#コラム

☆天からの雪便り

☆天からの雪便り

 昨夜から金沢でも雪が降り、きょう17日朝は自宅周辺で20㌢ほど積もった。北陸に住む感覚から述べると、「冬のご挨拶」だ。毎年この時期、12月半ばになると初回の積雪がある。これが「そろそろ雪を本格的に降らせますので、みなさん心の準備と積雪の備えをよろしくお願いします」という自然からの挨拶のように思える。

 ただ、この挨拶も度が過ぎるというのもある。ちょうど6年前の2005年12月17日、いきなり金沢市内で50㌢という積雪に見舞われた。こうなると挨拶どころか、ケンカを売っているようにも思える。「人間ども見ておれ、自然をなめるなよ」といった感じだ。すると、人々は「ちょっと待ってくださいよ。二酸化炭素の排出などで地球は温暖化に向かっているのではないですか。それなのになぜ大雪なのですか」と思ってしまう。すると自然の声もさらに荒々しくなる。「地球温暖化は人間が引き起こしていると思っているようだが、オレに言わせれば、地球の寒冷期がたまたま温暖期に入ったわけで、これはオレが差配している自然のサイクルだ。今後雪を降らせないとか少なくするとかは一体誰が決めたんだ、それは人間の勝手解釈だろう。オレは降らせるときはガツンと降らす。2008年1月にはバクダットにも雪をプレゼントしてやったよ」と。北陸という土地柄では、冬空を見上げながら自然と対話ができる。1936年に世界で初めて人工雪を作ることに成功し、雪の結晶の研究で知られる中谷宇吉郎(1900-62、石川県加賀市出身)は「雪は天から送られた手紙である」という言葉を遺している。

 さて、この時期、雪は生活の一部だ。積雪に備え庭の樹木に雪つりを施す。乗用車のタイヤをスタータイヤに交換する。除雪用のスコップを玄関に用意する。雪靴をゲタ箱に入れておく。慌ただしく準備をして、積雪期を迎える。きょうはさっそく除雪用のスコップの出番だった。道路に面した家の間口分だけ道路を除雪するのが暗黙のルールになっている。しかも、側溝付近の人が歩く側だけだ。不思議なもので、早朝近所の誰か始めると町内の人々が入れ替わりに出てきて除雪する。お昼ごろにはだいたい道路の歩道部分の除雪が終わっている。町内一斉の除雪というのもあるが、これはドカ雪で道路機能がマヒし、除雪車も来ないというときに、非常措置として町内会が音頭を取って実施する。5年か6年に一度ほどある。

 北陸の雪は長野や北海道と違って、湿り気が多く重い。五葉松などの庭木は雪つりがないとボキリと枝が折れる。写真は、きょう9時に撮影したもの。パラソルのように広がった縄が五葉松の枝を雪の重みから支えている。自然に対応する先人の知恵というのはかくも確かで、そのフォルムは美しい。

⇒17日(土)朝・金沢の天気  ゆき

★死は理解されているか

★死は理解されているか

 先日、自宅に配達を依頼した本が届き、目にした家人がいぶかった。「なんでこんな本を買ったの。気味が悪い」「50も半ばを過ぎると、こんなことに興味を持つようになるのか」。さんざんだった。その本の名前は『死体入門』(藤井司著、メディアファクトリー新書)。著者は法医学者だ。この本を購入したきっけは特別な趣味でも、年齢のせいでもない。ちょっとした背景がある。

 金沢大学の共通教育授業でマスメディア論を教えている。その中で、学生たちに問いかけるテーマの一つが、「マスメディアはなぜ遺体、あるいは死体の写真や映像を掲載・放送しないのか」という論点である。東日本大震災での遺体写真の掲載については、新聞各社は原則、死体の写真を掲載していない。被災地の死者(死体)の尊厳を貶めることにもなりかねないとの各社の判断があり、あえて掲載していない。リアルな現場というのは、遺体(死体)の写真をストレートに見せることはしなくても、なんらかの見せ方によって、犠牲者の多さや無念の死というものを表現することは可能との意見が多い。そのような話を周囲の研究者にすると、「では、これを読んでみてください」と薦められたのがこの本だった。マスメディアで掲載・放送するしないの論議以前の話として、日常生活で遺体(死体)と接することがめったになく、遺体(死体)そのものについて我々は無知である。これでは何も語れない、イメージと感情だけで論じることに等しいと思い、向学のために本を注文した。

 衝撃的な記述が次々と目に飛び込んでくる。アメリカのテネシー大学には「ボディ・ファーム(死体牧場)」がある。1㌶ほどの土地に、20体ほどの死体が地面に放置され、半ば埋められ、ゴミ袋に詰められたものもある。そして死体がどのような条件下でそのように腐敗していくかの実験が進めらている。これまで主観的や経験と勘で判断されていた死亡推定時刻を、科学的なデータの蓄積で解析していこうという研究なのだ。1981年に施設が設立された。同じ大学関係者や学生たちからの苦情やストライキなど難問が立ちふさがったが、それを乗り越え、いまやテネシー大学は死体の腐敗研究では最高権威となった、という。さらに驚くことに、この腐敗実験に用いられる死体は、生前に自身が登録して献体するボランティアなのだ。

 日本の大学での解剖学の献体のシステムについても語られている。献体登録した方が亡くなると、病院から解剖学教室に連絡が入る。教室員が遺体を引き取りにやってきて、遺族を意思も確認される。大学では遺体を清潔にし、髪も切る。血管に保存液を注入し防腐処置をする。その後、アルコール溶液に漬ける作業が行われ、遺体は一体一体丁寧に包まれ保管される。献体は「ホルマリンのプール漬けになっている」や「死体洗いのアルバイトがある」などは私自身も学生時代に噂として聞いたが、真実と嘘が混じっているようだ。ただ、この献体は解剖学教室員の以外の人は関与しないので、医学部の中でも知られていないは事実のようだ。

 日本人は死をどのように見つめてきたのか。写実的な観察した記録もある。九州国立博物館に所蔵されている『九相詩絵巻』(14世紀)はその最古の絵巻といわれる。女性の「生前相」「新死相」「肪脹相」「血塗相」など腐敗の過程が骨がバラバラになるまで9つのプロセスで描かれている。絵に描かれるほど、死体は古くから一般的でなく、謎だった。

 意外だったのはこんな数字。人間に限らずすべての動物には体の中に細菌が棲みつく。成人した人間の体内では約500種、100兆個の細菌が体内に同居して酵素を分泌している。その細菌の重量を合計すると、1㌔㌘にもなると考えられるという。人が死ぬと、これら体内の細菌は酵素を分泌してたんぱく質を分解し始める。これが腐敗、「自己融解」である。くだんの『九相詩絵巻』はその体の腐敗の過程を色の変化で見事にとらえている。

 終わりに、著者はこう訴えている。「不必要に死体をおそれ、死体への興味を育まない社会も問題ではないだろうか。死体に関心を持つことさえ許さない風潮がある」「誰もが最終的にたどり着く姿であり、ありふれた存在であるはずの死体が徹底的に隠される現状のほうが異常ではないですか?」と。そして、無縁社会と称される現在、たった一人で亡くなり、ミイラ化した死体が日本では約5日に1件発見されているという事実。孤独をまぎらわすために犬やネコを飼う独居老人も多い。飼い主が死亡した場合、その犬やネコはどのような行動をとるのだろうか…。
 
 この本を読んで、死を見つめるバリエーションはかくも多いと気づく。そして、死体について我々は知らぬことばかりだ。

⇒16日(金)夜・金沢の天気   ゆき 

☆ワインとカキの循環

☆ワインとカキの循環

 今月10日の日曜日、「能登ワイン と能登牡蠣のマリアージュ体験ツアー」と銘打ったバスツアーに参加した。金沢在住のソムリエ、辻健一さんが企画した。マリアージュはフランス語で結婚という意味で知られるが、もう一つ、「ワインと料理の組み合わせ」という意味もある。つまり、能登で栽培、生産されているワインと、いまが旬の海の幸・カキを食する旅ということになる。金沢から30人が参加した。

 最初の訪問地は能登ワイン株式会社(石川県穴水町)。2000年からブドウ栽培をはじめ、2006年より醸造を開始している。初出品した国産ワインコンクールで、「能登ロゼ」(品種マスカットベリーA)が銅賞(2007年)、「心の雫」(品種ヤマソーヴィニヨン・赤)が銅賞(2010年)、そして、ことし2011年で「クオネス」(品種ヤマソーヴィニヨン・赤)が銀賞を受賞した。年々実力をつけている。

 すでに収穫は終わっていたが、17㌶に及ぶブドウ畑を見学した。能登は年間2000㍉も雨が降る降雨地でブドウ栽培は適さないと言われているが、適する品種もある。それがヤマソーヴィニヨン。日本に自生する山ブドウと、赤ワイン主要品種カベルネ・ソーヴィニヨンの交配種で、山梨大学が研修者が開発した日本の気候に合うブドウ品種だ。実際、ヤマソーヴィニヨンは成長がよく、1本の木で15㌔から20㌔のブドウの実が収穫される。ワイン1本(720ml)つくるには1㌔の実が必要とされるので、実に15本から20本分になる。

 さらに興味深いのは、穴水湾で取れたカキの殻を畑に入れ、もともとの酸性土壌を中和しながら栽培していることだ。1年間雨ざらしにして塩分を抜いたカキ殻を土づくりに活用している。参加者が感動するはこうした循環型、あるいは里山と里海のマリアージュ(連環型)かもしれない。ブドウ畑は自社農園をはじめ一帯の契約農家で進められ、栽培面積も年々増えている。ヨーロッパスタイルの垣根式で約20品種を栽培し、剪(せん)定や収穫は手作業だ。

 醸造所を見学した=写真・上=。ここのワインの特徴は、能登に実ったブドウだけを使って、単一品種のワインを造る。簡単に言えば、ブレンドはしない。もう一つ。熱処理をしない「生ワイン」だ。さらに詳しく尋ねると、赤ワインならタンクでの発酵後、目の粗い布で濾過し、樽で熟成する。さらに、瓶詰め前に今度は微細フィルターを通して残った澱(おり)を除く。熱処理するとワインは劣化しないが熟成もしない。熱処理をしない分、まろやかに、あるいは複雑な味わいへと育っていく。もう一つ。能登の土壌で育つブドウはタンニン分が少ない。それをフレンチ・オークやアメリカン・オークの樽で熟成させることでタンニンで補う。するとワインの味わいの一つである渋みが加わる。そのような話を聞くだけでも、「風味」が伝わってくる。

 ツアーのクライマックはカキ料理だった。ソムリエの辻さんは「能登カキには赤が合うか、白が合うか、自分で確かめてください」と。魚介類だと白という感じだが、焼きガキ=写真・下=だと赤が合うような感じがする、カキフライだとシャルドネ(白)かなとも思う。いろいろ語り合い、食するうちに酔いが回り、マリアージュが完結する。

⇒13日(火)朝・金沢の天気   くもり

★6枚の壁新聞

★6枚の壁新聞

 2011年3月11日、東日本大震災が起こり、東北地方を大津波が襲った。「メディアも被災者」という言葉をこれまで何度かメディアの授業で使ってきた。そのたとえで宮城県の地域紙「石巻日日新聞」を取り上げた。そのとき記者たちはどのような行動をとったのか。そのドキュメンタリーが新書本とした出版された。本のタイトルは『6枚の壁新聞』(角川SSC新書)。同社の輪転機の一部が水に浸かり、新聞発行ができなくなった。そのときとっさに思い立ったのが本のタイトルにある「壁新聞」をつくることだった。おそらく、大手紙やブロック紙と呼ばれる新聞社だったら思いもつかなかったことだろう。地元密着、「伝える」執念を描いたドキュメンタリーだ。

 石巻日日新聞。イシノマキヒビシンブンと読む。ニチニチではない。夕刊紙が専門で、宮城県東部の石巻市や東松島市、女川町などをエリアに震災前は1万4000部を発行していた。従業員は6人の記者を含め28人。典型的な地域紙と言ってよいだろう。この日(3月11日)は夕方から雪の予報が出ていて、夕刊は午後2時半ごろ早めに配達が始まっていた。地震の発生は午後2時46分、その3分後に大津波警報が発令、さらにその50分後の3時40分に石巻市内の同社に津波が到達した。社屋の倒壊を免れたものの、1階にある輪転機の一部が水に浸かり、さらに電気が止まった。来年には創刊100周年を迎える歴史ある新聞を発行できないという危機に陥る。社長の近江弘一は決断する。「今、伝えなければ地域の新聞社なんか存在する意味がない」「紙とペンさえあれば」「休刊はしたくない。手書きでいこうや」と。そして、3月12日付=写真=から6回にわたって壁新聞づくりが始まり、避難所などに貼り出された。

 記者も被災した。津波に飲み込まれながら、浮流物につかまり一晩漂流した後にヘリコプターで救出された33歳の記者、津波に後ろから追われながら山の上に逃げて生き延びた記者もいた。生死と向き合う壮絶な経験をしたからこそ、被災者はどのような情報を必要としているのか的確に把握できたのだろう。伝える使命感が手書きの壁新聞へと記者たちを走らせる。ただ、記者にたちとって忸怩(じくじ)たる思いがなかったわけではない。壁新聞は量産できないので、貼り出した場所(避難所など)でしか読まれない。手書きの壁新聞では字数が限られ、取材した情報のほとんどは掲載されない。さらに、電気も輪転機も無事な大手紙が避難所に無料で新聞を配れば、「石巻日日新聞離れ」が生じるのではないか、そのような思いが交錯した。若い記者たちの歯がゆい思いは別として、水に浸からなかった新聞用ロール紙、そしてフェルトペン、そして紙を切るカッターナイフしかなかった。

 電気が来て、パソコン入力でA4版のコピー新聞ができたのは17日の夜だった。そのコピー新聞を手にした記者デスクは「サイズは小さくとも、活字で情報を伝えられることに喜びがあふれた。早くいつもの新聞を作りたい」と記している。

 被災直後、多くの人は携帯電話のワンセグ放送やメールで情報を得た。しかし、充電できずバッテリ-切れとなって初めて、情報から隔絶された孤独感に追い込まれた。そんな状況の中で、壁新聞は「情報のともしび」だったに違いない。3月20日付から水没を逃れた古い輪転機を使い1枚(2頁)刷りの紙面での発行が再開された。ただ現実として、「家がなくなったから新聞を止めてほしい」「日日新聞を楽しみにしていた肉親が亡くなったので」との理由から新聞離れは始まっている。次に来る経営という問題に…。

⇒29日(火)夜・金沢の天気  くもり

☆台湾旅記~5~

☆台湾旅記~5~

 帰国する6日、台湾の国立故宮博物院(台北市士林区)=写真=を見学した。山中にあるが、付近は高級住宅街が広がる。第二次世界大戦後、国共内戦が激化し、中華民国政府が台湾へと撤退する際に北京の故宮博物院から収蔵品を精選して運び出した。その数は3000箱、61万点にも及んだ。それが世界四大博物館の一つに数えらるゆえんとされる。

        2つの故宮めぐり、中国の歴史ロマンを彷彿と

 国立台北護理健康大学の教員スタッフが案内してくれた。「まず、キャベツでしょう」と連れて行かれた展示室で見たのが、中国・清朝時代の「翆玉白菜」(写真は国立故宮博物院のホームページから)。長さ19㌢、幅10㌢ほど造形ながら、本物の白菜そっくりだ。とくに日本人にとっても身近な野菜だけに、その色合いが人を和ませる。ヒスイの原石を彫刻して作ったというから、おそらく工人はまずこの色合いからイメージを膨らませ、白菜を彫ったのではないか。これが逆で、白菜を彫れと言われて原石を探したのであれば大変な作業だったに違いない。清く真っ白な部分と緑の葉。その葉の上にキリギリスとイナゴがとまっている。

 博物院では、清朝の康熙大帝とフランスのルイ14世の特別展が開催されていた。解説書では、遠く隔たった2人の君主であったが、フランスのイエズス会宣教師らによって交流が生まれていたという。ルイ14世が康熙帝に宛てた書簡なども展示されていた。また、フランス絵画の影響を受けた中国絵画、中国をモチーフしたフランスの絵画などが展示され、東西の文明が互いに刺激し合ったとの展示のコンセプトがよく見えた。

 1960年代から1970年代に中華人民共和国で起きた文化大革命が起き、封建社会の文化財に対する組織的な破壊活動があった。その歴史から、台湾への所蔵品の移送は貴重な文化遺産を結果的に保護したという意味合いもあったろう。いろいろと思いめぐらせながら故宮博物院を後にした。

 ことし6月に北京を訪れた折、紫禁城(故宮)を見学した=写真=。明朝と清朝の旧王宮である歴史的建造物。「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。72㌶の広大な敷地に展開する世界最大の宮殿の遺構だ。1949年、毛沢東は城門の一つである天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。訪れたとき、この現代中国の歴史的なシンボルの場所で、突然激しく叩きつけるような風雨に見舞われた。雷鳴とともに逃げ惑う多数の観光客の姿はまるで映画のシーンのようだった。

 この半年で、北京では紫禁城(故宮)を半日かけて歩き、台北では国立故宮博物院の名品の数々を鑑賞する機会に恵まれた。この二つの体験が、故宮をめぐる中国の歴史ロマンを彷彿(ほうふつ)とさせる。

⇒15日(火)夜・金沢の天気   あめ

★台湾旅記~4~

★台湾旅記~4~

 5日午後、今回の台湾訪問の主な目的である国立台北護理健康大学=写真=旅遊健康研究所(大学院ヘルスツーリズム研究科)での講義。講義内容を簡単に説明すると、日本の温泉ツーリズムは「温浴効果」と「もてなし」による「癒し」である。海外でも温浴効果の高い温泉はあちこちにある。これに「もてなし」というメニューを加わえたのが日本流である。その「もてなし」の独自の進化が能登にある。以下、講義の概略を。

            「もてなしのDNA」あえのこと

 毎年12月5日、もてなしの原点といわれる農耕儀礼「あえのこと」が行われる=写真・下=。「あえ」は晩餐会の餐、「こと」は祭りで、食してもてなす、ご馳走でもてなすという意味。あえのことは、田に恵みをもたらす「田の神様」の労苦をねぎらって、その家に迎え、ご馳走でもてなす儀礼である。家の主は、田に神様を出迎えに行き、家の中に招き入れて、足を洗ってさしあげ、お風呂に入れて、ご馳走でもてなす。甘酒やタイの尾頭を並べて、「神様、どうぞお召し上がりください」ともてなす。しかも、その家々でもてなし方が異なる。なぜか。

 この田の神様には特徴がある。田の神様は稲穂で目を突いて、目が不自由であるという設定になっている。どちらか片方が不自由であったり、両目という場合、夫婦そろって不自由という、家々によってその設定が異なっている。目が不自由な神様をおもてなしするためにどうすればよいのか、それぞれ家々で考える。神様が転ばないように「神様、敷居が高いのでまたいでください」と本当に手を引くようにして座敷まで迎えたり、「どうぞ、お風呂でございます。熱いです」といって目の不自由さを家の主がカバーしいる。「もてなし」をホスピタリティ(hospitality)と訳する。あえのことは病院での介護や介助に近い意味合いのもてなし方になる。しかも、自分の家の構造によって、それぞれもてなし方が違う。自らイマジネーションを膨らませ、自身が不自由であったと仮定すれば、どのように介助してほしいかとあれこれ自ら考えることになる。全知全能の神様であったり、不自由さがない神様だったら一律でパターン化された儀礼になっていたかもしれない。

 健常者と障がい者の分け隔てのない便宜の提供をユニバーサル・サービスと称するが、あえのことはその原点とも言えなくもない。衣料品販売のユニクロは1店舗に1人の障がい者を従業員として雇い、日ごろから職場全体でその従業員がスムーズに働けるよう周囲が気配りや目配りをする。このトレーニングがあってこそ、障がいを持ったお客が訪れても普通に接することでできるようになる。 

 能登の各地では五穀豊穣を願う、感謝する祭りが盛んで、ヨバレという風習がある。地域外の親戚や友人、会社の同僚を家に招き、ゴッツオ(ご馳走)でもてなす。このもてなしの風土が能登で熟成された。この能登半島のもてなし、お祭り文化をサービス産業としてプロ化したのが和倉温泉と言える。和倉温泉の加賀屋は、「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で31年連続1位に選ばれている。加賀屋の小田禎彦会長に講義をいただいた(2008年7月)。「サービスの本質は正確性とホスピタリティ」、「三河人の生真面目さがトヨタを世界一の自動車メーカーに押し上げた。能登人のもてなしの心、祭りの風土が加賀屋を日本一に押し上げてくれたと思っている」との言葉が印象的だった。

 旅館やホテルは、設備や施設も必要条件だが、もてなしの心を持った人々がその旅館にどれだけいるかという、その数、質の高さで決まる。加賀屋をはじめ和倉温泉には、能登人という「もてなし」の精神にあふれた人の集積があり、その風土(バックボーン)がある。いまでも能登の子供たちは、幼いころからお客さまへの扱いをトレーニングされ、また祭りに招かれたときの作法を心得える。つまり、ホスト、ゲストを繰りかえしながら人間として成長する。都会の家庭では得難いトレーニング(もてなしの作法)を受けて育っている。

 この「あえのこと」はユネスコの無形文化遺産登録に登録された(2009年9月)。そしてことし2011年6月に国連食糧農業機関の世界農業遺産(GIAHS=Globally Important Agricultural Heritage Systems)に認定された。あえのことがGIAHS認定の文化的なファクターとして寄与した。能登のもてなしの風土は、「能登はやさしや土までも」と表現される。台湾の北投温泉に加賀屋のフランチャイズ店ができて、接待係の従業員の立居、振る舞いを昨日、垣間見ることができた。見ていると実に心地いい。「もてなしのDNA」がこの地にしっかり根付くことを願っている。

⇒13日(日)朝・金沢の天気   あめ

☆台湾旅記~3~

☆台湾旅記~3~

 5日朝、ホテルがある台北市天母地区の周辺を散歩した。市内の商店街やオフィス街の通りアーケードのようになっている。日本のアーケードのように、通りに屋根をつけるのではなく、建物の一階の道に面している部分を通路として提供しているという感じの造りで、店と店の間口によって段差がある。このアーケード通りには統一規格というものがない。よそ見しながら歩くと段差でこけたり、つまづく。間口が小さく奥行きもなさそうな商店もあり、建築設計や耐震構造に問題はないのかと、つい思ったりもした。

       食材市場を覗くと、「越光米」も「松葉蟹」も

 この天母地区というのは、台北市の北部にあり、日本人学校やアメリカンスクール、大使館などがある、ちょっとした高級住宅街でもある。中心街には日系デパートの高島屋もある。「士東市場」と書かれたビルがあり、のぞくと市民の台所といった感じの食材市場が広がっていた。2階建てで、1階が食材市場、2階がグルメ店や小物店などがずらりと並ぶ。鮮魚の店ではサケやタイ、マグロに並んで食用カエルを盛った皿も並んでいた。冷蔵庫に目をやると「松葉蟹」の冷凍ものも。精肉の店では、店員が烏骨鶏とおぼしき足の黒いニワトリをさばいていた。日本の食材市場と違うのは、その場で解体と処理と販売をする点だ=写真・上=。日本の場合、鮮魚は目の前でさばくにしても、精肉となると客にそこまでは見せないだろう。この市場では、トサカのついたニワトリの首がまな板の周辺に転がっていた。それぞれの国民の感性の違いはあるにしても、精肉の鮮度が「見える化」されていて、それが価値だと思えば、日本人も納得できるかもしれない。

 米屋があった。台湾産、タイ産など並ぶが、地元台湾産で一番値段が高かったのが「鴨間米」で一斤(600㌘)で65台湾ドル。「有機米」とも書き添えられてあったので、カモを水田に放ち、肥料と除草をまかなう栽培方法かと想像した。さらに値段でひと際目を引いたのは「越光米」、コシヒカリである。一斤(600㌘)85台湾ドル、今のレート換算で日本円にして240円ほど。1キロ計算では400円ほど。日本のスーパーマーケットで売られている米の値段と比べても、1キロ400円は高い。

 市場見学の後、台湾の大学関係者に越光米について聞くと、「台湾の富裕層は別として、地元の人はその値段では手が出せない。おそらく駐在の日本人が買うのではないか」と言う。そう言えば、こちらを日本人と見抜いてか、米屋の主人が近寄ってきて、片言の日本語で「電話でゴヨウメイください」と名刺を差し出してきた。ゴヨウメイとは「ご用命」のことか。名刺には赤字で「免費外送」と書いてある。つまり無料で配達しますよとの意味なのだと想像がついた。なかなか商売上手だ。ただ、この越光米は「日の丸」で日本産を強調しているが=写真=、残念ながら日本国内の産地表示がなかった。

⇒9日(水)午後・金沢の天気   くもり

★台湾旅記~2~

★台湾旅記~2~

 フジテレビ系列の番組『花嫁のれん』の第2弾が10月31日から放送が始まった。その11月7日から11日分が、台湾・北投温泉の加賀屋でのロケ分だという。ちなみにこの番組は、金沢の創業百年を誇る老舗旅館「かぐらや」で女将修業に励む奈緒子(羽田美智子)と、しゅうとめ・志乃(野際陽子)の確執が面白い。7日からの番組で出演している仲居さん(接待係)は現地台湾の従業員たち。和服の着こなし、髪結い、言葉遣いがきっちりとしていて、違和感がない。

      加賀屋の「もてなし」のノウハウを注入

 「台湾では、日本語ができて、格式を誇る旅館の最前線の社員ですので、日本でいえばスチュワーデスのような憧れの職業なんです」。 後日、台北・北投温泉の加賀屋を経営する株式会社「日勝生加賀屋」の副社長、徳光重人氏に取材するチャンスを得た。会社は台湾のデベロッパー「日勝生活技研」と日本の「加賀屋」がともに出資する合弁会社だが、主な出資と土地建物の所有は日勝生活技研である。2004年6月に日勝生加賀屋が日本の加賀屋とフランチャイズ契約(20年間)を結び、台湾の加賀屋は建築から料理、もてなしの様式、すべてが日本の加賀屋流だ。

 副社長の徳光氏は日本人ながら日勝生活技研の出向社員である。台湾に移り住んで17年になるという。フランチャズ契約を申し込んだのは台湾側から。「それ以来、開業に当たってずっと台湾と日本の文化摩擦の間に立ってきた」と振り返る。それを乗り越え、昨年2010年12月にオ-プンさせた。日本の加賀屋にとっては海外進出第1号となる。

 加賀屋にも「出店」への思い入れがあった。同社は1906年の創業であり、「100年」という節目を迎えて記念すべきメモリアル事業を起こしたい、また、今後ブランドビジネスを海外に展開していくためにもフランチャイズ契約の成功例をつくりたいという思い。また、北投温泉は明治16年(1894年)にドイツ人商人が発見したといわれ、1896年、大阪人の資本によって北投で最初の温泉旅館「天狗庵」が開業される。その後、日露戦争の際に日本軍傷病兵の療養所が作られ、北投温泉は名実ともに台湾の温泉の発祥の地となる。その天狗庵の跡地を日勝生が取得し、加賀屋が建つことになり、歴史的な意味合いやストーリー性があった。4番目の思いは徳光氏によれば、「加賀屋による台湾への恩返し」である。1990年の日本のバブル崩壊で、投資を先行した温泉旅館はどこも苦境にあえいだ。加賀屋もその例外ではなかったが、15年前、台湾トヨタの外国社員研修が初めて加賀屋で開かれ、そのもてなしが評判となり、ピークで台湾人宿泊者が2万人も訪れるようになった。

 この間、加賀屋も台湾人との接し方、もてなし方のノウハウを蓄積した。たとえば、青畳は日本人では新鮮な香りがして気持ちがよいものだが、台湾人はこの匂いが苦手だ。そのような経験知が生かされ、加賀屋が北投温泉に生まれた。

 開業から11ヵ月、宿泊客の6割は地元台湾から、2割が日本人観光客、そして1割が香港・マカオの客だ。リピーターも増えた。香港の実業家夫妻はこの間13回も宿泊に訪れた。日本のもてなしを心地よく感じてくれる素地が東アジアにはあると徳光氏は手応えを感じている。

※写真は、車のドアを開けたところ、「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた接待係の女性従業員たち。車内からのカメラ撮影。和服の着こなし、身のこなしはきっちりと加賀屋流のトレーニングを受けている。それぞれ自分で選んだ源氏を持つ。

⇒7日(月)夜・金沢に天気  はれ

☆台湾旅記~1~

☆台湾旅記~1~

 先日(10月29日)、NHKの夜7時のニュースを見終えると、次に懐かしいメロディーが流れてきた。「NHKのど自慢」のそれ。「おやっ、なぜこの時間に」と思い見ていると、「NHKのど自慢 イン 台湾」とタイトルが出ている。スペシャル番組のようだ。しばらく視聴していると、自慢の歌声やパフォーマンスを繰り広げる日本と同じシーンだ。しかも、演歌からポップスまで幅広いジャンルの歌が披露される。日本語で歌われるのだが、予選を勝ち抜いた25組とあって、歌もさることながら日本語がうまい。演歌の節回しなども堂に入っている。相当歌い込んだのだろう。会場の国父紀念館(台北市)が2000人の観客で埋め尽くされ、テレビ画面からも熱気が伝わってきた。「台湾は近い」。そのとき感じた。それから1週間。きょう4日、台湾・台北市に来ている。その理由は後に述べるとして、初めて訪れたこの地の印象などを「台湾旅記」としてつづってみる。

       北投温泉・加賀屋から見える「観音様の横顔」

   台湾を訪れた目的は、授業だ。台北の大学と交流がある金沢大学のS教授から9月下旬、「能登の里山里海の取り組みやツーリズムについて講義をしてくれる人を探している」と問い合わせがあり、講義のコンセプトなどにやり取りをしていると「それでは能登の里山里海が世界農業遺産(GIAHS)に認定されたこととツーリズムについて、宇野さん、話して」と指名を受けてしまった。講義をする大学は、国立台北護理健康大学の旅遊健康研究所(大学院ヘルスツーリズム研究科)。日程は11月5日、テーマは「世界農業遺産(GIAHS)に登録された能登半島のツーリムズ」と決まった。

  羽田から3時間40分、現地時間4時10分ごろに台北の松山空港に着いた。大学の教員スタッフの出迎えを受け、最初に向かった先は、台北市内の中心分から車で30分ほどの山麓にある北投温泉。ここの「日勝生 加賀屋」=写真・上=を取材に訪れた。日本でも有名な和倉温泉「加賀屋」の台湾の出店である。実は、講義では日本の温泉ツーリズムについても触れてほしいと先方から依頼されている。温泉ツーリズムといえば能登半島の和倉温泉、そして「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」(主催:旅行新聞社)で31年連続日本一の加賀屋を引き合いに出さないわけにはいかない。北投の加賀屋の取材予約はあす5日の夕方だった。まずは挨拶に思い向かったのだが、現地のマネージャーから丁寧に館内を案内され、取材が事実上早まったかたちになった。

  15階の部屋など見せてもらった。通訳の女性が「あれが観音様の横顔ですよ」と指差した方を眺めると、尾根の連なりが確かに観音像が仰向けに横たわった姿に見える。夕焼けに映えて、神々しさが引き立っていた=写真・下=。その後、部屋を出るとき同行した台湾の男性教員がアッと声を出した。部屋の入り口で無造作に脱がれてあった6人の靴がきちんと並べられていたのだ。「これが日本の流儀なのですね」と。

 部屋から廊下に出ると、接待係の和服の女性が笑顔で控えていた。宿泊者でもない、ただの見学者にさえも気遣いをしてくれたのだ。これが加賀屋流の「もてなし」かと、見学を申し込んだ自分自身も恐縮したのだった。

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★世界を変えた書物

★世界を変えた書物

 その部屋に入ると、何か歴史の匂いがした。古い建物ではないが、そこに所蔵されている書物から沸き立つオーラのようなものが充満している。その陳列ケースを眺めていくうちに、これが世界を変えた書物だと実感する。先日(25日)、金沢工業大学でのある研究会に参加した折、同大学ライブラリーセンター=写真=にある「工学の曙(あけぼの)文庫」に案内された。ここではグーテンベルグによる活版印刷技術の実用化(1450年ごろ)以降に出版された科学技術に関する重要な発見や発明を記した初版本が収集されている。

 この文庫のコンセプトそのものが意義深い。ヨーロッパでは、中世まですべての知識は口伝か写本として伝達されるのみだった。つまり、知識は限られた人々の占有物だった。ところが、グーテンベルクの活版印刷術の発明によって、知識の流通量が爆発的に広がった。科学と技術の発展の速さは知識の伝達の速さに関係するとも言われる。つまり、「グーテンベルク以降」が科学・工学の夜明けという訳である。

 43人の科学者や技術者の初版本が所蔵されている。いくつか紹介すると、白熱球など発明したエジソンの『ダイナモ発電機・特許説明書・特許番号No.297.584、1884年』、電話機のベルの『電話の研究、1877年』、ラジウムのマリー・キュリーの『ピッチブレントの中に含まれている新種の放射性物質について、1898年』、電磁波のヘルツの『非常に速い電気的振動について、1887年』、X線のレントゲンの『新種の輻射線について、1896-1897年』、 オームの法則のオームの『数学的に取扱ったガルヴァーニ電池、1827年』、電池を発見したボルタの『異種の導体の単なる接触により起る電気、1800年』、万有引力のニュートンの『自然哲学の数学的原理(プリンキピア)、1687年』、重力加速度や望遠鏡のガレリオの『世界二大体系についての対話、1632年』など、歴史に輝く科学の星たちの名前が目に飛び込んでくる。

 面白いのは書物に添えられた解説である。引用しながら一つ紹介する。『電話の研究』のアレクサンダー・グラハム・ベル(1847-1922)。ベルの父親は聾唖(ろうあ)者に発声法を教える専門家だった。ベルもロンドン大学などで発声法を学び、父を継いで聴覚に障害を持った人々に発声を教えていた。1871年にスコットランドからアメリカへ移住し、73年にボストン大学で発声生理学の教授となる。このころ、ベルはヘルムホルツの音響理論を知り、機械的に音声を再現することに興味を持った。ベルの着想は、音の変化が電流の変化に変換でき、またその逆を行うことができれば、電流を用いてリアルタイムで会話を電線を通じて伝達できるのではないかとのアイデアだった。76年にベルは初めて音声を「波状電流」に変えることに成功する。最初の電話でのメッセージは、助手を呼ぶ「ワトスン君ちょっと来てくれ」だった。電話機はその後、エジソンらによって炭素粒を用いた、より再生能力の高い送受信機に改良され、世界に広がっていく。

 電話の発明者としてベルは知られるが、生涯にわたって聴覚障害児の教育をライフワークとした。かのヘレン・ケラーに「サリバン先生」ことアン・サリバンを紹介したものベルだった。科学と人との出会い、そして科学への熱情。書物の背景にある偉人たちの生き様までもが伝わってくるライブラリーなのだ。

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