#コラム

☆佐渡とグアムの島旅2

☆佐渡とグアムの島旅2

 佐渡市から新潟市に戻り、16日にJR特急「北越」で夕方、いったん金沢に帰った。今度はグアムに行くための支度をして、その日の深夜(17日)、金沢駅3時10分発の急行「きたぐに」に家人と共に乗り込んだ。新大阪駅で特急「はるか」に乗り換え、8時前に関西空港に着いた。列車に乗っている時間がたっぷり8時間余りあったので、2冊の本を読むことができた。

        ~森と海の壮大なサイエンスの物語と絶望を見守る大いなる愛~

 一冊目は畠山重篤氏の『鉄は魔法使い』(小学館)。この本は畠山さんのサイン入りだ。ちょっとした経緯があった。先のコラム(9月3日付)で書いた「地域再生人材大学サミットin能登」(9月1日~3日・輪島市)で畠山さんから依頼を受けた。公開シンポジウム(2日)が始まる30分前の9時半ごろだった。「宇野さん、20冊ほど持ってきたのですが、販売していただけませんか」(畠山)、「急な話でどれだけ売れるか分かりませんが、畠山さんの基調講演が終わった後の昼休みにロビーで販売しましょう。せっかくですからサイン会ということにして、畠山さんもその場に来ていただけませんか」(宇野)、「わかりました。急なお願いですみません」(畠山)。ということで急きょ、畠山氏のサイン会をしつらえた。聴衆はホール満員の入りだったので売り切る自信はあった。私が購入第1号となり、サイン本を掲げ、運営スタッフの女性が「ただいま、畠山さんの本のサイン会を行っています」と呼び込み、畠山氏がサインと握手を。列ができ、7分間で残り19冊は完売となった。「もう本はないのか」と苦情も出た。

 その本はイラストで解説し、自伝風に書かれとても読みやすい。漢字にはルビが打たれ、子供たちにも読んでほしいという意図が込められている。畠山氏は先の講演でも「森は海の恋人運動は、子供たちの心に木を植えたい」と語っていた。そして、読んでいるうちに、森と海のサイエンスの壮大なドラマが描かれていることに気が付いた。

 畠山氏らカキの養殖業者が気仙沼湾に注ぐ大川の上流で大漁旗を掲げて植林する「森は海の恋人運動」はスタート当時、科学的な裏付けはなかった。畠山氏に協力して、北海道大学の松永勝彦教授(当時)が魚介類と上流の山のかかわりを物質循環から調査し、同湾における栄養塩(窒素、リン、ケイ素などの塩)の約90%は大川が供給していることや、植物プランクトンや海藻の生育に欠かせないフルボ酸鉄(腐葉土にある鉄イオンがフルボ酸と結合した物質)が大川を通じて湾内に注ぎ込まれていることが明らかとなった。この調査結果はダムの建設計画を止めるほどに威力があった。畠山氏は多くの科学者と交わりながら、魚介類と鉄の科学的な関わりにのめり込んでいく。地球と鉄の起源を知るために、オーストラリア・シャーク湾近くのハマースレー鉱山を見に行く。ジュゴンが1万頭も生息する海藻の森は、はやり鉄との関わりからからだと確信する。そして、最終章で、オホーツク海に注ぐアムール川が運ぶ鉄が三陸沖まで運ばれ豊かな漁場を形成しているとの総合地球環境学研究所のプロジェクト調査を紹介している。20数年前、気仙沼で問いかけた魔法の謎解きが、地球サイズの話へと小気味よく展開するのである。

 本人は3月11日に被災した。津波でカキの養殖施設は流され、母親も亡くした。が、1ヵ月ほどして、海が少しずつ澄んできた。ハゼのような小魚など日を追うごとに魚の種類も海藻も増えてきた。つまり大津波によって海が壊れたわけではない。生き物を育む海はそのままで、カキの養殖も再開できる、「漁師は海で生きる」と自らを奮い立たせている。

 もう一冊の本が、あのノーベル作家のパール・バックの『つなみ ◆THE BIG WAVE◆』(径書房)。日本で滞在した折に取材し、アメリカで1947年に出版された。漁師の息子ジヤと友達の農家の息子キノの2人の少年。ある日突然に村を襲った大津波で、家も家族も失ったジヤをキノの両親が息子同様に育てる。ジアは周囲の愛情に包まれて成長し、やがて生まれ育った漁村に戻り、漁師と生きる決意をする。日本人の自然観や生活観、生死観を巧み取り込み、パール・バックはまるで自らの子のように少年たちを厳しくも優しく眼差しで描く。

 パール・バックには、重度の知的障害を持つ娘がいた。母親としての苦悩の日々ながら、娘の存在を創作の原点として文章を描いたという。ノーベル賞の賞金や著書の印税など収入のほとんどを養護施設に投じ、娘のほかに7人の戦争孤児を養育した。優しい眼差しの原点と、その生涯がだぶる。

⇒17日(土)夜・グアムの天気   あめ

★佐渡とグアムの島旅1

★佐渡とグアムの島旅1

 きょう(15日)、新潟県佐渡市に渡った。波も穏やかで、新潟港からのジェットホイル(高速旅客船)は滑るように走った。この船は、船外から大量の水をポンプで吸い込み、高圧で水をジェット噴射して進む。時速計を見るとおよそ80㌔で走行している。滑るような感覚は、海面より浮上して航行するので、波で揺れないということらしい。船酔しやすい体質の自分にとっては快適だった。船旅は60分余り。12時30分すぎに、佐渡・両津港に着岸した。快晴、気温は30度。島に来たという、ある種の爽快感があった。引き続き17日から家人とともにグアムを旅する。グアムも島。この2つの島めぐりを「佐渡とグアムの島旅」と題して、紀行で見たこと聞いたことを記したい。

          ~ 佐渡で見た天然杉の凄み ~

 佐渡行きは、新潟大学「朱鷺の島環境再生リーダー養成ユニット」の特任助教、O氏から講義を依頼され引き受けた。同大学は佐渡に拠点を構え、社会人を対象とした人材養成にチカラを入れている。同大学にはトキの野生復帰で培った自然再生の研究と技術の蓄積があり、これを社会人教育向けにカリキュラム化し、地域で生物多様性関連の業務に従事する人材を育てることで、地元に役立ちたいと願っている。金沢大学が能登半島の先端・珠洲市を拠点に実施している「能登里山マイスター」養成プログラムと同じ文部科学省の予算(科学技術戦略推進費)なので、「兄弟プロジェクト」のようなもの。お願いされたら断れない…。

 そんな内輪の話はさておき、講義が始まる15時30分までは時間がある。O氏が気を利かせてくれて、大佐渡山脈の「石名の天然杉」に案内してくれた。大佐渡には金北山(1172㍍)や妙見山など1000㍍級の山があり、「天然杉の宝庫」とも言われる。O氏の解説で1時間ほど山歩きを楽しんだ。江戸時代に金山で栄え、幕府直轄の天領だった佐渡は、金山で精錬に使う薪炭を確保するため、山林も幕府が管理していた。明治に入って県が買い取って多くの山林が県有林となった。今回めぐった石名の天然杉の遊歩道はその中の一部。気温は低く風が強いという環境のため、建築材に適さなかった杉が切り出されることなくそのまま残っている

 標高は900㍍付近なのでもうすっかり秋の様相になっている。海辺で聞こえていたセミの鳴き声も聞こえず、辺りは静寂だった。今年5月に開通したという遊歩道を歩くと、「四天王杉」と呼ばれる巨木=写真・上=がひと際目立ち、風格を漂わせている。枝は下に向いて生え出し、幹も1本なのか4本なのかよくわからないほどに束なっている姿には、日本海の風雪に耐えて威勢を張る、ある種の凄みがある。幹周り12.6㍍、樹高は21㍍。7階建てのビルくらいの高さだ。推定樹齢は300年~500年。ほかにもマンモスの象牙のような枝をはわせる「象牙杉」=写真・下=、樹木の上の樹相が丸形の「大黒杉」があって、天然杉のミュージアムといった雰囲気だ。

 下山して、「トキ交流会館」に到着した。15時30分から、「朱鷺の島環境再生リーダー養成ユニット」の講義を始めた。市職員を4人を対象にした講義。テーマは「大学が地域と連携するということ」。そのレジュメ。1)世界農業遺産(GIAHS)認証を佐渡と能登が得た意義、2) 大学が地域と連携するということ、3) 能登の先端「サザエのしっぽの先」から何が見えるのか~ 地の利を考えると、東アジアを見渡す視点が広がる、4)まとめ:「里山と里海」の未来可能性を探る~大学と地域が連携し、半島と島から発信する持続可能な社会を、と話を進めた。

 佐渡市は、トキの野生復帰を契機として「エコアイランド佐渡」を標榜し、地域の自然再生や循環型農業、グリーンツーリズム型観光などを推進することによって先進的な循環型社会づくりを目指している。一方で、36%を超える高齢化率(人口に65歳以上が占める比率)や疎化が急速に進行している地域のひとつでもある。能登半島とよく似ている。ただ、考えようによっては天然杉のごとく、土地に根を張って生き抜いてきたしぶとさが人々にはある。流行を追わず、島や半島といった条件不利地に生きる逞しさこそ、現代人が求めているものではないか。O氏は言う。「山で採った山菜をおすそ分けしようとすると、そんなに貧乏ではありませんと断る気風が島にはあります」と。確かに、島の人々の語り口調には、淡々とした自尊の気風が漂う。

⇒15日(木)夜・新潟の天気  はれ

☆畠山重篤さんのこと

☆畠山重篤さんのこと

 東日本大震災の後、NPO法人「森は海の恋人」の畠山重篤さん(宮城県気仙沼市在住)にお会いするのは2度目だ。最初は5月12日。有志から募った義援金を持参し、東京・八重洲で会った。このときの畠山さんは頭髪、ひげがかなり伸びていて、まるで仙人のような風貌だった。黄色いヤッケを着ていた本人は「ホームレスに間違われるかもな…」と笑っていた。この折に、9月2日に能登半島の輪島市で「復興と再生」をテーマにシンポジウムで講演をお願いし、了承を得た。そして今回、9月2日。畠山さんを輪島に招いての講演が実現した。さすがにこのときは講演を意識されたのか、頭髪もひげも整髪されていて、こざっぱりとした感じになっていた。

 「地域再生人材大学サミットin能登j。畠山氏をお招きしたステージだ。地域再生のための人材養成に関わる全国の大学関係者らが集った全国会議のシンポジウム。シンポジウムは一般公開としたので、市民も聴講に訪れ、定員1200人のホール(輪島市文化会館)はいっぱいとなった。講演は40分、気仙沼の漁師としての思い、森は海の恋人の提唱者としてのこれからを語ってもらった。

 【畠山重篤氏の講演要旨】 昨日、輪島に来て案内されたホテルの窓から眼下に海原が広がるので津波が来たら危ないと思った。部屋が8階と聞いて少し安心した。津波では、20㍍の高台にある自宅のギリギリまで波がきた。津波の怖いところは、生死がはっきりと分かれるところだ。津波で陸はすっかり様変わりしたしたが、1ヵ月ほどして、海が少しずつ澄んできた。ハゼのような小魚など日を追うごとに魚の種類も海藻も増えてきた。京都大学が海底の調査をしたところ、土壌もそれほど変化していないことが分かった。つまり大津波によって海が壊れたわけではない。生き物を育む海はそのままで、カキの養殖も再開できると思ったとき、勇気がわいてきた。
 海は森の恋人運動は、気仙沼の湾に注ぐ大川の上流で植林活動を20年余り続け、約5万本の広葉樹を植えた。赤潮でカキの身が赤くなったのかきっかけで運動を始めた。スタート当時、科学的な裏付けは何一つなく、魚付林(うおつきりん)があるとよい漁場になるという漁師の経験と勘にもとづく運動だった。お願いした北海道大学水産学部の松永勝彦教授(当時)によって、植物プランクトンや海藻の生育に欠かせないフルボ酸鉄(腐葉土にある鉄イオンがフルボ酸と結合した物質)が大川を通じて湾内に注ぎ込まれていることを解明された。漁師の運動に科学的な論拠を与えてもらった。このおかげで、大川上流のダム建設計画も中止となった。植樹活動には子供たちを参加させている。かつて植樹に参加した子供たちの中には、いま生態学者を志す者もいる。森と川と海をつなげる森は海の恋人運動は、漁師の利害ではなく、未来の地球の環境を守るための「人々の心に木を植える」教育活動だと考えている。

⇒3日(土)朝・輪島の天気   くもり

★フラッシュモブ

★フラッシュモブ

 アメリカでは「フラッシュモブ(flash mob)」と呼ぶそうだ。フラシュは瞬間の光、あるいは閃(せん)光、モブは暴徒、あるいはギャングの意味である。数十人から何百人もの集団がパッと押し寄せて、商店での略奪や通行人を襲撃する。新たな犯罪現象である。

 昨日のTBS系のニュース番組で紹介されていた。アメリカ・メリーランド州のコンビニエンスストアの防犯カメラがとらえた映像。店に突然、男女数十が入ってきて、次々に商品をつかむと、そのまま金も払わず店の外へと消えていく。集団が襲ったのは午前2時前、店員は1人で対抗措置を取ることができなかった。治安が悪い地区で起きているわけではない。静かなふつうの都市で起きている犯罪なのだ。

 メリーランド州だけではない。フィラデルフィアでは、この夏に数十人から200人もの集団が商店や道行く人を突然襲う事件が相次ぎ、重傷者も発生。ワシントンでは衣料品店が襲撃され、ラスベガスではコンビニが狙わた、と報じていた。フィラデルフィアでは、このフラッシュモブ犯罪が多発していることから、若者の夜間外出禁止令が発令された、という。

 このアメリカで起きている現象と、前回のブログで書いたイギリスでの「理由なき暴動」と重なる。見ず知らずの若者が集まり、略奪し襲撃するこの犯罪で取りざたされているのが、スマートフォンなど使われるツイッターやフェイスブックの存在だ。何者かが襲撃計画を多数に呼びかけ、犯行が行われた可能性がある。つまり、ソーシャルメディアが犯罪を扇動するツールとして使われている。前回のブログで「ハーメルンの笛吹き男」の寓話を紹介した。ソーシャルメディアが「笛」の役目を担い、「笛吹き男」が街のギャング(暴力的犯罪集団)だとしたら恐ろしい。

 では、このフラッシュモブ、日本での可能性はどうか。今は目立った動きはないが、起こりうる。現に、東日本大震災の発生時、得体の知れない情報にどれだけのチェーンメールが流され、人々が踊らされことだろう。さらに、オレオレ詐欺の集団が言葉巧みに電話で人を操っている。そのような集団がソーシャルメディアを使って、さまざまに仕掛けることは想像に難くない。犯罪に加わる若者もゲーム感覚で「みんなで渡れば怖くない」と。こうした軽い気持ちがフラッシュモブの萌芽になりうる。

⇒18日(木)朝・輪島の天気   あめ

☆理由なき暴動

☆理由なき暴動

 アカデミー男優賞候補だったジェームズ・ディーンの遺作『理由なき反抗』は、青少年の犯罪心理を追及した映画だった。1955年、アメリカで製作。少年として共鳴でききるところもあり、他人事ではない、自分も思いつめれば、「チキンゲーム」(度胸試し)くらいやるかもしれないと、当時思ったものだ。若気のいたり、無謀、未熟…今にして思えば、まるで青臭い映画だった。でも、こうして脳裏に刻むことができる、魅力ある映画だった。

 若者が暴走するのは世の常だ。ただし、警官による黒人男性射殺に端を発したイギリスの若者の暴動は理解を超えている。報道によれば、暴動に加わった若者の行動パターンは3つに分類されるという。それは「略奪」「放火などの破壊行為」「警察への攻撃」だ。貧民街での暴動で、停職をもたない若者の不満が爆発したのかと短絡的に考えていたがそうではないらいい。逮捕され裁判所に出廷した容疑者は、裕福な女子大生やグラフィックデザイナー、小学校の補助教員、しかも人種も多様なようだ。中には、11歳の少年もいるという。

 これまで暴動といえば、社会の矛盾(貧富の差など)から湧き上がる政治的不満や人種差別などといった義憤が背景にあった。ところが、イギリスでの暴動は、発展途上国型の略奪を意識した暴徒化タイプのようだ。「ツイッター」などのソーシャルメディアの呼びかけで、ワッと集まり、商店を襲い略奪して逃げる、放火する、警官に暴行するという、「理由なき暴動」だ。こんなことにイギリスの社会が混乱し、類似の暴動が各地で頻発している。キャメロン英首相は臨時議会(11日)で、「異なる(背景の)若者らが同じ行動を取るという新たな難題に直面している」と苦りきった表情で説明していたのが印象的だった。

 ただ、この暴動には扇動者の存在がある。8月12日付の朝日新聞アサヒコムで「イギリスの少年ギャングたちの一端を垣間見れる写真12枚」の写真グラフが紹介されている。社会から断絶した若者らが徒党を組んで武装し、ギャング(暴力的犯罪集団)と化しているのだ。ロンドン警視庁の2007年調査で、ロンドン市内で250を超えるギャング組織が確認されているという。今回の暴動もギャング組織が扇動しているのではないかとの見方もある。

 若者を中心としたギャング団の存在。「理由なき暴動」を扇動しているのが、彼らだとしたら、イギリス社会のまさに「闇」の部分だ。「異なる(背景の)若者らが同じ行動を取る」(キャメロン首相)という事態は深刻だ。ヨーロッパには「ハーメルンの笛吹き男」の寓話がある。笛に踊らされた多数の子供たちが姿を消す、グリム童話にある。ギャングが扇動し、躍らされる善良な若者たち。キャメロン首相は、今回の暴動にこのような得体のしれない魔性のイメージを重ねているのかもしれない。

⇒15日(月)午前・金沢の天気   くもり

★技術と安全思想

★技術と安全思想

 ある輪島塗の職人から、「技術は教わるものではなく、親方の技を盗み見するものだ」と聞いた。また、輪島塗の蒔(まき)絵師から「盗んだ技術は、また他の人にすぐ盗まれる。自分で体得した技術は盗まれない」とも聞いた。職人の世界では、技を盗む、真似るのは悪いという意味ではなく、職人が一人前になるまでの成長過程で必要なことである。一定のレベルに達したら独自でさらなる技を考案せよ、そうしなければ産地としての全体のレベルは向上しないと、私なりに解釈している。先日、輪島市に出張する機会があって、かつて聞いた輪島塗の職人さんたちの言葉を思い出した。

 先月7月23日、中国・浙江省温州市付近で、高速鉄道「D3115」が脱線事故を起こし、車両4両が高架橋から転落し、多数の死傷者を出した。また、事故後に転落した車両を検証することもなく、地中に埋めるという当局の行為がニュースとして世界を駆け巡った。事故の一連のニュースで感じたことは、日本や諸外国の新幹線を形だけ真似しても、その安全性に対する考え方やスケジュール管理の具体的な方法などを学んでいなかったのはないかということだ。冒頭で述べた、真似ればよいというレベルでとどまっていたとうことになる。

 日本の新幹線の運用は1964年から始まり、大事故を起こさずにこられたのは、小さな事故の経験をノウハウとして積み上げてきたからだといわれている。直近で思い出すのは、今年3月11日の東日本大地震で、新幹線は1台も事故を起こさなかった。当時の新聞報道によると、海岸線にセンサーが取り付けてあり、地震の初期微動で発生するP波をキャッチし、即座に新幹線を停止させるようなシステムを構築していたからだ。つまり、地震の主要動である大きな揺れが到着する前に、新幹線にはブレーキがかかり停止することができたのだ。この技術は、阪神淡路大震災の反省から生まれたという。

 どれだけ注意を払っても事故は起こる。天災、人的ミス、そしてミスは複合すると大事故につながる。ましてや、日本や諸外国の技術を導入して、それを「国産の新幹線だ。国際特許を取る」と豪語しても、今回の事故が起きて、検証もせずに事故車両を埋めるという対策では、高速鉄道の技術開発と、「乗客を目的地に安全に運ぶ」という安全思想がセットになっていないのではないかと疑ってしまう。

 きょう(14日付)の朝日新聞の記事で、中国政府はあす16日から高速鉄道の最高時速をこれまでの350㌔から300㌔に減速するという内容の記事があった。これだと、時速320㌔のドイツICEやフランスTGVより遅くなり、中国は「世界最速」というメンツを捨てることになる。それでも、安全対策に力を入れるというのであれば評価はできる。ただ、安全対策の技術の確立は1年や2年でできるものではない。エンドレスに続くというのが、安全思想というものだろう。この話は、高速鉄道に限らないのはいうまでもない。

⇒14日(日)朝・金沢の天気   はれ

☆猛暑は読書に限る

☆猛暑は読書に限る

 連日気温30度を超える。こんな日は、あちこちと動き回るより、じっと読書していた方がしのぎやすい。最近読んだ本の中から、2冊を取り上げる。

【『働かないアリに意義がある』(長谷川英祐著、メディアファクトリー新書)】

 幼いころ読んだイソップ寓話に「アリとキリギリス」がある。夏の間、アリたちは冬の間の食料をためるために働き続け、キリギリスは歌を歌って遊び、働かない。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、アリたちに頼んで、食べ物を分けてもらおうとする。しかし、アリたちは「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだ」と皮肉を込めて断る下りをいまでも覚えている。ことほどさように、アリは働き者というイメージが世界で共有されている。

 ところが、この本のタイトルにあるように、「働かないアリ」がいる。その実態は、働きアリの7割はボーっとしており、1割は一生働かないというのだ。働き者で知られるアリに共感する我々人間にとって意外だ。しかも、働かないアリがいるからこそ、アリの組織は存続できるという。これも意外だ。以下、著書の中からその理由を引用する。

 昆虫社会には人間社会のように上司というリーダーはいない。その代わり、昆虫に用意されているプログラムが「反応閾値(いきち)」である。昆虫が集団行動を制御する仕組みの一つといわれる。たとえば、ミツバチは口に触れた液体にショ糖が含まれていると舌を伸ばして吸おうとする。しかし、どの程度の濃度の糖が含まれていると反応が始まるかは、個体によって決まっている。この、刺激に対して行動を起こすのに必要な刺激量の限界値が反応閾値である。人間でいえば、「仕事に対する腰の軽さの個体差」である。きれい好きな人は、すぐ片づける。必ずしもそうでない人は散らかりに鈍感だ。働きアリの採餌や子育ても同じで、先に動いたアリが一定の作業量をこなして、動きが鈍くなってくると、今度は「腰の重い」アリたち反応して動き出すことで組織が維持される。人間社会のように、意識的な怠けものがいるわけではない。

 著者の進化生物学者の長谷川氏は北海道大学の准教授で、アリやハチなど社会性昆虫の研究が専門。実験から「働かないアリだけで集団をつくると、やがて働くものが現れる」などの研究成果を導き出している。

【『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』(神坂次郎著、新潮文庫)】

 異常な記憶力、超人的な行動力で知られる、博物学者であり、生物学者(特に菌類学)であり、民俗学者の南方熊楠。明治19年(1886)にアメリカに渡り、粘菌類の採取研究を進める。さらにロンドンの大英博物館に勤務し、中国の革命家、孫文らと親交を結ぶ。著者は、論文や随筆、書簡や日記などたどり、波乱の生涯を浮かびあがらせている。

 面白いのは熊楠の悲憤慷慨(こうがい)ぶりである。頭に血が上ると、止まらない。和歌山県田辺の隣人の材木成金が傍若無人の態度を取るので、鉄砲を持った仲間を呼び寄せ「戦闘態勢」に入った。警察官も入る騒動となり、2年間も隣人争いを続ける。この成金が破産して戦(いくさ)は幕を閉じる。著書を読む限り、熊楠の悲憤慷慨は常勝である。

 その熊楠がクジラの塩干しを炭火であぶって、よく酒を飲んだと著書にあり、この塩干しが食べたくなった。和歌山県太地町から「鯨塩干」を取り寄せた。黒くてフワフワ感がある。これをオーブンで5分間焼く=写真=。「これが熊楠の好物だったクジラの塩干しか」とわくわくしながら口にした。どこか覚えのある味だった。スルメイカの一夜干しのあぶったものと歯触りや味がそっくりなのだ。

⇒3日(水)朝・金沢の天気  はれ

★「地デジ」以降‐下‐

★「地デジ」以降‐下‐

 アナログ停波の日(7月24日)に総務省テレビ受信者支援センター(通称「デジサポ」)への電話相談は12万4000件(0時~24時)と発表された。電話内容の多くは地デジ対応テレビやチューナーの接続方法などで、中には「チューナを買いたいが売っていなかった」といった苦情もあった。NHKのコールセンターには同日4万9千件、停波が延期された東北3県を除く44都道府県の地上民放テレビ115社に寄せられた電話での問い合わせは、24日の業務開始から25日14時の時点で2万1000件と発表されている。相談内容の分析はおそらくこれからされるだろうが、件数でいえばざっと19万余件が寄せられたことになる。この件数をどう見るか。

          アメリカに比べ混乱は少なかったが…

 先のブログで紹介したミラー・ジェームス弁護士によると、アメリカの「2009年6月12日」では当日31万7000件の問い合わせがコールセンターに寄せられたという。地上波をアンテナで直接受信する世帯はアメリカで15%、およそ4500万人。日本では76%(2009年統計)が直接受信なので、およそ9600万人となり、アメリカの2倍以上となる。相談件数で見る限り、少なくとも日本はアメリカより混乱は少なかったといえる。

 相談内容では、アメリカの場合、受信機の使用についてが28%ともっとも多かった。これは日本と同じだ。ただ、日本と違った点は「特定のチャンネルの映りが悪い」26%もあったことだ。これは送信するテレビ局側の技術的な問題だった。

 24日に記者会見した片山善博総務大臣は「想定の範囲内の件数」と述べた。言い換えれば、やれやれと何とかうまくいったとの意味だろう。しかし。問題はこれからだろう。先に述べたように、80歳以上の独り暮らし世帯が全国150万ともいわれ、文句も言わないサイレント層がいる。未対応世帯は大都市圏に多いという観測もある。この層をどうケアするのか。

 テレビ局自身もこれからが大変だ。アメリカでは景気後退でテレビ局の経営が行き詰まり、身売りや合併が相次ぐ。記憶に新しいところでは、ことし1月、ケーブルテレビの最大手コムキャストがNBCユニバーサルの経営権を取得したことがニュースで流れた。NBCはアメリカ3大ネットワークの一つである。従来のCMを中心とした地上テレビ局のビジネスモデルだけでは成り立たなくなっている。さらに、アメリカではこうした買収などによるメディア集中の問題が浮上しており、メディアの多様性、市場原理、地域コンテンツをどう確保していくか、「地デジ」以降の問題が山積する。日本も同じだ。地デジが終わったのではなく、始まったのである。

⇒28日(木)朝・金沢の天気    あめ

☆「地デジ」以降‐中‐

☆「地デジ」以降‐中‐

 2009年6月12日、アメリカは日本よりひと足早く地上デジタル放送(DTV)への移行を終えた。アメリカの地デジ移行はさほど混乱はなかったというのが定評となっているが、果たしてそうだったのか、その後、どうなっているのか。また、日本とアメリカの地デジを比較して何がどう違うのかについて話をしてもらうため、きょう26日、アメリカ連邦通信委員会(FCC)工学技術部の法律顧問であるミラー・ジェームス弁護士を金沢大学に招き、メディアの授業に話してもらった。以下、講義内容を要約して紹介する。

        アメリカの「2009年6月12日」

 アメリカではケーブルテレビやBS放送の加入者が多く、アンテナを立てて地上波を直接受信している家庭は全体の15%とされていた。人口でいえば4500万人の市場規模となる。そのアメリカでは「2009年2月17日」がハードデイト(固い約束の日)として無条件に地デジへ移行する日と決められていた。これに合わせ、2008年元旦から、商務省電気通信情報局(NTIA)がデジタルからアナログへの専用コンバーター購入用クーポン券の申請受付を始めた。政府は40ドルのクーポンを1世帯2枚まで補助することにした。2009年に入り、クーポン配布プログラムの予算が上限に達してしまい、230万世帯(410万枚分)のクーポン申請者が待機リストに残こされるという事態が起きた。

 オバマ大統領(当時は政権移行チーム)は連邦議会に対して、DTV移行完了期日の延期案を可決するように要請した。同時にDTV移行完了によって空くことになる周波数オークションの落札者だったAT&Tとベライゾンの同意を得て、4ヵ月間延期して「6月12日」とする法案が審議、可決された。FCCの定めた手続きでは、「2月17日」の期限を待たずにアナログ放送を打ち切ることができるため、この時点ですでにアメリカの1759の放送局(フル出力局)の36%にあたる641局がアナログ放送を停止していた。

 オバマの「チェンジ!」の掛け声はFCCにも及び、スタッフ部門1900人のうち300人ほどが地域に派遣され、視聴者へのサポートに入った。ミラー氏は2008年11月から地デジ移行後の7月中旬まで、カリフォニア州北部、シアトル、ポートランドに派遣された。その目的は「コミュニティー・アウトリーチ」と呼ばれた。アウトリーチは、援助を求めている人のところに援助者の方から出向くこと。つまり、地域社会に入り、連携して支援することだ。

 ミラー氏自身が地元のテレビ局に出演して、地デジをPRしたり、家電量販店に出向いて、コンバーターの在庫は何個あるのか確認した。また、ボーイスカウトや工業高校の学生が高齢者世帯でUHFアンテナを手作りで設置するボランティアをしたり、NGOや電機メーカーの社員がコンバーターの取り付けや説明に行ったりと、行政ではカバーしきれないことを地域が連携してサポートした。そうした行政以外の支援を活用するコーディネーションも現地で行った。

 ボーイスカウトや高校生、メーカー社員も参加して「地デジボランティア」が繰り広げられた。アメリカの場合は移民が多く、多言語である。英語以外の言語(スペイン語、ロシア語、中国語など)に堪能な大学生たちはコールセンターで待機し、移民の人々から相談対応に当たったという。アメリカではアメリカなりのさまざま対応があった。

 2009年6月12日以降、アメリカで地デジ未対応は貧困層を中心にあったものの、同年7月いっぱいでクーポンの配布も終了した。では、アメリカでアナログ放送は完全に視聴できなくなったかというとそうではない。宗教団体や自治体が独自に電波を出す低出力テレビ(LPTV)がある。このLPTVも2015年9月1日に停波が決まっていて、この日がアメリカにおける「地デジ完全移行」となる。

※写真は、移民者への地デジ説明の様子(ミラー氏提供)

⇒26日(火)夜・金沢の天気   はれ

★「地デジ」以降‐上‐

★「地デジ」以降‐上‐

 7月24日、アナログ停波の日。東北の被災3県(岩手、宮城、福島)を除く44都道府県で、NHKと民放115社、BSアナログ放送(NHKとWOWOW)のアナログ放送での番組が正午12時でブルーバックに切り替わり、午後11時59分に地上アナログ放送の電波、その1分前にBSアナログ放送の電波のスイッチがオフになった。後は砂嵐状態に。

        サイレント層へのケア
 25日付の新聞報道によると、24日未明から同日午後6時までに総務省のコールセンターには9万8千件の電話相談や苦情があった。NHKには午後8時までに3万1千件、民放各社には午後7時までに1万6千件、まとめると14万5千件に上る。

 24日午後4時からNHK・民間放送連盟(民放連)による記者会見があった。月刊ニューメディアの吉井勇編集長からのメールレターによると、「12時以降に電話が殺到しましたが、時間を経るに従い、通常の範囲のコールになった」(松本NHK会長)、「心配していた混乱もなく、しっかりとした対応をいただいた」(廣瀬民放連会長)とメディア側は、地デジに向けた最大の転換であるアナログ停波が無事に成し遂げたということに安どの表情を浮かべた。

 問題は、電話をかける人ではなく、電話をかけないサイレント層である。目に浮かぶのは、「テレビはついているだけでいい」という独り暮らしのお年寄り世帯だ。たとえば、能登地方の夜道を歩くと、玄関や居間の電気は消され、テレビの画面だけがまるでホタルの光のようにポツンとついている様子が窓越しにうかがえる。80歳以上の独り暮らし世帯が全国150万ともいわれている。文句も言わず、細々と生きている。気がかりなのはこうした層である。民生委員の手でチューナーは届けられているかもしれないが、はたしてうまく設置させているだろうか。特に都市部は「無縁社会」という言葉もあるように、お年寄りの死すら気づかれないほどに人々の関係性が希薄である。

 テレビは単に電波政策上ではなく、お年寄りの福祉という観点でとらえる必要がある。このブログで何度か書いたが、昨年7月24日に全国に先駆けてアロナグを停波した能登半島・珠洲地区ではこうしたお年寄りの単身世帯を中心に街の電器屋がローラーをかけてチューナーを取り付け、リモコンの操作説明をした。4回も通ってようやくリモコン操作が可能になったお宅があった、との話も聞いた。このような手厚いケアが全国でなされたのだろうか。

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