#コラム

☆アナログ停波の日に

☆アナログ停波の日に

 きょう24日正午にアナログ放送が終わった。深夜零時には停波する。NHKも民放も正午を期して一斉に「ご覧のアナログ放送の番組は本日正午に終了しました」のテロップをブルーバックで掲載している。アナログ放送終了の瞬間を家族で見守った。そして、ブルーバックになったのを見届けて、ワインで乾杯した。新しいデジタルの夜明けにではなく、ちょっとノスタルジックに「アナログ放送お疲れさま」と。

 私が生まれた1954年の1年前に日本のテレビ放送は開始した。1926年に高柳健次郎がブラウン管に「イ」の字を映すことに成功し、日本のテレビ映像の黎明期が始まった。1929年、すでに開始されいたNHKラジオの子供向けテキストに「未来のテレビ」をテーマにしたイラストが描かれた。当時、完成するであろうブラウン管は丸いカタチで想像されていた。東京オリンピック(1940年に予定していたが日本が返上)を目指してテレビ開発は急ピッチで進んだが、戦時体制に入り中断した。高柳博士の成功から28年かかってテレビ放送は開始されたことになる。

 テレビ放送は開始されたが、国産テレビはシャープ製(14インチ)で当時17万5000円もした。大卒の初任給が5000円の時代で、庶民には高根の花だった。そこで、テレビは街頭に出た。ちょっとした街の広場にテレビが置かれ、帰宅途中のサラリーマンがプロレス中継など観戦した。テレビが急激に普及したのはミッチーブームのおかげだろう。現天皇皇后両陛下のご成婚である。美智子さまは当時、ミッチーと庶民から愛され、当時の皇太子は「語らいを重ねゆきつつ気がつきぬわれのこころに開きたる窓」と和歌をよみ、お二人のラブロマンスが共感を呼んだ。このころ日本経済は高度成長期と称され、テレビが爆発的に売れる。1962年には1000万台(普及率50%)の大台に乗った。

 かつてのテレビ映像でいまも脳裏に焼き付いているは、1964年の東京オリンピック、とくに東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボールである。当時、スローVTRが挿入され、その活躍ぶりには心を躍らされた。先般の女子サッカー「なでしこジャパン」の活躍とイメージがだぶる。1969年、アポロ11号のアームストロング船長が月面に第一歩を記したとき、私は中学3年生だった。テレビは38万キロ先の月面の画像をリアルタイムに映し出していた。今年いっぱいで番組が終了する水戸黄門が始まったのも1969年だった。1983年にNHKで放送された「おしん」のストーリーは60ヵ国以上で放送されているという。山形の寒村に生まれたヒロインが、明治から昭和まで80余年を懸命に生きるた人間ドラマ。外国人も涙を流すという、人類の共通の涙腺はとは何か。2001年9月11日、ニューヨークで起きた同時多発テロも、テレビ朝日「ニュースステーション」の途中ライブ映像で見た。一機目の衝突は事故だろうと思った。二機目が衝突して身震いした。これがテロか、と。

 日本や世界の出来事の断片をテレビで知り、そして脳裏に現代という歴史を刻んできた。それぞれの感性は異なるだろうが、テレビ映像は同時代の共通の話題やアイデンティティになった。そして私もかつて「テレビ屋」で14年間業界に籍を置いた。アナログ放送が終わりワインで乾杯したのも、ドラマ、スポーツ中継、ニュース、情報番組、バラエティ番組を通じてさまざまな情報(映像)を届けてくれたアナログ映像の向こう側にいるテレビスタッフの姿に感謝したかったからだ。

⇒24日(日)夜・金沢の天気   はれ

★GIAHS能登対話‐訳版

★GIAHS能登対話‐訳版

 世界農業遺産(GIAHS)のことが6月9日のテレビ朝日報道ステーションで取りあげられたり、共同通信の配信があったりしたおかげか、自在コラムへのアクセスが6月5日から25日までの集計で4900(訪問者数)にも上った。ところで6月18日付で国連食糧農業機関(FAO、本部ローマ)のGIAHS事務局長、パルビス・クーハフカン氏がGIAHS認証セレモニーに出席のため能登入りしたことを伝えた。そのときに、パルビス氏の演説(英文)を掲載したところ、友人たちから「そこまでやるんだったら、日本語も掲載しろ」としかられた。そこで今回は、その翻訳版を掲載したい。

 【翻訳文】 石川県知事、能登の市長町長、武内(和彦)教授、政府関係者や地域の皆さん、そして友人知人の皆さんの前で、能登半島が世界的に重要な農業遺産システムとして世界農業遺産に登録される大変素晴らしいお祝いの日に、FAO(国連食糧農業機関)を代表してお話しできるのは、私にとって光栄で名誉なことです。

 皆さんにぜひとも知ってもらいたいのは、世界農業遺産は過去についてではなく、未来についてのものであるということです。人類は、多くの困難に直面しています。金融経済危機、食糧、治安、貧困、環境悪化、気候変動、人口動態の均衡、そのほかにも多くの困難があります。現在の私たちの開発手法の土台が疑問視されており、グローバル化は地域の価値観に多くのひずみをもたらしています。そして、私たちの次世代の向かう先も疑問視されています。多くの科学者などが近年認めているように、私たちは新しい未来を築くために基本原則へ立ち返る必要があるのです。

 GIAHS(世界重要農業資産システム)とは、生態学的、経済的、社会的な持続可能性の柱です。すなわち、地産地消、地域社会の強化、カーボンフットプリントの削減といったものです。それは、自然と調和して生きるための能力を使いこなし、向上させるために、地域固有の知を活用し、生物多様性の保全と持続可能な利用をすることです。それは、文化的多様性や、私たちの持つ深い信念や価値観を促進することであり、また美意識であり、私たちの深い信念を守ることであり、私たちの風景、つまり私たちの里山を評価することでもあります。世界農業遺産になるということは、名誉なことであると同時に、責任を負うことでもあるのです。

 GIAHS地域の一員として活動する最初の段階は、利害関係者との協議、および事前のインフォームド・コンセントです。この原則は、生物多様性条約の主要原則の一つです。つまり、政治家、意思決定者、政府関係者は、地域社会や市民と共に議論し決定する必要があるということです。

 次の段階は、GIAHSの原則を地域の方針と実践の中に取り入れることです。これは、生物多様性や文化的多様性を大切にし、地域固有の知識を保護し、美意識を大切にすることを意味します。それはすなわち、地域社会の強化であり、ブランド化やエコツーリズム、若者の移住やその生活といった新たな機会を提供するために、地域社会を整備・支援することです。

 日本、中国、インド、そしてチリのような大国、およびその他の多くの国々が農業遺産を大切にしていることを非常に嬉しく思っています。しかし、これは無条件にそう認識されているわけではありません。GIAHSの原則をお手本のように実践している農場や農家を見定める必要があります。こうした人々・グループを支援し、生業がよくなるための手段を提供することによって、誰もがその生活や危機的状況を改善することができるでしょう。私たちには、環境志向経済の時代における環境志向農業が必要です。こうした目的の達成に向けて私たちが互いに協力し、さらに子供たちや若者世代の人たちが(農業に)戻ってきてこそ、私たちが本来目指す幸福な取り組みになると確信しています。どうもありがとうございました。

※写真(下)は、珠洲市の塩田村を見学するパルビス氏(6月17日)

⇒29日(水)朝・金沢の天気  くもり

☆GIAHS能登対話

☆GIAHS能登対話

 国連食糧農業機関(FAO、本部ローマ)のGIAHS事務局長、パルビス・クーハフカン氏が17日、認証セレモニーに出席のため能登入りした。パルビス氏が能登を訪問したは昨年6月以来、2度目となる。前回は金沢でのシンポジウム出席のため、ついでに能登の里山里海の視察で訪れた。金沢大学の能登学舎では、環境配慮型農業の社会人養成コース「能登里山マイスター養成プログラム」のカリキュラムと水田での生物多様性実習などについて説明を受け、それについて鋭く質問を浴びせた。さらに、実際に能登の田んぼで採集され昆虫の標本を食い入るように見ていた=写真=。パルビス氏が説く農業と環境の共存という主張は、本物だとこのとき私自身実感した。いまにして思えば、彼にとってもこのときの能登視察の第一印象が鮮明に残ったに違いない。言葉の端々に「N0TO」が出てくる。

 パルビス氏は能登空港で開催された認証セレモニーで「GIAHSは過去についてではなく、未来についてがテーマである。これが終わりではなく、始まりなのだ」と語った=写真・下=。氏の演説を録音起こしした早業の女史がいる。その原稿をいただいたので、そのまま掲載する。

 Honorable Governor of Ishikawa Prefecture, Mayor of Noto, Proffessor Takeuchi, members of government, and local community, colleagues and friends, It is an honor and privilege for me to represent the (聞き落とし) of FAO, food and agricultural organization of the United Nations, in this very happy day of celebration of designation of noto peninsula as a globally important agricultural heritage system, or world agricultural heritage.

Dear friends and colleagues, please note Word Agricultural Heritage is not about the past but about the future.
Humanity faces many challenges: financial and economic crises, food and security and poverty, environmental degradation, climate change, and balance population dynamics and many other challenges.
The foundations of our modern development patterns are questioned and globalization is creating many distortions in local values, and direction of our future generation is questioned.
As many scientists and others agree these days, we need to go back to our basic principle to build a new future.
GIAHS is about pillars of sustainability–ecological, economical, and social. It is about local food production and consumption, empowerment of local community, and reduction of our carbon footprint.
It’s about conservation of sustainable utilization of our biodiversity, using our local knowledge to manage and enhance our capacity to live in harmony with nature.

It is about the promotion of cultural diversity, and our deep beliefs and values, and it is about our aesthetic values and conservation of our landscapes or our satoyama.
Becoming a World Agricultural Heritage is both a privilege, but particularly, it is a responsibility.
The first step in working as members of GIAHS community, is stake-holder consultation, and prior informed consent.
This principle is one of the major principles of the convention on biological diversity.
This means, politicians, decision makers, members of the government need to discuss, and decide together with local communities and citizens.

The second step is the mainstreaming of the principles of GIAHS in our policies and practices.
This means cherishing our biodiversity, cherishing our cultural diversity, taking care of our indigenous knowledge, and cherishing our aesthetic values.
It is about empowering local communities, and preparing and assisting them in providing new opportunities, such as labeling, such as eco-tourism, such as installation of young people, and preparation of livelihood order.
I’m very pleased that big nations such as Japan, China, India, and Chile, and many countries are cherishing in agricultural heritage, but this is not an automatic recognition.
We need to identify model farms and model farmers, who are integrating all these principles―principles of GIAHS―into their practices and policies.
And by providing capacity building and helping these communities that everybody could include their livelihood system and crises.
We need a green agriculture in an era of green economy.
I’m confident that we will work together in achieving these objectives and goals, and our children and youngest generation will come back and join our effort in this happiness.
Thank you very much.

⇒18日(土)・金沢の天気  くもり

★GIAHS北京対話-下-

★GIAHS北京対話-下-

 その歌声は懐かしい響きがした。北京で開かれているGIAHS(世界重要農業資産システム)国際フォーラムの11日夜の懇親会でのこと。中国ハニ族の人たちがステージに上がり土地の民謡を歌った後、能登半島・七尾市から武元文平市長に随行してきた市職員が祝い歌「七尾まだら」を披露した=写真=。武元氏もステージに上がり手拍子を打った。朗々と歌うそのシーンは感動ものだった。会場が沸いた。すると、すかさずケニア・マサイ族、ナイジェリアと参加者が続々とステージに上がり土地の歌を披露した。佐渡市長の高野宏一郎氏は「佐渡おけさ」を歌い、職員2人が踊った。ステージは国際民謡大会の様相だった。国際親善とは本来このような在り様なのだろう。

         生物多様性保全と持続可能な農業、手を携えるパートナーとして

 11日午前9時から開かれた認証式で、能登半島の「能登の里山里海」と、佐渡市の「トキと共生する佐渡の里山」が正式にGIAHS(通称:世界農業遺産)の登録が認められ、授与式があった。武元氏は「大変名誉ある認証をいただき、とてもうれしい。日本の中でも遅れているといわれてきた地域が評価された。豊かな自然、文化、農林水産業が営々と続いている。先人の営みがまとめて評価された。今後は能登と佐渡が手を携えて、環境に配慮した農林水産業の地域づくりにまい進したい」と語った。

 
 そして、高野氏は受賞の喜びをこう語った。「世界農業遺産(GIAHS)の登録はゴールではなく、新たなスタートです。この認定を誇りに思うとともに、佐渡島民は受け継いできたこの農業の価値を認識し、より一層の持続可能な農業生産活動と里山、自然、文化の保全そしてトキをシンボルとした生物多様性保全に取り組みを進めなければなりません。登録を契機に佐渡GIAHSプロジェクトアクションプランを策定し、市民の皆様と産官学の連携を構築し、佐渡島が一体となって、環境再生と経済発展の仕組みが強固となるよう推進し、人と自然が共生する里山の風景、文化、生物多様性保全の新しいモデルとして佐渡の取り組みが確立されるよう努力を続けたいと決意を新たにしているところです」

 今後、能登と佐渡が同じステージに立ち、生物多様性保全と持続可能な農業と地域づくり、そして国際交流、国際貢献とともに手を携えて進むパートナーとなる。

⇒12日(日)朝・北京の朝   はれ

☆GIAHS北京対話-中-

☆GIAHS北京対話-中-

 その瞬間に立ち会えて、北京に来た甲斐があったと感じた。きのう10日午後4時30分から始まった国連食糧農業機関(FAO)主催の「GIAHS国際フォーラム」の委員会で能登半島と佐渡のGIAHS(世界重要農業資産システム)認定が決まった。FAO側の責任者、GIAHSコーディネーターのパルビス氏が「日本からエントリーがあった能登半島と佐渡の申請に対して、拍手をもって同意を求めたい」と提案すると、20人の委員が拍手で採択した。能登地域GIAHS推進協議会(七尾市など4市4町)と佐渡市は去年12月17日にローマのFAOに申請登録書を提出していた。日本の2件のほか、中国・貴州省従江の案件(カモ・養魚・稲作の循環型農業)とインド・カシミールのサフラン農業も今回登録に追加された。

        農山漁村の国際ネットワークをつくろう

 GIAHSはFAOが2002年に設けた制度だ。伝統的な農業の営みや生物多様性が守られた重要な土地利用システムを登録し、農山漁村の持続的な発展を支援する仕組みで、ペルー、チリ、中国、フィリピン、チュニジア、アルジェリア、ケニア、タンザニアのパイロット地区8件が登録されている。もう少し詳しくこの制度を説明すると、1)食料安全保障と人間の福利を確保しながら、農業のシステムと生物多様性を育み適応させる、2)生物多様性と伝統的な知識を元の場所で保護するのと同時に、保護的な政府の政策やインセンティブを支援する、3)食料への権利、文化的な多様性、地元コミュニティーやその地域の人々の成果を評価し認識する、4)天然資源の管理のため、遺伝資源を元の場所で保護するという考え方に、さらに伝統知識や地元の慣例を統合していくというアプローチが必要であることを明確にする(「FAOホームページ」より)。簡単な話でいえば、共通の視点で、農山漁村の国際ネットワークをつくろうとうことなのだ。

 能登半島の場合、ユネスコの無形文化遺産として登録されている農耕儀礼「田の神アエノコト」を始めとして、1300年以上の歴史を持つため池と棚田の稲作、揚げ浜式の製塩技術など伝統と文化を売りとしている。農林水産業をベースとして、生物多様性や自然環境を守り、新たな価値を創造したいとの思いがある。フォーラムの2日目の10日、申請者の武元文平氏(石川県七尾市長)と高野宏一郎氏(新潟県佐渡市長)はそれぞれ能登と佐渡の農業を中心とした歴史や文化、将来展望などGIAHS申請の背景を英語でプレゼンテーションを行った。これ自体が画期的なことだ。

 選定のための委員会を傍聴して感じたことがある。当初非公開の会議と聞いていたが、オープンであり、撮影もとくに問題はなかった。足を引っ張る意見もなく、未来志向で人々と農業と環境の明日を考える、という雰囲気が漂っていた。きょう11日午前中に認証状の授与式がある。

※写真は、選定のための委員会で日本からの能登と佐渡のGIAHS登録を拍手で採択
⇒11日(土)朝・北京の天気  くもり

★GIAHS北京対話-上-

★GIAHS北京対話-上-

 中国・北京に来ている。この国際フォーラムのテーマが面白い。「Dialougue among agricultural civilization」。中国で開催されているので中国語訳は「農業文明之間的対話」となる。国連食糧農業機関(FAO)が主催する「GIAHS国際フォーラム」のことだ。やぶっからにローマ字が出てきて読みにくいが、GIAHSについては以前の「自在コラム」で書いた。

         里山イニシアティブとの相乗効果
 GIAHSは、Globally Important Agricultural Heritage Systems(GIAHS). 「世界農業遺産」とも呼ばれる「世界重要農業資産システム」のことだ。GIAHSは地域の環境を生かした伝統的な農法や、生物多様性が守られた土地利用システムを後世に残し、また世界に広めることを目的に、FAOが2002年に設立した。現在、世界遺産にも登録されているフィリピンのイフガオ州の棚田など8件が認定されている。

 昨年12月、先進国では初めて日本として、石川県能登半島の4市4町、それに新潟県佐渡市が同時に登録申請した。GIAHSは世界遺産の陰に隠れて目立たない存在だが、国連大学サステイナビリティと平和研究所などが生物多様性条約第10回締約国会議(COP10、昨年10月、名古屋市)で注目された里山イニシアティブとの相乗効果を高めようと動いて日本の申請が実現した。

 フォーラムの討議はきのう9日から始まり、きょう午前、申請者の武元文平氏(石川県七尾市長)と高野宏一郎氏(新潟県佐渡市長)がそれぞれ能登と佐渡の農業を中心とした歴史や文化、将来展望などGIAHS申請の背景を英語で紹介した。その内容を要約する。能登の七尾市など4市4町は、1300年の歴史を持つため池と棚田の稲作、沿岸部での製塩技術などを「里山里海」「半農半漁」の生業(なりわい)、ユネスコの無形文化遺産として登録されている農耕儀礼「田の神をもてなすアエノコト」を申請書に盛り込んだ。武元氏は「能登の8つの市と町がいっしょになって農林水産業をベースとした持続可能な地域づくりを行いたい」「GIAHS認定を契機として先祖から引き継いだ生物多様性や自然環境を守り、新たな価値を創造して次世代につなげたい」と述べた。

 高野氏は、国際保護鳥トキの放鳥で減農薬の稲作農法が広まったことを紹介し、「トキの餌場となる水田が増え、農家は収入も増えた。生物多様性と農業のよい循環が起きている」とブランド化の成果を説明した。「トキを守ることは人間の生活の糧を守ることと位置づけたい」と生物多様性と農業の将来戦略を語った。

 会場からは、「エコツーリズムも盛んになり、よいことだが、人が都会から押し寄せ、環境破壊などが起こらないか」などの質問があった。きょう10日午後4時半からGIAHS認定に関する運営委員会があり、能登と佐渡の登録が承認される見込み。あす11日午前にも認証状の授与式がある。

※写真(下)は会場からの質問に答える武元七尾市長(左)と高野佐渡市長(右から3人目)

⇒10日(金)午後・北京の天気  くもり

☆日本を洗濯‐6‐

☆日本を洗濯‐6‐

 5月11日から3日間、宮城県の仙台市と気仙沼市を中心に取材した。5月11日は震災からちょうど2ヵ月にあたり、各地で亡くなった人たちを弔う慰霊の行事が営まれていた。気仙沼市役所にほど近い公園では、大漁旗を掲げた慰霊祭があった。大漁旗は港町・気仙沼のシンボルといわれる。震災では漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていたものを市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭に掲げられた。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗旗は大空に映えた。

          「想定外」という死語を使う愚

 その旗をよく見ると、「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものも数枚あった=写真=。おそらく、市民有志がこの大漁旗の持ち主と話し合いの上で「祈 大漁」としたのであろう。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。持ち主のそんな気持ちが伝わってきた。

 午後2時46分に黙とうが始まった。一瞬の静けさの中で、祈る人々のさまざま思いが交錯したに違いない。被災者ではない自分自身は周囲の様子を眺めそう思いやるしかなかった。1本100円の白菊の花を手向けた。メディアの取材もあった。慰霊祭の主催者へのインタビュー、NHKは中継を行っていた。取材が終わり、現場をさっさと引き揚げる記者とカメラマンが多い中で、2人の記者が祭壇に向かって手を合わせていた。取材者であり、当事者ではない記者が祈りをささげる光景というのはあまり見たことがない。「ひょっとしてこの記者たちも被災者なのかもしれない」との思いがよぎった。自然な祈りのような気がした。

 公園から港方向に緩い坂を下り、カーブを曲がると焼野原の光景が広がる。気仙沼は震災と津波、そして火災に見舞われた。漁船が焼け、町が燃え、津波に洗われガレキと化した街となっている。リアス式海岸の入り江であったため、勢いを増した津波が石油タンクを流し、数百トンものトロール漁船をも陸に押し上げた=写真=。以前見た関東大震災の写真とそっくりだ。「天変地異」という言葉が脳裏をよぎった。今回の地震と津波は「想定外だった」という言葉をメディアを通じてよく聞く。よく考えれば、1923年9月1日に関東大震災を経験しているわれわれ日本にとって、「想定外」という言葉は死語に近いようなものだった。100年の間に想定外が2度起こることはありうるのだろうか。自らの責任を回避するために使っている、あるいは使っていただけなのだ。

⇒7日(火)朝・金沢の天気   はれ

★震災とマスメディア-11-

★震災とマスメディア-11-

 前回に引き続き遺体写真をテーマに。日本の震災報道では、新聞もテレビも遺体を映した写真や動画は一切ない。私の知る限り、朝日新聞アエラ臨時増刊号「東日本大震災」で掲載されていた、遺体にかけられた布団からのぞいている足首の写真が唯一の写真だった。一方、海外のメディア(ワシントンポストなど)では、遺体安置所で亡き人の顔を覗き込む被災者の姿が掲載されるなど写真は数多い。動画でもアップされている。日本のメディアは、遺体に関して神経質なまでに気を使っている。

      メディアの遺体画像をめぐる学生たちの意見

 こうした日本のメディアに在り様について、金沢大学の学生たちに考えてもらおうとアンケートを実施した(5月24日)。前回のコラムでも紹介したように、「現状でよい」が154人、「見直してもよい」が81人だった。

 では、学生たちの意見はどうなのだろうか、いくつか紹介したい。まずは、日本のメディアの在り様は今のままでよいとする現状派のリアクションペーパーから。

 「海外メディアのようにリアリティのある写真を載せれば、悲惨さや現状をまっすぐ伝えられと思うけれど、それを見てトラウマになってしまう人もいると思うからです。実際中学生のとき戦争中を映したDVDを鑑賞して焼け焦げた死体やバラバラになった身体をみました。それから私は戦争の映像を直視できなくなりました。日本のマスメディアには今のままでいき、言葉やインタビューを組み合わせて、視聴者に伝えてほしいです」(学校教育・1年)

 「見直してもよいと思う人もいると思う。それは自己責任で見ればいいのだから。その点は私も肯定できる点である。しかし、もし偶発的に小さい子供が見てしまったら、どうするのか。私が幼い頃にそんなものを見たらトラウマになることは確実だろう。そうなったら誰が責任をとるのだろうか。そのようなことを考えたら現状のままを維持すればよいのではないかと私は思う」(物質化学・1年)

 「第一に受け手の心情という観点から考えると、やはりご遺体の写真を掲載することはしないほうが良いと思います。ご遺体の中には、状態がきれいなものだけでなく、損傷の激しいものもあり、見ている側としては気持ちのよいものではないと思うからです。第二に個人の尊厳を守るという観点から考えると、写真の掲載はするべきではないと思います。震災などで損傷の激しいご遺体の写真をマスメディアで取り上げることは、報道側からすれば、被害の大きさや悲惨さを世間に伝えるという意味では視覚的でとても分かりやすく有効だと思いますが、一方で写真の被写体の人達は世間に”さらしもの”にされるわけで、亡くなったご本人の尊厳が損なわれるだけでなく、そのご家族も二重のショック(家族が亡くなったこととその無残な写真が世間に公表されたこと)を受けてしまう、と考えられます。被害の程度を世間に知らせることも大事ですが、その前に人権を守ることが大切だと思います」(保健・2年)

 では、見直し派(遺体写真の掲載)はどのような意見なのだろうか。リアクションペーパーから。

 「『死』が軽視されるのは、そのような社会と生き物の生死が切り離されているからだと思っている。夢物語のように生死が感じられない情報は自分の世界とは違う非日常で他人事にしか感じられない。だから、被害者以外の人々が差し迫った考えができないのではないか。例を挙げるなら、便利、不便程度で生活に支障をきたすと言ってしまうような都会の人々のように。自分たちが生きている日常が非日常であるということを実感するためにも、メディアは『現実』をある程度報道するべきだと思う」(自然システム・1年)

 「遺体の写真をみせ物のように載せるのはどうかと思うが、現状の日本のメディアのようにタブーとして掲載しないのはどうかと思う。がれきの写真のみを扱うメディアがあってもいいと思う。時には、遺体の写真を載せるメディアがあってもいいと思う。『タブー』という言葉をメディアが簡単に用いるようになり、自分たちに都合の悪い写真や記事を載せなくなる懸念がある。さらにメディアが一律化していくとにもつながりかねない」(国際・1年)

 「まず、遺体の写真を映さないというは”真実を伝えるマスメデイア”という言葉と矛盾している。現場で起きた真実をすべて伝えるのがマスメディアの使命ではないのか。被災者や被害者に『今どんな気持ちですか?』と尋ねまわって、被災者たちの心をえぐってまで、オイシイコメントを手に入れて放送するより、遺体の映像を見せたほうが、視聴者に被害の深刻さを伝えられるのではないだろうか。私は地震の時、マスメディアの報道を見ても津波に対してあまり恐怖を抱かなかった。(唯一、抱いたのはNHKの中継くらいだった。)ネットでYouTubuの津波動画や遺体の写真を見たとき、やっと津波の怖さを理解した。遺体の写真は、視聴者に不快な思いをさせるかもしれないが、日本人が現実から目をそむけて平和ボケしっぱなしでいるより、きちんと見せて現実を知らせ、日本人に危機感を抱かせるべきである」(地域創造・2年)

※写真は、津波で破壊されたバス。乗客は高いビルに避難して無事だったという=5月11日・宮城県気仙沼市で撮影

⇒4日(土)朝・金沢の天気  くもり

☆震災とマスメディア-10-

☆震災とマスメディア-10-

 金沢大学で「マスメディアと現代を読み解く」という共通教育授業を担当している。これまで3回にわたって、震災とマスメディアをテーマに、現地での取材を交え講義してきた。その中で論議のポイントとして話してきたことをまとめる。これまで取材した被災地での記者やカメラマン、ディレクターの有り様は、震災の当事者ではない記者たちが現場で浮いている状態だった。

         震災とメディア、遺体写真をどう考えるか
 たとえば、2007年3月の能登半島地震で実際に私自身が目の当たりにした光景は、輪島市門前町でただ一つのコンビニで食料を買いあさるテレビ局のスタッフの姿であったり、倒壊のしそうな家屋の前でじっとカメラを構え余震を待つ姿だった。記者やディレクター、カメラマン、ADも人の子である。お腹も減れば、ジュースも飲みたい。また、余震で家屋倒壊のシーンを撮影したい、「絵をとりたい」という気持ちは当然であろう。ただ、被災者への目線、被災者との目線がすれ違い、それが違和感を生んでいた。

 今回の東日本大震災は大きく違っていた。広範囲での災害だっただけに、地域のマスメディア(ローカル紙やブロック紙、ローカルテレビ局)そのものが被災者となった。取材で訪ねテレビ局の社屋を見せてもらった。外見はそのままだが、社屋の上の鉄塔が揺れた5階(総務や役員室)は天井があちこちで落ちていた。自家発電や取材車のためのガソリンの確保、食料の確保などの課題が次々と襲ってきた。身内に犠牲者が取材スタッフもいる。だから、報道制作局長は「被災者に寄り添うような取材をしたい」とローカル番組では避難所からの安否情報を、ニュースでは生活情報に視点を注いだ。これから何十年とこのメディアの被災者目線が地域に生かされていくのなら、ローカルメディアの新たな姿がそこに確立されるのではないかと期待もした。

 学生たちにあるテーマを投げかけ、意見を書いてもらった。こういうテーマだった。「【設問】日本のマスメデイア(新聞・テレビなど)は通常、遺体の写真を掲載していません。読者や視聴者の感情に配慮してのことだと考えられます。一方で、海外メディアはリアリティのある写真を掲載しています。以下の問いのどちらかを○で囲み、あなたの考えを簡潔に述べてください。」。少々シビアなテーマだ。震災報道では、新聞もテレビも遺体が映された写真や動画はない。ある新聞社が写真特集で、遺体にかけたれた布団から足だけが出ている写真が唯一、マスメディアを通じて見た遺体写真だった。ただ、海外のメディアは毛布にくるまれ顔がのぞく遺体を親族ではないかと覗き込む人々の遺体安置所での写真を掲載し、ネットでも掲載している。日本のメディアは、遺体に関して露出することにかなり神経を使っているのである。

 こうした日本のメディアの姿勢への学生たちの反応は、「現状でよい」が154人。「見直してもよい」が81人。二者択一だったが、どちらも丸で囲まなかった者が2人いた。一番多かった現状肯定派の言い分は、1)見る側への心理的な影響(トラウマ、PTSDなど)、2)人権・人の尊厳、プライバシーへの配慮、3)別の表現方法がある(ネットやデータ放送など)、4)日本人の独自の文化、メンタリティーである、など4つに大別できた。中には、「その遺体写真を見た幼い子どもたちがトラウマになったら誰が責任をとるのですか」と強く反対する論述もあった。

 一方、見直し派はの言い分は、1)「現実」「事実」を報道すべき、2)メディアはタブーや自己規制をしてはならない、3)見る側の選択肢を広げる報道を、に概ね分けることができた。遺体の見せ方には配慮は必要としながらも、事実や現実を意図して隠すことに違和感を感じ取った学生が多かったようだ。ある学生は「テレビは嘘は言わないが、真実も言わない」と手厳しい。

 こうした議論はマスメディアの中でもぜひしてほしい。238人の学生の意見でも熱く論じる者が多数いた。国民的な論議になるかもしれない。

※写真は、5月11日に気仙沼市に営まれた大漁旗を掲げての慰霊祭。

⇒31日(火)朝・金沢の天気   はれ

★日本を洗濯-5-

★日本を洗濯-5-

 「伝統なき創造は盲目的であり、創造なき伝統は空虚である」。昭和20年代の戦後の混乱期、文部大臣相をつとめた哲学者、天野貞祐(1884-1980)の言葉だ。敗戦でこれまでの価値が大きく変わり、人々は戸惑っていた。過激な思想や宗教が跳梁跋扈した時代だった。そのときに、天野は新しい時代を生き抜く行動のヒントとして冒頭の言葉を考えた。これは今という時代も貫ぬく。

        「日本は安全である」という勘違い

 前回のブログでも取り上げた、ユッケを食べた4人が死亡した焼き肉チェーン店「焼肉酒家えびす」の集団食中毒事件。肉の生食用に関して、料理人は表面をトリミングする(削る)、タタキのようにあぶるといった調理法を施してきた。これは、痛い目にあった経験を元に生をより安全に食べるという知恵、ないし工夫としてあみ出されたものだ。長くつとめた職人なら誰でも知っているようなトリミングの手法を、「食のベンチャー企業」と称する若い会社がコストカットしたことが原因だろう。また、腸管出血性大腸菌「O-111」が肉の卸側にあったのか、店側にあったのかという点が調査のポイントになっていて、責任のなすり合いの様相を呈している。が、最終的には提供した店側の問題であることは言うまでもない。新たな食の産業を興そうという若社長の志(こころざし)には敬服するが、「伝統なき創造は盲目的である」の言葉が一方で響く。

 老舗料理店がなぜ生き残ってきたかというと、味の良さのほかに調理法をきちんと守り、世間を騒がすような食中毒事件を過去起こしてこなかったという点に起因するのかもしれない。その老舗の信頼を揺るがせたのが「船場吉兆」事件だった。2007年に賞味期限切れや産地偽装問題が発覚し、翌年には客の食べ残し料理の使い回しが問題となった。結局廃業に追い込まれた。老舗が基本を忘れるとどのようになるかという見本のような事件だった。ちなみに、いま老舗と呼ばれる料理店が客足が減り次々と廃業に追い込まれている。時代ととともに人々の味覚や視覚は微妙に変化する。それを鋭敏に嗅ぎ取って料理のメニューや店構えに生かす「創造」というものがなければ、単なるカビた店に過ぎない。まさに、「創造なき伝統は空虚である」。

 戦後、日本人はその生真面目さで、生産現場でコスト(手間暇)をかけ、安全性と利便性を追及してきたらこそ、日本の安心安全は実現された。その時代がしばらく続き、いつのまにか「安全が当たり前」と人々は信じ込んでしまった。「価格が安いものは危ない」というのはひと昔前までは常識だった。ところが、われわれ消費者側もそうした経済的な価値判断をいつのまにか忘れてしまっている。「安いのは店の真心サービスだから」とか身勝手に想像してはいないだろうか。これを「平和ボケ」ならぬ、「安全ボケ」と呼ぶことにする。外国産は危ないが、「日本にあるものは安全」という勘違いが蔓延している。

 うがった見方だが、今回食中毒事件を起こした会社自体がこの安全ボケになっていなかっただろうか。「日本の卸会社の肉は大丈夫…」と。放射状汚染にしても、食中毒にしても、「見えない敵」と戦うことの難しさが露呈している。この世に絶対安全がない以上、コストをかけ忠実に安全への知恵を磨くこと、そしてそのサービスを受ける側は疑うことだろう。

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