#コラム

★イフガオ里山マイスター巣立つ

★イフガオ里山マイスター巣立つ

   金沢大学が金沢大学がフィリピン・ルソン島イフガオで実施している国際協力機構(JICA)草の根技術協力事業「世界農業遺産(GIAHS)イフガオの棚田の持続的発展のための人材養成プログラムの構築支援事業」(通称:イフガオ里山マイスター養成プログラム)の第一期生の修了式が先月9日、イフガオ州大学で執り行われた。1年間の講義とフィールド実習、能登研修、卒業課題研究を学修した14人一人ひとりに修了証書が手渡された。

   イフガオ州大学(IFSU)体育館で修了セレモニーが挙行され、実施代表、中村浩二金沢大学特任教授、ハバウェル・イフガオ州知事、ゴハヨン・イフガオ州大学長らが出席。修了生14人は家族とともに出席し、自治体はじめ地域の関係者、IFSUの学生らも祝福を受けた。ハバウエル知事は祝辞で、同州でも地域活性化の人材養成はまったなしの課題になっているとイフガオ里山マイスター養成プログラムに期待を述べた。ゴハヨン大学長は式辞で、イフガオ里山マイスターの教員スタッフを個々に紹介するなどこの1年間の労をねぎらうスピーチを披露した。

   修了生を代表してビッキーさん(イフガオ州大教員)は、昨年2014年9月に受講生10名とともに能登で研修を行い、能登のマイスター受講生と地域の課題解決への方策を話し合った思い出などを謝辞として述べた。修了生たちは今後、相互のネットワークづくりに取り組むことになり、修了生14名で少額出資による共同組合を設立することを話し合っている。   

   イフガオ里山マイスター養成プログラムはフィリピンの他の地域からも注目され始めていて、今回の修了式には、ルソン島南部のケソン州ムラナイ町のオヘダ町長一行も参加。町長は、自然環境保全や持続発展に力点を置いたまちづくり、台風被害からの復興への協力依頼など、イフガオ里山マイスター養成プログラムを実施する金沢大学やフィリピン大学との連携を希望した。

   修了式の終了後、「イフガオGIAHS持続発展協議会」のスペシャル・ミーティングが開催され、ゴハヨン・イフガオ州大学長が進行役、ハバウェル州知事が司会をした。今後の協議会の運営には、修了生たちも関わり、活動のすそ野を広げていくことが確認された。修了生たちが地域活性化のリーダーの一員として仲間入りをしたのである。

⇒9日(木)朝・金沢の天気   はれ

   

☆「沖縄と日本」

☆「沖縄と日本」

   5年前の2010年5月、沖縄旅行の折、沖縄県名護市辺野古の在日米軍海兵隊の基地「キャンプ・シュワブ」のゲートで写真撮影をした。すると、銃を持った門兵がヘイ・ユーと大声で駆け寄ってきたので、チャーターしたタクシーでその場を慌てて立ち去った。その後、辺野古で住民が座り込み抗議を続けるテント村も訪れた=写真=。「どこから来たの、休んでいきんさい」と笑顔で声をかけてくれた住民もいた。

   沖縄旅行の直後、当時の民主党政権の鳩山総理が訪問した沖縄での記者会見(沖縄)で「学べば学ぶにつけて、沖縄におけるアメリカ海兵隊の役割は、全体と連携しているので、その抑止力が維持できるのだと理解できた」と普天間飛行場の代替施設は辺野古しかないという意味の発言をすると、地元紙の記者から「恥を知れ」の罵声が飛んだ。「学べば学ぶにつけて」という言葉は勉強不足だったが、最近ようやく理解できたという意味だ。基地問題に神経を尖らせる現地で、一国の総理として適正な発言だったのかと当時メディアでも取り上げられた。

   今月5日、沖縄県の翁長知事が要望してきた政府との直接対話が菅官房長官との間で実現した。翁長知事から「上から目線」と批判された「粛々と工事を進めていく」の表現。菅官房長官とすると、辺野古への移設工事については関係の法令に基づいて適切に対応していくという方針には変わりはないと述べたのだろう。前置きに「粛々と」というある意味で国会答弁などで政権与党の閣僚がよく使う言葉が出てきたので「上から目線」との印象を与えたのだろう。

   それにしても表現は少々乱暴だが、政府の代表として訪問した官房長官に県の知事がよくそのような「上から目線」などと言えたものだと思った人もいただろう。地域主権の代弁者だから、といえばそうなのだが。その背景には、翁長知事がよく使う言葉に「沖縄と日本」がある。政府ではなく「日本」だ。翁長知事の発想や意識は、沖縄は日本から独立しているのかも知れない。つまり、地域と中央政府という発想ではなく、琉球と日本なのだろう。

   地元沖縄の人々はもともと南国のおだやかな性格から、ナンクルナイサ(何とかなるさ)という楽観的な人が多いといわれる。そんな地域性であっても、腹の底からわき上がってくる怒りのことをワジワジと言うそうだ。沖縄はいま普天間基地の辺野古移設問題でワジワジしているのだ。

⇒7日(火)朝・金沢の天気    あめ

★「加賀の茶」物語

★「加賀の茶」物語

  きょう(5日)金沢市内の茶道具店が主宰する茶話会に参加した。テーマは「加賀紅茶の話」。石川県茶商工業協同組合理事長の織田勉氏の講話だった。加賀藩と茶葉の関わりが面白かった。最近売り出し中の加賀紅茶「輝(かがやき)」、能登紅茶「煌(きらめき)」の仕掛け人でもある。まずは加賀における茶葉の歴史を、織田氏の話のメモから。

  加賀藩の3代藩主・利常が小松に隠居したことから始まる。茶問屋「長保屋(ちょうぼや)」の長谷部理右衛門が利常に願い出で、藩内で茶葉をつくることを進言した。それまでは、宇治や近江の国からの購入だった。それを藩内で生産してはどうかと長保屋が提案した。利常は進言に応え、茶種を山城や近江から購入し、小松付近で栽培が始まる。そして、小松の安宅湊からは北前船で「茶、絹、畳表」などが移出さるようになった。元禄4年(1691)の記録によると、加賀藩五代の綱紀が、徳川五代綱吉に献上したとの記録もある。

  当時、お茶は高級品だった。「お茶壺道中」という言葉があった。幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運ぶ行事を茶壺道中と言った。この道中は、京の五摂家などに準じる権威の高いもので、茶壺を積んだ行列が通行する際は、大名といえども駕籠(かご)を降りなければならない、というルールがあった。街道沿いの村々には街道の掃除が命じられ、街道沿いの田畑の耕作が禁じられたほどだったという。「ズイズイ ズッコロバシ ごまみそズイ 茶壺におわれて トッピンシャン ぬけたら ドンドコショ」という童謡がある。このわらべうたは、田植えなどの忙しい時期に余分な作業を強いられるお百姓たちの風刺だった。

  小松を中心として、能美・江沼西郡に増産体制が敷かれ、明和5年(1768)には地場生産1万6800斤、移入は近江茶2万3100斤、安永6年(1777)には地場生産2万7700斤、近江茶1万6100と逆転する。文化年間(1810頃)には25万700斤と地場生産は10倍に膨らんだ。25万斤は約375トンに相当する。ただし、当時でも上質なものは宇治から購入だった。

  安政6年(1859)に横浜港が開港して、その輸出品の先陣を飾ったのは日本の緑茶だった。加賀では茶の増産に拍車がかかった。小松の長保屋は能美郡内から生茶を集めて宇治風の茶を製造して、安宅港から敦賀に陸揚げして、兵庫に輸送、そこから海外へ輸出した。明治の初めごろには金沢の寺町台にも茶園が広がり50万斤と全盛時代を迎えた。ところが魔がさした。当時、好調な輸出に調子に乗った国内の茶商人は輸出先のアメリカに古茶を混入したり、ヤナギの葉を混入した業者もあった。加賀の生産者の中にもこうした悪質な製法に習った者もいた。こうした乾燥不良品やニセ茶に対してアメリカは明治16年(1883)年、「贋製茶輸入禁止条例」を国会で可決した。日本茶は一気に信頼を失った。

  こうした風潮を戒めようと、明治16年(1883)4月、金沢市の尾山神社では近藤一歩らが献茶式を開いた。加賀茶の庇護者であった藩主、前田家に対する感謝と粗悪茶の改善を誓うものだった。太平洋戦争が始まると、食糧増産が叫ばれ、趣向品のお茶からコメ作りにまい進することになり、茶の生産量は激減し、石川県内でも茶畠は徐々に消えていった。戦後は、加賀市打越地区などではその加賀茶の伝統は守られた。

  織田氏は、平成19年から打越製茶農業協同組合と県茶業商工業協同組合に仕掛けて、加賀茶の伝統を守ってきた打越地区で「加賀の紅茶」の生産を始めた。平成24年からはこのノウハウを「能登の紅茶」として商品化すべく、七尾市能登島町で紅茶の栽培を始めた。7アール1000本の植栽から始め、昨年は50アール4000本を植えた。品種はヤブキタ、オクヒカリだ。

  緑茶と紅茶の違い。緑茶は製造の第一工程で加熱により茶葉中の酸化酵素の活性を止めるのが特徴で、発酵が行われないため、茶葉の緑色が保存され緑茶と呼ばれる。紅茶は、発酵茶とも呼ばれ、茶葉を揉む前に葉をしおれさせ後に湿度の高い部屋で充分に発酵させるため茶葉タンニンの酸化で黒褐色となり、紅茶となる。北陸新幹線の名称にあやかった加賀紅茶「輝(かがやき)」、そして能登紅茶「煌(きらめき)」。加賀の茶の復活なるか。

⇒5日(日)午後・金沢の天気   あめ

☆トキは何を思う

☆トキは何を思う

   もう45年も前の1970年1月、本州最後の1羽のトキが石川県能登半島の穴水町で捕獲された。トキは渡り鳥ではなく、地の鳥である。捕獲されたトキはオスで、「能里」(のり)という愛称で地元で呼ばれていた。能里の捕獲は繁殖のため新潟県佐渡市のトキ保護センターに移すためだった。能里の捕獲と佐渡行きについては当時、地元能登でも論争があった。「繁殖力には疑問。最後の1羽はせめてこの地で…」と人々の思いは揺れ動いた。結局、トキ保護センターに送られたが、翌1971年に死亡する。論争がありながらも最後の1羽を送り出した能登の人たちの想いまだ記憶されている。穴水町に行く、今でも「昔、能里ちゃんはここら辺りを飛んでいたよ」と話すお年寄りがいる。「ちゃん」付けにトキへの想いがこもる。

  国の特別天然記念物であるトキの一般公開は全国で唯一、佐渡市だけで行われている。環境省は佐渡市以外でトキの飼育と繁殖に取り組む4施設(石川県・いしかわ動物園、東京都・多摩動物園、新潟県・長岡市トキ分散飼育センター、島根県・出雲市トキ分散飼育センター)でも公開を可能とする方針だが、地元石川の新聞メディアなどでは、佐渡市の地元では他地域でのトキの公開に難色を示す声が上がっていると伝えている。

  佐渡市の困惑は相当強いようだ。昨年10月2日付で佐渡市議会は以下の意見書を可決した。「1.あくまでも鳥インフルエンザ等の防止と絶滅の危機回避であり、非公開とすること、2.分散飼育する地域と施設については、科学的根拠と技術的条件に基づき決定し、これまでトキ保護に取組んできた佐渡市民の感情対策を講じること」と。佐渡の地元でこのような声が上がった理由についても意見書で記されている。「去る9月11日に開催された「第7回トキ野生復帰検討会」終了後、マスコミにより、石川県で分散飼育されているトキの一般公開が決定されたと報道された。現に石川県では一般公開施設の基本設計さえ行われており、環境省と石川県はトキ公開展示に向けた協議を進めているものと推測される。このことは、平成15年に野生絶滅したトキが佐渡市民の努力により361 羽まで増羽した事実を軽視し、さらに、平成18年3月27日、佐渡市が環境省の分散飼育にあたり行った下記要望に反するものである。よって、現段階における公開に強く反対するとともに、改めて、下記の取決めを遵守するよう強く求める。」

  この意見書では、一方的に石川県が環境省と組んでトキの一般公開を進めているとの印象なのだが、経緯があるようだ。環境省は昨年8月にトキの保護や増殖への国民の理解を深めるために、佐渡市以外でも公開する条件や手続きについて基本方針を策定した(「分散飼育地におけるトキの一般公開について」平成26 年8 月28 日付の環境省自然環境局長通知)。これを受けて、石川県は9月に計画書案を環境省に提示している。12月には出雲市も公開に向けて準備を進めると表明した(平成26年12月18日・出雲市議会全員協議会への説明)。

  これまでトキの保護のために佐渡が果たしてきた役割は大きいのはうまでもない。一般公開に関しても、佐渡ではようやく2013年3月に始まったばかり。また、トキを佐渡市以外で分散飼育と繁殖を行うようになったのは、鳥インフルエンザによる絶滅が危惧されたからである。いしかわ動物園では2010年1月に佐渡から4羽のトキが初めて移送された。これまで同動物園で繁殖した28羽が佐渡に移送され放鳥もされている。また、来月6日にはさらに10羽(オス5、メス5)が移送されることになっている。こうした経緯を見るとはリスクを分散したトキの繁殖計画は順調に進んでいるように思える。さらに、これまで放鳥は177羽、さらにペアリングが成功して31羽が巣立ちしている。

  こうなると、環境省としては次なる段階に入りたいと考えるだろう。それは、国費をかけての事業なので国民への理解だ。それが、分散飼育地での一般公開を進めるという段階なのだろうと想像する。というもの、いしかわ動物園へ行くと、「トキはどこのいるのですか」と子どもたちが係員に尋ねる姿を見かけることがある。今はライブ映像をテレビ画面でしか見ることができない。そのとき、親たち「トキは人が怖いので、とても臆病になっているのよ。(直接見れないのは)しかたないね」と諭している。こうした親子の光景を見ると、人とトキが離れた存在、つまり動物保護という教育的な観点からも離れた印象を受ける。

  一般公開された佐渡市の「トキふれあいプラザ」では年間20万人が訪れる観光施設になっているという。長年保護活動に尽くしてきた佐渡市民とすれば、他施設での一般公開はもう少し待ってほしいという心情も分かる。ここでもう一度、トキにとっては今何をすることが必要なのだろう。

※写真は、佐渡で放鳥されたトキ(メス)が最近能登半島に飛来している

⇒30日(月)朝・金沢の天気   はれ

★梅の花と北陸新幹線

★梅の花と北陸新幹線

  我が家の庭の梅が満開となった。「老梅」で樹皮だけのような薄い幹が痛々しいほどに横に曲がり、支え棒がないと折れてしまいそうな形状なのだが、この時節にはちゃんとピンクの花を咲かせて楽しませてくれる。ただ、梅の実は数個しかつけていない。例年、この老梅が最初に一輪の花を咲かせるころに、造園業者に来てもらい雪吊り外しをしてもらう。ことしは今月19日だった。この梅の時節にやってきたのが北陸新幹線だ。

  今月14日に金沢開業にこぎつけ、2週間たっても連日のようにメディアをにぎわせている。きょう29日の地元紙の社会面の見出しはこうだ。「切符購入 あぁ窓口混雑」「東京出張 あぁ飛行機で」。この見出しだけでは何のことが理解できないので、少し読み解(ほど)く。「あぁ窓口混雑」は金沢駅のみどりの窓口に行列が出来て、15分以上も待つときがあり、乗客から券売機を増やしたり、窓口の対応を臨時に増やす対応をしてほしいと苦情が出ているという内容。

  「あぁ飛行機で」は新幹線延伸で富山県庁や富山市役所では職員の東京出張は飛行機でと呼びかけている、というもの。4月から6月の利用状況によっては今後、減便や機体の小型化が予想されるからだ。東京駅から富山駅は最速で2時間8分なので、それぞれの利用者にとっては都心、あるいは市の中心街へのアクセスを考えれば新幹線に利便性がある。しかし、空のネットワーク(富山‐羽田‐成田)で国内外へのフライトを考えれば当然、空の便も確保しておきたいと行政が必至になるのは当然だろう。

  これまで2度、北陸新幹線に乗車できた。20日と27日。その乗車の感想を。普通車はシートに格子柄をあしらい、明るい空間。すべての座席に電源コンセントが設置されていて、パソコンやスマ-トフォンの電源が確保できる。収納式の大型テーブルはパソコン作業にはありがたい。ただ、シートの幅が狭い、と感じる。隣に体格の良い人が座ると肩身が狭い。そこで、2度目の東京行きの帰りは、思い切って「グランクラス」に乗った。

  東京と金沢間は指定・片道で14,120円なのだが、グランクラスは26,970円と倍近い。東北新幹線の「はやぶさ」にも設けられている。車両は12号車、つまり最前列。上質な空間で本革張りのシートは電動リクラインニングだ。一列が左右それぞれ1席と2席で計3席なので、普通車と違い幅も広い。キャビンアテンダント(CA)のサービスで、和食か洋食の軽食が選べ、アルコールも自由だ。最初は梅酒のスパークリングを頼んだ。続いて、赤ワインを。さらに、欲張って日本酒をオーダーすると、「宗玄」が出された。飲酒を想定して金沢駅からの帰宅をバスにしていたので、能登の銘酒をゆっくり堪能できた。

  数日前にグランクラスを予約するとき、旅行会社に「かがやき」のグランクラスをお願いした。すると、「せっかくグランクラスの乗るのだから2時間28分の『かがやき』ではなく、3時間3分の『はくたか』の方がリラックスした時間が余分に楽しめますよ」と担当の社員がアドバイスしてくれた。なるほど。新幹線なのだから最速で目的地に着くことばかりを考えていたが、グランクラスなのだから優雅な空間とゆったり流れる時間の双方を4次元的に楽しまなければ「26,970円の価値」も薄れるというものだ。ということで、東京から金沢の乗車を「はくたか」にしたのだった。

  グランクラスは18席しかない。東京駅で乗ったとき13席に乗客がいた。私の前の列に座った3人はアジア系の親子らしく、CAも英語でサービスをしていた。この親子は軽井沢駅で下車した。で、この親子は香港か台湾系の華僑かと想像をめぐらしたりもした。そして、桜の時期には北陸新幹線にどのような話題が繰り広げられることになるのか。新幹線の滑りが酔うほどに心地よく感じられ、いつしか眠りに落ちた。

⇒29日(日)午後・金沢の天気   くもり

  

☆3月14日ショック

☆3月14日ショック

  北陸新幹線の金沢開業のその日(3月14日)、メディアも新幹線一色だった。朝からテレビはどのチャンネルも中継番組、JR金沢駅周辺の道路では交差点に交通警察官が張り付き、空にはヘリコプターが飛び交うという、一種異様な感じさえした。ただ、空は晴天で新幹線金沢開業を祝福しているような雰囲気だった。

  最速型の「かがやき」は東京‐金沢(450㌔)を最短2時間28分で結ぶ。運行は東京‐上越妙高(新潟県)をJR東日本が、上越妙高―金沢間をJR西日本が担当するというダブル・システム。両社が共同開発した新型車両のE7系、W7系は最高時速260㌔だ。将来、北陸新幹線は東京から北陸をへて大阪までの700㌔を結ぶことになる。その波及効果も目を見張る。JR金沢駅周辺は、去年9月の基準地価で、商業地は全国一の上昇率となり、今もマンションやビル建設に加え、ホテルの開業が相次いでいる。金沢が得意とする全国規模の学術学会や国際会議が目白押し。日本政策投資銀行は、首都圏からの観光・ビジネス客は石川県で年間32万人増えると予想している。

  朝からのテレビ番組では「こうなると逆に北陸から首都圏へのストロー現象も心配」「地方創生が叫ばれる中、予想される太平洋側の大震災にそなえて大企業の北陸への分社化の動きも加速するだろう」と論義も熱かった。

  同じ14日の正午ごろ、今度はショッキングなニュースが飛び込んできた。殺人事件だ。福井大学大学院の前園泰徳・特命准教授が今月12日朝、福井県勝山市内に止めた車の中で、教え子の大学院生(女性)を殺害したとして逮捕された。報道によると、司法解剖の結果では、院生の首にはひもなどで絞められた痕がなかったが、手を使って犯行に及んだ可能性が高いとみて調べている、という。前園准教授は、勝山市で赤トンボの生態について進めていて、金沢大学が中心となって進めている北陸ESD教育の福井地区の主力メンバーだった。ESD(Education for Sustainable Development)とは聞き慣れない言葉かもしれないが、自然と生命(いのち)のつながりを感じたり、地域に根ざした伝統文化や人びとと触れながら多様な生き方を学ぶといった先駆的な教育手法だ。

  前園准教授と初めて名刺を交わしたのは昨年2014年2月22日のこと。金沢市内で私も関わっている「角間里山ゼミ」の設立記念ワークショップでお目にかかった。研究熱心で、子供たちへの環境教育のリーダー的な存在との印象だった。顔も鮮明に覚えていただけに、何かの間違えではなかと一瞬わが目と耳を疑ったほどだ。どのような背景があったにせよ、ショックという以外、言葉がない。

⇒15日(日)午前・金沢の天気   はれ  

★戻り寒波と北陸新幹線

★戻り寒波と北陸新幹線

  けさ6時20分ごろから、「雪すかし」をした。雪すかしは金沢では除雪のこと、「雪かき」と言ったりもする。ことしの正月三が日が雪すかしのピークで、2月に入ってからはほどんどスコップを持ったことがなかった。ご近所さんとも「雪が降らないので助かりますね」と言葉を交わしていた。それがここ数日の雪模様と荒れ模様、けさは我が家の周囲でも10㌢ほどに積もった=写真=。例年3月中旬ごろにチラチラと雪が舞い降りることがある。それを「名残り雪(なごりゆき)」と、冬の季節の終わりを告げる旅情的な表現にたとえる。しかし今回の雪は、昨日からの強風といい、積雪といい、まさに「戻り寒波」だ。

  けさ雪すかしをして感じたのは、雪がとても重いということ。水分がたっぷりと浸み込んでいるのだ。庭の枝木は大丈夫かと、つい見上げたほどだ。暖冬と言われていたので、ことしは樹木を積雪から守る「雪つり」を外す作業を早めに、またスノータイヤとノーマルタイヤの交換も早めにしとうと考えていたが、予期せぬ戻り寒波が来て、「早まらなくてよかった」と。と、同時に金沢の街路樹は大丈夫なのかと、ふと考えがよぎった。

  というのも、市内メインストリートの街路樹の雪つりを外す作業はすでに今月3日から始まっている。今月14日に迫った北陸新幹線金沢開業を見据えて例年より1週間早く外す作業を始めているのだ。観光客向けに残すJR金沢駅東口のクロマツのほかは、市道や公園にある6万5千本余りの雪つりを外している。すでに雪つりが外された樹木の中には、今回の戻り寒波の重たい雪でボキリと枝が折れたものがあるのではないか。これは想像だ。

 県が管理する国の特別名勝・兼六園の雪つり外しは例年通り16日からの予定だというのでは、今回、樹木への被害はそれほどないだろう。北陸新幹線金沢開業に合わせて、早く「春の装い」を整えようとした金沢市の行政側の心意気は理解できるが、タイミングが外れたようだ。この戻り寒波は数日続くという。

⇒12日(木)朝・金沢の天気   ゆき

☆あれから4年,街は

☆あれから4年,街は

  前回のコラムの続き。畠山重篤さんの事務所を辞して、気仙沼市の海の玄関口「内湾地区」を訪れた。震災後の2011年5月11日に被災地を訪問しており、3年9ヵ月ぶりだった。地元の方々からこの表現はお叱りを受けるかもしれないが、街の様子を眺めて「がっかりした」が第一印象だった。何しろ、震災から2ヵ月後の街並みの記憶とそう違わない。今でも街のあちこちでガレキの処理が行われているのである=写真・上=。もう街並みは復興しているものだとばかり思っていたので、その視覚のギャップが大きかった。

  2011年5月の気仙沼訪問で目に焼き付いていた、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船「第十八共徳丸」(330トン)=写真・下、2011年5月撮影=を見ようと現場に行った。が、すでに解体されていた。その後のニュースでは、気仙沼市は「震災遺構」として共徳丸の保存を目指していた。ところが、所有する水産会社が市側に解体の意向を市に伝えていたようだ。最終的に2013年7月に市側が市内の全世帯6万5千人(16歳以上)を対象に、漁船を震災遺構として残すことへの賛否を尋ねるアンケートを実施したところ、回答数1万4千のうちおよそ68%が「保存の必要はない」で、「保存が望ましい」16%を上回った(以上、気仙沼市ホームページより平成25年8月5日の記者会見資料より)。被災住民とすれば、日常の光景の中でいつまでも被災の面影を見たくはなかったのだろう。こうした住民の意向を受けて、市側は漁業会社の解体に同意し、共徳丸は同年10月に解体撤去された。

  それにしても、なぜ復興工事が進んでいないのだろうか。同じ市役所のホームページに、「気仙沼市震災復興推進会議について(開催概要)」とするPDFが上がっている。住民と行政側が復興の現状について意見を交わした議事録だ。この中で気になったいくつのケースを拾ってみる。たとえば、市役所の職員確保の状況について説明を求めた質問では、「全国の自治体に即戦力となる自治体職員の派遣を依頼する一方で、本市で雇用する職員募集をかけている。任期付職員については、専門性を必要とする土木・建築職員に関して地元の応募が得られず、今年から首都圏でも募集をかける予定である。」(2014年7月の第10回会議)との回答だ。全国から行政職員の応援をお願いしているが、それでも土木・建築系の職員が地元では集まらないという現実があるようだ。行政のマンパワーだけでなく、被災地は建設工事ラッシュなので、漁港施設、海岸、道路、河川、土地区画整理、宅地造成、下水道等の工事が同時進行している。しかも、国や県、各自治体が一斉に工事を発注するので、建設会社の落札に至らないというケースがあるようだ。したがって、工事ができず、さらに工期が伸びるとうい悪循環が起きていることが察せられる。

  しかも、全国総合開発をほうふつさせるアベノミクスの「国土強靭化計画」で全国で工事ラッシュだ。そうなると、優先されるべき被災地でも現場の作業員が不足するだろう。資材(採石、生コン、コンパネなど)や建設機械(ダンプトラックなど)の不足もあるだろう。工事に着手したとしても、工事が進まない、そんな気仙沼市の市街地を眺めながら、進まぬ復興の現実を考えさせられた。

⇒8日(日)午後・金沢の天気   はれ

★畠山重篤さんのこと

★畠山重篤さんのこと

  先月(2月)10日、宮城県気仙沼市に、畠山重篤氏を訪ねた。畠山氏といえば、あの「森は海の恋人」の提唱者だ。NPO法人「森は海の恋人」理事長。気仙沼の舞根(もうね)湾において今も家業のカキ・ホタテの養殖に従事している。畠山氏を訪ねたこの日、湾内は青空が映えて、なんとも静寂で、まるで鏡のようだった=写真=。

  畠山氏は、この海を守ろうと、1989年より環境が悪化した湾内に注ぐ大川上流の室根山で、「森は海の恋人」をキャッチフレーズに植樹活動を始める。子どもたちへの環境教育も積極的に行い、その活動は国際的にも評価されている。2011年の国際森林年で国連森林フォーラム(UNFF)よりフォレストヒーローを受賞、2015年のことし2月、地球環境の保全に貢献した人を顕彰する「KYOTO地球環境の殿堂」の殿堂入り者に選ばれている。

  これまで5度直接お会いしてお話をさせていただいた。最近では、2012年2月2日、仙台市で開催された、三井物産環境基金シンポジウム「東日本大震震災からの復興戦略を考える創造と連携」だった。パネル討論で畠山氏が熱弁をふるった。以下、話はちょっと長くなる(畠山氏の要旨)。

  総合地球環境学研究所(京都)のプロジェクトチームが7年かけて調べた結果は驚くものだった。ロシアと中国の国境を流れる世界8番目の大河、全長4500kmのアムール川の両側にある大森林で作られるフルボ酸鉄がオホーツク海に流れて、千島列島にあるブソール海峡の間を通る潮流が太平洋まで来ていることが分かった。つまり、アムール川沿いの栄養塩で三陸のわれわれも恩恵を受けている。森は海の恋人は世界に広がっているのです。では、三陸沖の魚を将来とも捕っていくにはどうしたらいいか。それは、アムール川の流域の環境をどう保全していくかにかかっています。相手は中国とロシアですから、容易ではありません。私は、教育しかないと思いました。つまり、ロシアと中国の子供たちの教科書にどうやって「森は海の恋人」の思想を入れていくか。日本海側に住んでいるわれわれは、目の前のことだけを見ているだけではなく、揚子江も見ないといけないのだと思っています、と。

  熱弁の後の懇親会の立ち話で、「いよいよ森は海の恋人を世界に向けて発信ですね」と水を向けると、畠山氏は「川の流域に住んでいる世界の人の心に木を植える運動が始まればと願っているのです」と嬉しそうだった。ニューヨークの国連本部で、国連森林フォーラム(UNFF)よりフォレストヒーローを受賞したのはその7日後のことだった。

  今回、畠山氏を訪ねたのは講演の依頼だった。70歳を過ぎてもツヤツヤとした髪と髭をしておられるので、「カキの栄養分が行き届いていますね」と切り出すと、「ことしのカキは最高によかった。(震災後)海は再生しているよ」と。2015年3月15日午後1時30分から、石川県珠洲市で金沢大学主催フォーラム「世界農業遺産『能登の里山里海』のこれから」で、「森里海の復興から地域再生へ」と題して講演いただくことになった。この講演はユーストリームで配信予定だ。

⇒7日(土)午後・金沢の天気   くもり

                       

☆共感する英語表現

☆共感する英語表現

  小泉牧夫著『世にもおもしろい英語』(IBC)に引き込まれた。還暦を機に英語を学び直ししている訳ではないのだが、友人から薦められて手に取った。英語習得のノウハウ本とはまったく違う、ある意味でマニアックな本だ。いくつか著書を引用して考察を交える。

  言葉は人間が使うものだから少々の感性のズレはあっても、似たような表現になる、それも英語も日本語でもある。日本語で「鼻差で」「間一髪で」という表現がある。鼻差で、あるいは髪の毛1本の差は、わずかの差でという意味だ。この表現は英語表現でも使われるという。たとえば、win by the nose あるいは win by a hair である。日本語を英訳したのではなく、もともとイギリスやアメリカでも使っている。

  そこで言葉というものを考えると、英語にしても日本語にしても、ルーツというか所詮は、口でしゃべり、耳で聞き、鼻で感じるといった人間の五感を他の人と共有したものだ。多少の違いがあっても、その五感が世界でほぼ共有されていれば、言葉の表現も自ずと似通ってくる。著書によると、たとえばアメリカの俗語で eye-opener という表現がある。「(目覚ましの)酒」「シャワー」という意味だが、ある事実を知って「目を見張る」「目が覚める」思いを表現で使われる。まさに日本語でも使う「開眼」「目が開かれる」である。

  色彩感覚にしてもそうだ。日本人は「けじめをつける」「単純化する」という意味を「白黒をはっきりさせる」という表現を用いる。小泉氏によれば、英語だと、a black and white issue は白黒がはっきりとした単純な問題となる。また、赤は「危険」「興奮」「怒り」「損失」など多様な表現をともなうと例が紹介されている。「red light」は信号の「止まれ」、「see red」は「怒り出す」など。もちろん、英語ならでは言い回しもある。「red herring」は直訳すれば「赤ニシン」だが、「偽の情報」といった意味がある。魚のニシンは酢やスパイスを混ぜて燻製にすると赤くなるそうだ。ただ強烈なにおいがする。イギリスではキツネ狩りに反対する住民らが動物虐待への抗議の意味で狩りの予定地にこの赤いニシンをまいた。すると、猟犬の嗅覚がおかしくなって寄り付かなかったというのだ。それがいまでは「ガセネタ」という風な表現として現代社会で生きている。

  著者はこうした事例を中心に「人生編」「仕事編」「洒落た表現編」「恐怖表現編」「動物編」というように生活感覚で解説、紹介している。英語習得のノウハウ本はこれまで何度も途中で放棄したが、これは一気に読んだ。歴史や風土は違うものの人としての五感や感覚はそんなに違わない。人体が同じだから。言葉表現の文法などは異にしても、根っこにある言葉の感性は同じだ、そう考えると英語に親しみがわいてくる。

  最後に、これまで日本人は自らの逆境を正直に「難しい」と表現してきた。しかし、アメリカ人は「difficult」と表現するより、「challenging」という表現を好むという。逆境は「姿を変えた幸福」だとの表現だ。今の日本の若い世代は後者の表現に共感するのではないか。人生を前向きに考えるヒントも与えてくれる。

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