#コラム

★安保法成立

★安保法成立

安保保障関連法をめぐる与野党の攻防が19日午前零時すぎ、法案採決の本会議が始まった。特別委員会で強行された可決を委員長が報告し、与野党が討論した。民主党の議員は「立憲主義、平和主義、民主主義。戦後70年の日本の歩みにことごとく反する法案を、数の力におごった与党が通過させる。申し訳ない。戦いはここからスタートする」と反対意見を、また、自民党の議員は「日米同盟がより強固になり、戦争を未然に防ぐ。我が国の能力に応じ国際社会で責任を果たす。政治の責任で我が国の安全保障のあり方を決めないといけない」と賛成意見を述べた。

  午前2時すぎに記名投票が始まった。壇上の野党議員は「戦争法案反対」などと叫びながら、法案反対の青票を掲げていた。与党議員は賛成の白票を積み上げていた。午前2時18分。野党議員が「憲法違反」と叫ぶ中、賛成多数で同法は可決した。中谷防衛大臣が議長と議場に向かって頭を3回下げた。賛成148票、反対90票だった。

  午前2時すぎだったので、新聞の朝刊はごく一部の地域を除いて、きょう(19日)付の朝刊一面の大見出しは「安保法成立へ」だった。そこで午後から普段は購読していない夕刊を金沢市内のコンビニで買い集めた。夕刊の見出しを比較すると、読売新聞は「安保法成立 集団的自衛権行使 可能に 防衛政策 歴史的転機」だった。北陸中日新聞は「安保法 未明に成立 平和主義転換、米支援拡大」、地元紙の北國新聞は「安保法が成立 集団的自衛権可能に 戦後政策の大転換」だった。北陸に輪転工場がない朝日新聞、毎日新聞の各紙はコンビニでは売っていない。

  ここで見出しから各紙を比較すると、「安保法で平和主義の転換」と位置づけするのか、「安保法で防衛政策の転機」とするのかで解釈が分かれる。「平和主義の転換」の論拠は平和憲法の根本の拠り所である9条のなし崩しによる転換となろう。一方、「防衛政策の転機」は従来の憲法解釈では認められなかった集団的自衛権の行使が可能になったことで、安全保障政策が転機を迎えたという意義付けである。

それにしても、ちょっとドキリとした写真と見出しがあった。19日付朝刊の北陸中日新聞の社会面の見出しは、「戦場 いつか」で、その写真が迷彩服を着た自衛隊員の後ろ姿だった。はやとちりか、自衛隊員がさっそく戦闘行動を始めたような印象なのだ。記事を読むと、関東・東北で被害を出した茨城県常総市で行方不明者を捜索する自衛隊員の後姿。記事を読むと、自衛隊員に救助された主婦が感謝の言葉で、戦場に行ってほしくないという内容なのだ。主婦は実名でない。迷彩服の自衛隊員のバックショットの写真が異様に大きいので違和感を感じるのだ。

  今後の政治とメディアはどのように動くのか。いよいよ来夏の参院選など国政選挙が面白くなってきた。18歳以上の若者も参政する選挙である。今回の安倍政権の一連の行動を国民がどう判断するのか。

⇒19日(土)夜・金沢の天気    くもり

☆政治と憲法のはざま

☆政治と憲法のはざま

   安保法制をめぐる動きで、気になるのか言葉の質の低下である。衆院本会議で安保法案が可決された7月16日、新聞紙面を拾ってみると、こんな言葉があった。以下。

   本会議の採決を退席した民主の議員は「これほど国会の中の光景と、国会の外の国民の声がかけ離れて聞こえた経験はない」と語った。議員は審議を振り返り、「総理は何をしてもいいとお考えなら、勘違いされているのでは」(7月17日付・朝日新聞)

   この議員は世論がこれだけ安保法制に国民世論が異議を唱えているのになぜ法案成立へと突き進むのか、と言いたいのだろう。しかし、これは政治家の言葉だろうか。世論を味方につけるという政治手法はあるが、この安保法制はそのレベルの議論なのだろうか、と思ってしまう。

   憲法を守る立場に政治家が改憲という正式な手続きを踏まずに、中身だけを変える、いわゆる解釈改憲をするのは、憲法に対するクーデターであり、民主主義の危機だと法案に強く反対する声がある。その声の背景をさらに突き詰めると、国際法との解釈と連動してくる。集団的自衛権は国連憲章でも例外的に認めている。が、実際には自衛というより、軍事的に優位なアメリカが自国の権益や利権を守るために武力を行使するための「口実」にすぎない。今回の安保法制は、アメリカの世界戦略のために自衛隊とアメリカ軍の一体化を進める狙いが透けて見える。だから、反対という立場だ。

   これに対し政治の論理がある。まとめると、戦後の日本の平和は憲法9条で守られてきたというのは現実的はない。日本とアメリカの安全保障条約があったがゆえに戦後の平和も守られてきた。では、なぜこれまで日本は集団的自衛権に踏み込んでこなかったというと、アメリカとソビエトの冷戦時代があり、一方に組すると米ソが全面戦争になった場合、その戦争に参画さぜるを得なくなる、それは9条にも反し、余りに危険というのが政治の立場だった。ところが現在は全面戦争ではなく、地域紛争の時代である。たとえば南シナ海といった海域で、中国とフィリピンの有事があれば、中国との尖閣問題を抱える日本にもその影響は及ぶ。そのときに、自衛の手段が集団的か個別的かという議論をしている場合でなない。東アジアの国々と紛争の平和的解決に向けて連帯的に行動を取る必要がある。

   周囲に地域紛争の可能性がなければ、ときの政権が9条の立憲の精神を見直して安保法制を破棄すればよい。つまり、9条というのは政策目標であるべきで、日本の平和を守るために、世界の政治の動きを見ながら、集団的自衛権に組する、しないを判断すればよい。そう考えるのだが。

⇒18日(金)朝・金沢の天気     くもり

★「国会周辺」を読む

★「国会周辺」を読む

  参院特別委で安保関連法案が可決したきょう17日、東京へ日帰り出張があった。出張先が国会議事堂の近くだったこともあり、帰りにタクシ-で国会周辺を一回りした。雨が時折強く降っていた。

  金沢でテレビを視聴ていると、最近、安保法制に関して「国会周辺では…」とのフレーズをやたらと耳にする。国会内での政治的な動きより、むしろ外の動きをメディアは気しているのではいかと思うほど、アナウンサーやキャスターが「国会周辺では…」と繰り返している。そこで、国会周辺は一体どうなっているのか、どのような人たちが行動を起こしているのか、気になったので、ちょっと現場を覗いてみたということだ。滞在時間はわずか15分ほどだった。

  タクシーの運転手に尋ねると、きょう(17日)は、午前9時ごろから国会正門前で抗議集会が始まり、「戦争法案、今すぐ廃案」と訴えていたという。訪れたのは午後2時ごろ。雨が断続的に降っているが、雨具を着た人たちが「強行採決、絶対反対!」などと叫んでいた。道路両側の歩道は目算で150㍍ほどが人で埋め尽くされていたという印象だった。

  気がついたことが2点あった。テレビメディアなどでは、若者たちの抗議グループ「SEALDs(シールズ)」がよく抗議の声を上げている映像や写真が掲載されているので、大学生たちが大勢い活動に加わっているのだと思っていた。いまは学生は夏休みでもあり、日中でも一番動きやすい時期でもある。ところが、若者らしき姿はちらほら見えるが、グループ化していないのだ。唯一目にしたのは「○○美大有志」というプラカードはあった。かつての「70年安保」のように、学生たちが「○○大学学生自治会」といった横断幕やプラカードを多数掲げてのデモの先頭を行進するイメージをしていたのだが、そうではない。

  むしろ目立ったのは、「○○教組」「国労○○」「自治労」「新日本婦人の会○○」といった政党と結びついた組織だった。それも、地名を読むと全国から来ている。つまり、「組織動員」という感じなのだ。

  近年にない、国会周辺での盛り上がりなのだが、来る参院選で選挙権が与えられる18歳からの若者世代がどう動くのか。「SEALDs」の代表はよくテレビに出て発言しているが、彼が本当の若者たちのシンボルなのか。安保法制をめぐる動きからはまだ学生・若者たちのトレンドが読めない。(※写真は17日午後2時ごろ、国会正門前の道路で)

⇒17日(木)夜・金沢の天気     くもり

☆ファンドマネージャー

☆ファンドマネージャー

   ことし5月11日に放送されたNHK番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」にファンドメネージャーとした出演した新井和宏氏(鎌倉投信株式会社資産運用部長)。ある意味で硬派な、この番組に金融関係者が主役になるのは珍しい。金融というと、経済状況がよいときは盛んに投資を勧め、悪くなるとさっと逃げてしまうという、怪しい印象がある。昨日(22日)金沢大学での講演会(「NPO法人角間里山みらい」など主催)で初めて新井氏の話に耳を傾けて、「この人は逃げない」と思った。

   番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」では、慈善家的なファンドマネージャーとして描かれていたが、講演ではその話しぶりからプロとしての人柄がにじんでいた。数兆円を運用していたそれまでの資産運用会社を体調を崩して辞め、7年前に仲間3人とともに金融ベンチャーを立ち上げた。鎌倉にある古民家を4人で修復して、オフィスとしている。現在8千人の投資家から140億円を託されている。資産運用部長として新井氏が株式を通じて投資しているのは46社だ。ツムラやヤマトといった大手企業から、赤字や非上場の中小零細まで新井氏が「いい会社」を発掘して、その全てに同じ金額を長期で投資している。ある1社の株が暴落しても、ダメージを受けないようにする、リスクヘッジでもある。

   どのような方法で「いい会社」を探すのか。講演の休憩の合間に、名刺交換をさせていただいたが、その名刺にヒントがあった。点字付きなのだ。新井氏がこだわっているのは、社会的に意義があるなど、その事業に心から共感しないと、投資先にはしない。そして、その候補先の真価を見極めるため、社員面談を欠かさない。会社が苦境に陥ったとき、社員が踏ん張れるかどうか、その見極めは「社員の仕事に対する気持ちだ」と新井氏は強調した。社員と直接会うために、その社員が視覚障碍者であっても面談して、会社に対する気持ちを聞く。そのための点字入りの名刺だ。

   新井氏は、著書「投資は『きれいごと』で成功する」(ダイヤモンド社)でこう書いている。「人間には、健常者もいれば障碍者もいる。でもその区分けは、とても微妙だとも思います。たとえば、知的障碍者は、物事を処理するのに時間がかかります。でも、健常者との違いはそれだけ、とも言えます。」と述べて、エフピコを事例を紹介している。広島県福山市に本社がある同社は食品トレーや弁当・総菜容器最大手で、障害者雇用率は16.10%、人数にして369人(「CSR企業総覧」2014年版)。障碍者は、回収した使用済み容器の選別工場、折箱容器の生産工場を中心に、全国21カ所の事業所で雇用されている。単純作業と見えるかもしれないが、黙々と達成感をもって仕事をする彼らこその現場の戦略となっている。慈善やCSRで障碍者を雇うのではなく、「本当に彼らを活かせる会社は、『時間がかかる』を『粘り強い』と読みかえ、能力が最大化される場を見つけて配置します。そして自分の場所を見つけたら、人はキラキラと目を輝かせて働きます。」(「投資は『きれいごと』で成功する」)

   話はまた番組に戻る。番組の後半に、フェアトレードの代表者と新井氏が話し合う場面がある。代表が「融資というかたちで私たちの活動に参加して欲しい」と訴える。が、新井氏はそれに対しては返事をしない。もし、新井氏が視線が支援途上国の人たちの支援にあれば、おそらく「イエス」だろう。でも、新井氏はファンドマネージャーだ、当然、投資家に目線がある。社会的に意義のある団体や企業に投資することと、ボランティア団体への募金を一緒にしてはならない。ファンドマネージャーはあくまで投資対象の企業価値を見ている。投資家を慈善家にしてはならない。そんな厳然とした意志が見えた場面だった。

※写真は後援会のチラシ

⇒28日(日)朝・金沢の天気   はれ

  

★中国の爆発と記者会見

★中国の爆発と記者会見

   中国・天津市で、13日未明に起きた大規模な爆発は日本のテレビでも大々的に報道されている。すさまじい爆破だったと察する。報じられた気象衛星「ひまわり8号」の撮影による地球上空の画像でも、天津の爆発がはっきり見えている。現場から500㍍離れた地点で、24時間余りたった今も、黒煙が上がっている。

   こうした事故の様子、たとえば死者や負傷者の数は日本の場合、消防当局がその都度記者会見して発表する。中国でもこの天津の爆発に関して13日午後に会見した、と日本のテレビが伝えている。それによると、これまでに44人が死亡し、けが人は521人にのぼっているとの発表だった。爆風で広範囲のマンションなどに被害が出ていて、住民3500人ほどが避難しているという。

   注目したのは44人の死者の内訳だった。44人の死亡者のうち、12人が消防士という。消防士は爆発の後に現場にやってきて、消火や救助活動に当たる。そうした消防士の12人が亡くなったということは、住民の被害は相当に大きいと想像する。2001年9月11日のニューヨーク市での同時多発テロでの犠牲者3025人のうち、消防士は343人といわれている。災害現場に入る救助活動のプロでもこれだけの命を落としている。救助側の犠牲が大きいということは、住民側の犠牲者もまた相当に大きいと察する。

   問題は会見の発表内容だ。当局はどんな化学物質が爆発現場の倉庫に保管してあり、爆発したのかは明らかにせず、会見は打ち切られたという。そして、防護服を着た消防隊が、砂の混じった消火剤をまくなどして、対応にあたっていることだ。つまり、化学物質が特定できないので、消火の対応に決め手がなく、とりあえず砂をまいているという風にも解釈できる。これが日本で起きた事故だったら、メディアは「場渡り的な対応」と消防当局に批難を集中させるだろう。

   願うのは、被害の大きさ(死者や負傷者数、家屋の倒壊数など)の事故原因を解明してほしいということだ。2011年7月に起きた中国・温州市での鉄道衝突脱線事故では死者40人(中国政府発表)とされたものの、事故原因の徹底究明がなされないまま、車両が現場の高架下に埋められたとの一件が記憶に生々しい。今回の爆発事故では、記者会見を一回限りで打ち切ることなく、その都度開催して事故の真相を明らかにしてほしいと願う。当局のそうした真摯な態度が、中国への信頼を回復させるきっかけとなると考えるからだ。

⇒14日(金)朝・金沢の天気   あめ

☆夏安居(げあんご)

☆夏安居(げあんご)

    今回も庭での話。先日、草むしりをしていて、夏安居(げあんご)という言葉を思い出した。30度を超す暑さの中、地面と向きあい、手を動かしていると、頭の中で湯気が湧き立つような不快感がよぎって、家に入った。汗びっしょりで、シャワーを浴びても、腕から汗がたらたらと落ちた。もし、変に頑張っていたら熱中症で倒れて病院行きだったかもしれない…。「夏安居とはよく言ったものだ。夏は家の中にいるのが一番」とつい言葉が出た。

  夏安居は仏教用語。インドの夏は雨期で、仏教僧がその間外出すると草木虫などを踏み殺すおそれがあるとして寺などにこもって修行したことに始まる(三省堂「大辞林」)。雨安居(うあんご)という言葉もある。もう少し解説すると、夏は動植物たちの営みが盛んな季節なので、そんな草原や山中に人間が入ってもろくなことがない。だから夏は寺に戻り、修行をするのがよい、という意味だろう。

  仏教は頭の中でつくり上げたイマジネーションなどではなく、山の暮らしの中で動植物の観察の中から、自然と人がどう共存するかという知恵のようなもの。修行僧が山にこもるのも、自然から教えを請うためだ。ところが、夏は動物や虫たちの動きが活発になるので、刺されたり、噛まれたり、暑さで体調を崩したりするので無視しない、寺に戻り修行せよということになる。いわば経験則だ。

   現代風に言えば、熱中症が怖いので、外出は避け、家のエアコンで涼んで酷暑が去るのを待とう、それが自分なりの「夏安居」の解釈だ。還暦を過ぎて何事も無理しないという勝手解釈でもある。夏安居、なんて奥深く、使い勝手がよく、有難い言葉であることか。草むしりやをやめて、エアコンの効いた室内から庭を眺めながら、ウイスキーの水割りを飲んで、ついうとうとしてしまった。外気温は33度だった。

⇒10日(月)朝・金沢の天気    はれ

★金沢の「透かし」剪定

★金沢の「透かし」剪定


  先日、夏恒例の庭木の刈り込み(剪定)をいつもの造園業者にお願いした。若手の庭師4人が2日がかりで作業をしてくれた。すると不思議なもので、庭だけでなく、お願いしたこちらも心がすっきりとするのだ。

  庭木は自然に任せると、3、4ヵ月で枝が込み入り、葉が繁り放題になる。庭木として形状を保つためには、刈り込みが欠かせない。剪定によって樹木の内側まで光があたるようになるため、樹木が丈夫に育つともいわれる。また、特定の庭木だけではなく、全体の刈り込みで庭の調和をはかる。2日間はどうしても必要な作業日程なのだ。

  たとえば、生垣。刈り込むことにより芽を詰まらせて、街路からの目隠しとしての役割を果たす。庭木は、形状を整え、樹木が有する本来の美しさを保つ。もう一つの剪定の効果は、刈り込みで病害虫を防ぐことである。日当たりや風通しを良くすることで、害虫をつきにくくするのだ。というのも、庭木への害虫には、葉を食う毛虫類や、幹に穴をあける害虫などがあり、多くは葉の裏に潜んでいたりする。こうした刈り込み作業を毎年夏のお盆前ごころに依頼している。

  ある造園業者の方と話していたら、面白い話を聞いた。「金沢では、庭木をいじめ限界にまで刈り込む昔からの伝統がある」というのだ。そんなに強く刈り込むと、へたをすると枯れるのではないか」と尋ねると、「むしろ、きれいな花を咲かせる」という。それを、金沢では「透かし」と言って、枝が重なり合っている部分の、不要な枝をとことん切り落として透かし、内部まで風が通るようにする。これは、上記の害虫対策だけでなく、べったりと重い金沢の積雪から庭木の枝を守るための知恵なのだという。

  ただ枝葉を剪定するのではなく、庭木への積雪をイメージ(意識)して、剪定を行うということに金沢の庭職人の心得や技というものを感じる。「金沢の強刈り込み」「金沢のいじめ剪定」という言い方をする人もいるが、悪い意味はなく、庭木本来の美しい形状を保つための金沢ならでは剪定技巧なのである。積雪から枝を守る「雪吊り」と合わせて考えるると庭木に対する人の奥深い思い入れを感じる。

⇒8日(土)朝・金沢の天気   はれ

☆天国への階段を守る

☆天国への階段を守る

  7月30日のNHK-BS1番組「国際報道2015」で、金沢大学が取り組んでいる、フィリピンのユネスコ世界文化遺産、FAO世界農業遺産の「イフガオの棚田」での人材養成プログラムが紹介された。午後10時40分からのワールド・ラウンジのコーナーで10分ほどの特集だった=写真=。タイトル「〝天国への階段〟を守るために」。7月25日には地上デジタルのNHK「おはよう日本」でも紹介されていて、知人からは「テレビ見たよ」とメールをいただいた。

  このプログラムは、金沢大学がフィリピン・ルソン島イフガオで実施している国際協力機構(JICA)草の根技術協力事業「世界農業遺産(GIAHS)イフガオの棚田の持続的発展のための人材養成プログラムの構築支援事業」(通称:イフガオ里山マイスター養成プログラム)だ。2013年5月、能登で世界農業遺産国際フォーラムが開催され、そのときに能登コミュニケ(共同声明)が採択された。その内容は「先進国と開発途上国の間の認定地域の結びつきを促進する」などの勧告だった。このコミュニケを今後の能登にどう活かせばよいのか。金沢大学里山里海プロジェクトの代表、中村浩二教授と思案をめぐらし、フィリピンのイフガオ棚田との連携を思い立った。

  イフガオの棚田は、ユネスコや国連食糧農業機関(FAO)により国際的に評価を受けているものの、若者の農業離れや都市部への流出により、耕作放棄地の増加が懸念されている。4分の1が耕作放棄地になりつつあるとの指摘もある。地域の生活・文化を守り、継承していく若者も減っている。さらに、絶景で「天国への階段」とも称される棚田が崩れることもままある。そのために、JICAや世界のNGOが懸命になって、地域を支援している。ただ、土地には土地の人の考えがあり、そう簡単ではない。

  実は、同様の課題を有しているのが、能登半島だ。担い手が減り、田んぼを始め、山林や畑、地域の祭り文化も後継者がいないというところが目立っている。若者たちにもう一度地域の価値を理解してもらい、地域をどのように活用すればよいか、そのようなことを考え、実践する人材を育てている。金沢大学が地域の自治体とともに取り組んでいる、「能登里山里海マイスター」育成プログラムがそれだ。もう8年間続け、修了生(マイスター)は107人になった。各地で107人の活動は能登を明るくしていると自負している。

  イフガオの話は金沢大学の中村教授が勝手に進めたのではなく、フィリピン大学の教授たちから、能登の人材養成を取り組みをぜひイフガオで活かしたいとのオファーが中村教授にあり、どうノウハウを移転すればよいか、JICA北陸や同じ世界農業遺産の佐渡の人たちと連携を進めた結果なのだ。

  そのイフガオ里山マイスター養成プログラムが昨年4月に始まり、2年目にしてさまざまな成果が表れてきた。番組で紹介されたマイラ・ワチャイナさん(29)のライス・ワイン。当地では伝統的な酒づくり。大鍋を使って米を火で炒(い)る。こんがりきつね色になるまで炒って、水を入れて炊きく。そこに昔から伝わるイースト菌を入れてバナナの葉でくるみ、5日間発酵させれば出来上がり。イフガオ伝統のティブンと呼ばれるライスワイン。酸味が効いて、甘味があり、確かに日本酒よりもワインに似た味だ。これまでは各家の地酒だった。それを品質を統一して共同出荷することでイフガオブランドの酒として地元のホテルや海外に出荷できないか視野が広がってきた。昨年9月、能登研修で造り酒屋を見学したマイラさんは酒瓶のラベルに注目していた。自作のラベルを考案して、酒瓶に貼って、共同出荷する。もともと有機栽培のイフガオの米はもっと世界に売れてよい、さらにライスワインが売れれば、土地の誇りにもなり、棚田を耕そうとする若者も増える、そうマイラさんは考えているのだ。

     また、有機の水田を活用したドジョウの養殖も番組では紹介された。ライスワインとドジョウ、地道なビジネスかもしれないが地に足をつけた、可能性のあるビジネスだ。

  イフガオ里山マイスター養成プログラムはそういったアイデアを持った若者たちの夢や希望を育む場、なのである。同じく若者たちが都会に流失して田んぼが荒れていることを憂う能登里山里海マイスター育成プログラムの受講生たちとは相通じるマインドがそこにある。まさに棚田を救う天国への階段、NHKが2度も放送した価値はそこにあるのだろう。

⇒2日(日)午後・金沢の天気  はれ

★「金沢空襲」計画

★「金沢空襲」計画

  戦争ネタが新聞やテレビに載りやすい夏の時期、ちょっと意外な記事があった。1945年7月にアメリカ軍によって「金沢空襲」が計画された、というのだ(7月26日付・北陸中日新聞)。金沢に住んでいる者の根拠のない共通の理解として、金沢は京都と同じく文化財的な街並みや寺院が多く、空襲の対象にはならなかったという認識を有している。その証拠に、金沢市郊外の湯涌汚染にかつてあった「白雲楼ホテル」は戦後、GHQ(連合軍総司令部)のリゾートホテルとして接収され、マッカーサー元帥らアメリカ軍将兵が訪れていた、と。

  新聞記事を以下引用する。太平洋のマリアナ諸島から出撃するアメリカ軍の日本空襲は1944年11月に開始され、東京や大阪、名古屋などの大都市攻撃がほぼ終了した45年6月からはその標的が地方都市に移った。北陸地方で最初の空襲は同年7月12日の福井県敦賀市、日本海側の空襲はとくに7月中旬から8月上旬に集中した。その後は、爆撃目標が市街地から港湾や鉄道に変更された。

  アメリカ軍が金沢市を攻撃目標とする空襲計画を立てていたことが分かったのは、アメリカ軍資料を収集する徳山高専元教授の工藤洋三さ氏(65)=山口県周南市=が分析したもの。金沢空襲の計画書は1945年7月20日付で作成され、同年8月1日夜に甚大な被害が出た富山大空襲の計画書が作られたのと同じ日だったという。一方で、同じく8月1日に空襲を受けた新潟県長岡市の計画書は、金沢より遅い7月24日付で作成されている。

  金沢空襲の計画書によると、攻撃目標は北緯36.34度、東経136.40度。現在の座標とは数100㍍の差異があるが、旧日本軍の司令部があった金沢城付近を狙ったとみられる。高度4500㍍ほどから爆弾を投下し、70分以内で攻撃を完了する計画だったようだ。

  記事では金沢への爆撃ルートも紹介されている。攻撃隊はまずグアム島の基地から出撃。硫黄島や現在の静岡県御前崎市上空を通過し、富山県黒部市付近で進路を北西に変える。石川県の穴水町あたり周回し、金沢に向かって南下。空襲後は再び、御前崎市や硫黄島の上空を通って帰還するルート想定だった、という。

  7月19日には福井市が焦土と化していたのでは、次は金沢と誰もが覚悟したことだろう。8月1日、B29の爆撃編隊は、金沢の上空を通り過ぎて、富山市に1万2000発余りの焼夷弾を投下した。11万人が焼け出され、2700人余りの死者が出た。実際は金沢に空襲なかった。計画が実行されていれば金沢市の中心分は灰じんに帰したていたことだろう。

  なぜ金沢は空襲を免れたのだろうか。そのヒントは北陸で最初に空襲を受けた敦賀市の事例にあるのかと考える。敦賀市では当時、日本海側の主要港湾で、大阪周辺で被災した軍事施設が疎開していたといわれる。また、富山には発電所を基盤とした重工業の工場が立地していた。ところが、当時の金沢は陸軍第九師団が置かれていたものの、産業といえば繊維が主だった。しかも、九師団の兵は台湾などに赴いていた。総合的に考察すれば、空襲の計画はされたものの、軍事的な価値では優先度が低かったのではないか。

  しかし、富山の場合は工場が集中的に目標になったのはなく全市が標的になった。いわゆる「無差別攻撃」である。この意味では金沢も攻撃対象になり得たのではないか。その後、8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下される。無差別攻撃は一気にエスカレートしたのである。

⇒31日(金)朝・金沢の天気    はれ

☆「酒蔵の科学者」の引退

☆「酒蔵の科学者」の引退

 昨日の地元紙の朝刊に、酒造りの名人と言われた農口尚彦(のぐち・なおひこ)さん(82歳)が杜氏(とうじ)を引退したとの記事が掲載されていて、能登町のご自宅を訪ねた。金沢大学の共通教育授業として「いしかわ新情報書府学」という科目を担当していて、非常勤講師として農口さんに語ってもらったことが縁でこれまでご自宅や酒蔵を何度か訪ねた。

 日本酒の原料は米だ。農口さんは、米のうまみを極限まで引き出す技を持っている。それは、米を洗う時間を秒単位で細かく調整することから始まる。米に含まれる水分の違いが、酒造りを左右するからだ。米の品種や産地、状態を調べ、さらには、洗米を行うその日の気温、水温などを総合的に判断し、洗う時間を決める。勘や経験で判断しない。これまで、綿密につけてきたデータをもとにした作業だ。酒造りのデータを熱心に記録する姿を見て、「酒蔵の科学者」との印象を強くしたものだ。

 冬場は酒蔵に住み込む農口さんは、夜中でも米と向き合い、米を噛み締める。持てる五感を集中させて、手触り、香り、味など米の変化を感じ取る。そのため、40代にして歯を失った。次に行うべき適切な仕事とは何かを判断するためだ。農口さんは言う。「自分の都合を米や麹(こうじ)に押し付けてはならない。己を無にして、米と麹が醸しやすいベストな状態をつくらなければ、決して良い酒は出来ない」。酒造りに生涯をささげた人の言葉はふくいくとした深みがある。農口さんは全国新酒鑑評会で連続12回、通算27回の金賞に輝き、「四天王」や「魂の酒造り」「酒の神」と呼ばれるまでになった。

 農口さん自身は下戸(酒が飲めない)なので、酒の出来栄えや批評は、飲める人の声に耳を傾ける。それでも、「一生かかっても恐らく、酒造りは分からない。それをつかもうと夢中になってやっているだけです」と能登方言を交えた語りがいまでも耳に残っている。「魂の酒造り」のゆえんはここにある。日本酒は欧米でちょっとしたブームだ。ワインやブランデー、ウイスキーなどの醸造方法より格段に手間ヒマをかけて醸す日本酒を世界が評価しているのだ。

 授業では、農口さんを紹介するビデオを流し、「神技」とも評される酒造りの工程を学生に見せた。授業の終わりに、農口さんが持参した酒を何人かの学生にテイスティングしてもらった。「芳醇な香り」「ほんのり感が漂う」「よく分からないけど、のどを通るときにふくよかな甘さを感じる」。最近の学生は意外と言葉が豊富だ。「生きた授業」になった。訪れたご自宅ではそんな懐かしい話もさせていただいた。

 自宅を辞するとき、農口さんから「これ一本持って行きなさい。これで最後だよ」と生原酒をいただいた。名工の最後の一本、ありがたく頂戴した。(※写真は、金沢大学の授業で学生たちと語り合う農口尚彦さん=右)

⇒21日(祝)夜・金沢の天気    はれ