#コラム

☆「災害は進化する」

☆「災害は進化する」

 けさ(17日)は金沢の自宅周辺でも30㌢の積雪となった。2月2日以来、2週間ぶりの銀世界だ。ただ寒気が少々緩く、雪が融け始めている。屋根から雨だれがパラパラと落ちる。早朝から「雪すかし」(除雪のこと)だ。この季節、スコップで道路を除雪すると響く、ザッ、ザッッという音を耳にすると北陸の人は居ても立ってもいられなくなる。「お隣さんが雪すかしを始めた。我が家もしなければ」と、寝ていても目覚めるのだ。そして誰かが始めて30分もすると、近所中で雪すかしをしている光景が見られるようになる。簡単に近所同士で挨拶はするが、皆黙々と除雪を進める。雪すかしには、決まりや町の会則というものがあるわけではない。あたかも、DNAが目覚めるがごとくその行動は始まるのだ。

 この本の出だしがまずショッキングだ。「災害は進化する」とある。続けて「という」とあるから科学に裏打ちされた法則のようなものではなく、言葉のたとえとして紹介している。確かに、江戸時代では「地震と火災」はセットだったが、それにも増して現代は「地震と原発」など、被害を受ける社会の構造そのものが変化し、放射能汚染など被害が高度に拡大(進化)している。地震をコントロールできない上に、文明の逆襲にでも遭ったかのごとく、この「災害は進化する」という言葉はパラドックス(逆説)として脳に響く。

 原発だけでなく、高層ビルもまた進化する災害(=文明のパラドックス的逆襲)になりうる。2月13日放送のNHK「クローズアップ現代」でも紹介されたように、東日本大震災では、震源から遠い場所(大阪など)にある高層ビルが大きく揺れたり、同じ敷地にありながら特定の建物だけに被害が出たりするなどの不可解な現象が起きたのだ。原因は、建物と地盤の「固有周期」が一致することで起きた「共振現象」と見られている。事例として紹介されていた、震源から770㌔離れた大阪府の咲州庁舎(地上55階地下3階、高さ256㍍)の揺れ幅は3㍍にも。そのとき大阪府は震度3だった。1995年の阪神淡路大震災では、街中を走る阪神高速道路の高架橋が橋脚ごと横倒しとなった。

 『日本災害史』(北原糸子編・吉川弘文館)の執筆陣は歴史学だけでなく、理学や工学の研究者やジャーナリストらで構成されている。テーマは地震だけでなく噴火、洪水などにわたる。この本を読んで、むなしくなる。日本では災害はいつでもどこでも起きる。たとえば近畿を揺るがした地震だけでも1498年・明応地震、1586年・天正大地震、1596年・慶長伏見地震、1605年・慶長大地震、1662年・近江山城地震など、震災は繰り返しやってくる。さらに、津波も。こうした災害と復興を繰り返すことで、日本人の人生観や倫理観、生命観、宗教観などがカタチづくられてきたのではないかと思ったりもする。この本で述べられているように、被災者の救済を第一とする為政者の意識は形成されていて、「お救い小屋」や「お救い米」など避難所や食糧支援の救済マニュアルは江戸幕府にもあった。

 民のレベルでも、相互扶助という意識があり、「施行(せぎょう)」と呼ばれる義援金を力のある商人たちが拠出した。冒頭で述べた「雪すかしのDNA」というのはひょっとすると、過去から現在まで連綿と伝わる、雪国独特の雪害に対処する無意識の連帯行動なのかもしれない。

⇒17日(金)朝・金沢の天気  くもり

★「見える」の意味

★「見える」の意味

 能登半島はにその地形からいろいろな伝説がある。『妖怪・神様に出会える異界(ところ)』(水木しげる著・PHP研究所)にも掲載されている「猿鬼伝説」はその一例だ。能登羽咋(はくい)の気多大社の祭神、気多大明神を将軍として、能登の神々が協力し猿鬼(さるおに)の一軍を退治する物語だ。この猿鬼には矢が当たらない。その理由として、猿鬼が自分の体毛に漆を塗りつけていて、矢を跳ね返す。そこで、矢に毒を塗り、漆を塗っていない猿鬼の目を狙う。毒矢を携え、神々は猿鬼の住む奥能登の岩井戸へ出陣するという話だ。伝説からは、大陸と向き合う能登半島に入ってきた「毛むくじゃら」の異民族との戦いをほうふつさせる。

 さらに、能登にはUFO伝説がある。羽咋市に伝わる昔話の中にある「そうちぼん伝説」がそれ。そうちぼんとは、仏教で使われる仏具のことで、楽器のシンバルのような形をしている。伝説は、そうちぼんが同市の北部にある眉丈山(びじょうざん)の中腹を夜に怪火を発して飛んでいたというのだ。この眉丈山の辺りには、「ナベが空から降ってきて人をさらう」神隠し伝説も残っているという。同市の正覚院という寺の『気多古縁起』という巻物にも、神力自在に飛ぶ物体が登場する(宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」のホームページより)。

 作家の田口ランディさんはこのUFO伝説に満ちた羽咋に滞在して、小説『マアジナル』(角川書店)=写真=を書き上げた。マアジナルは、「marginal 【形容詞】 辺境の、周辺部の、縁にある、末端の、ぎりぎりの。二つの社会・文化に属するが、どちらにも十分には同化していない、境界的な」という意味を持つ(『リーダーズ英和辞典』)。物語は、「こっくりさん」が流行した1980年代、UFOを目たという少年が中心になって少年少女6人がある日、手を取り合って輪を作り、夏の夜空にUFOが現るのを祈った。その直後、そのうちの1人の女子生徒が消息不明となる。この夜をきっかけに、彼らの運命の歯車は少しずつ狂い始める。UFOや宇宙人を内容とする雑誌「マアジナル」編集部にたまたま入った羽咋出身の編集者がこの運命の糸をたぐり始める。すると、残りの5人の人生が再び交錯し始める…。小説の400ページは出張中の新幹線、飛行機の中で読んだのである意味「臨場感」を持って読めた。

 この物語で意外な実在の人物が登場する。アメリカの天文学者パーシバル・ローエルだ。ローエルは冥王星の存在を予測したことで天文学史上で名前を残したが、ほかにも火星に運河が張り巡らされていると主張し、火星人説も打ち立て論争を起こした。アメリカ人を宇宙開発に傾斜させるきっかけをつくった一人でもある。明治時代、そのローエルが東京滞在中に地図を眺めていて、日本海沿岸に突き出た能登半島の形に関心を抱き、そしてNOTOの語感に揺さぶられて、1889年5月に能登を訪れた。後にローエルは随筆本『NOTO: An Unexplored Corner of Japan』(NOTO―能登・人に知られぬ日本の辺境)を1891年に出版する。能登を英文で世界に紹介した初めての人物だ。そして、そのころに能登を辺境=マアジナルと感じた最初の人なのだ。

 小説の中で、6人の少年少女の中で精神科医になった男性が交通事故に遭い、幽体離脱してローエルと対面し問答する下りがある。ローエルは「人間とは、ここがあれば、ここ以外の何かが存在すると考える存在なのです」と述べる。デカルトの「我思うゆえに我あり」を引き合いに出して語るシーンである。そして男性は望遠鏡を覗き込みながら、「あの雲がUFOの出入り口なのですか」と尋ねる。でも、ローエルは「さて、どうでしょうかね。私はそれを見たことがないのでわかりません」と肩をすくめて淋しそうに笑う。この小説は、UFOが見えるか見えないか、我思うゆえに我あり、哲学書にも似た大いなる問答集なのである。

⇒15日(水)朝・金沢の天気   くもり

☆フードバレー十勝の農力

☆フードバレー十勝の農力

 気温マイナス20度を初めて体験した。冷気を吸って気管支が縮むのか、ちょっと息苦しい感じがした。25日に訪れた北海道・帯広市でのこと。夜中に小腹がすいて、コンビニに買い物に外出したときだった。金沢ではマイナス1度か2度で寒いと感じるが、帯広では身を切る寒さを実感した。翌朝のNHKのロ-カルニュースでマイナス20度と知って、2度身震いした。

 シンポジウム参加のため、冬の帯広にやって来た。帯広畜産大学と帯広市が主催する「第5回十勝アグリバイオ産業創出のための人材育成シンポジウム~十勝の『食』を支える人づくり~フードバレーとかちのさらなる前進を目指して~」(1月26日、ホテル日航ノースランド帯広)。シンポジウムの講評をお願いしたいと依頼があり、引き受けた。帯広畜産大学は帯広市と連携して、平成19年度から5年計画で「地域再生のための人材養成」のプログラム「十勝アグリバイオ産業創出のための人材育成事業」を実施している。社会人を対象に、十勝地方で産する農畜産物に付加価値の高い製品を産み出す人材を養成しようと取り組んでいる。今回のシンポジウムはいわばこの5年間のまとめのシンポジウムでもある。帯広市(人口16万)を中心とする十勝地方(19市町村)の農業産出額は北海道全体の4分の1を占め、一戸あたりの農家の平均耕作面積は40㌶に及び、全体でも26万㌶、全国の耕地の5%に相当する。食料自給率は1100%、小麦やスイートコーン、長芋などは全国トップクラスの生産量を誇る。年間2000時間を超える日照時間も強みだ。帯広畜産大学の取り組みはこうした恵まれた環境に甘んじることなく、「さらに十勝の農力を伸ばせ」と人づくりにチカラを注いでいる。

 十勝の自治体も合併ではなく、近接する市町村が様々な分野で相互に連携・協力する「定住自立圏形成協定」を結び、さらに農業経済を活性化かせるために「フードバレーとかち推進協議会」(19市町村、大学、農業研究機関、金融機関など41団体)を結成。フードバレーとはフード(food=食べ物)とバレー(valley=谷、渓谷)の造語だが、オランダが発祥地。バレーといっても谷がある訳ではなく、食に関する専門知識の集積地を目指しているのだ。さらに、昨年12月には食の生産性と付加価値を高めることで国際競争力の強化を先駆的に推進する国の国際戦略総合特区に指定されている。食へのこだわりを生産地からとことん追求する、そんな印象だ。シンポジウムも、気温マイナスにもかかわず、会場は熱気があった。

 気になった点が一つあった。27日付の読売新聞北海道版で、「カナダの団体とTPP反対で一致 JA道中央会長」の見出しのベタ記事だ。JA道中央会長がの記者会見で「カナダの農業団体と協力してTPP(環太平洋経済連携協定)に反対する」と述べたとの記事内容。一戸あたりの農家の平均耕作面積が40㌶に及ぶ十勝地方、さらに北海道の農業が国の国際戦略総合特区に指定されたのも、TPPを迎え撃つ準備かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。関税の撤廃で、酪農や小麦の生産が打撃を受けるとの懸念があるようだ。

 過疎化が進む、本州や四国、九州の農業と違って、すでに大規模農業で有利な北海道から農業革命を起こし日本の農業をリードしてほしい、と願う。シンポジウムの熱気からそんなことを感じた。

※写真は、街角の氷の彫刻。気温が日中でもマイナス10度ほどあり融けない=帯広市内

⇒27日(金)朝・帯広の天気  はれ

★IRTイフガオ考~4~

★IRTイフガオ考~4~

 世界遺産でもあるイフガオの棚田でブランド米と呼ばれるのが、「WONDER」の米。赤米で、粒が日本のジャポニカ米と似てどちらかといえば丸い。値段は1㌔100ペソ。マニラのマーケットでは米は1㌔35ペソから40ペソなので、ざっと3倍くらいの値段だ。この米をアメリカのNGOなどが買い付けてイフガオの棚田耕作者の支援に動いているという。もう一つ、「棚田米ワイン」も味わった。甘い味でのど越しが粘つく。アルコール度数は表示されてなかったが25~30度くらいはありそうだ。ブタ肉のバーベキューと合いそうだ。イフガオでは棚田米に付加価値をつけて販売する動き出ているのだ。こうした取り組みが一つ、また一つと成功することを願う。

      「イフガオ棚田の誇り、それは人々が平等な関係でつくりあげたことだ」

 イフガオでは何人かの「親日家」と話すことができた。親日という意味合いは、かつて日本の大学で留学経験があり、日本とフィリピンの関係を前向きに考えているとの意味だ。「私は純イフガオでございます」と話しかけてくれたのはフィリピン大学のシルバノ・マヒュー教授だった。国際関係論が専門で、日本には2度にわたって13年の留学経験を持つ。イフガオ州立大学で開催した国際フォーラム「世界農業遺産GIAHSとフィリピン・イフガオ棚田:現状・課題・発展性」では、「THE IFUGAO RICE TERRACES: A Socio-Cultural & Globalization Perspective」のタイトルで講演もいただいた。

 「純イフガオ」という通り、本人はイフガオ族の出身で両親はいまでもイフガオで田畑を耕している。彼に、ICレコーダーを向けて、イフガオの問題についてインタビューした。快く答えてくれた。質問のその1は、今回のフォーラムの開催の意義について感想を聞いた。

 「(世界遺産、あるいは世界農業遺産など)文化遺産に関するシンポジウムで本当に意義のあることは、例えば日本とフィリピンが国境や社会を超えて語り合う、あるいは、知恵・知識・技術などの諸問題について情報を交換し、お互いに知り合うことだと思います。これこそがグローバリゼーション、国際化であり、学問の世界、行政の世界、NPOやNGOにはそれぞれの立場がありますが、やはり文化遺産を保全・維持するためには、日本とフィリピン、あるいはアジア地域でもいいのでグローバルに話し合う会議を開催することは大変大事だと私は思います」

 質問その2はイフオガの問題について、「フォーラムの講演でマヒュー教授は、今、イフガオの人たちが抱える一番の問題は、田んぼをつくる人たちの田から心が離れてしまっていることではないかという印象を受けたのですが、そういう解釈でよいか」と質問を投げた。

 「イフガオ族には歴史上、王政というものはなかった。奴隷のような強制労働はなく、人々は平等な関係と意志で営々と棚田をつくり上げた。われわれイフガオの民はそのことに誇りに思っている。しかし、現代文明の中で、世界中どこでもそうだと思いますが、イフガオでもそうした昔のことを忘れてしまっています。昔と今とのギャップがどんどん開いていくと、保存する価値は薄くなってしまいます。ですから、例えばイフガオの人が、自分は別の所に住みたいと言って、祖先から伝えられた土地を忘れて離れていってしまうという問題を解決する方法があればいいと切に願っています」「日本でも同じようなことが農村地域で起きていると昨日のフォーラムで指摘がありましたが、日本とフィリピンで共通するこの問題をどのようにそれを防ぐかです。もちろん国際化した中では、どこにでも行けるようになっていますが、せっかく昔々の祖先につくってもらったものはやはり大事にしなければならないと思います」

 質問その3として、「日本の能登と佐渡、イフガオが今度どのように交流を持てばよいか。日本に期待することは何か」と。

 「まず、日本とイフガオということより、ご承知のように、フィリピン全体に対してイフガオは文化的にも少し特別な部分を持っています。イフガオ族の文化と、日本の昔の文化には共通点があると思います。そういうものを忘れないために、交流が必要です。これから、遺産の保存技術も含めた日本の優れた技術、あるいはお互いの考え方や価値観に関する交流をすれば、もっともっと文化遺産の保存に役立つと思います。日本の知恵とイフガオの知恵をお互いに考えながらやると、もっと効果的かと思います。そういう意味で、これから本当に日本とフィリピンが文化遺産保存のコンソーシアムという形で定期的にやれば、あるいはもうもっと広く言えば、アジアの文化遺産を一緒に考えながらやっていったら、組織化することも含めて進めばいいと思います」

 マヒュー教授の提案は具体的だった。共通する文化があれば、国境を越えて、グローバルに話し合いましょう、知恵を出しましょうと。そして国内問題や政治問題として矮小化しないこと。問題の解はその先に見えてくる。

⇒22日(日)夜・金沢の天気  はれ

☆IRTイフガオ考~3~

☆IRTイフガオ考~3~

 フィリピンは多民族国家だが、9400万人の人口の8割はキリスト教徒という。それは、16世紀から始まるスペインの植民地化や、20世紀に入ってからのアメリカの支配による欧米化でキリスト教化されていったからだ。イフガオ族は歴史的にこうしたキリスト教化、地元でよくいわれる「クリスチャニティ(Christianity)」とは距離を置いてきた。それはルソン島中央を走るコルディレラ山脈の中央に位置し、宣教もしにくかったということもあるが、拒んできたからだとも言われている。なぜか。

         棚田保全をどのように進めたらよいのか、現地で考える

 いまでもイフガオ族には一神教には違和感を持つ人が多いといわれる。コメに木に神が宿る「八百万の神」を信じるイフガオ族にとって、一神教は受け入れ難い。一方で、それゆえに少数民族が住む小中学校では、欧米の思想をベースとした文明化の教育、「エデュケーション(Education)」が徹底されてきた。今回の訪問では、14日に現地イフガオ州立大学で世界農業遺産(GIAHS)をテーマにしたフォラーム「世界農業遺産GIAHSとフィリピン・イフガオ棚田:現状・課題・発展性」(金沢大学、フィリピン大学、イフガオ州立大学主催)を開催したが、発表者からはこのクリスチャニティとエデュケーションの言葉が多く出てきた。どんな場面で出てくるのかというと、「イフガオの若い人たちが棚田の農業に従事したがらず、耕作放棄が増えるのは特にエデュケーション、そしてクリスチャニティに起因するのではないか」と。

 世界遺産としての棚田景観が後継者不足による棚田放棄、転作による景観維持への影響があるとし、2001年には「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に登録されている。そこまでなる耕作放棄の問題は深刻なのだ。もちろん、日本の地方の田畑も同様である。同じイフガオの棚田が展開するキアンガン市の村で農業青年と言葉を交わした。伝統的な農法は一期作だが、品種改良の稲で二期作化も進んでいる。しかし、稲作では食べるので精一杯、「No hope」と言った青年もいた。現実的な話ではある。確かに耕運機が入らず機械化されにくい棚田での労働はきついだろう。ところが、棚田を見学にやってくる観光客を乗せるトライサイクル(3輪車)は1時間30ペソである。この30ペソは現在のルート換算(1ペソ=1.75円)として50円余りだ。小売で精米1㌔の値段では35ペソなので、若者にとってトライサイクルは稲作より魅力的なのだろう。バナウエにしても、青年たちは農業から観光業(土産物販売、リライサイクルによる観光案内、宿泊業、木彫りなど土産物製造など)に従事する人たちが増えている。

 ここで考えなければならないのは、観光業に収入に依存をすればすれほど、今度は担い手がいなくなり耕作放棄で棚田が荒れ、その結果として観光地としての魅力が薄れる。そうすれば観光客そのものが減少するという、まるでデフレスパイラルの現象に陥ることは目に見えている。フォーラムでは、さまざまな提言や研究があった。

 農村のツーリズムを研究しているカゼム・バファダリ氏(FAO特任研究員、立命館アジア太平洋大学講師)は農家が潤う観光に転換をと提言した。「イフガオの農家も農業だけでは生活できない現状がある。しかし、素晴らしい環境で景色もいい、世界的に有名なので、このキャパシィーを農家が潤うツーリズムとして再構築すれば、農家の人も元気になる。日本の能登半島では、農家がホストとなる農家民宿の取り組みがある。イフガオの棚田ではこの農家民宿が見当たらない。地元の主導する観光、CBT(Community Based Tourism)として、これからの可能性は十分ありる。イフガオバージョンの観光プランを提案してみたい。イフガオのライステラスのモデルは可能ではないか」。イフガオでは従来型の観光にとどまっているので、体験や農家で宿泊するノウハウを取り入れてはどうかとの提案だった。

 佐渡市から参加した高野宏一郎市長は棚田保全について提言した。「今回のイフガオ訪問では、erosionと言いますか、大事な遺産が耕作放棄などで傷んでいるのを見て少し心が痛みました。しかし、きょうのフォーラムでは地域の研究者や行政の方々の熱気のあるparticipantというか、守ろうとする意欲に、これは大丈夫だなという自信が持てました。イフガオの棚田再生に必要なのは、どのようにコストを循環型にするか、つまりイフガオの田んぼの価値を認めてもらう世界中の人にお金を出してもらいながら保全していく方法です。たとえばプレミアム米を販売し、その売上の一部を棚田の保全のために使うという方法は佐渡でも行っている。そのノウハウならばわれわれも協力できます」と。

 イフガオと佐渡、能登の共通の問題をそれぞれに理解し合えたフォーラムだった。いくつか具体的な提案もあった。交流のスタートに立てたと思いがした。

※(写真・上)バナウエでは耕作放棄された土地の一部で宅地化が進んでいる、(写真・下)土産物で売られているキリストの12使徒の最期の晩餐の木彫。イフガオでもクリスチャニティは徐々に進んでいる

⇒21日(土)夜・金沢の天気   くもり

★IRTイフガオ考~2~

★IRTイフガオ考~2~

バナウエはルソン島中央を走るコルディレラ山脈の中央に位置するイフガオ族の村だ。2000年前に造られたとされる棚田は「天国への階段」とも呼ばれ、イフガオ族が神への捧げものとして造ったとの神話があるという。村々の様子はまるで、私が物心ついた、50年前の奥能登の農村の光景である。男の子は青ばなを垂らして鬼ごっこに興じている。女子はたらいと板で洗濯をしている。赤ん坊をおんぶしながら。車が通ると車道に木の枝を置き、タイヤが踏むバキッという音を楽しんいる子がいる。家はどこも掘っ建て小屋のようで、中にはおらくそ3世代の大家族が暮らしている。ニワトリは放し飼いでエサをついばんでいる。器用にガケに登るニワトリもいる。七面鳥も放し飼い、ヤギも。家族の様子、動物たちの様子は冒頭に述べた「昭和30年代の明るい農村」なのだ。イフガオの今の光景である。

           世界遺産であり、危機遺産でもあり

 つぶさにその様子を観察していると一つだけ気になることがあった。人と犬の関係が離れている。子供の後をついてきたり、子供が犬を抱きかかえたり、「人の友は犬」という光景ではないのだ。今回の訪問に同行してくれた、イフガオの農村を研究しているA氏にそのことを尋ねると、こともなげに「イフガオでは犬も家畜なんですよ。それが理由ですかね…」と答えた。人という友を失ったせいか、その運命を悟っているのか、犬たちに元気がない、そしてどれも痩せている。気のせいか。

 世界遺産の登録(1995年)、世界農業遺産(GIAHS)の認定(2005年)でイフガオの棚田でもっとも観光客が訪れるバナウエ市。13日、ジェリー・ダリボグ市長を表敬に訪れた。訪れたのは、同日オフガオ視察と交流に合流した同じ世界農業遺産の佐渡市の高野宏一郎市長、それに金沢大学の中村浩二教授、石川県の関係者、国連食糧農業(本部・ローマ)のGIAHS担当スタッフだ。バナウエは人口2万余りの農村。平野がほとんどない山地なので、田ぼはすべて棚田だ。バナウエだけでその面積は1155㌶(水稲と陸稲の合計)に及ぶ。市長によると、残念ながらその棚田は徐々に減る傾向にある。耕作放棄は332㌶もある。さらに驚くことに専業の農家270軒だという。マニラなどの大都市に出稼ぎに出ているオーナー(地主)も多い。耕作放棄された棚田を農家が借り受ける場合、最初の2年間は収穫の100%は耕作者側に、以降は耕作者とオーナーがそれぞれ50%を取り分とするルールがある。市長は「棚田の労働はきつい上に、水管理や上流の森林管理など大変なんだ」と話す。農業人口の減少、耕作放棄など、平地が少ない能登とイフガオで同じ現象が起きていると感じた。

 バナウエの棚田を見渡すと奇妙な光景もある。棚田のど真ん中にぽつりと一軒家が立っていたり、振興住宅のように数十軒が軒を並べたり、棚田が一部に宅地化して、世界遺産や世界農業遺産の景観と不釣り合いなのだ。A氏に聞くと、ここ10年余りで棚田に造成されたものだという。実は人口自体は増える傾向にある。観光業者を営む人々が増えているのだ。統計によると、2001年にイフガオを訪れた観光客は5万3000人、2010年では10万3000人と倍増した。国内の観光客は一定して5万人ほどと変わらないが、2004年ごろから外国人客が急増し、2008年からは国内客を上回るようになった。バナウエでは沿道に土産物店が軒を連ねる。バイクの横に1人乗りの籠(かご)をくつけた、「トライサイクル」と呼ばれる3輪車が数多く走り回っている。ジープニーと呼ばれる派手なデザインの小型バスも。イフガオではトライサイクルの料金は1時間30ペソ(マニラは60ペソ)だ。精米されたコメが1㌔おおよそ35ペソで市販される。コメをつくりより、トライサイクルを走らせた方が稼げると考える若者が増えている。

 こうした兆候は1995年に世界遺産に登録されたころからすでに出始めており、2001年には世界遺産としての棚田景観が後継者不足による棚田放棄、転作による景観維持への影響があるとし、「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に登録されている。

⇒13日(金)夜・バナウエの天気  くもり

☆IRTイフガオ考~1~

☆IRTイフガオ考~1~

 昨夜(11日)フィリピンのマニラに入った。金沢から直線距離にしてざっと300㌔だ。成田からマニラへは1時間30分遅れ、入国管理のチェックに長蛇の列、荷物の渡し場ではベルトコンベアーが故障、、チャーターしていたタクシーが見当たらずさらに遅れた。結局マニラ市内のホテルに到着したのは真夜中の3時10分ごろ(現地時間2時10分ごろ)。同行してくれたフィリピン出身の研究生が「これがマニラよ。マニラ」と。夜中のマニラは少々ものものしかった。コンビニの「セブン・イレブン」はガードマンがどの店にも常駐していた。信号待ちで車が停まると、少女が手作りのネックスレのよなものを売りに来た。初めてのフィリピン、初日からカルチャーショックを受けた。それにしても、フィリピンは新旧、貧富がはっきりと浮かび上がる都市だ=写真=。

           マニラからイフガオへの道

 12日午前、日本の大手総合商社のマニラ支店長にフィリピンの現地情報について話をうかがう機会に恵まれた。マニラ首都圏(メトロマニラ)の人口は1800万人、第二はメトロ・セブで230万、ダバオ130万人である。一極集中の度合でいえば、東京よりマニラの圧倒的だ。ただ産業では、総合プランドといえるものはなく、OFW(Oversea Filipino Worker)と呼ばれる海外出稼ぎによる送金収入がGNPの10%にもなる。したがって全体に貧しい国であり、たとえば新車購入台数は人口9500万人のフィリピンは15万台、2700万人のマレーシア60万台に比べれば一目瞭然となる。マニラ市内を走る乗用車のほとんどは日本メーカーのものだが、多くは中古車ということになる。中古車だけではない。かつて、上野-金沢間を走っていた寝台特急「北陸」がフィリピンでは「リコール・エクスプレス」と称され、マニラ駅とナガ駅間378㌔を1日1往復走っているという。日本を走っていた時と同じ青い塗装のままで。支店長の話は機知に富んで刺激的でもあった。

 さて、フィリピンに来た目的はマニラではない。さらにマニラから車で8時間かけて移動する。その理由は。能登の里山里海(農山漁村)が国連食糧農業機関の世界農業遺産(GIAHS)に認定された(昨年6月)。半島の立地を生かした農林漁業の技術や文化、景観が総合的に評価されたものだ。これを受けて、昨年より石川県の地域連携促進事業の一つとして、「世界農業遺産GIAHS『能登の里山里海』実施支援」プログラム(代表・中村浩二教授・学長補佐)を実施している。つまり、大学としてもいろいろとできることはやりましょう(社会貢献)との意味合いだ。今回のマニラ訪問は事業の柱の一つである世界農業遺産の他地域(サイト)との交流をはかろうとの狙い。マニラはその一歩。ルソン島北部のイフガオの棚田に行く。1995年にユネスコの世界遺産にも登録されているイフガオの棚田は世界農業遺産の代表的なサイトだ。そこの関係者とネットワークをつくりたいとの計画している。ちなみにIRTはIfugao Rice Terracesの現地略称だ。

 あす13日から14日で、イフガオの棚田で視察とフォーラムを開催する。現地の自然保護協会の関係者やフィリピン大学、イフガオ州立大学などの研究者との交流を通じて、能登サイトとのネットワークづくりの道筋をつける。今回の現地交流(イフガオ棚田視察とフォーラム)では、同じ世界農業遺産の佐渡サイトから高野宏一郎市長、そしてローマに本部がある国連食糧農業機関(FAO)のスタッフも参加することになっている。イフガオ、佐渡、能登の3サイトが集まり相互理解を深め、今後の協力体制を話し合う。ささやかながら能登の明日に向けた新たな取り組みになればと、マニラに来て、能登を想う。

⇒12日(木)午後・マニラの天気  はれ

★内陸地震、秀吉の時代と今

★内陸地震、秀吉の時代と今

 怖い本を読んでしまった、率直な読後感である。『秀吉を襲った大地震~地震考古学で戦国史を読む』(寒川旭著、平凡社新書)。著者は地震考古学という新しい研究分野を拓いた人である。だから過去の被災地をどんどんと遡り研究を掘り進める。そこから、「私たちは、秀吉の時代と同じような『内陸地震の時代』を生きており、その背後には、海底のプレート境界からの巨大地震が迫っている」と導き、本書に記した。発行日は2010年1月。翌年3月11日に東日本大震災が起きた。地震は過去のトピック的な出来事ではなく連続するものだと実感せざるを得ない。

 羽柴秀吉の時代の地震が中心に書かれている。秀吉は2度、度胆を抜かれる地震を経験している。1度目は1586年1月18日、中部地方から近畿東部が激しく揺れた天正地震。越中の佐々成政を攻めて、大阪城への帰路、琵琶湖南西岸の坂本城にいた。揺れは4日間も続き、その後、秀吉は馬を乗り継いで大阪に逃げるようにして帰った。この坂本城はもともと明智光秀が築いた城だった。光秀は、本能寺の変を起こし、秀吉に敗れて近江に逃れる途中で殺された(1582年7月)。著者も「明智光秀ゆかりの城にいて、大地の怒りに触れた瞬間、どのような思いが胸をよぎっただろうか」と書いているように、秀吉には因縁めいて居心地が悪くなったに違いない。この地震では、岐阜県白川郷にあったとされる帰雲城(かえりくもじょう)が山崩れで埋まり、城主の内ヶ島氏理ら一族が一瞬にして絶えた。

 秀吉が2度目に大震災に遭ったのは10年後の1596年9月5日。太閤となった秀吉は中国・明からの使節を迎えるため豪華絢爛に伏見城を改装・修築し準備をしていた。その伏見城の天守閣が揺れで落ち、城も崩れた。それほど激しい地震だった。秀吉は無事だったが、その崩れた伏見城に駆け参じたのが加藤清正だった。当時清正は、石田三成と諍(いさか)いを起こし、秀吉の勘気を受け伏見城下の屋敷に謹慎中だったが、数百人の足軽をともなって駆けつけた忠誠心が秀吉を感動させ、その後謹慎処分が解かれた。このエピソードが明治に入り歌舞伎「地震加藤」として広まった。ほかにも、伏見地震にまつわる秀吉の伝説がある。誰かが混乱に紛れて刺殺に来るのではないかと、秀吉は女装束で城内の一郭に隠れていたとか、建立間もない方広寺の大仏殿は無事だったが、本尊の大仏が大破したことに、秀吉は「国家安泰のために建てたのに、自分の身さえ守れぬのならば衆生済度はならず」と怒りを大仏にぶつけ、解体してしまったという話まで。災難を通して秀吉という天下人の人格が浮かび上がる。

 問題は、この伏見地震の4日前には愛媛県を震源とする伊予地震が、また前日には大分・別府湾口付近を震源とする豊後地震が発生しており、活断層が連鎖した誘発地震だったということだ。日本列島は起伏に富んで風光明美、気候も温暖だが、この島は地震によって形成された島々でもある。したがって、「私たちは、大地の激しい揺れから逃れることはできない」と筆者は強調する。秀吉の時代と違っているのは、現代のわれわれは文明の産物に囲まれていることだ。高層ビルや高速道路、電柱や電車、自動車、そして原子力発電所まで、その文明の産物が凶器なりかねないのだ。「私たちの国土を破滅に向かわせてはならない」。筆者のメッセージは重い。

⇒3日(火)朝・金沢の天気   くもり

☆元旦オムニバス

☆元旦オムニバス

 <特別手配の容疑者が出頭、なぜだ>
 元旦未明からメディアは騒がしかった。オウム真理教の特別手配容疑者・平田信容疑者が、大晦日に警視庁丸の内警察署に出頭し逮捕されたというニュースだ。能登半島の先端の小さなバス停の待合所にも特別手配というチラシが貼ってあり、平田容疑者は「有名人」だ。17年も逃亡していて、いまさらなぜ出頭かとの憶測があれこれと。あるメディアは、捜査員への受け答えでは教祖だった松本智津夫死刑囚に今も帰依しているような様子はないといい、別のメディアは、年明けにも執行されるかもしれない教祖の死刑を遅れせるために平田容疑者が出頭したのではないかとの説を立てている。所持金(3万円)があり、身なりもそれなりで疲れた様子もないので、逃亡をサポートする組織が背後にあり、計画的な出頭ではないのかとの推測だ。関与したとされる国松孝次元警察庁長官銃撃事件(1995年)などの全容解明が待たれる。狙撃したのは誰だ。

 <初もうで、辰年は浮くか沈むか> 
 元旦の朝は、金沢・兼六園にある金沢神社に初もうでに家族と出かけた。時折晴れ間ものぞく小春日和だった。列につくのだが、近年の傾向だとそれほど列は長くはない。金沢神社は菅原道真を祀っていて、受験生とその家族が多いのだが、かつてほどの熱気が感じられない。天気がよいにもかかわらず、列の長さがさほどではないということは、受験に縁起を担ぐ時代はもう終わったのかも知れない。列についていると、家族がふと、「この灯篭の彫り物は竜だね=写真=、ことしのエトだから一枚写真を撮っておこう」と。その言葉でことしは辰(たつ)年かと初めて気が付いた。辰年は上昇の年とされるがどんな年になるのだろう。12年前の平成12年(2000)は、三宅島が噴火し、ITバブルが崩壊した年、その前の昭和63年(1988)はバブル経済の真っ盛りで東証株価3万円、そして政界の金にまつわるスキャンダルのリクルート事件が発覚した年だった。辰年は、こうしてみると浮くか沈むかの明暗がはっきりする年。ことしはどちらだ。ひょっとして大底か。

 <おせちのフードマイレージを考える>
 元旦におせち料理にありつけるのは幸せなこと。ホテルからの取り寄せで3段重ね、奮発した甲斐があった。和、洋、中華と3種の料理が詰まっている。メニューを見ると、それにしても食材の多いこと、全部で41種もある。レンコンなど野菜類から、ナマコ、カニ、アワビの魚介類、合鴨、牛など肉類などいろいろ。これらの食材は世界からかき集められたものではないのか。おそらくスモークサーモンはフィンランドから、アワビはオーストラリア(タスマニア島)から、ニシンはロシア、オマールエビはカナダからと、その原産地を推測してみる。フードマイレージ(食料の輸送距離)を考えると、輸送過程でどれだけの二酸化炭素が排出されたことか。そう考えるなら買わなければよい、それは自己矛盾ではないのかと言い聞かせる。そこで思いついた。「地元食材100%加賀おせち料理、限定300個」という商品はないのだろうか。

 <元旦ゴールデン番組での違和感>
 元旦のテレビ番組のゴールデン帯はいつもの正月ゴールデンだった。派手で騒がしい。このような番組を東北の被災地の人達はどのような思いで視聴しているだろうかとつい思ってしまった。円盤型のピザ生地を投げて向かいのアパートの電子レンジに入れるという番組があった。何度も失敗する。食べ物を投げてどこが楽しいのかと違和感を感じてチャンネルを変えた。チャレンジする番組はよい。ただ、そのコンセプト、たとえば食べ物を粗末にする表現内容ではないのかとの視聴者感情よりも、奇抜な演出の表現方法を優先していて、どこか発想が拙い。制作現場でそのような意見のやり取りはなかったのだろうか、不思議に思えた。

 <ウィーン・新年コンサートの臨場感>
 結局、チャンネルが落ち着いたのは、NHK教育(Eテレ)だった。番組は「ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート2012」。毎年生中継で世界に配信されている。指揮はマリス・ヤンソンス。ヨハン・シュトラウスの「祖国行進曲」から入り、会場がひと際沸いたのはウイーン少年合唱団が合唱した「トリッチ・トラッチ・ポルカ」ではなかったか。ウィーン少年合唱団がニューイヤーコンサートに登場するのは1998年以来14年ぶりとの解説があった。その少年たちの歌声を引き立てるように配慮されたオーケストラの演奏に会場が大きな拍手をおくったのだと思う。これまで何度かニューイヤーコンサートを視聴したことがあるが、生中継したオーストリア放送協会(ORF)の制作技術はさすがだった。天井からのカメラワークや、ハイビジョン撮影でステージの指揮者や演奏者の息づかいだけでなく、観客席の聴衆の服装や呼吸までもが伝わってきた。これが臨場感を高める。そういえば、和服姿の女性ほか日本人らしき姿が目立つ会場だった。ニューイヤーコンサートはあまたあるコンサートの中でも最もプレミアが付く演奏会の一つだろう、そこへ出かける日本人とは・・・と考えているうちにウトウトとしてしまった。

⇒1日(日)夜・金沢の天気  くもり

★2011ミサ・ソレニムス-7

★2011ミサ・ソレニムス-7

 きょう30日の東京株式市場は、日経平均株価の終値が前日より56円46銭(0.67%)高い8455円35銭だった。1年最後の取引日の終値としては、1982年の8016円67銭以来、29年ぶりの安値を記録した。1982年の出来事を調べると、三越・岡田茂社長が取締役会で解任され、「なぜだ!」という言葉が話題となった。その後、背任で愛人とともに逮捕(三越事件)された。東京・赤坂のホテルニュージャパンで火災が発生し33人が死亡。あみんの歌「待つわ」がヒットし、タモリの「笑っていいとも!」がスタートした年だった。福沢諭吉の肖像画の1万円札が発行された年でもある。この年、日本の経済は、世界の同時不況とアメリカの高金利で、これまでの輸出主導型の経済が制約され、国内需要がなんとか経済の成長を支えていた。景気の谷だった。その4年後から、日本の株と土地の異常な値上がりで1991年までバブル景気に日本人は踊ることになる。

           悲報に慣れるな、ニュースに流されるな、希望をつなごう

 その年から29年たった2011年は、東日本大震災による被災や外国為替市場での歴史的な円高水準の定着、世界的な景気後退など、日本の経済を圧迫する不安材料がいくつも重なった。当然、投資家の心理も冷え込み、株価を押し下げた。欧州の財政危機の長期化懸念も広がっている。

 先月(11月)15日、担当するジャーナリズム論で、北陸銀行の高木繁雄頭取に講義をいただいた。題して「私の新聞の読み方」。その中で印象に残るシーンがあった。経済学者アダム・スミスの『道徳感情論』(1759年、グラスゴー大学の講義録)を引き合いに出して、一文(日本語訳文)を頭取が読み上げたのだった。

 「いま中国の大帝国が地震のために、その無数の住民とともに陥没したと仮定せよ。そして、かかる地球の一角になんら関係のないヨーロッパの人道の士が、この恐るべき災害の報に接してどのように感ずるかを考察してみよう。ひそかに思うに、彼はまずこの不幸な人々の災難にたいして強い哀悼の情をあらわし、人間生活の無常なることや、瞬間にして潰滅しさる人の営みの虚しきことについて、幾多の憂鬱な想いにふけるであろう。また彼が投機的な人間であるなら、おそらくこの災害がヨーロッパの商業、ひいては世界の商取引一般に及ぼす影響について多くの推察を試みるであろう。さて、すべてこうした哲学がひと段落を告げ、こうした人道的感情がひとたび麗しくも語られてしまうと、あたかもこんな出来事がぜんぜん突発しなかったかのごとく、以前と同様の気楽さで、人々は自分自身の仕事なり娯楽なりを続け、休息し、気晴らしをやる。彼自身に関して起こる最もささいな災禍のほうがはるかに彼の心を乱すものとなるのである。もしもあした、彼の小指を切り落とさなければならないとするなら、彼はたぶん、今宵は寝もやられぬであろう」

 この一文に耳を傾け、「中国の大帝国」を「日本」に置き換えれば現代でも通用する、実に分かりやすいたとえとなる。人類というのは災害など悲報に接し、哀悼し自らのこととして麗しく道徳的な感情になる。ただ、それはいったん語り終えられると、その道徳的な感情は長続きはしない。私の身の回りでも、2007年3月に能登半島地震があり多くの家屋が倒壊し海外ニュースにもなった。ただ、今はそのことすら思い出せない人々が多い。高木頭取が言いたかったのは、ニュースに流されるなということなのだ。「報道されなくなったからと言って、危機が去ったわけではない。より大きなニュースや事件があれば、結果として報道は偏ってしまう」と。道徳的な感情は流されやすい。だから、自らで手でニュースを探究せよと学生たちに呼びかけたのだ。

 我々日本人は悲報に慣れきっているのではないか。これが当たり前だ、と。経済が29年前と同じ水準に戻っても、仕方ないとあきらめるのか。悲報に接してもあすを、来年を良い日、良い年にしようというモチベ-ションを持たねばはあすが続かない。シリーズ「2011ミサ・ソレニムス」をこれで終える。

⇒30日(木)夜・金沢の天気  くもり