#コラム

☆「ハブ化」を言う前に

☆「ハブ化」を言う前に

 「羽田 国際ハブ空港化」ー。こんな見出しがここ数日紙面をにぎわせている。10月13日の前原誠国土交通大臣の発言を受けてのことだ。しかし、地方に住んでいる者にとって、どの空港を使うかは行き先によって決まっている。たとえば、金沢からだと、ハワイは名古屋、ニュージランドとオーストラリアは関空、ヨーロッパは成田だ。その理由は、出発先からのアクセスと待ち合わせ時間をまず考えるからだ。ハワイは便数だと成田が多いが、小松から成田の乗り継ぎ便が少ない。そこで、JR金沢駅から名古屋駅に向かい、直行バスで名古屋セントレアに行く。夜10時ごろのフライトでホノルルまで6時間だ。ニュージーランドの場合はJR金沢駅から関空に向かう。行き先に応じて組み合わせをする。

 きょうの論点の結論から言えば、「羽田 国際ハブ空港化」は無理だと思うし、その必要もない。また、そうすべきでもないと思う。日本人1億2千万人が使う空港を羽田にバブ化、つまり集中することの困難性は明らかだ。まず、地震や台風など災害が多い日本のような国では集中管理より、リスク分散だろう。次に、激しい建設阻止闘争を押し切って開港した経緯から、成田が午前6時から23時の時間帯しか発着できない約束事があるというのであれば、国土交通大臣が建設中止を明言した八ツ場(やんば)ダムのように成田の住民を説得に現地に赴くべきだ。深夜発着にかかわる騒音対策の問題もあるのでその補償案を提示して説得するのが筋だろう。

 さらに、羽田‐成田間の乗り継ぎの不便さが指摘されている。確かに、京成、都営浅草、京急休耕の各線に乗り入れるかたちで直通列車が運行しているが、最短でも106分かかる上、便数も限られている。これをせめて50分台のアクセスにして、東京駅ともリンクするように国交省が全力を上げれば不便さはかなり解消される。ハブ化を言う前に、成田と羽田の利便性を高めるために打つ手はいろいろある。

 韓国の仁川空港にハブ機能が奪われているという。「国際空港評議会」(本部ジュネーブ)が選出する2004年-2008年の「空港ランキング」総合評価部門で仁川が連続して「世界最優秀空港賞」を受賞し、国際貨物量で2006年に成田を抜いて世界2位になった。前原発言はこれを強く意識したものだろう。

 そもそも西日本の地方空港がなぜ仁川を利用しているかというと、たとえば九州から見れば、成田や羽田はアジアやヨーロッパの方向とは逆方向に位置する。感覚的にあえて逆戻りしてまで成田や羽田を使いたいとは思わないのである。東京の人が北海道に行くのにわざわざ名古屋や関西に行くだろうか。つまり、「羽田 国際ハブ空港化」は東日本の感覚なのだ。日本列島は東西に長いのである。ちなみに、羽田のD滑走路(来年10月運用)を国際線に振り向ければなおさら国内線が窮屈になるのではないか。するとますます地方空港の仁川活用が増えるというパラドックスが生じる。仁川と競い合うハブ空港を日本でつくるとすれば、むしろ関西や福岡の方が東アジアのポジションとすれば地の利があると考える。※写真は羽田空港

⇒14日(水)夜・金沢の天気  はれ 

★台風とリスク管理

★台風とリスク管理

 1泊2日の東京出張(10月8日-9日)が3週間ほど前から予定され、そこに台風18号がやってきた。なんとか東京にたどりついたものの、移動手段が二転三転、そして綱渡り。こんなことも珍しいので記録に留めておきたい。

 出張は、金沢大学が文部科学省から委託を受けて実施している人材養成プログラムの中間報告のため。当初往復とも小松空港と羽田空港を利用した空の便を予約した。雲行きが怪しくなってきたのは今月5日ごろ。伊勢湾台風並みの大型台風がやってくるという。そのうち、8日に本州直撃との予報が。今風の「リスク管理」の5文字が脳裏に浮かび、「これはいかん」と旅行会社と相談し、台風に強い列車に切り替えた(6日)。行きをJR金沢駅から越後湯沢乗り換え、上越新幹線で東京へ。帰りは東海道新幹線で名古屋乗り換え金沢駅のチケットを手に入れた。航空運賃のキャンセル料(30%)がかかったが、リスク管理は経費がかさむものと自分を納得させていた。しかも、中間報告に出席する3人とともに発表のリハーサルも終え、準備は万全と悦に入っていた。

 ところが、7日午後5時半ごろ、旅行会社から携帯電話に連絡が入った。「台風の影響であすはJRが全面運休となりました」と。「これはいかん」。即、大学の事務スタッフに依頼して、東京での中間報告会が予定通り実施されるのかどうか先方に確認してもらった。その返事は「今のところ予定通り。ただ、変更もありうるので連絡がつくように」と。それしてもなぜ陸路の列車が止まるのか疑問だった。JRは乗客5人が死亡した2005年の山形県内の羽越線の脱線・転覆事故以降、運転を見合わせる風速の規制値をそれまでの秒速30㍍から25㍍に引き下げていた。つまり、安全対策のレベルを上げていたのだ。今回の台風に関しては、JRが航空会社より機敏で、運休の判断も速かった。「少々過敏」と思わないでもなかったが…。

 では、東京行きの移動方法をどうするかと思案していると、くだんの事務スタッフからその夜、電話があった(7日)。「小松発の8日夕方のJAL便がインターネットで予約を受け付けている。私は1278便を取りました。宇野さんはどうしますか」と。即「私の分もお願いします」と。結局、台風が過ぎ去るを待って、空から追いかけるように小松から羽田に向かうことにした。帰りはJRの便をそのまま生かした。

 そして8日午前、能登半島などが暴風域(風速25㍍以上)に入り、最大瞬間風速は輪島で33.5㍍、金沢で27.7㍍に達した。金沢など加賀地方では白山(標高2702㍍)が衝立となったのか、能登方面よりも風の勢いは強くなかったようだ。小松発午後4時20分のフライトを待った。しかし、羽田からの機体到着が遅れ、東京に向けて飛び立ったのは午後7時15分。実に3時間の遅れだった。羽田に着いたとき、雨は上がっていて星がきれいに見えていた。(写真は気象庁)

⇒8日(木)夜・東京の天気  はれ

 

☆こつなぎ百年物語

☆こつなぎ百年物語

 映像で見るのと、活字で読むのとではまったく別の物語ではないかと感じた。ドキュメンタリー映画「こつなぎ‐山をめぐる百年物語」の上映が4日、金沢市21世紀美術館であった。国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニットが主催する「環境映像祭 in 金沢」のプログラムの一つ。入会(いりあい)権をめぐる裁判闘争で有名な小繋(こつなぎ)事件を扱ったドキュメンタリー映画だ。

  出版の世界では、「生きる権利をめぐる半世紀の闘争の裁判記録」となる。ところが、今回の映像では印象として「たくましき山の民の物語」である。映像では、法廷への出入りのシーンがあるだけで、ムシロ旗を掲げての抗議行動などのシーンというものが出てこない。村の生活やお祭りを交えながら淡々と映像は流れて行く。120分。 会場で配布された「あらすじ」からこのドキュメンタリーの流れを引用する。岩手県盛岡市の北、50㌔の山里。二戸郡一戸町小繋。ここへ今から50年前、映像カメラマンの菊池周、写真家の川島浩、ドキュメンタリー作家の篠崎五六の3人が通い、小繋の人々の暮らしの記録を取るようになった。小繋は戸数50戸に満たない山間の農村。村を取り巻く小繋山から燃料の薪や肥料にする草・柴を刈り取って暮らしている。山は暮らしに欠くことのできない入会地だ。入会地とは、一定地域の住民が慣習的な権利によって特定の山林・原野・漁場の薪材・緑肥・魚貝などを採取することを目的に共同で使用することを指す。

  大正3年(1914)、村に大火事があり、家々が焼けた。山から材木を切り出し家を再建しようとする人々に、地主が立ち入りを禁止する。江戸時代は南部藩の所領だったが、その管理を地元の寺の山守に任せていた。入会の山は、明治の地租改正を経て、県外の地主の私有地となっていたのだ。地主と契約を結ぶことで山に入ろうとする住民たち「地主賛成派」と、入会は自分たちの権利だと主張する住民たち「地主反対派」に分かれ、村は二分される。

  反対派は大正6年(1917)、「山に入れなければ生きていけない」と入会権確認の訴訟を起こす。これが、「小繋事件」の始まりだった。人権派弁護士の支援、盛岡地裁、宮城控訴院の棄却判決、地主のよる森の伐採、第2次訴訟と高裁調停など、大正から昭和、戦後にかけて長い裁判闘争の歴史が続く。その間も、村の暮らしは山とともに不自由をしのぎながら続き、カメラはそれを追う。

  そして昭和30年(1955)、反対派住民が「山の木を伐採した」として森林法違反で11人が逮捕され、刑事事件となった。事件は昭和41年(1966)、最高裁で被告の有罪が確定する。「負けたからといって山に入るのはやめられない。入会をやめるのは農民としての暮らしを放棄することだ」と語る被告たち。時は流れ昭和50年(1975)。賛成派と反対派の調停が成立し、住民が顔をそろえて一緒に山仕事をするようになった。

 しかし、今、村は高齢化と過疎化の波に洗われる。最後の方のシーンでは人手不足や化石燃料の依存の生活形態の変化などで薪を使わなくなり、樹木が伸び放題の荒れた山のシーンが描き出される。かつての原告の一人の古老がこうつぶやく。「山でも川でも地球の一部分でしかないでしょう。これが誰のものというのは変なんですよ。…地球があって、はじめて我々が生きているわけだから…」。終盤のシーンは「山は誰のものか」から「この山を今後どう生かす」へとテーマが大きく転換しつつことを暗示しているようにも思える。

 ⇒5日(月)夜・金沢の天気  はれ

★能登のお寺とアジア

★能登のお寺とアジア

 アジア太平洋諸国の教育、文化等の分野の学者、専門家を招へいする財団法人ユネスコ・アジア文化センター(ACCU)のプロジェクトが9月30日から10月2日にかけて金沢と能登で実施され3日間同行した。ASEANを中心とするアジアの5カ国(インドネシア、タイ、マレーシア、フィリピン、パキスタン)から9人を招いて、日本の専門家を交え環境教育に関する研究交流を行った。移動をともなうツアーでもあるので、受け入れ側の大学では通訳、司会、ロジスティック(設営・支援)などそれぞれが分担して対した。今回ロジを担当して見えてきた「文化の違い」が勉強になった。

 招いた9人のうち女性7人、宗教ではイスラムが多い。それぞれの国の大学や研究機関、シンクタンクの研究者の人たちである。30日午後、金沢大学を訪れた一行はまず学長を訪問した。あいさつは手土産渡しから始まった。彫り物といった民芸品が多いのだが、パキスタンから訪れた女性は綿のマフラーを。しかも、学長の首にまいて差し上げるというのが「決め技」である。手土産としては軽くて旅行バックに収納がしやすく、実に計算されていると感じ入った。この女性は場所を変えるごとに衣装換え、衣装のデザインは自らしたものだという。訪問先への手土産渡しは、アジアの光景である。欧米のプレゼント交換とは違い、なぜか共鳴するシーンではある。ちなみに学長のお返しは輪島塗の写真立て。

 宗教上のこともあり、レセプションの献立には気を使った。イスラム教では牛肉と豚、アルコールはご法度だ。それらを除外した鶏肉、魚介類が中心のメニューだが、手を付けてもらえなかったのがハムサンドだった。仕出し業者にはハムの除外をあらかじめ伝えてあったが、おそらく二次発注の段階で伝わらなかったのだろう。慌てて、その場で取り除くのも不自然だったのでそのままにしておいた。で、案の定、手付かずということになった。ハムのほか、ハンバーグや餃子といった混ぜ物には手を付けない。自分の目で見て、食材が理解できないものは「怪しい」となるのである。この厳格さにはある意味で共感した。宗教上であれ、菜食主義であれ、自分で納得した食材でなければ手を付けない。これは正しい。日本人には食に対する警戒心というものがなさすぎる。得体の知れない冷凍食品や、偽造牛肉が横行していたことが発覚したが、これは一面で食に対する無節操の逆説だ。食の安全性に関しては、「イスラム並み」の厳格さがあってもいい。

 2日目。能登の「古民家レストラン」で昼食を取った。食器は朱塗りの輪島塗なので、興味を示してもらえると思い、あえてこのレストランにしたのだが、読みが浅かった。天婦羅や焼き魚は食してもらえたが、この店自慢の手づくり豆腐が手付かずのまま残っていることに気づいた。そもそも箸は日常的に使わない。さらに器を口に付けて食べるという作法はない。従って、崩れやすい豆腐は食べにくいのである。そこで急きょ、スプーンを用意してもらった。さらに思った。それならここで、「食べにくいのでスプーンを出して」と日本人ならクレームを入れる。ところが、ゲストはそういうたぐいの文句は言わない。ホストに対して礼を失するというわけだ。「声なき客の声」を読むのはホストの役目。これはとてもプレッシャーではある

 3日目。「写真を撮って」と一番人気のスポットは能登のある山のお寺だった。建造物の外観ではない。本堂のきらびやかな仏壇や仏具をバックにしてである。イスラム教徒が多いので、異文化理解に役立てばと思い案内した。古色蒼然とした外観だが、本堂には金箔の耀きがある。このコントラストに一行の目も耀いた=写真=。インドで生まれた仏教が敦煌、朝鮮半島と伝播して、日本の半島の先端でもこうして信仰を集めていると説明をした。写真のフラッシュが飛び交う中、仏教徒のタイの人は静かに手を合わせていた。

⇒3日(土)夜、金沢の天気  はれ

☆長崎旅記~下~

☆長崎旅記~下~

 22日正午、ハウステンボスの入り口から歩いてJRハウステンボス駅に移動中に大粒の雨が。傘の用意を怠っていたので急ぎ足で駅に駆け込んだ。実は「長崎」にはちょっとした思い入れがある。宴席でカラオケの順番が巡ってきて、「何か歌って」とせかされて歌うのが、内山田ひろしとクールファイブの「長崎は今日も雨だった」だ。前川清のボーカルをまず歌って、カラオケの喉ならしをするのがすっかり定番になった。最近では、リクエストをする前に「長崎、入れときましたよ」と周囲が気を利かせてくれる。長崎の雨を恨むどころか、旅情に浸り軽く口ずさみながら、福岡・博多に向かった。

        「屋台の出勤風景」に博多の勢い

  博多の駅は2011年の完成を目指し、リニューアル工事が行われている。完成予想図を見ると、京都駅のイメージがわいた。宿泊はグランド・ハイアット福岡。ホテルの立地が面白い。この一区画が「キャナルシティ博多」と呼ばれる、ビジネスとエンターテイメント(映画館など)、ショッピングセンターが渾然一体となった再開発エリアになっていて、その中心にホテルがある。ホテルの玄関は駅に背を向けた格好になっているので、博多駅から歩いてくると、建物と入り口が実に分かりにくい。恥をしのんで別のホテルに入り、フロント係りの人に場所を尋ねたくらいだ。

  ようやくたどりつくと、大音響に迎えられた。たまたま「キャナル・アジアン・ウイーク」というイベントがホテル隣接の野外ステージで行われていて、早業で次々と顔が変わる「変面」や、陶器のツボを頭上で自在に動かす「壷回し」といった中国雑技が会場を沸かせていた。「アジア最高峰のテクニック」と銘打ったこのショーもさることながら、毎時定時に音楽に合わせて踊る噴水のダンス「ダンシング・ウオーター」=写真・上=に技というものを感じた。リズムに乗って、30メートルも水を吹き上げるかと思えば、小刻みに腰を振るイメージの演出もあって、大技小技の利かせた噴水ショーなのである。人出も多い。あれやこれやで、エンターテイメントを生み出す「博多の勢い」というものを感じた。

  一方で、変わらぬ勢いも垣間見た。夕方、ホテルの近くを散歩していると、後ろに屋台を連結させて中州の方向へ走る何人ものバイク乗りの姿が目についた。空き地に折りたたんだ屋台が整然と並べてあって、それを運び出しているのである。焼き鳥、ラーメン、一杯飲み屋などの屋台がそれこそ次々と。その姿はさながら「屋台の出勤風景」のようでもあり、これから稼ぎに行くぞとの意気込みにも感じられたくましい。

 ⇒23日(水・秋分の日)朝・博多の天気  くもり 

★長崎旅記~中~

★長崎旅記~中~

 17世紀のオランダの街並みをモチーフに設計されたというハウステンボスを歩く。石の道は何度歩いても歩きにくい、これもヨーロッパたたずまいかと思うと妙に納得したりする。前回ハウステンボスを訪れた2006年3月とは何が異なるか、自問自答すると一点ある。それは中国語と韓国語の人たちがめっきり減ったということだ。前回は四方八方に2つの言語が飛び交い、日本語は肩身が狭いほどだった。

       歴史を創ったファシリテーター  

  これは2008年9月の「リーマンショック」以来、為替レートに異変が起きているからだろう。現在、韓国ウォンの為替レートは日本円100円に対して、1300ウォンほどだが、3年前の為替レートは800ウォンで推移していた。円に対してウォン高だった。この円安の流れで日本には韓国や台湾、中国からどっと観光客が押し寄せた。ところが、最近の円高はアジアからの観光客を遠ざけている。九州きっての観光地であるハウステンボスに来れば、マネーの流れが実感できる。さしずめ「東アジアの経済センサー」と言ったところか。

  ハウステンボスのある長崎は今、「坂本龍馬」で盛り上がっている。ハウステンボスの街にも観光ポスターが貼られている=写真=。「龍馬、長崎で待つ」。2009年は「安政の開港」(安政6年=1859年)から150年目に当たる。ここから日本は230年にもおよぶ鎖国から開国へと大きく転換し、明治維新という大改革化の時期に入る。この歴史的な節目で、2010年のNHK大河ドラマのテ-マは「幕末史の奇跡」と呼ばれた坂本龍馬33年の生涯を描く「龍馬伝」に決まった。そのドラマの主たる舞台となる長崎が熱い。しかも、その龍馬役を長崎市出身のシンガーソングライター、福山雅治が演じるとあって、当地ではヒートアップしているというわけだ。

  坂本龍馬の最大の功績は、当時の薩摩と長州の2大勢力をどちらの藩の利害も代弁せずに、ただ外圧に対抗するために「薩長連合」の実現へと奔走したことだと思う。これが明治維新へと歴史を突き動かす原動力になったからだ。最近、シンポジウムなどでファシリテ-ター(Facilitator)という役割が重んじられる。主役ではないが、会議の流れを読み、合意形成へと導く役回りのことである。歴史的な政権交代の時期に出てきた日本のファシリテーター、それが龍馬という人物なのだ。

  司馬遼太郎ら作家が龍馬をさまざまに描き、その生涯はテレビや映画のドラマにもなった。単なる長崎の観光キャンペーンに終始することなく、名も無き若者が国を動かす龍馬の物語が、夢を失ったといわれる現代の日本の若者を勇気づけるきっかけとなってほしい。このポスターを見ながら、そんなことを思った。

 ⇒22日(火・国民の休日)長崎の天気  くもりのち雨

☆長崎旅記~上~

☆長崎旅記~上~

 「シルバーウィーク」とは考えたものだ。ネーミングがいい。この連休を利用して20日から長崎にやってきた。小松空港から羽田空港、そして長崎空港と空路を乗り継ぎ、長崎空港から海路でハウステンボスに入った。機体は大村湾をめがけて降下し、海に浮かぶ滑走路に向けて一直線に滑り込む。海上空港には航路の発着場があり、ハウステンボスへは海路で一直線。空から海へのトランスファー(乗り換え)がなんとも心地よい。

        空から海へのトランスファー

  プライベートでの長崎旅行は1994年8月、2006年3月と今回の3度目となる。空から海へのアクセスはこれが初めて。これまでは小松空港から博多空港に、それからJRに乗り継いでの陸路だった。波しぶきを上げて走る高速船の窓から湾の風景を眺めながら、ふと、「この高速船はどうなのだろう」と脳裏をよぎった。

  民主党がマニフェストで打ち出している「高速道路の無料化」のことである。長崎空港からハイステンボスまでは、安田産業汽船の「オーシャンライナー」が所要時間ほぼ50分、料金は片道大人2000円。これに対し、西肥バスは所要時間ほぼ50分で大人片道1100円となり、比べると料金がはるかに安い。バスは高速道路利用の直行便ではないが、もし高速道路の無料化が実現すると長崎自動車道(大村IC-東そのぎIC)が無料となり、バス会社は高速道路を使うだろう。すると高速船より、「早く安く、予約が要らない」の3点で競争力を増すことになる。

  すでに実施されている「ECT搭載車の通行料上限1000円」の割引制度でフェリー業界はどこも経営が青息吐息の状態といわれる。高速道路の無料化で観光客は増えるかもしれないが、フェリー業界の淘汰や再編が加速しそうだ。

  そんなことを考えているうちに、高速船はハウステンボスのマリンターミナルに着いた。海から見るハウステンボスは壮観である。山々が海にせり出したリアス式海岸と、山をバックして海に面する建物群のコントラストが際立つ。陸路からでは味わえない風景だ。

 ⇒21日(月・祝)午後・佐世保の天気   はれ

★選挙の余波と余談

★選挙の余波と余談

 あの「政権交代選挙」から4日目、仕事や日常で交わされた会話やメールから。8月31日に東京のメディア誌編集長から届いたメール。「かつての角福戦争の怨念は、05年には小泉チルドレンの数となり、09年では小沢選挙戦法となって国会に分け入ってきました。この09総選挙は、一つの歴史を刻みました。大敗した自民にとって、結果論として世代交代になるチャンスという見方ができるでしょうか。彼らのそんなエネルギーがあるでしょうか。また、大勝の民主は冷静な政権政党としての振る舞いと、政策の裏付けを示すことができるのでしょうか」

 同じく31日、かつて広告業界にいた知人との会話から。「自民よりましだと思って民主党に入れた人が多かったと思う。でも、民主が本当に日本の政治を変えるかは疑問だね。小沢さんたちは自民の大幹部だったしね。労組が応援しているとなると政治がちょっと左に動く程度じゃないかな」「当選者の数を見ると面白い現象が現れている。自民党が強いところほど当選者が多い。石川は7人もいる。福井も7人。これって自民と民主が互角で惜敗率が高かったせいで、比例で上がったんだね。石川に7人も代議士がいるんだから、使い倒さなきゃな。次の選挙のために、みんな必死に地元のために働くよ。これからが本当のドブ板だね」

 来年度予算をめぐって大学内で事務スタッフとの会話(9月2日)。「来年度の概算要求は民主政権下で全面的に見直しになるので、これまで文科省(文部科学省)と積み上げてきた概算要求については白紙状態だね。9月の補正予算でもストップがかかっているらしい」

 再びメディア誌編集長から届いたメール(2日)。テレビメディアと放送法をめぐる講演を要約したもの。「民主党は日本版FCCへの移行を提唱するが、この問題を巡って議論が本格化する可能性もある。日本版FCCが期待通りの機能を果たすには、二大政党下での政権交代の可能性や、委員会を監視する諸集団の存在などが必要だが、日本にはそうした条件が成熟しているか疑問もある」

 FCCはアメリカの連邦通信委員会の略称。日本版FCCについては説明が必要だ。以下、民主党のマニフェストから引用する。「通信・放送行政を総務省から切り離し、独立性の高い独立行政委員会として通信・放送委員会(日本版FCC)を設置し、通信・放送行政を移します。これにより、国家権力を監視する役割を持つ放送局を国家権力が監督するという矛盾を解消するとともに、放送に対する国の恣意的な介入を排除します。また、技術の進展を阻害しないよう通信・放送分野の規制部門を同じ独立行政委員会に移し、事前規制から事後規制への転換を図ります」。つまり、テレビ業界を放送法や電波法で監督しているを総務省からテレビ業界を切り離すというもの。これで政治権力から表現の自由など守るとしている。ただ、日本のテレビ業界は日本版FCCを望んでいるだろうか。むしろ、規制に守られた「最後の護送船団」と称され、これ以上テレビ局が増えないように政治に働きかけてきたのはテレビ局の方ではなかったか。

 最後に、2日付の朝日新聞の紙面から。衆院選の結果を受けた世論調査から。「新政権に期待」74%。民主大勝の要因についての問い、「有権者の政権交代願望が大きな理由か」81%、「政策への支持が大きな理由か」38%。意外だったのは、自民について。「民主党に対抗する政党として立ち直ってほしい」76%。民意は優しいのか、厳しいのか…。

⇒3日(木)午前・金沢の天気  くもり

☆09総選挙の行方~5

☆09総選挙の行方~5

 私の知人の話である。知人は10年ほど前、インドを旅行した。コルカタ(かつてカルカッタと称した)の広場で、群集が静かに、ある一点をじっと見つめていた。その目線の向こうはカメだった。「異様な光景だった」という。ところが人々の様子をつぶさに観察すると、静かな群集なのだが、手は盛んに動いていた。お金を右に左に手渡している。カメがどちらの方向に動くかで、賭けをしていたのだ。

        1か0か、デジタル政権の時代に

  この話を聞いて、今回の総選挙を連想した。政権というカメがどちらの方向に向くかをじっと観察している有権者が静かに手を動かす(投票)。これまでの選挙は、闘牛やスポーツを観戦するかのごとく国民は熱狂した。お祭り騒ぎをした。だから、誰が、どんな世代が何を政治に求めているのかが見えやすく、実感でき、論議もでき、そして自らの投票行動の基準が分かりやすかった。ところが、今回の選挙は政権交代で誰が何を求めているのか見えにくい、分かりにくい、可視化できなかった。

  この選挙期間、テレビメディアでも取り上げられたエピソードがある。選挙期間中、民主党の鳩山由紀夫代表が青森・八戸市で演説していたら、前列にいた女性が泣き出した。後で鳩山氏が尋ねると、「仕事がなく帰郷した息子が自殺した。この政治を何とかしてほしい」と訴えたという。テレビではたまたま鳩山氏が婦人の話に耳を傾ける姿が映されていた。このエピソードにも象徴されるように、訴えは個々である。ある党のマニフェストに異議を申し立てる団体とか、あるいはマニフェストに賛同して行動する「勝手連」とか、有権者側の行動が見えにくい選挙だった。

  こうした静かなる選挙はある意味で怖い。もちろんこれまでも、争点らしきものはなく静かなる選挙はたびたびあった。しかし、勢力図を完全にひっくり返すような静かな選挙はなかった。が、世界を眺めれば、政権交代は普通のことである。その意味で、日本もようやく「普通の国」になったと言える。日本の場合、議会制民主主義なので、アメリカ大統領選や、韓国の大統領選のような熱狂はない。民意は反映されるが、その民意は見えにくい。308議席のマンモス政党といえども、またひっくり返される可能性も十分にある。有権者の静かで激しい民意を汲み取らねば政権が維持できない時代に入ったのだろう。民意は移ろいやすい。長期政権の時代の終焉である。あるいは、1か0か、政権のデジタル化と言えるかもしれない。

 ⇒1日(火)朝・金沢の天気  はれ

★09総選挙の行方~4

★09総選挙の行方~4

 石川1区の開票所=写真=を見学に行ってきた。金沢市の市民体育館。かつて取材で何度か訪れたことがあるが、一般の「参観人」としては初めて。体育館の3階から1階で行われている開票の様子を眺めることができる。3階にはざっと60人はいる。ただ、参観人は数人、あとは圧倒的にマスメディアの関係者で占める。腕にそれそれのメディアの名前を記した腕章を付けている。

       開票所に行く、「静かなる大変革」を実感

  公職選挙法第6条2では、選挙の結果を有権者に速やかに知らせるように努めなければならないとしており、開票所は公開されている。ただ、テレビ各局は午後8時から一斉に「選挙特番」を放送するので、不思議な感じがする。携帯電話のワンセグ放送で視聴すると、開票所に到着した午後9時ごろ、全国200人余りにすでに「当確(当選確実)」が出ていた。ところが、この金沢市の開票所は開票のスタートが午後9時30分なのである。都市部の開票はだいたい午後9時ごろからなので、「メディア開票」がずっと先行していた。

  新聞とテレビのメディアは実際の開票所での開票データではなく、あくまでも推測で当確を出すわけである。9時20分ごろに開票所3階にやってきた年配のご婦人が「もう開票の半分は終わった頃かと思って見にきたのに、(開票は)今からとは…」といぶかしげに、「広報」の腕章を付けた係員に尋ねていた。当確という文字は、「○○候補の当選はおそらく確実でしょう」という推測の意味を含んでいる。メディアが数字の根拠として持っているデータは、投票所の前で行う出口調査の結果である。各メディアによって数字は異なるが、それぞれの選挙区で数千のサンプルを採取している。その出口調査の結果と、投票前にすでに行っている電話調査の結果を突き合わせ、さらに選挙区を取材する担当記者の感触などを含め総合的な判断で当確を出す。ところが、出口調査でも電話調査でも「互角」「競っている」「その差数%」という微妙な数字がある。その場合は、リアルな数字の読み込みが必要である。開票所では実際、どの候補者がどれだけの数字を取っているのか、である。

  実際に開票台で仕分けされる票を目で確認する調査を「開披台(かいひだい)調査」とメディアは称している。バードウォッチングの要領で双眼鏡で、仕分けしている開票係の手元を読んでいく。どの候補者の名前が票に記されているか調査する。メディアは一つの開票所にウオッチャーを10人から15人を貼り付ける。私が金沢市の開票所3階を訪れたのは、そのメディア開披台調査の様子を観察することで、接戦が予想された石川1区の自民・馳浩氏と民主・奥田建氏の勝負を見極めたかったからである。ウオッチャーが候補者名を読み上げる。それを記録係が記入していく。私はそのウオッチャーたちの声を聞きながら当落の目星をつけ、1時間ほどで開票所を出た。

  自宅に帰る。深夜、開票終了。奥田氏が125,667票、馳氏は117,168票とその差8499だった。開披台調査とほぼ同じ割合の差だった。そして自民119議席、民主308議席と国会の勢力図がひっくり返った。自民の大敗。おそらく安倍晋三氏、福田康夫氏の「総理の座」の放り投げあたりから自民に対する有権者の幻滅感が漂っていた。不況対策も実感できず、国の借金は800兆円にも膨らんでいる。こうなれば、自民党に降りてもらうしかない、そんな冷静な有権者の判断が下ったのだ。これほどの歴史的な大差がついたのに、選挙期間は有権者の熱狂は感じられなかった。「静かなる大変革」とでも言おうか。これから新たな政治と経済、そして社会のドラマが始まる。

⇒31日(月)朝・金沢の天気   くもり