#コラム

☆金1個の放映権料

☆金1個の放映権料

 ロンドンオリンピックで日本のサッカーが男女ともベスト4入りしたとき、「もしやダブル金か」などと期待が盛り上がったものだ。しかし、男子サッカーが準決勝でメキシコに敗れ、さらに3位決定戦でも韓国に負けを喫した。そして、「金が目標」の女子は国民からの期待を背負ってのオリンピック決勝戦。アメリカとの戦いは、大人のゲームを見たという思いだった。結果は残念だったが、深夜のウエンブリー・スタジアムの鮮やかな緑で演じたアスリートたちの堂々した姿には感動した。

 ところで、11日現在の日本の今大会でのメダルの獲得数は36個となり、これまで過去最多だった2004年のアテネ大会と並んだという。確かにメダル数は多いのかもしれないが、金は5個だ。人口が日本の半分以下の4800万人の韓国は金12である。日本より人口が少ないドイツ、フランスでも2ケタの金メダルを獲得している。アテネ大会では日本の金は16個、2008年の北京大会でも9個だった。1992年のバルセロナ大会と1996年のアトランタ大会の金3個に比べればましかもしれないが。それしても夜中、テレビを見て応援する割には今大会の金が獲得数が少ない。応援の労が報われていない感じがするのは私だけだろうか。

 ここで思い出す。2009年11月、民主党政権下に内閣府が設置した事業仕分け(行政刷新会議)で蓮舫議員が、次世代スーパーコンピューター開発の要求予算の妥当性について説明を求めた発言。「(コンピューターが)世界一になる理由は何があるんでしょうか。2位じゃダメなんでしょうか」だ。この発言に、科学者の利根川進氏は「1位を目指さなければ2位、3位にもなれない」と批判意見が相次いだものだ。これまで科学者やスポーツ選手では当たり前と思われてきた世界一(金メダル、ノーベル賞)への道だが、政治家にはこの目標がない、正確に言えば「政治の世界ナンバー1」という尺度がないのだ。その政治家が「世界一になる理由は何があるんでしょうか」などと言う資格は本来ないだろう。ひょっとして政治家の多くは「オリンピックは参加することに意義がある」と今でも思っているかもしれない。

 それにしても高くついた。金メダルを見るテレビ映像料がである。IOC国際オリンピック委員会に支払ったテレビ放映権料は日本コンソーシアム(NHKと民放)が3億5480万㌦(※バンクーバー冬季大会も含む一括金額)、アメリカ(NBCテレビ1社)20億㌦(同)である。これを国民一人当たりにすると日本が2.9㌦、アメリカ6.6㌦となる。しかし、金メダル1個当たりで計算すると、5個の日本は1個当たり7000万㌦、金41個のアメリカは1個当たり4800万㌦となる。日本は金メダル1個獲得のシーンをテレビで視聴するのにアメリカより多く払ったことになる…。2016年はリオデジャネイロ大会となるが、果たして日本コンソーシアムはこれだけの高額放映権料を次回も払えることができるだろうか。

⇒11日(土)夜・金沢の天気  はれ
 

★「無料のランチ」

★「無料のランチ」

 経済理論の講義などでよく使われる「無料のランチなどない」の格言は、今に生きる日本、欧米諸国にとって身に染みる言葉になった。産業革命が始まって150年間、化石燃料をエネルギーとして使い続け、それによって産み出されるサービスや商品に満たされる消費文明を謳歌してきた。しかし、われわれが何か便益を得れば、そのコストは必ず誰かが負担することになる。タダの飯はない。どこかでツケ(勘定書)が回ってくる。しかし、アメリカは地球温暖化ガス排出権に絡む京都議定書に参加しなかったように、これまで極力、その負担を避けようとしてきた歴史がある。『世界を騙しつづける科学者たち』(楽工社、ナオミ・オレスケスほか著)は、酸性雨、二次喫煙、オゾンホール、地球温暖化などの環境問題を事例に、これら環境保護論に関する科学者たちの研究に、「地球を束縛するものだ」と毛嫌いする一部の科学者たちがそのつど疑問を投げかけ政府の対応を遅らせてきた「科学史」を分かりやすく紹介している。アメリカ政府が国連の生物多様性条約を批准していないこともその延長線上にあるのではないかと思えてきた。

 原題(『Merchants of Doubt』)の直訳は「疑念の商人たち」。信頼に値する全米科学アカデミー総裁を務めた人やアメリカ合衆国政府の科学顧問らの実名を挙げて、環境保護に関する研究をことごとく批判してきた経緯を列挙している。それらの肩書を持つ科学者の語りや論評、書評、著作だったら、取材するジャーナリスト、あるいは彼らが書く『ウオールストリート・ジャーナル』『ニューヨーク・タイムズ』での掲載記事は読者は信頼するだろう。ところが、肩書きを持った科学者たちの論は一見して健全な科学批判に見えるが、タバコ産業などの企業と組んで環境保護に関する研究に疑念を売り込み、政府の対応を遅らせてきた。だから「疑念の商人たち」なのである。

 アメリカらしいのは、「疑念の商人たち」の多くはソ連との冷戦時代にSDI(アメリカの戦略防衛構想、別名「スター・ウォーズ計画」)を推し進めた物理学者たちだった。冷戦崩壊後は、資本主義の「総本山」アメリカを揺るがすと彼らが警戒する新たな敵が、環境保護論を研究ベースで進める研究者たちだった。「疑念の商人たち」は環境保護論の研究者を「スイカ」と称する。外側はグリーンだが、内側はレッドだ、と。環境保護の政策化は市場規制であり、さらにその先にあるのは共産主義的なイデオロギーだ、というのだ。

 この本を読んで驚いたことに、『沈黙の春』の作者レイチェル・カーソンがいま「レイチェルは間違っていた」「殺虫剤DDTの禁止はヒトラー以上に多くの人を殺した」とネットで攻撃されたいるということだ。著書が発刊され、3代の大統領がこの問題を慎重に審議し、10年後の1972年にニクソン大統領がDDT使用を禁止したにもかかわらず、である。その論拠は、何百万人ものアフリカ人がその後、マラリアで死んだというのだ。そのネットの発信元がくだんの「疑念の商人たち」関連の研究所だ。著者たちは丁寧に反論している。たとえば、世界保健機関(WTO)はマラリアの流行している国々で引き続き使うことや、アメリカ国内でも公衆衛生上の非常事態の場合は販売することができる、などDDTの使用は一切禁止という措置ではないのである。

 いくら肩書きがよくても「疑念の商人たち」の矛盾もある。共通するのは、批判している科学者たちの専門は、批判する分野ではなく、その道の「専門家」ではない。専門外からの批判は大切だが、現代科学は分野外の科学者が論評や意見をできるほど単純ではない。科学はピアレビューという科学者間の厳しい審査の積み重ねを得て担保される。かつての「SDI冷戦の戦士」である物理学者たちが、その肩書きによって医学や気候変動について科学的に批判できるかは疑わしい、と本著の結論で述べている。著者は「権威への妄信は真実の敵」という言葉を引用し、読者に訴えるとともに、批判にさらされた科学者たちの「冷笑主義も真実の敵だ」と述べている。アメリカの科学と政治の現実が見える。

 冒頭で述べたように、アメリカが国連生物多様性条約を批准していない。アメリカの製薬企業は遺伝子利用で最も利益を上げており、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10、名古屋市)ではオブザーバーとした参加しただけだった。途上国にある動植物の資源なしには新製品を開発できない。だから保護しなけらばならないのだが、条約に易々と加盟するば、国際規制で市場の自由主義が失われ、アメリカの利益も失われる、そう考えているのだろう。アメリカはいつまで「無料のランチ」をむさぼろうとしているのだろうか。いつの日かツケは払わされるものだ。

⇒7日(火)夜・金沢の天気  はれ

☆いきもの俳句

☆いきもの俳句

 俳句の同好会に入っている。時間が合わず、実際に参加するチャンスも少ないが、投句をしたり、なんとか名前だけは連ねている。私が俳句にするテーマは庭や田んぼの虫や草花、山の木々や鳥たちが多い。生き物たちは季節感を感じさせるので、自分で「いきもの俳句」と呼んでいる。そんな中からいくつかを紹介する。

⇒ 田の五輪 競泳一位は 源五郎 (2012年7月句会)
 ロンドンオリンピックが始まった。実にテレビがにぎやかだ。同じように夏は田んぼもカエルの鳴き声やホタルが舞ってにぎやかだ。田んぼや池の泳ぎの名手といえばゲンゴロウだろう。後脚をうまく動かして、泳ぎがうまく素早い。見ていて飽きない。田んぼのオリンピックでは競泳で金メダルだ。

⇒ 人気なき 児童公園 若葉冷え (2012年5月句会)
 少子化の時代、児童公園にはかつてのように子どもたちのにぎやかな声が響かない。もちろん場所によっては子どもたちが楽しく遊んでいる公園もある。子どもたちの姿が見えない公園は雑草が伸び放題になって、荒れているところが心なしか多いように思う。大人の管理の目が行き届いていないのだ。そんな公園には親は子どもたちも遊ばせないだろう。そんな人気のない公園は、若葉がまぶしい5月になってもどこか「寒く」感じる。

⇒ 蝌蚪(かと)を追う 靴下のオーナー 千枚田 (2012年4月句会)
 棚田のオ-ナー制度で知られる輪島の千枚田。水を張った水田にさっそく都会から来た親子が田んぼに入っていた。よく見ると、一組の母と男の子は初めて田に入ったのか、靴下をはいている。その足元には蝌蚪(かと=おたまじゃくし)がうようよといる。男の子は田んぼを動き回るうちにじゃまになったのか靴下を脱いで、気持ちよさそうに田んぼではしゃいでいた。

⇒ 開花日は 桜一輪 兼六園 (2012年4月句会)
 ことしの春は4月に入っても雪の降る日があり、兼六園の桜(ソメイヨシノ)の蕾(つぼみ)は硬かった。金沢地方気象台が開花宣言したのは4月10日のこと平年より6日、昨年より3日それぞれ遅い開花となった。その日、兼六園を訪ねたが数輪が咲いているだけ。でも、ようやく春の訪れが目に見えてきた。

⇒ 蔵人の 麹揉む手や 庭の梅 (2012年1月句会)
 造り酒屋を訪ねる。ムッとする麹室(こうじむろ)の室温は43度を指していた。酒蔵の職人たち=蔵人(くらんど)が、蒸し米を揉み床でほぐし、種麹が入った缶を持った 手を高く上げて、揉み床に沿って移動しながら缶を振り、麹の胞子(種)をまいていく。さらに蒸し米に胞子が均一に付着するように揉み込む。根気の入る仕事だ。麹室から出て、庭を見ると紅梅が咲き始めていて、麹を揉む蔵人のほてった赤い手と同じ色だと思った。

⇒30日(月)夜・金沢の天気  はれ

★小学生のマスメディア論

★小学生のマスメディア論

 夏休みの子ども向けの講演を大学で依頼され、「それでは小学生のためのマスメディア論でも話しましょうか」と気軽に引き受けたのが悩みのタネになった。これまで中学3年生の総合学習の時間にはマスメディア論について講義したことが何度かある。今回は対象年齢がさらに下がり小学生高学年(5,6年)なので、11歳から12歳、ということは自分の年と45年以上も年齢差がある。この子たちに、まず言葉が通じるだろうか、スライドの漢字はどこまで読めるだろうか、テレビや新聞のことを話してレスポンス(反応)はあるのだろうか、何をどう話し、話のつかみをどうしようかなどと考えると、眠れない日も。小学生に語ることの難しさをかみしめながらその日を迎えた。きょう28日午後2時、「小学生のためのマスメディア論」を金沢大学サテライト・プラザで。その顛末を記す。

 上記の悩ましさを同僚に話すと、「普通にやればいいのでは」と言われた。でも、その小学生の普通が理解できないから悩むのだ。もともとサービス精神が私にはあるのだろう。大学生の講義でも、もっと分かりやすく、面白い授業になどと考え、時間をかけてスライドをつい凝ったものにしてしまう性分である。普通の授業でもそうだが、「つかみ」が大切である。相手の気持ちを引きつけるための話題こと。このつかみがうまくいくと授業全体がふわっと離陸して、上昇気流に乗ることができる。つかみのキーワードは簡単な話、「けさテレビで○○を見たか」である。つまり、話の鮮度だ。幸い、きょうはロンドンオリンピックの開会式の模様が早朝からテレビで放送していた。これを使わない手はない。「いよいよ始まったね、オリンピック、朝の開会式、テレビでやってたね。テレビ見た人、手を揚げて」から講演を始めた。つかみの話の落ちは、オリンピックをテレビで放送するためにテレビ局はお金(放映権料)を国ごとに払っている、日本人は1人当たり2.9ドル(226円)、「だらか一生懸命に応援しよう」である。前列の男の子の目が輝いたので、こちらも話に弾みがついた。

 マスメディア(Mass Media)とは何か。「ニュースや情報として多くの人に届く電波や印刷物のこと」と言いたいのだが、どう表現すればよいか。テレビとラジオは「電波メディア」、新聞や雑誌は「活字メディア」と言われている。最近ではインターネットもマスメディアの仲間入りをしていて、ツイッターやフェイスブックなどは「ソーシャルメディア」などと呼ばれている。電波メディアの「電波」の意味を小学生は理解し難い。そこで東京スカイツリーの写真をスライドで見せて、「目には見えないけど、ここからテレビの電波が出ている。それを家庭のアンテナで受けてテレビを見ることができる。スカイツリーって、テレビの電波を発射するタワーなんだ」(現在スカイツリーから試験電波、2013年1月本放送)と。では、なぜ東京タワー(333㍍)からスカイツリー(634㍍)なのか。「東京は100㍍以上の高さのビルが500近く建っている。これによって、電波障害が起きやすい。だから、東京タワーより高いタワーからの電波だと家庭に届きやすい」

 「ニュースは知識のワクチン」という言葉がある。悪性のインフルエンザなどが流行する恐れがある場合、予防接種でワクチンを打っておけば、免疫がついて病気にかからない。それと同じように、まちがった情報やうわさにまどわされないために、普段から新聞やテレビのニュースを読んだり見たりすることで、まちがえのない判断ができるようになる。「知識のワクチン」ニュースをつくるために新聞やテレビや記者は事件や事故の現場に行き、状況を確かめる。さらに、目撃者や警察の人から話を聞く。これは正確なニュースを伝えるための基本だ。逆に、記者としてしてはいけないことは、現場に行かずに人のうわさでニュースをつくる、目撃者や警察に確かめずにニュースをつくることだ。マスメディアの業界用語では「裏取りのないニュース」と言う。

 ここで記者はどのようにニュース原稿を書くのか。原稿には「5W1H」の基本がある。when(いつ)、where(どこで)、who(だれが)、what(何を)、which(どれを)、how(どのように)というニュースの基本的な構成、つまり部品を集めることだ。原稿を書くときのコツは、形容詞を使わないこと。普段よく、「高いビル」「美しい花」「長い道」「深い海」などと言ったり書いたりしている。しかし、形容詞は読む人、見る人によって感じ方が異なる。 そのため、記事は多くの人にわかるように、なるべく客観的に数値などをもちいて表現する。たとえば、「7階建て高さ20㍍のビル」や「赤と白の花を咲かせたチューリップ」「300㌔も続く道」「水深100㍍の海」と表現した方が分かりやすい。

 原稿を書くために決まりがある。『記者ハンドブック』(共同通信社)は一般の書店でも売られている。動物、植物、野菜などは新聞やテレビではカタナカ表記だ。でも一部、「松」「竹」「梅」「菜」「芋」「白菜」「大根」は漢字表記でもよい。ニンジンは「人参」の漢字表記を用いない。同じ紙面で、A記者とB記者がそれぞれ「ニンジン」、「人参」と書いたら、読者は「いったいどっちだ」と迷う。だから、表記を統一している。「高嶺の花」とは書かない、新聞では「高根の花」と書くことにしている。

 放送も同じく言葉を統一している。たとえば「きのう、きょう、あす」と表現し、「きのう」を「昨日」と表現しない。小学生だと、女の子は「ちゃん」付け、男の子は「君」付け、中学生だと女子は「さん」付け、男子は変わらず「君」付け。最近、テレビ業界でもアナウンサーの言葉の乱れがよく指摘されていて、たとえば、感動したことを「○○選手の活躍には鳥肌が立ちましたね」などと表現している。本来は「恐い」「寒い」という意味で用いる。また、「なにげに」という言葉を使うアナウンサーがいる。これは若者言葉であって、意味がよく分からない。こういうあいまいな言葉は視聴者を混乱させ、テレビメディアを通じて言葉の乱れを助長することにもなる。

 「世界一有名になった壁新聞」の話。東日本大震災では、地震と津波で停電や家屋が壊れるなど被害が出て、人命も損なわれた。石巻日日(ひび)新聞は印刷機械が傷み、停電と重なって手書きで壁新聞をつくり、避難所に貼った。これは被災者のためにニュースを出し続けるという精神が評価されて、その壁新聞はアメリカ・ワシントンDCにある「ニュースの博物館」に展示されることになった。また、仙台市にある東日本放送は震度6強の揺れにもめげずに72時間も震災関連のニュースを出し続けた。マスメディアはより多くの人に、絶え間なくニュースを送り続けることで信頼を得ている。

 最後に考える話を。ケビン・カーターというカメラマンが、餓死寸前のスーダンの少女に、ハゲワシが襲いかかろうとする写真を撮影した。1993年、NYタイムズに掲載され、ピューリッツァー賞を受賞した。しかし、「写真撮影の前にこの少女を助けるべき」と非難が殺到した。一方でこの写真が撮影できたから、スーダンの飢餓が報じられ、世界から援助の手も差し伸べられるようになった。「ニュース(報道)か人命か」というメディアの姿勢を問う論争は常に起こる。小学生たちはこの「ハゲワシと少女」の写真を見て、どのような感想を抱いたのだろうか。

 「私はにげると思います。理由は撮ったら撮ったで、その子をなぜ助けなかったのかなどと言われて、撮らなかったら、その国の事情がみんなにわかってもらえないから、どちらとも言えないです」(小6・女子)、「カメラマンは写真をとることが仕事だし、じじつを知らせるために少女をたすけなくてもいいと思う」(小4・男子)、「写真を取る前に、その少女をたすけろ!という言葉で、その言葉を言った人は、人の命を大切にする人だと思いました」(小6・女子)、「ぼくはしゃしんをとればいいと思った。わけは、しゃしんをとることによって、ニュースが分かるから、みんなできょう力できるんじゃないかと思ったから」(小2・男子)、「私はカメラマンは写真をとって正しかったと思います。初め、その写真を見た時は少女がかわいどうでこわかったのですが、その写真によりスーダンの食料不足などが少しでもかいぜんされたので良かったと思います」(中2・女子)

⇒28日(土)夜・金沢の天気  はれ

☆佐渡ベクトル

☆佐渡ベクトル

 佐渡の金山跡=写真・上=に入った(16日)。当時の坑道の様子が手に取るように分かる。鉱脈に沿って掘り進んでいくと大量の地下水が噴出したので、掘り進むために水上輪(手動のポンプ)が導入されていた。紀元前3世紀にアルキメデスが考案したアルキメデス・ポンプを応用したもの。長さ9尺(2.7m)、上口径1尺(30.3㎝)、下口径1尺2寸(30.9㎝)位の円錐の木筒で、内部がらせん堅軸が装置されていて、上端についたクランクを回転させると、水が順々に汲み上げられて、上部の口から排出されるようになっていた。

 金山を中心に相川地区などは一大工業地となり、島の農業者は米だけに限らず換金作物や消費財の生産で安定した生活ができた。豊かになった農民は武士のたしなみだった能など習い、芸能が盛んになった。島内の能舞台は33ヵ所で国内の3分の1は佐渡にある計算だ。金山の恩恵を受けたのは人間だけではない。小規模の米作農家も祖先伝来の土地を保有し続け、さらに農地拡大のため山の奥深くに棚田を開発した。人気(ひとけ)の少ない田んぼは生きものが安心して生息するサンクチュアリ(自然保護地域)となった。結果的に、臆病といわれるトキにとって佐渡はすみやすかったに違いない。

 そのトキがいまでは佐渡の人々に農業の展望、知恵と夢を与えている。7月16日から18日の日程で開催された「第2回生物の多様性を育む農業国際会議」(佐渡市など主催)=写真・中=に参加した。同会議の佐渡市での開催は初めてで、期間中、日本、中国、韓国の3ヵ国を中心にトキの専門家や農業者ら400人が参加した。2008年9月のトキ放鳥に伴い、トキとの共生を掲げた地域づくりが住民に浸透し始め、2011年6月に国連食糧農業機関(FAO)の世界農業遺産(GIAHS)に登録されたことで、佐渡の人々の視野が世界に広がった。今回の国際会議はその意気込みを示すものだ。

 もちろん、それまでの地道な取り組みは評価に値する。日本で絶滅したトキという鳥を島全体で野生に返す取り組みを進めていたことが大きな背景となっている。さらに、「朱鷺と暮らす郷認証米」の取り組みで、米という日本人の主食を作る田んぼでの生態系の再生を進め、食と環境のつながり、環境を守る農業の役割をわかりやすく発信してきた。その米の販売が好調で収入を上げる効果となり、今では1200haを超える環境保全型の稲作に取り組む。農業、食、環境をキーワードとし、消費者を巻き込んだグリーンツーリズムも盛んだ。

 この認証米制度では認証要件が重要なポイントと言える。特に、佐渡市の示す「生きものを育む農法(減農薬)」の実施と、「生きもの調査」を義務づけていることだ。この取り組みは、農業の視点だけで見ると、作業やコストの負担が増加させている。しかし。この農業が順調に拡大している。佐渡の全稲作面積の実に2割(1200ha)にも達している。さらに、生きものの豊かさを検証し、トキの生息環境を把握する科学的データの評価手法も導入されている。「トキのGPSデータとモニタリングデータ」は研究機関の行った生物調査や農業者の「生きもの調査」を役立てるため、佐渡市で整備済みの「農地GIS」を改修して、環境省のトキモニタリングデータや新潟大学などで行われている生物種と密度調査を組み込むシステムだ。これにより、生き物を育む農法が、生物へ与える効果やトキが好む餌場の把握が科学的にできる。

 この前向きな取り組みが支援する企業や組織を増やしている。たとえば、組合員数388万人の「コープネット事業連合」が認証米のコンセプトに賛同し、組合員に販売にしている。ちなみに「朱鷺と暮らす郷」は1㌔550円余り=写真・下=。トキの野生復帰活動を契機に始まった生物多様性の保全を重視した独自の農業システムは、日本の新たな農業の姿となり、また、世界の環境再生モデルとなりえる。農業経済を縦軸に、生物多様性の環境を横軸に突き進む佐渡市の試みを、たとえば、右肩上がりの「佐渡べクトル」と呼ぶことにしよう。

 海では、映画「オーシャンズ」に登場したコブダイが大きなコブを見せて、島の北端では日本一のトビシマカンゾウの大群生地が島を飾る。徳川幕府に伐採を禁じられた島には多くの森が残り、杉の巨大林を形成している。トキという鳥の再生を願って昭和30年代からドジョウを田にまき、無農薬の水稲作りをしてきた地道な取り組みが今では世界で有数の環境に配慮した島づくりにつながっている。佐渡べクトルは先鋭である。

⇒20日(金)夜・金沢の天気  あめ

★中谷宇吉郎の言葉

★中谷宇吉郎の言葉

 人は死すれど、言葉は後世に伝わる。物理学者の寺田寅彦は「天災は忘れたころにやってくる」を遺した。同じく物理学者の中谷宇吉郎も「雪は天から送られた手紙である」と。自らの研究で業績を遺したからこそ価値ある言葉として伝わり、名言として広まる。

 中谷宇吉郎の研究業績と人となりを紹介する「中谷宇吉郎雪の科学館」=写真=を昨日訪ねた。宇吉郎の出身地である加賀市片山津温泉に建物がある。館内を巡ると、北海道大学で世界で初めて人工的に雪の結晶を作り出したこと、雪や氷に関する科学の分野を次々に開拓し、その活躍の場をグリーンランドなど世界各地に広げたことが分かる。館内では、アイスボックスの中でダイヤモンドダストを発生させる実験も行っている。意外だったのは、多彩な趣味だ。絵をよく描き、とくに随筆では日常身辺の話題から科学の解説まで幅広い広い。海外で学術学会があるたびに蓄音機とレコードと踊りの小道具を持参し、パーティ後に日本の踊りを披露していたとのエピソードがあるくらい。陽性な人柄が目に浮かぶ。『霜の花』など科学映画の草分けとしても知られる。

 研究と多趣味、その中から湧き出る泉のように言葉も脳裏をよぎったのだろう。それを書き留めては随筆として残した。科学館では、その中からいくつかを紹介している。転記する。

 「科学の発達は、原子爆弾や水素爆弾を作る。それで何百万人という無辜(むこ)の人間が殺されるようなことがもし将来この地上に起こったと仮定した場合、それは政治の責任で、科学の責任ではないという人もあろう。しかし私は、それは科学の責任だと思う。作らなければ、決して使えないからである」(『日本のこころ』文芸春秋新社・昭和26年)

 「奈良朝から、千年以上も、同じ田に、同じ米をつくって今日までつづいている。千年以上のの連作ということは、世界の農業者の常識を超越したことである」(『民族の自立』新潮社・昭和28年)

 このブログを書いていて思い出した。中谷宇吉郎と言えば、「立春の卵」という随筆で知られる(『中谷宇吉郎随筆集』岩波文庫)。戦後間もない昭和22年、立春に卵が立つという迷信があり、それを新聞社が大々的に取り上げた。そこで、「卵は立春に限らず、いつでも立てることが出来る。新鮮な卵の表面にある3点以上の出っ張りを足として卵を支え、卵の重心をそこに落とすべく、少しだけ根気よく作業すれば、生卵であっても、ゆで卵であっても…」と説いた。そして「人間の盲点があることは誰も知っている。しかし人類にも盲点があることはあまり知らないようである。卵が立たないと思うぐらいの盲点は大したことではない。 しかし、これと同じようなことが、いろんな方面にありそうである。そして人間の歴史が、そういう瑣細な盲点のために著しく左右されるようなこともありそうである」と記した。科学を一般の人々に分りやすく伝える方法として随筆を書いたのだった。

 館内を一巡して、雪の結晶を蒔絵にした輪島塗の文箱=写真=が展示されていた。昭和16年(1941)に学士院賞を受賞した折、親戚が贈ったものと記載されてあった。「中谷ダイヤグラム」と呼ばれるさまざまな雪の結晶はまさに芸術である。それを精緻に表現している作品だと感じた。

16日(祝)朝・金沢の天気  はれ

☆「痛車」と夢二

☆「痛車」と夢二

 「痛車(いたしゃ)」という言葉をご存知だろうか。車体に漫画やアニメ、ゲームのキャラクターなどのステッカーを貼り付けたり、塗装した乗用車のことだ。あるいはそのような改造を車のことを指すそうだ。「萌車(もえしゃ)」とも呼ばれるようだ(「ウイキペディア」より)。面白いのは、同様の原付やバイクを「痛単車(いたんしゃ)」、自転車の場合は「痛チャリ(いたチャリ)」、アニメの装飾を施したラッピング電車を「痛電車(いたでんしゃ)」とこの世界では呼ぶようだ。。ただ、イタリア車を意味する「イタ車」なら、その意味は分かるが、なぜ「痛車」と呼ぶのか、ネットで調べてもよく分からない。

 きょう(8日)現物を見た。30台は並んでいただろうか。金沢市郊外の湯涌温泉をドライブしたときのことだ。中心街の県道に整然と並んでいた。運転者はどんな人たちかと見渡すと、サングラスをかけた、いかつい感じの兄さんたちかと思いきや、普通の30代くらいの男たちなのである。広場で楽しそうに語り合っている。外見的に目立という人たちではなさそうだ。女性は見当たらなかった。

 車は派出だ。テレビアニメ『侵略!?イカ娘』や、映画『けいおん!(K-ON!)』などボンネットなど車体からはみ出るように存分に描いてある。金沢、石川、富山のナンバーが多い中で、「聖地巡礼」と記された岐阜や姫路もあった。おそらくアニメの舞台となった実在のロケーションを旅する「聖地巡礼ツアー」の車なのだろう。ちなみに、インターネットで「聖地巡礼」を検索すると、「五大聖地」というのがあって、「鷲宮神社、木崎湖、豊郷小学校旧校舎、尾道、城端」がその場所なのだそうだ。

 今度はガラス越に車の中を覗いてみた。散らかし放題の車内と思ったら、大変な予断と偏見だった。全部を点検したわけではないが、どれも整然として、ゴミや空き缶がないのである。フィギュアなどもフロントガラス付近にきちんと並んでいる。

 ところで、この日は特別な日でもないのに、湯涌温泉になぜ痛車が集まっていたのか。2011年4月から9月に放送されたテレビアニメ『花咲くいろは』(全26話)の聖地なのだ。東京育ちの女子高生「松前緒花」が石川県の「湯乃鷺(ゆのさぎ)温泉」の旅館「喜翆荘」を経営する祖母のもとに身を寄せ、旅館の住み込みアルバイトとして働きながら学校に通う。個性的な従業員との確執や、人間模様の中で成長しいく。湯乃鷺温泉の舞台となったのが湯涌温泉だった。菓子屋の店員に尋ねると、毎週末には「なんとなく集まってくる」のだという。

 金沢で長く住んでいると、湯涌温泉でイメージするのは、あの独特の美人画で知られる竹久夢二だ。愛人・彦乃と逗留した温泉場。大正モダン風に描かれる、彦乃のイメージ画=写真・下=が印象に強い。そして、戦後間もなく、湯涌温泉にあった「白雲楼ホテル」(現在撤去)をGHQ(連合軍総司令部)が接収して保養施設にしていた。あのマッカーサーも利用したとされる。さらに、この湯涌温泉には「江戸村」があり、芽葺き農家などの歴史的建造物が移築されている。この湯涌温泉に来るとそうした歴史を感じてきたが、思いもかけず痛車と遭遇して「現代」を感じた。

⇒8日(日)夜・金沢の天気   くもり

★「Iターンの島」~5

★「Iターンの島」~5

 島根県海士町は隠岐諸島で水が豊富に湧き出ることで知られる。日本の名水百選にも選ばれた「天川の水」は鉱物臭さを感じさせない口当たりのよい水だった。また、湧水を利用した田んぼがところどころに広がる=写真・上=。ここで獲れた米は隠岐の他の島に「輸出」をしている。

           歴史は長く、懐深い島

 今回この町を訪れてみようと思い立った理由の一つは、かつて新聞記者時代に取材した「輪島市海士町」との歴史的な関連性についての興味だった。輪島の海士町のルーツは360年余り前にさかのぼる。北九州の筑前鐘ヶ崎(玄海町)の海女漁の一族は日本海の磯にアワビ漁に出かけていた。そのうちの一門が加賀藩に土地の拝領を願い出て輪島に定住したのは慶安2年(1649)だった。輪島の海士町の人々が言葉は九州っぽい感じがする。では、隠岐の海士町はどうかと考え、山内道雄町長にちょっとしたインタビューを試みた。

 戦後、金沢大学の言語学者が玄海町鐘ヶ崎と輪島市海士町の言葉を聞き取り、共通するものをピックアップしている。代表的なものは、「ネズム(つねる)」「クルブク(うつむく)、「フトイ(大きい)」「ヨタキ(夜の漁)」「ワドモ(あなたたち)」「エゲ(魚の小骨)」などだ。この7つの単語を筆者が発音して、74歳の山内町長に聴いてもらった。反応したのはフトイとヨタキの2つだけだった。また、町長や視察に応対してくれた町職員、民宿のおばさんたちの言葉を聞いた限りでは、イントネーションなど輪島市海士町に比べ随分と表現が柔らかく類似性は感じられなかった。また、漁労の歴史の中で女性が潜る海女漁も「大昔はあったかもしれないが、親たちからも聞いたことはない」という。

 海士町のホームページによると、隠岐諸島は「隠岐国海部(あま)郡三郷」と呼ばれ、平城京跡から「干しアワビ」等が献上されていたことを示す木簡が発掘されるなど、古くから海産物の宝庫として「御食(みけ)つ國」として知られていた。1221年には承久の乱を起こし幕府に完敗した後鳥羽上皇は隠岐・海部郡に流刑となり、亡くなるまで17年間暮らした。江戸時代は松江藩の支配下となり、海士村、豊田村、崎村、宇津賀村、知々井村、福井村、太井村に分かれていたが、1904年に合併して海士郡海士村となった。こうして見ると、「海士」の地名はもともと「海部」から起きていて、歴史性がある。輪島の海士町は江戸時代の漁労集団がそのまま地名になった感がある。歴史の尺度に違いがあり、ルーツを云々するということには無理があると気がついた。

 山内町長の講演の後、午後からは同町産業創出課の大江和彦課長のガイドで島めぐりをした。印象的だったのはカズラ島=写真・下=。同町の大部分を占める中ノ島の200㍍沖にある無人島(10㌃)だが、「散骨の島」として知られる。10年ほど前、東京の葬祭会社の社員旅行がきっかけで、話が進んだ。隠岐諸島にある180の無人島のうち、所有権がはっきりしていて、地主と連絡が取れる島は少ない。カズラ島は所有者がいて、葬儀会社は島を購入できた。風評被害を恐れる町議会などに対して事前説明を行うなどして散骨事業を始めた。散骨を行うのは、一年のうち5月と9月の2回。それ以外は上陸せず、弔いに訪れた遺族は中ノ島の慰霊所から、島を眺めて合掌するのだという。葬送のスタイルは変化している。当時反対論もあったが、山内町長は「これも島に来てくれた人との親戚づきあい」と町議会を説得した(大江課長)。Iターン者も亡き人も弔い人も受け入れる島、それが海士町なのだ。

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☆「Iターンの島」~4

☆「Iターンの島」~4

(「Iターンの島」~3からの続き、山内道雄・海士町長の講演から) ブランド化はユーザーや消費者の評価を通しての言葉だ。日本で一番きびしい評価を通りくぐらなければブランドにならない。それは東京の市場だ。隠岐牛を平成18年3月に初めて3頭を出荷した。このとき全て高品位のA5に格付けされ、肉質は松阪牛並の評価を受けた。ことし3月までに742頭を東京に出荷したが、A5の格付率は52%だ。リーマン・ショック(2008年9月)以降は、高級牛の価格は下がったが、それでもこれまで枝肉最高値1㌔当たり4205円、これは店頭値で3万円もする。枝肉の平均価格でも2169円。これを一頭当りで換算すると91万円となる。

       「ないものはない」、時代のトップランナー

 隠岐牛は、隠岐固有の黒毛和種で古くから島中で放牧されている。傾斜のきつい崖地を移動しながら育つので足腰が強く骨格と胃袋が丈夫。また、海からの潮風が年中吹くため、放牧地の牧草にはミネラル分が多く含まれ、美味しい肉質に仕上がる。ところが、隠岐ではこれまで子牛のみが生産され、すべて本土の肥育業者が購入し、神戸牛や松阪牛となって市場に出ていた。そこで、島の建設業らが一念発起してこの素質の良い隠岐牛を繁殖から肥育まで一貫して生産販売することで、ブランド力を高め、雇用の場を創出しようと新規参入した。こうした地域の取り組みに共感して、隠岐牛の担い手になりたいと都会からIターンの3家族(20~40代)が移住している。

 また、岩ガキ養殖を始めたいと都会からIターン者が7人が移住してきた。岩ガキはこれまで、離島であるがゆえに輸送時間による鮮度落ちが理由で価格は低く、島の自家消費でしかなかった。そこで、あるIターン者が取引単価の高い築地市場への岩ガキを出荷を試み、完壁なトレーサピリティを売りに信用を得た。さらに、直販も手がけ、オイスターバーへの売り込みや消費者への直接販売を積極的に行っている。直接販売ができるようになったのは、CAS(キャス)と呼ぶ特殊冷凍システムを導入したことがきっかけだった。細胞を壊さずに凍結できるため、解凍後に獲れたての鮮度と美味さが失われない。CASとはCells Alive System、細胞が生きているという意味だ。これを5億円かけ施設をつくった。CAS導入の意義は、離島の流通ハンディキャップを克服すること、島から高付加価値商品を生み出し、第1次産業の復活と後継者育成につなげるためだ。全国自治体の中で、いち早く導入したと自負している。これで岩ガキの出荷をこれまでの25万個から50万個に、また岩ガキだけでなく、旬感凍結「活いか」といった加工商品など続々と誕生している。

 移住者が生み出した商品で面白いのは「さざえカレー」だろう。海士町では商品開発研修生を平成10年度より募集している。「よそ者」の発想と視点で、特産品開発やコミュニティづくりにいたるまで、島にある全ての宝の山(地域資源)にスポットをあて、商品化に挑戦する「島の助っ人」的な存在でもある。これまで18人が参加し、7人が島に定住した。そのうちの一人が考案したヒット商品が「さざえカレー」だ。島では普通に肉の替わりにサザエを入れてカレーにして食べていた。商品価値があることすら気づかなかったものが、外の目から見れば驚きとともに新鮮な魅力として映る、そして商品化するよい見本となった。

 教育そのものをブランド化したいと取り組んでいる。海士町にある島根県立隠岐島前高校は、島前3町村で唯一の高校。少子化の影響を受け、約10年間で入学者数が77人(平成9年)から28人(平成20年)に激減した。全学年1クラスになり、統廃合の危機が迫っていた。高校がなくなると、島の子どもは15歳で島外に出ざる得なくなる。その仕送りの金銭的負担は子ども1人につき3年間で450万円程度となる。しかも、それで卒業後に流出すれば、人口は増々減少する。高校の存続はイコール、島の存続に直結する。そこで、「ピンチを変革と飛躍へのチャンス」ととらえ、平成20年から全国からも生徒が集まる魅力的な高校づくりを目指した。

 この高校には町の職員4人を派遣している。実践的なまちづくりや商品開発などを通して地域づくりを担うリーダー育成を目指す「地域創造コース」と、少人数指導で難関大学にも進学できる「特別進学コース」がある。生徒が企画した地域活性に向けた観光プラン「ヒトツナキ」が観光甲子園でグランブリを受賞した。学校連携型の公営塾「隠岐国学習センター」を平成22年に創設し、従来の塾の枠を超えた高校との連携により、学習意欲を高め、学力に加え社会人基礎力も鍛える独自のプログラムも展開している。特徴的なのは、全国から意欲ある生徒の募集に向け、寮費食費の補助などの「島留学」制度を平成22年から新設し、意欲ある高校生が集まることで、小規模校の課題である固定化された人間関係と価値観の同質化を打破したい、これによって刺激と切嵯琢磨を生み出すことを目指した。この財源には、町職員の給与カット(縮減)分を充てている。この取り組みで平成20年度27人だった入学者は、関東や関西などから応募者があり、今年度は59人となった。

 四次海士町総合振興計画「島の幸福論」が2010年度グッドデザイン賞を受賞した。その基本は、人(健康)、自然(環境)、生活(文化)に配慮した持続可能な社会づくり。ひとことで言えば、この島に生まれてよかったと死に際にふと想うことの幸せを実現することである。そのために、自治体は何をしなけらばならないのか。小規模町村こそ自治の担い手であり、それは地方分権でなく「地方が主役」である。地方の元気が国の元気にと考えている。「民から官へ」の意気込みが必要で、経済規模の小さな地域では民の仕事を官がやるぐらいの意気込みが大切だ。

 超少子高齢化が著しく、財政危機など海士町には、いま地方が抱える問題が凝縮されている。しかし、それは近い将来、島国日本が直面する問題を海士町が先取りしているということであり、日本の新しい道を最先端で切り拓いているトップランナーの姿なのです。このように見て感じてもらえば分かりやすい。最後に、島のキャッチフレーズは「ないものはない」としている。2つの意味がある。「ない」から創造する、仕事がないなら創る。もう一つは、「ないものはない」、つまりすべてあるという意味だ。人に本来必要な資源である自然と環境、生活と文化の要件はすべてある。だから、離島で人々はたくましく悠久の歴史を育んでこられたのだ。

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★「Iターンの島」~3

★「Iターンの島」~3

 日本海の島根半島沖合約60kmに浮かぶ隠岐諸島の四つの有人島の一つ、中ノ島を「海士町」といい1島1町の小さな島(面積33k㎡、周囲89km)である。本土からの交通は、高速船かフェリーで2~3時間かかり、冬場は季節風が強く吹き荒れ、欠航して孤島化することも珍しくなく、離島のハンデキャップは大きい。戦後間もなくの昭和25年(1950)ごろの統計では約7000人近くいた人口も平成22年10月の国勢調査では2374人に減少し、世帯数は1052となった。65歳以上の高齢化率38%となっている。さらに、国の離島振興法などの政策によって公共事業が行われ、道路や漁港などの社会資本は整備されたものの、その体力以上に地方債が膨らみ、ピーク時の平成13年(2001)度には101億円に上った。そのような過疎に島に転機が訪れたのは平成14年5月の町長選挙だった。

         過疎の島の「選択」と町長の「決断」

 それまでの「地縁血縁の選挙」だった島の町長選挙に、町議2期をつとめた山内道雄氏が大胆な行政改革を訴えて当選した。山内氏は元NTT社員。電電公社からNTTに変革したときの経験を活かし、「役場は住民のためのサービス総合株式社である」と町職員の意識改革を迫った。意識を変えるために年功序列を廃止して適材適所、組織を現場主義へと再編していく。その延長線上に「Iターンの島」がある。視察3日目(6月10日)、その山内町長が「離島発!地域再生への挑戦~最後尾から最先端へ~」と題して講演した。74歳、話す言葉が理詰めで聞きやすい。以下、講演を要約する。

                  ◇

 平成の「大合併の嵐」が吹く中で、隠岐の島々の合併話が持ち上がったが、そのメリットが活かされないと判断し、単独町制を決断した。「自分たちの島は自ら守り、島の未来は自ら築く」という住民や職員の地域への気概と誇りが、自立への道だと思ったからだ。それは自治の原点でもある。、その直後に小泉内閣の「三位一体の改革」があり、地方交付税の大幅な削減は、島の存続さえも危うくした。当時のシュミレーションでは平成20年に「財政再建団体」への転落が予想された。そこで住民代表と議会、行政が町の生き残りをかけて平成16年3月に「海士町自立促進プラン」を策定した。そのとき、自ら身を削らないと改革は支持されないと思い、自ら給与50%のカットを申し出た。すると、助役、教育長、議会、管理職に始まり、職員組合からも給与の自主減額を申し出て、私は町長室で男泣きした。カット分の一部は具体的に見える施策に活かそうと「すこやか子育て支援条例」をつくり、第3子50万円、4子以上100万円の祝い金やIターン者が出産のため里帰りする旅費など充てている。

 93人(平成10年度)いた町職員を68人(同19年度)に、、時間外手当の縮減、組織のスリム化とフラット化(連携の強化)で現場主義、課長・係長の推薦制と年功序列の廃止、収入役ポストの廃止、町長公用車の廃車、経営会議の設置と定例化(毎週木曜17時15分から)と打てる手は打った。すると、住民の目も変わった。老人クラブからバス料金の値上げや補助金の返上や、ちょっとした清掃や施設の修繕などは住民が「役場も頑張っているから」と自分たちでするケースが増えてきた。町民と危機感の共有化できるようなった。こうした積み重ねで、101億円あった地方債は現在70億円近くまで減り、財政事情は確実に改善に向かっている。

 身を削りながらも、「攻め」の戦略に打って出た。攻めとは地域資源を活かし、島に産業を創り、雇用の場を増やし、外貨を獲得して、島を活性化することである。成長戦略を島の外に求めることにした。そのため、部局の職員を減らし、その分を産業振興と定住対策のセクションに重点シフトすることにし、攻めの実行部隊となる産業3課を設置した。観光と定住対策を担う「交流促進課」、第1次産業の振興を図る「地産地商課」、新たな産業の創出を考える「産業創出課」である。「ヒントは常に現場にある、現場でしか知れないことを見落とすな」と職員に言っているがそれを実行した。この3課を町の玄関口である菱浦港のターミナル「キンニャモニャセンター」に置いた。港は情報発信基地でもあり、アンテナショップだ。

 その産業振興のキーワードを「海」「潮風」「塩」の三本柱にして、地域資源を有効活用しする。平成16年の再生計画で「海士デパートメントストア・プラン」をつくり、島全体をデパートに見立て、島の味覚や魅力を発信する島のブランド化を全面に打ち出した。そのメーンターゲットはハードルが高く厳しい評価が下される東京で認められなければブランドにならないという考えから、最初から東京に置いた。東京で認められなけらばブランドではない、ブランドとしての発信力もないと考えたからだ。(次回に続く)

⇒10日(日)夜・隠岐海士町の天気  はれ