博物館・美術館の中庭。日差しの陰影もアートに組み込んでいる。
※写真・下は、国際通りのレストランで見かけた絵画。糸満の漁師を描いていて、眼光が鋭い。

 ⇒10日(日)午後・金沢の転機  はれ

★再訪・琉球考-中-

★再訪・琉球考-中-

 宿泊した那覇市のホテルのレストランに入った。店の入り口には朱塗りの酒器がディスプレイとなっていて、屋号も「泉亭」とあったので、てっきり和食の店かと思っていた。ところが、メニューは「日本・琉球・中国料理」だった。和食をと思っていたのだが、せっかく沖縄にやってきたので琉球料理も食べたい、どうしようかと迷って、「琉球会席」というコースがあるのが目にとまり注文した。飲み物は30度の泡盛のロックにした。

          チャンプル・イノベーション

  ミミガーやピーナツ豆腐、チャンプルーがどんどんと出てくるのかと思ったら、そうではない。食前酒(泡盛カクテル)、先付け(ミミガー、苦瓜の香味浸し、ピーナツ豆腐)、前菜(豆腐よう和え、塩豚、島ラッキョ、昆布巻き)、造り(イラブチャー=白身魚)、蓋物(ラフティー=豚の角煮)などと、確かに金沢の料理屋で味わうのと同じように少量の盛り付けで、しかも粋な器は見る楽しみがあった。日本料理のスタイルで味わう琉球料理なのだ。

  「日本・琉球・中国料理」の文字をメニューで見れば、専門性がない、何でもありの食堂をイメージしてしまうかもしれない。ここからは推論だ。北陸や東京の感覚では、沖縄は日本の最南である。ところが、沖縄の人たちの地理感覚では日本、韓国、台湾、中国に隣接する東アジアの真ん中に位置する。歴史的にも交流があり、外交的にも気遣ってきたのだろう。沖縄にはチャンプル料理がある。野菜や豆腐に限らず、様々な材料を一緒にして炒める料理で、ゴーヤーチャンプル、ソーミンチャンプルなどは北陸でもスーパーの惣菜売り場に並ぶようになった。チャンプルは沖縄の方言で「混ぜこぜ」の意味。このチャンプ料理をもじって、沖縄の文化のことを、東南アジアや日本、中国、アメリカの風物や歴史文化が入り交じった「チャンプル文化」とも。

  6年ぶりに沖縄を入り、このチャンプル文化にある種のイノベーションを感じた。イノベーションとは、発明や技術革新だけではない、既存のモノに創意工夫を加えることで生み出す新たな価値でもある。先のレストランでの琉球会席でも、和食を主張しているのではなく、和のスタイルに見事にアレンジした琉球料理なのである。その斬新さが「おいしい」という価値を生んでいる。沖縄の場合、独自の文化資源を主体にスタイルを日本、中国、東南アジアに変幻自在に変えて見せるその器用さである。これは沖縄の観光産業における「チャンプル・イノベーション」と言えるかもしれない。

  那覇市の目抜き通り「国際通り」=写真・上=でこのイノベーションの息吹を感じた。かつては雑貨的な土産品が軒を連ねていたが、今回は沖縄オリジルの主張が目立った。沖縄の特産野菜「紅イモ」を使った「紅いもタルト」が人気の土産商品。伝統の沖縄菓子「ちんすこ」を使った「ちんすこショコラ」の店=写真・下=も。キューピー人形が沖縄の衣装をまとって「沖縄限定コスチューム・キューピー」に。なんとこれが1700種類もある。ゴールデンウイークの人混み、そして南国の日差しは強く、すっかり沖縄の熱気に当てられた。

 ⇒9日(土)朝・金沢の天気  はれ  

☆再訪・琉球考-上-

☆再訪・琉球考-上-

 北陸に住んでいて、沖縄・那覇市の弁柄(べんがら)の首里城はとても異国情緒にあふれる、と6年前に初めて訪れたときに感じた。再度、このゴールデン・ウイークに沖縄を訪れ、別の感想を抱いた。「これは巨大な漆器なのだ」と。

        「巨大な漆器」首里城

  パンフレットなどによると、戦前の首里城は正殿などが国宝だった。戦時中、日本軍が首里城の下に地下壕を築いて、司令部を置いたこともあり、1945年(昭和20年)、アメリカの軍艦から砲撃された。さらに戦後に大学施設の建設が進み、当時をしのぶ城壁や建物の基礎がわずかに残った。大学の移転とともに1980年代から復元工事が進み、1989年には正殿が復元された。2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。

  首里城の正殿=写真・上=に向かうと、入り口の二本の柱「金龍五色之雲」が目に飛び込んでくる。四本足の竜が金箔で描かれ、これが東アジアの王朝のロマンをかきたてる。全体の弁柄はこの二本の柱の文様を強調するために塗られたのではないかと想像してしまう。さらに内部の塗装や色彩も中国建築の影響を随分と受けているのであろう、鮮やかな朱塗りである。国王の御座所の上の額木(がくぎ)には泳ぐ竜=写真・下=が彫刻され金色に耀いている。

  2階の柱には唐草文様が描かれ、どこまでも続く。パンフレットでこれが沈金(ちんきん)だと知って驚いた。石川県能登半島には輪島塗がある。輪島塗の2つの特徴は、椀の縁に布を被せて漆を塗ることで強度が増す「布着せ」と沈金による加飾。沈金は、塗った器に文様を線掘りして、金粉や金箔を埋めていく。この2つは輪島塗のオリジナルだと思っていたが、琉球漆器でも16世紀ごろから用いられた技法だったことは発見だった。

  那覇市内で漆器店のよく看板を見かける。「漆器・仏具」とセットになっていて、器物と並んで、仏壇や位牌、仏具などが陳列されている。祖先崇拝が伝統的に強い風土に根ざした地場産業だ。ということは、漆塗りの職人が今でもおそらく何百人という単位でいるのだろう。これらの漆工職人を動員して自前で首里城の塗りと加飾を施し、一つの巨大な作品に仕上げた。漆器王国、沖縄の実力ともいえる。

 その首里城を遠望すると、朱塗りの椀に金箔の加飾が施されたようにも見える。ゴールデンウイークだったせいもあり、首里城には多くの観光客が押し寄せ、まるで、人々を受け入れる巨大な器のようだった。冒頭の感想の説明が長くなってしまった。

⇒8日(金)夜・金沢の天気 くもり

★キャンデーの警告

★キャンデーの警告

 4月2日午後、能登半島に出張した。市役所など5ヵ所を車で回り、昼食は14時を回っていた。この日の16時30分から金沢で打ち合わせがあるので、ファミリーレストランに駆け込んで、「海鮮スープスパゲティ」を注文した。「大盛りはできますか」と店員に尋ねると、「スパゲティはできません」と言う。きょうのテーマの伏線はおそらくここから始まる。

  海鮮スープスパゲティは具沢山でそれはそれで満足感はあった。が、早食いのせいで、「ひもじさ」が少々残った。レジで代金を払い、ふとレジの周りを見ると「特濃黒ごまミルク」という文字が目に飛び込んできた。「これください」と言ってしまった。黒ゴマは好きな食材で、「黒ゴマ入りのミルクキャラメル」と勝手に解釈して手にとってしまった。126円だった。1粒が17kcal、黒ゴマが入るとカロリーは高いと思いながら口に入れ、再び車に乗リ込んだ。軟らかなキャラメルを期待したのだが、キャンデーだった。口に含んだらゆっくりとは出来ない性分で、すぐ噛んでしまう。ガリガリと。農厚な味だが甘くはない。さらに2粒目を口に入れ、ガリガリと。事件はここで起きた。

  嫌な予感と同時に口の中に違和感が走った。舌に「重い」ものが転がってきたのである。瞬間、「またやってしまった」と後悔の念がこみ上げ、思わず特濃黒ごまミルクのパッケージを左手で握りしめた。右下あごの奥歯に被せてあった金属がポロリと取れたのだ。ガリガリと噛むと、歯に大きなバイアスがかかり、とくに硬いキャンデーの場合は一点にその力が集中するので、角度が悪いと歯が欠けたり、被せた金属が取れると歯医者から言い聞かされていた。実は10年ほど前にも同じ経験をしていたのだ。後悔は、2度同じ過ちを繰り返した不注意さと、ひもじさに勝てない理性に対してである。と同時に、歯科治療の現場で起きるであろう苦痛のドラマを想像すると身の毛がよだった。

  翌日3日、職場の近くの歯科医に予約を入れた。夕方、出かけた。歯のレントゲン撮影から始まった。モニター画面に映し出されたX線写真を指し示しながら、歯科医は「金属を支えていた心棒が途中で折れていますね。これを抜き取るのは少々面倒かもしれませんが…」と続けて、「それにしても歯周病が随分と進んでいますよ。このまま放っておいたら、あと2年ぐらいで歯がガタガタになるかもしれませんね」「まず、歯石を徹底的に取り除きましょう」と。これは心外な言葉だった。

  6年ほど前から歯周病には気を使っていて、朝晩の歯磨き。それに歯間ブラシも欠かさなかった。そして仕上げは洗口液「リステリン」だ。磨き残しの歯垢に細菌がいても、リステリンの殺菌効果で除去できる。それ以来、朝起きたときの口内の粘りもなく、歯周病対策は完璧だと確信していた。だから、「歯周病が進んでいる」という医者の言葉は意外だったのだ。しかし、現実に写真で説明を受けると、歯石が付着し、歯肉で見えない歯の部分は確かに以前よりやせ細っていいる。歯だと思っていたのは歯石だった。歯周病が進行中と分かり愕然とした。よく考えれば、歯磨きは手抜きだったかもしれない。リステリンで殺菌していると思っていたが、口でゆすぐのはせいぜいが10秒程度でその効果は薄かったのかもしれない。つまり、その効果を過信していただけだったのだ。

  目隠しをされ、下あごの歯石の除去作業が始まった。「痛みを感じたら左手を挙げて」と歯科衛生士の女性が丁寧に言ってくれたが、正直痛く、涙がにじんだ。目隠しはその涙を隠すのにちょうどよいと思った。それにしてもキューンという機械音は神経的な苦痛を倍加させる。除去が始まる前、歯科衛生士に「手掘りにしていただけませんか」と申し出たのだが、「それだと歯に負荷がかかるので、超音波の方がよいと思いますよ」と説得された。

  レントゲン撮影と歯石除去、抜けた歯の部分の「型どり」までざっと90分。悔恨と苦痛、そして再生への希望とストーリーはめまぐるしく展開した。治療イスで時折、口をゆすぎながら思った。ひょっとして、あの時、特濃黒ごまミルクのキャンデーを食べなかったら、歯科クリニックには来なかった。クリニックに来なければ、歯周病が密かに進行していることに気づくこともなかった。気づかなければ、2年後には入れ歯をする運命になるかもしれない。そうか、これは「キャンデーの警告」だったのだ。

  ちなみに、通院を始めた歯科医院は「オードリー歯科(Audrey Dental Office)」。通勤バスの通り道にあり、その医院名が以前から気になっていた。最後にその日の治療費を払って、思い切って受付の女性に尋ねてみた。「オードリーという名は、院長先生がオードリー・ヘップバーンのファンなのですか」と。すると女性は「その質問はたまにあるのですが、大通りに面しているのでオードリーと名付けたようですよ。お大事に」と手短に。歯科医院を出ると、辺りはすでに暗く、18時47分だった。

⇒4日(金)朝・金沢の天気  くもり  

☆名残り雪

☆名残り雪

 徐々に暖かくはなるものの、寒の戻りがある。それを繰り返しながら本格的な春になる。北陸に住んでいると、「三寒四温」と「名残り雪」は春を迎える儀式のようでもある。きょう26日朝、名残り雪が降った=写真=。

  自家用車のスノータイヤをノーマルタイヤに履き替えたので、滑らないかとヤキモキした。が、強い降りではなく、30分ほどしたら青空が見えてきたので一気に雪は消えた。ふと庭を見ると、梅の花が咲いていたので、名残り雪とピンクの梅の花の組み合わせは妙に風情があるものだと感じ入った。

  金沢大学で同僚の研究員は別の春の感じ方をしている。春特有の香りが漂っているという。この香りをかぐと、そわそわした落ち着かない気分になるそうだ。それはヒサカキの小さな花の香り。里山を知る人にとって、春の訪れを感じさせる香りという。日当たりのよい場所の株には、その枝に下向きの白い小さな花がびっしりと咲いている様子を見ることが出来きる。ヒサカキは花のつけ方がおもしろく、雄花だけをつけるオス株、雌花をつけるメス株、雄花と両性の花をつける両性株の3つがあることが報告されている。ネットで調べると、伐採や山火事などのストレスで性転換することが知られているとのこと。

  ヒサカキは地域によって「ビシャ」とか「ビシャギ」「ビシャコ」「ヘンダラ」など別名で呼ばれる。「樹木大図説」(上原敬二著)には、60近くの異名が記載されている。神聖な木として取り扱われ、神様や仏様に供えられることもあるヒサカキだが、この異名の多さは身近な里山の木として、いかに人に親しまれてきたかを物語っているのではないか、という。

  名残り雪からヒサカキまでなかなか話は尽きない。すると、別の研究員が入ってきて、話を交ぜ返した。日本の花屋で売られているサカキの8割は中国産だそうだ。神聖な木を外国に委ねるなんて、と憤る。外国を責めているわけではない。里山にふんだんに自生しているのに、それを採取し、市場に出荷しないのは日本人の怠慢ではないのかというのだ。つまり、人々は里山に入らなくなった。経済価値としての里山に魅力を感じる人が少なくなった、ということか。それならば、逆転の発想でビジネスチャンスがあるのはと思ったりもする。

 ⇒26日(木)朝・金沢の天気 ゆき

★トキは佐渡海峡を超え

★トキは佐渡海峡を超え

 去年9月25日、人口繁殖のトキ10羽が佐渡で放鳥された。その後、1羽は死んだが3羽が40㌔もある佐渡海峡を越えて本州に飛来したというニュースがあった。専門家の推測では、トキが飛ぶのはワイフライトでせいぜい30㌔だと推測されていたので、佐渡が大きなトキの鳥かごになり、佐渡からは出られないだろうと言われていた。それがやすやすと佐渡海峡を越えた。

 それまで大切に「箱入り娘」のように大切に育てられたあのトキが野生に目覚めて、本州に飛んだのである。最初の1羽は、飛来が新潟県胎内市で確認されたので、もし佐渡の放鳥場所からダイレクトに飛んだとすれば、胎内市まで60キロとなる。このニュースに胸を躍らせているのは能登に人たち。佐渡の南端から能登半島まで70キロなので、ひょっとして能登半島に飛んでくるかもしれないと期待している。それは見当外れでもない。放鳥されたトキは、背中にソーラーバッテリー付き衛星利用測位システム(GPS)機能の発信機を担いでいて、3日に一度位置情報を知らせてくる。データによると、トキは群れていない。放鳥された場所から西へ行っているトキ、東へ行っているトキ、北へ行っているトキとバラバラだ。中でも、2歳のオスは佐渡の南端方面でたむろしている。これが北から南に向かう風にうまく乗っかると、ひょっとして能登に飛来してくるかもしれないというのだ。

 能登半島は本州最後のトキの生息地である。1970年に捕獲され、繁殖のため佐渡のトキ保護センターに移送されたが、翌年死んでしまう。昭和32年(1957)、輪島市三井町の小学校の校長だった岩田秀男さん(故人)は当時、カラーのカメラをわざわざドイツから取り寄せて、能登のトキの撮影に成功した=写真=。白黒写真が普通だった時代に、「トキの写真はカラーで残さなければ意味がない」とこだわった。今では能登のトキを撮影した貴重なカラー写真となった。

 昭和の初めに佐渡で死んだ野生トキの胃の内容物の写真がある。見てみると、トキはどんなものもを食べていたのか分かる。食物連鎖の頂点にトキはサンショウウオ、ドジョウ、サワガニ、ゲンゴロウ、カエルなど多様な水生生物を食べている。ここから逆に類推して、トキが能登で生息するためには、田んぼなどの農村環境にこれだけの生物が住めるような環境にしなければならないということだ。金沢大学里山プロジェクトが進めている生物多様性のテーマがここにある。これまで、金沢大学、新潟大学、総合地球環境学研究所の研究者が一昨年前(07年)の10月に踏査を行ったほか、トキの生息の可能性はどこにあるのか、里山プロジェクトでは調査を続けている。

 トキ1羽が能登で羽ばたけば、いろいろな波及効果があると考えられる。環境に優しい農業、あるいは生物多様性、食の安全性、農産物への付加価値をつけることができる。トキが能登で舞うことにより、新たなツーリズムも生まれる。そうした能登半島にビジネスチャンスや夢を抱いて、あるいは環境配慮の農業をやりたいと志を抱いて若者がやってくる、そんな能登半島のビジョンが描けたらと思う。

⇒23日(月)朝・金沢の天気  はれ