☆生きるセンス
小田さんは、登山家の長谷川恒夫が「生きぬことが冒険」と語ったその生涯を紹介しながら話した。彼の登山人生は15歳のときにはじめて丹沢に登り、17歳で岩登りを知ることから始まる。26歳のとき、エベレスト登山隊に参加した。48人という大所帯での登山で、サミッター(登頂者)の生還を助けたが、自身の登頂はならならずに「組織登山」から、単独登山を志す。31歳で、アルプス三大北壁冬期単独登頂を果たし有名となる。その後も、アコンカグア南壁フランスルート冬期単独初登頂。その後、ダウラギリ、エベレストなどを目指したが敗退の連続で、ヒマラヤではサミッターにはなれなかった。1991年に未踏峰ウルタルIIに挑戦し、雪崩に巻き込まれ亡くなる。43歳だった。「挑戦し続ける人生こそ」と小田さんは言う。最後に、「好きこそものの上手なれ」という有名な言葉の説明をした。これには前文があり、「器用さ、稽古と好きのうち、好きこそものの上手なれ」だ。つまり、最初は下手でも、「好き」という人が最終的に名人になる。「好きなことに挑戦し続けよう、これが生きるセンス」と結んだ。
泉谷さんが、36歳にして初めての市長選に臨んだ2000年6月。現職に挑戦し、敗退した。「そのとき、人格のすべてが否定されたように思った」と。泉谷さんは話の中では触れなかったが、当時、最大の争点だった原発建設計画の「一時凍結」を訴え、反原発グループと政策協定を結んで戦った。が、推進派の現職9300票、泉谷6690票で敗れた。その後、2003年12月に電力側が「原発の凍結」を市に申し入れ、原発計画に終止符が打たれた。初めての選挙で敗退者となり、落ち込んでいた泉谷さんに励ましの声をかけてくれる人々もいて、人の気持ちのありがたさを知った。泉谷さんは、明治の政治家・陸奥宗光の言葉を座右の銘にしているという。「政治はアートなり。サイエンスにあらず」。費用対効果など統計や数字を持ち出して語る政治ではなく、人々の心の動きが読める政治をしたいと語った。
榊原さんは、ふっくらとした面持ちで、演歌の天童よしみ似が第一印象だった。33歳のときに凍結路面で交通事故に遭い、九死に一生を得る。「右手の中指からチカラがスッと抜けました。死はここから始まると思いました」。難病の人たちの願いを地域の人たちとかなえる「命に優しい街づくり」「ホスピタリティな街」を小松市で実践している。ガン患者とスープをつくり、飲む集いなども主催している。話の最後に締めくくった言葉。「喜べば、喜び事が喜んで、喜び連れて、喜びに来る」。自ら死線をさまよった経験を持ち、生き抜きたいと願う人々に手を差し伸べる。人生の本当の喜びとは一体何かを考えさせてくれる言葉だった。
⇒20日(土)夜・金沢の天気 はれ
授業の冒頭に説明した。日本酒は欧米でちょっとしたブームだ。ワインやブランデー、ウイスキーなどの醸造方法より格段に人手をかけて醸す日本酒を世界が評価しているのだ、と。その後、農口氏を紹介するビデオを流し、「神技」とも評される酒造りの工程を学生に見せた。
西日本や東日本の各地で12日、黄砂が観測されたと夕方のNHKニュースで知った。気象庁によると、東京都心で秋(9~11月)に黄砂が観測されたのは記録が電子化された1967年以降で初めてという。12月も含めると28年ぶり2回目という。そんな記録的なことだとは知らなかったが、穴水湾で見た霞がかった光景も「そういえば黄砂か」と、このニュースを見て改めて気づいたのだった。
その豊穣の海は、その後に争いの海となる。1945年(昭和20年)8月11日にソビエト連邦軍が侵攻し、樺太の戦いが勃発し全島が制圧された。8月14日午後11時に日本がポツダム宣言の受諾を連合国に通達した。降伏の意図を明確に表明したあとにソ連軍が北方四島に侵攻し、8月28日から9月5日にかけて、択捉、国後、色丹島、歯舞群島を占領した。日本人の島民を強制的に追い出し、さらには北方四島を一方的にソ連領に編入した。
その話を聞いて、こんなニュースが気になった。東南アジア諸国連合(ASEAN)会議出席のためにベトナムを訪問した菅直人・温家宝首相の会談を中国側が拒否したことについて、中国側外交部が「日本側はASEANの会議期間中に、中国の主権の領土の完備性を侵犯する発言を、メディアを通じてまき散らし、両国の首脳が意思疎通をする雰囲気をぶち壊した。その結果は日本側がすべて責任を負わねばならない」と述べたという。
もう一つのサブイベント。国連大学高等研究所などが中心になって、研究者や行政担当者ら200人が携わった研究「日本の里山・里海評価(JSSA)」の成果報告会が22日に開催された=写真・上=。評価の中核を担う「科学評価パネル」の共同議長を務める中村教授が総括発言を行った。2007年にスタートしたJSSAは過去50年の国内の里山里海をテーマに自然がもたらす生態系サービス(恩恵)の変化を調べたもので、日本人の思い入れが深い里山里海について、初めて科学的な分析でまとめられたことになる。評価は、従来の研究や数値データを集約する手法で、里山や里海の荒廃と生態系サービスの劣化が日本各地で広がっている状況が裏づけられました。総括の中で、中村教授は「今後10年間の研究プログラムを組み、政策提言することが必要」と述べた。
次にブース展開。石川県・国際生物多様性年クロージングイベント開催実行委員会のブースで「金沢大学の日」(21日、22日)を設け、里山里海プロジェクト(代表・中村教授)の取り組みをPRした=写真・中=。ブースでは、プロジェクトの「能登里山マイスター」養成プログラムや里山里海アクティビティ、里山里海自然学校、角間の里山自然学校、いきものマイスター養成講座などを円形写真を使って紹介。見学者へのノベルティでつくった「能登ゴマ」が人気だった。演出は、輪島市在住のデザイナーの萩野由紀さんに協力いただいた。
COP10公認の「石川エクスカーション」が23日と24日の2日間の日程で開催された。石川県の自然の魅力や保全の努力をアピールしようと石川県が企画、金沢大学が支援した。参加したのは、世界17カ国の研究者や環境NGO(非政府組織)メンバーら約50人。能登町の長龍寺本堂で行われた里山里海セミナーでは中村教授が金沢大学の能登半島での取り組みを紹介した。参加者から、どのような仕組みで大学と地域が連携するのかについて質問も。地元の地域起こしの組織「春蘭の里実行委員会」のメンバーが手入れしたアカマツ林のキノコ山を見学した。少々旬は過ぎていたが、見事なサマツがあちこちに。昼食では地元の人々たちの心尽くしの山菜料理を味わった。赤御膳が外国人には珍しく、会話が弾んだ=写真・下=。
地元に残る言葉に「四刻八刻十二刻」がある。これは大雨が降った際に木曽三川に洪水が到達する予測時間のこと。揖斐川は四刻(8時間)、長良川は八刻(16時間)、木曽川は十二刻(24時間)で洪水が到達することを意味している。流域住民が水害に対して敏感であったことが実に良く分かる。
午前から午後にかけて開かれた「農業と生物多様性を考えるワークショップ」の会場=写真=をのぞいた。農業による開発と生態系保全のバランスをどう取ればよいのか、先進国や途上国の立場から発言が相次いでいた。会場で知り合いの日本人研究者と出会った。水田の生態学者である。「食料自給率が40%そこそこの日本は食料の超輸入国だ。日本は世界から見透かされている」と憤っていた。世界は農業と生態系のあり様を真剣に論じている。ところが、食料を外国に依存し、耕作放棄地が問題になっている日本はこの問題で何を言っても迫力がない、というのだ。「日本の農業をどう立て直すか考えねば」。確かにもどかしさを感じる。
朝日新聞は、ことし9月21日付の紙面で大阪地検特捜部の主任検事による押収資料改ざん事件をスクープした。この特ダネが評価され、平山氏は今月15日に開かれた第63回新聞大会(東京)で、取材班を代表して新聞協会賞を受賞した。学生は200人、私自身も多少緊張して耳を傾けた。
日本でいったん絶滅した国際保護鳥のトキはかつて能登半島などで「ドォ」と呼ばれていた。田植えのころに田んぼにやってきて、早苗を踏み荒らすとされ、害鳥として農家から目の敵(かたき)にされていた。ドォは、「ドォ、ドォ」と追っ払うときの威嚇の声からその名が付いたとも言われる。米一粒を大切にした時代、トキを田に入れることでさえ許さなかったのであろう。昭和30年代の食料増産の掛け声で、農家の人々は収量を競って、化学肥料や農薬、除草剤を田んぼに入れるようになった。人に追われ、田んぼに生き物がいなくなり、トキは絶滅の道をたどった。