#コラム

★伊勢志摩の肝(きも)-上

★伊勢志摩の肝(きも)-上

  ゴールデンウイークに伊勢志摩ツアーを楽しんでいる。伊勢志摩といえば、そう今月26、27日に開催される伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)の開催地でもある。JR名古屋駅から近鉄名古屋線に乗り換えて、終点の賢島(かしこじま)駅で降りるとものものしい警備体制の様子が見える。道路には随所に警察の警備車両が配置され、機動隊員が立っている。集落の細い道では自転車に乗った警察官も見えた。

「夫ひとりを養えんで一人前の海女とは言えん」

  駅周辺を散策しようとタクシーに乗り込む。海と山が入り組むリアス式地形ではカーブが多くアップダウンの道路が続く。どの道路でも左右の雑木などがきれいに刈り込みがされている。タクシーの運転手は「路上からの警備の見通しを効かせるために整備したんですよ」と解説してくれた。この警備体制は夜中も実施されているようだ。これだけ睨みを効かせると、テロリストも近づけないだろうと想像する。先の運転手によると、6機分のヘリポートがすでに設置されている。現地ではサミットに向けた準備が着々と進んでいる。

  それにしても、英虞湾を望む風景はまさに、人の営みと自然が織りなす里山里海の絶景だ。真珠やカキの養殖イカダが湾の入り組みに浮かぶ。昭和26年(1951)11月にこの地を訪れた当時の昭和天皇は「色づきし さるとりいばら そよごの実 目にうつくしき この賢島」と歌にされた。晩秋に赤く熟した実をつけたサルトリイバラ(ユリ科)とソヨゴ(モチノキ科)が英虞湾の空と海に映えて心を和ませたのだろう。昭和天皇はその後も4回この地を訪れている。歌碑は志摩観光ホテルの敷地にある。その少し離れた横に俳人・山口誓子の句碑もある。「高き屋に 志摩の横崎 雲の峯」。ホテルの屋上から湾を眺めた誓子は志摩半島かかる雲のパノラマの壮大な景色をそう詠んだ。

  テーマパーク「志摩スペイン村」で昼食をとった。入口でドン・キホーテとサンチョ・パンサの像が出迎えてくれる。セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』に登場する二人。まっすぐな理想主義を掲げる主人公のドン・キホーテと対照的に、大食漢で肥満、現実派の従者サンチョ・パンサ。二人のキャラは人間性を表現する永遠のテーマだろう。レストランで、スペイン産イベリコ豚のパエリア、小エビのアヒージョ、アサリのオーブン焼き、それにスペイン産の赤ワインも注文して、束の間の食事を堪能した。

  外に出て、テーマパークを散策すると女性の叫び声が聞こえてきた。しかも、一人ではない、阿鼻叫喚の地獄での人の叫びのように聞こえた。「ピレネー」というジェットコースターでの絶叫だった。ピレネー山脈のような山あり谷ありのレールを最高時速100㌔で走行する。上下左右に体が振り回されるので、見ているだけでも恐怖を感じる。若い係員に「気絶する人はいないの」と尋ねると、「ボクはまだ(気絶した人を)見たことないですね。速すぎて、乗ってみるとそんなに怖くはないと思いますよ」と。

  さて、このピレネーに挑戦してみるか、と心が揺れた。もし、ドン・キホーテだったら人間のチャレンジ精神を掲げて挑んだかもしれない。しかし、恐怖感と同時に、スペイン料理で腹が満たされ、ひょっとしておう吐するかもしれないと現実感もあった。結局乗るのはやめた。自分はサンチョ・パンサに人間性が近いなと内心思った。

  夕方、鳥羽市にある相差海女文化資料館を訪れた。相差は「おおさつ」と読む。かつて記者時代に能登半島・輪島市の海士町や舳倉島を訪れ、海女さんたちを取材し、ルポルタージュを描いたので、伊勢志摩の海女さんたちにも以前から関心を寄せていた。同市国崎では海女さんたちがとったアワビを熨斗あわびに調製して、伊勢神宮に献上する御料鰒調製所がある。二千年の歴史があるといわれる。資料館では、深くはやく潜るために石を重りにした石イカリがあった。平均50秒という海女さんの潜水時間を有効に使うため、速く深く潜るための道具である。かつて輪島でも夫婦舟といって、石を抱いて船に海に潜った海女がアワビをとり、命綱をクイクイと引っ張ると、舟上の夫が綱をたぐり寄せて海女を引き上げる。輪島と同じ漁法だ。写真(下)にあるセイマン(星形)とドウマン(網型)は海女が磯着に縫った魔除けのまじない。それほどに命がけの仕事でもあった。

  もう一つ同じだと感じた点がある。当地の言葉で「夫(とうと)ひとりを養えんで一人前の海女とは言えん」がある。輪島でも「亭主の一人や二人養えんようでは・・・」という言葉を聞いた。腕っぷしの強さ、自活する気概のある女性たちの自信にあふれた言葉だ。

⇒3日(火)伊勢志摩の天気   くもり  

  

☆続々・核なき世界への一歩

☆続々・核なき世界への一歩

  アメリカのオバマ大統領が来月(5月)下旬に三重県で開かれる伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)のため来日する折、被爆地・広島の平和記念公園を訪問する方針で最終調整しているとメディア各社が報じている=写真=。実現すれば、現役のアメリカ大統領としては初めてのことだが、それより何より、オバマ大統領が掲げる「核兵器のない世界」に向けた国際的な取り組みを継続的に発展させるためのシンボリックな一歩となる。

  オバマ大統領がまだ訪問を鮮明にしていないのは、アメリカ国内の退役軍人らを中心に「原爆投下によって終戦が早まった」とする意見が根強いからだろう。オバマ氏が広島を訪問する目的を「謝罪」ではなく、「不戦の誓い」の献花でよいのではないか。オバマ大統領の広島での献花の後、安倍総理が機会をつくって、今度はハワイのパールハーバーで献花すれば、日米相互の信頼関係を新構築する外交のチャンスだと考える。

日本政府がアメリカをはじめとする連合軍の占領から統治権を回復するまで、原爆問題はタブーだった。連合国軍総司令部(GHQ)の指令によって、日本のメディア(主に新聞、ラジオ)は情報統制(プレスコード)下に置かれたからだ。プレスコードの内容は、1)報道は絶対に真実に即すること、2)公安を害するようなものを掲載してはならない、3)連合国に関し虚偽的または破壊的批評を加えてはならない、4)連合国進駐軍に関し破壊的に批評したり、または軍に対し不信または憤激を招くような記事は一切掲載してはならない、5)連合軍軍隊の動向に関し、公式に発表解禁となるまでその事項を掲載しまたは論議してはならない、といったものだった。つまり、原爆の問題性を議論することそのものがこうしたプレスコードにひっかかった。

  1952年4月のサンフランシスコ講和条約以降になって、日本国内で自由に原爆問題が議論された。また、広島に平和記念公園が開設された1954年から現在の平和記念式典が開催されるようになった。戦争の恐ろしさと参戦という悲惨な過ちを繰り返さないという趣旨の行事であり、アメリカ側に原爆投下の責任を求める集会とはなっていない。

  むしろ、アメリカに原爆投下の責任を問うたのはストックホルム・アピール(1950年3月)だろう。1949年、ソビエトによる原爆保有声明が発せられ、アメリカのトルーマン大統領が水爆製造命令を出すなど、米ソの核軍備競争が過熱し出した。国際緊張が高まり、1950年3月にスウェーデンのストックホルムで開催された平和擁護世界大会で、「原子兵器の絶対禁止」「原子兵器禁止のための厳格な国際管理の実現」「最初に原子兵器を使用した政府(アメリカ)を人類に対する犯罪者として扱われるべき」とのアピールを採択された。世界中で署名運動が繰り広げられ、2億7347万の署名が集まったとされる。

  日本では署名が639万の署名が集まった。しかし、1950年の平和擁護世界大会に日本代表として作家の川端康成ら3人が派遣される計画だったが、GHQの渡航許可が得られず、出席は果たされなかった。

  同年(1950年)6月に朝鮮戦争が始まり、国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーが核兵器使用を主張したが、トルーマン大統領はマッカーサーの司令官を罷免し、核兵器使用は見送られた。この核兵器使用の見送りはストックホルム・アピールや署名活動など国際的な反核運動の高まりが背景にあったとされる。

  北朝鮮は、アメリカと韓国の両軍による合同軍事演習を非難し、遂行するならば米韓両国に「無差別の」核攻撃を実施するとの談話を発表している(2016年3月7日付・BBCウエッブ版)。核兵器の使用を「正義の核先制攻撃」とする北朝鮮の挑発する事態の中でこそ、オバマ大統領のヒロシマ・アピールが期待される、と考えている。

⇒23日(土)午前、金沢の天気  はれ

★続・核なき世界への一歩

★続・核なき世界への一歩

   アメリカのオバマ大統領の被爆地訪問をめぐっては、同国内で意見が分かれるだろうことは想像に難くない。アメリカでは現場投下が終戦を早めた「正しい判断だった」とする認識がこれまで喧伝されてきたからだ。では、今の若い世代はどう考えているか興味深い。

   2015年8月6日付でニューズウィーク日本版ウェブがこう伝えている。引用させていただく。インターネットマーケティングリサーチ会社の「YouGov(ユーガブ)」が発表したアメリカ人の意識調査によると、広島と長崎に原爆を投下した判断を「正しかった」と回答した人は全体の45%で、「間違っていた」と回答した人の29%を依然として上回っていた。しかし、調査結果を年齢別に見ると、18~29歳の若年層では45%が「間違っていた」と回答、「正しかった」と回答した41%を上回った。また30~44歳の中年層でも36%が「間違っていた」と回答し、「正しかった」と回答した33%を上回った。ちなみに、45~65歳では約55%、65歳以上では65%が「正しかった」と回答した、という。

   これまでアメリカでは、原爆投下を肯定する意見が世論の大半を占め、世論調査機関ギャラップが戦後50年(1995年)に実施した調査では59%が、戦後60年(2005年)の調査では57%が原爆投を支持していた。日本とアメリカ両国で戦争の記憶が薄れる中、アメリカの若い世代では、核兵器への忌避感が強く、原爆投下にしても「間違っていた」と徐々に変化していることは想像がつく。オバマ大統領は被爆地訪問を希望しているといわれるが、こうした国内世論を慎重に見極めているのだろう。民主党、共和党がそれぞれに大統領候補の指名争いのただなかにある。ここで、退役軍人らの支持を広げたい共和党の候補者らを勢いづかせては元もこうもないとオバマ大統領が思案していることは察しがつく。

  とくに、オバマ大統領の外交姿勢は、アジア重視を強調しながら、その成長の明るい面ばかりに目を向け、たとえば中国が周辺国に与えている脅威などリアルさに十分注意を払っていないと、とよく指摘されている。こうしたリアルさをサ欠いたままで、被爆地訪問が果たしてどれだけば効果があるのだろうか、と。

  では周辺国の反応はとチェックすると。これはあくまでも、韓国・中央日報の論調なのだが、オバマ大統領に被爆地訪問は現時点で反対なのだ。12日付のウェブ版の社説「米国務長官の広島訪問、日帝免罪符なってはいけない」として、以下のように述べている。「オバマ大統領も来月の日本G7首脳会議を契機に広島を訪問することを検討中という。任期初めから核なき世界を推進してきたオバマ大統領としては歴史的なここでフィナーレを飾りたいと思うだろう。しかし東アジア全体の目で見ると、いま米大統領が広島に行くのは時期尚早だ。まず日本は韓国や中国など被害国から完全に許しを受けたわけではない。被害国が心を開けないのは、日本政府が心から過去の過ちを反省していないと見るからだ。」と。

  「東アジアの許しを得ていない」という、まるで戦勝国の発想なのだ。日本は韓国を併合したが、戦った相手ではない。むしろ、オバマ大統領の被爆地訪問がどれだけ北朝鮮の核開発に対してプレッシャーを与えることになるだろうか。韓国政府がどのような見解なのか、知りたいところだ。

  ケリー国務長官の今回の広島訪問が、オバマ大統領が5月の伊勢志摩サミットの際に広島を訪れる「試金石」、あるいは「さきがけ」「露払い」になったのかどうか。オバマ氏が広島の地に立ち「核なき世界」の演説をすれば、彼自身の人生最大の政治ショーとなり、「レガシ-(遺産)」となることは間違いない。「アメリカは原爆投下の道義的な責任がある。核廃絶の先頭に立つ」(2009年4月・プラハ演説)

⇒14日(木)朝・金沢の天気   はれ

☆核なき世界への一歩

☆核なき世界への一歩

  G7(主要7ヵ国)の外務大臣がきのう(11日)、広島市の平和記念公園を訪れ、原爆死没者の慰霊碑に花輪をささげた。とりわけ、アメリカのケリー国務長官の姿に視線が注がれた。ケリー氏は予定になかった原爆ドームも見学した。テレビ画面を視聴しての印象だが、すがすがしい感じがした。

  今回の外相会議に際してアメリカ側は「原爆投下について謝罪はしない」とのスタンスだ。なぜなら、今は現在と未来について話し合っているからだ、と。この方針のもと、ケリー氏は平和記念公園を訪れた。適切なスタンスだ。日本人として不快感を感じる人はいなかっただろう。記者会見したケリー氏は帰国後にオバマ大統領に「(被爆地)訪問がいかに大切かを確実に伝えたい」と述べたという。未来を切り拓く、未来を担保するとはこのようなスタンスなのだと思う。

  もし、日本の世論がケリー氏に原爆投下の責任と謝罪を迫ったり、非人道的な行為だったとデモが平和記念公園周囲で起きていたら、おそらくこうはならなかった。アメリカ側も戦勝国意識を強く打ち出していれば、ケリー氏の被爆地訪問すら実現しなかったろう。

  70年前の過去の乗り越えて、いかに被爆地・広島から核兵器のない世界を目指すか。核軍縮と不拡散にG7で一致して取り組むかが、今問われている。ましてや、核実験や弾道ミサイル発射を繰り返す北朝鮮問題が憂慮されていからなおさらだ。

  核なき世界を掲げたオバマ大統領にとって広島への訪問はおそらく悲願だろう。オバマ大統領は2009年のプラハ演説で「核兵器を使った唯一の国として行動する道義的責任がある」と述べ、ノーベル平和賞を受賞している。が、それが思うようにできないところにアメリカの事情がある。大統領の被爆地訪問を「謝罪」と受け止めるアメリカ側の世論があり、原爆投下によって戦争を早く終結させたとのアメリカ側の大義名分を揺るがす恐れがあるからだ。

  日本はこれまでアメリカ側に原爆投下に関して謝罪を求めてこなかった。国際司法裁判も起こしていない。現実を受け入れ、未来に向けて、日本とアメリカが共に協力して、自由と民主主義、基本的人権の尊重、法治と国際法遵守の価値観のもとで世界の平和にどう貢献していけばよいか、これまで模索してきたからだ。戦勝国と敗戦国の関係で世界平和は築けないことは両国が一番よく気づいているのではないか。 

  今回G7の外務大臣が平和記念公園を訪れたことによって、国際社会で核なき世界を作っていく機運を盛り上げる歴史的な一歩になった、そう感じたニュースだった。

⇒12日(火)朝・金沢の天気   はれ

★花の季節は移ろう

★花の季節は移ろう

  東京の知り合いから「地震の対策はできてますか」とメールがあった。なんでも、ラジオのFM電波で地震活動の前兆となる変動現象を発見した天文学者が独自に「地震予知」のニュースレターを発行していて、それによると「4月9日 M7.8±0.5」の地震が福井や石川県加賀地方で起きる可能性があるという。このメールを読んで、1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒に発生し福井県を中心に北陸を襲った福井地震の再来かとピンと来た。そのときは、都市直下型で、規模はM7.1だった。同規模の地震が果たしてくるのかどうか。

  大学の地震学者でも、公立天文台に所属しているわけでもない、私設の天文台の研究者だ。地震予知を必死に観測する姿はニュースレターを読めば分かる。「4月9日」を固唾の飲んで見守っている。

  公園の桜は春の嵐で桜吹雪の状態になっていた。そして、自宅の庭に出て、観察するとタイツリソウやイワヤツデといった花が咲き始めている。このタイツリソウは、面白い花だ。ネットで調べてみると、タイツリソウは別名で正式にはケマンソウ(ケシ科)。中国や朝鮮半島に分布していて多年草です。日本には15世紀の初めの室町時代にに入ってきらしい。ケマンソウの名前は花を寺院のお堂を飾る装飾品「華鬘(けまん)」に見立てて付けられたとか。

  長くしなるような花茎を釣り竿に、ぶら下がるように付く花をタイに見立てた「タイツリソウ(鯛釣草)」の別名の方がイメージがわいてわかりやすいので、今ではタイツリソウの名が一般的という。写真を見てわかるように、赤いに近いピンクの花はぷっくりとしたハート型で外側の花びらと、その下方から突き出るように伸びる内側の花びらがある。花は開き切ると外側の花びらの先端がくいっと上を向き、またその姿がなんとも愛らしいのだ。

  日本では鯛釣草というめでたいようなネーミングだが、欧米はちょっと感覚が違うらしい。この花が心臓のように見えるので、英語名は「bleedeng heart(血を流す心臓)」、ドイツ語名は「tranendes Herz(涙を流す心臓)」、フランス語名は「coeur-de-Jannette(ジャネットの心臓)」。これに比べれば、本場の中国名は「荷包牡丹(きんちゃくぼたん)」。このほうが何となく日本人としては受け入れやすい。そんなことを思いながら、季節の移ろいを感じている。

⇒8日(金)朝・金沢の天気   あめ

☆論点のずれ

☆論点のずれ

  高市総務大臣による「放送局の電波停止の可能性」について、テレビの著名なキャスターやコメンテーター、評論家から「政治家の発言は現場の萎縮を招く」や「権力の言論への介入は許さない」といった批判が相次いでいる。検証したい。

  3月24日、田原総一郎氏や鳥越俊太郎氏らが外国特派員協会で記者会見したとの報道があったので、各紙の記事をつぶさに読むと、以下のようなことが書かれてあった。

  会見に臨んだコメンテーターらは「高市総務大臣の発言は黙って聞き逃すことのできない暴言だ」と述べ、「政権がおかしな方向に行ったときはそれをチェックし、ブレーキをかけるのがジャーナリズムの使命。それが果たせなかったとすればジャーナリズムは死んだもと同じだ」と。田原氏らは「テレビ局の上層部が萎縮してしまう」と指摘した。しかし特派員から質疑応答が始まると、逆に鋭い質問が会見者側に向けられた、という。

  前ニューヨーク・タイムズ東京支局長は「圧力というが、中国のように政権を批判すると逮捕されるわけではない。なぜ、日本のメディアはこんなに萎縮するのか。どのような圧力がかかるのか、そのメカニズムを教えて欲しい」と。インターネットニュースの記者は「高市発言、あの程度のことでなぜそこまで萎縮しなければならないか。NHKは人事や予算が国会に握られているから政権に弱腰なのはわかるが」と。

  さらにきつい一発が飛んだ。香港のテレビ局の東京支局長は「そもそもみなさんは記者クラブ制度をどう考えているのか。また、日本の場合は電波を少数のメディアが握っているため規制を受けている。この放送法の枠組みをどう思うのか」と。

  会見者側は、国による電波停止の発言はジャーナリズムの危機だと訴えたかったのだが、話はむしろ日本のジャーナリズムの異質性や矛盾へと展開していく。とくに記者クラブに関しては日本独特の制度でもある。公的な機関の中で、クラブというマスメディア(新聞・テレビ・通信社)の拠点がある。もともとメディア間の親睦組織だ。記者はよく「虎穴入らずんば虎児を得ず」と言う。ジャーナリズムを名乗る以上、政治との間に明確な一線を引き、緊張感のある関係を維持しなければ、権力監視の役割などできるはずもないのだが、記者クラブはまさに「虎穴」の入口のようでもある。公的な機関の幹部との懇談なども記者クラブが窓口になっている。その記者クラブには他のメディアは実施的に入れないので、排他性や多様性の無さが問題となっているのだ。

  そうした日本固有のジャーナリズムの在り様や現実問題には触れずに、「報道現場が委縮すると」「権力の言論への介入」と言ってみたところで、違和感を感じるのは外国特派員だけではないだろう。記者クラブだけでなく、ある新聞社が購読料を一律に読者に請求する再販制度、あるいは香港のテレビ局の東京支局長が指摘したように、新聞社が系列のテレビ局をつくり、持ち株や人事など支配するクロスオーナシップなどは、少数のマスメディアの特権と化していると言っても過言ではない。

  誤解のないように言うが、記者クラブを廃止せよと主張しているわけでない。新聞社とテレビ局、通信社が独占的に運用している記者クラブの制度に問題があるのではないかと問うている。誘拐事件のとき、人命尊重を優先させるため報道を控えるという記者クラブと警察当局による報道協定などメリットなども否定しているわけではない。

  よれより何より、高市発言で一番の論点は、電波停止の可能性の発言で本来、異議申し立てすべきテレビ局の動きが目立たないことだ。3月17日、民間放送連盟の井上弘会長(TBS会長)は定例の記者会見で、電波停止発言について、「放送事業者は放送法以前に、民放連や各社の放送基準から逸脱しないよう努力している。(電波停止という)非常事態に至ることは想像していない」と述べた。また、テレビ業界で萎縮が広がっているのかという記者の質問に対して「そんな雰囲気はない」と否定している。会見の場で高市発言に真っ向反対の意見を期待した記者団は肩透かしだったに違いない。この高市発言の論点の何かがずれている。

⇒6日(水)朝・金沢の天気   はれ

★旅の目線で東京を-下

★旅の目線で東京を-下

  3日間の東京ツアーで美術館を3ヵ所訪れた。初日は表参道にある根津美術館。これが正面の入口かと思わせる、ひっそりとした正門をくぐる。右に曲がると、左手が竹でおおわれた壁面、右手が竹の植栽、まさに「竹の回廊」となっている。都会の喧騒から遮断するかのように、不思議な静寂感に包まれる。まるで、茶室に続く庭「露地(ろじ)」を歩いているような感覚である。和風家屋のような大屋根の本館は建築家・隈研吾氏の設計によるもの。隈氏は2020東京五輪・パラリンピックの主会場となる新国立競技場のデザインを手掛ける。

     実物が放つ作品の価値と歴史の輝き

  「青山荘(せいざんそう)」の扁額がかかった展示室に入った。内部には茶室が再現されていて、展示室全体の名称が「青山荘」という。「春情の茶の湯」と銘打った茶道具の展示されていた。春の情景をイメージした日差し、花木が芽吹き、生命力ある季節の情景に似合う茶道具が陳列されている。面白い盆があった。漆芸家、柴田是真(しばた・ぜしん、1807-1891)の作品「蝶漆絵瓢盆」。ヒョウタンを輪切りにして、底をつけて盆にする。全体におうとつがある不思議なカタチの形状だ。盆にを漆を盛り付けて浮かせるようにしてチョウを描く。春に舞うアゲハチョウだろうか。そのチョウは、盆の縁の内側から外にまではみ出て、躍動感がある構図だ。時間がなく、庭と茶室をじっくり拝見できなかったのが心残り。

  2日目は赤坂のサントリー美術館だ。陶芸家、宮川香山(みやがわ・こうざん、1842-1916)の没後100年の企画展だった。解説書によると、香山は明治維新を機に京都を離れ、当時、文明開化の拠点だった横浜に向かった。明治政府は外貨獲得の手段として陶磁器や漆器など工芸品の輸出を国策として推進した。香山は、その波に乗って、ヨ-ロッパやアメリカの西洋の趣向に応える美を創り出す。陶器の表面を写実的な造形物で飾る高浮彫(たかうきぼり)の独自の世界を築く。フィラデルフィア万博(1876)、パリ万博(1878)などで受賞して内外の称賛を浴びた。

  その代表作が「褐釉高浮彫蟹花瓶」(1881、重要文化財)や「高浮彫牡丹ニ眠猫覚醒蓋付水指」(明治時代前期)=チラシの写真=といわれる。初めて高浮彫牡丹ニ眠猫覚醒蓋付水指を鑑賞して、そのリアリティさにはドキリとさせられた。紅白のボタンが描かれた胴部と、うずくまる猫の蓋、その猫は前足を耳元にまで上げ、今まさに目覚めた様子で、ニャーンと鳴き声を出しそうなのである。

  3日目は世田谷の静嘉堂文庫美術館を訪ねた。美術館の茶道具は三菱の岩崎家の父子2代、60年にわたって収集したもの。訪れた日はリニューアルオープン展第2弾「茶の湯の美、煎茶の美」の最終日だった。真っ先に国宝「曜変天目」に目を奪われた。漆黒に大小の斑文(はんもん)が浮かび上がる。その周囲に藍や金色の光彩を放つ。「曜変」の「曜」とは星や輝くという意味なのだそうだ。中国・南宋時代(12-13世紀)の作品といわれる。かの徳川3代将軍の家光、その乳母の春日局も手に取ったとされる絶品だ。

  「目を肥やす」という言葉がある。実物を見なければ理解できない作品の価値、歴史に磨かれた輝きがあるのだと実感した。

⇒22日(火)夜・金沢の天気   はれ

  

  

  
  

☆旅の目線で東京を-上

☆旅の目線で東京を-上

  3月19日から3日間の連休を東京で過ごしている。これまで何度も出張で来ているが、その目的が交渉であったり、会議であったりと、説明であったりする。すると、出張では旅の目線で東京を眺めるということができないものだ。もちろん、中には頭の切り替えが速く、器用な人は出張目的が終われば、半日でも旅人の目線で巡る人がいる。残念ながら、私はそんな器用さを持ち合わせてはいない。

   空中と水上のパノラマ、地上とはまったく違って見えるTOKYO

  北陸新幹線で金沢駅から東京駅へは2時間半。初日と2日目の宿は浅草なので、東京駅から秋葉原駅に行き、そこから「つくばエクスプレス」に乗り換えて浅草駅へ。なぜ浅草に。せっかくだから景色のよいところをと旅行会社と打ち合わせをして予約してもらった。あの東京スカイツリーが目の前に見えるホテルの10階だった。スカイツリーは初めて。初日午後、さっそくシャトルバスで向かう。到着すると聞きしに勝る込み具合だった。しかも、あちこちから中国語、英語、そしてフランス語が飛び交っている。これだけでも随分と旅気分になれるから不思議だ。TOKYOに来た気分だ。

  スカイツリー初登り。展望台へのシャトル(エレベーター)の内装が凝っていた。4基のシャトルはそれぞれ東京の四季が表現されていて、たまたま乗ったものは夏をイメージした「隅田川の花火の空」がモチーフだった。電飾でキラキラと花火のように輝く。使われているのはガラスで、伝統的ガラス細工「江戸切子」と、添乗員の女性が説明してくれた。見事な照明演出だ。みとれている間に350㍍の「天望デッキ」に到着。シャトルの名の通り、分速600㍍の高速であっという間だった。

  デッキに出て、眼下のTOKYOの街と富士山を眺めようとしたが、あいにくの曇天で視界はゼロ。雲の中にいる感じだ。ぐるり360度回ったが、白の世界が広がるのみ。さらに高見の450㍍の「天望回廊」に上ったが、同じ状況だった。3090円の入場チケットが惜しくなってきた。こうした事態に備えて客をがっかりさせない工夫もある。デッキから一望できる眺望を52型モニターで映し出す「時空ナビ」など。意外と面白いのが「江戸一目図屏風」だった。パンフによれば、江戸時代の浮世絵師、鍬形慧斎(くわがた・けいさい)による鳥瞰図が圧巻だ。江戸城を中心に描かれた想像上の江戸の街のパノラマなのだが、目線がちょうど同じ位置にあり、まるで200年後の東京スカイツリーのために描いたような絵なのだ。

  20日は隅田川の水上バスを楽しむ。ホテルから歩いて、混雑する雷門の前を通って、浅草の吾妻橋のたもとにある発着場まで20分。川向うのビルの上に雲のような形をした奇妙な金色のオブジェがある。ビール製造販売会社が聖火台と炎をイメージして造ったものでかつて話題になったことを思い出した。

  水上バスはほぼ満員。隅田川に架かる清洲橋、永代橋、勝鬨(かちどき)橋といった国の重要文化財(建造物)に指定される橋の下をくぐり川を下る。川から眺望する橋と周囲の街並みのカメラアングルは地上で見る東京とはまったく別の都市の光景だと気づいた。

  上記のビール製造販売会社の関連会社が製造した地ビール「隅田川ヴァイツエン」(1杯600円)を片手に、12の橋をくぐり、「日の出桟橋」に到着した。向こうに海にかかるレインボーブリッジが見える。周囲を360度見渡してみる。水上の都TOKYOだ。

⇒20日(日)夜・東京の天気  くもり

★北陸新幹線のストロー現象

★北陸新幹線のストロー現象

   昨日3月14日は北陸新幹線の「長野-金沢間」が開業して1周年だった。東京から金沢までの所要時間は最速で2時間26分に。新幹線の利用客は在来線特急が走っていたころに比べて3倍に増えた。ここ数日の新聞報道=写真=などによると、去年4月から今年1月の観光客数は、兼六園が前年同期比で1.6倍に増えて、NHKの連続テレビ小説「まれ」のロケ地となった輪島市では、朝市の入込客数が1.3倍になってという。

   上記は誰もが予想した新幹線効果だったが、意外なこともあった。首都圏からの乗客が増えたのだとばかり思っていたら、仙台方面からの客が激増していたことだった。石川県が去年4-6月の3ヵ月で観光客の居住地を調べたところ、前年比の伸び率は関東圏からは180%、宮城県も180%と同じく増加している。確かに仙台駅から大宮駅(埼玉)で乗り換えれば、金沢駅まで乗車時間3時間25分で到着する。これは兼六園で実感した。料金所の近くで立っていると、中国語や英語に混じって、東北なまりの言葉もよく聞こえるのだ。団体客だったので余計目立ったのかもしれない。

   北陸新幹線で喜んでばかりはいられない統計もある。3月1日に石川労働局が発表した、石川県内の卒業予定の大学生、短大生、高専生、専修学校生ら学生の就職内定率だ。全体としては、内定率89.8%と、1996年から調査を始めて過去最高との数字だった。数字だと、就職希望者6436人のうち5780人が内定を得た(1月末調べ)。ところが、さらく詳しく数字を拾ってみると、大学生の県内内定者が減っているのだ。大学生の就職内定者3585人、うち県内内定者は1376人、割割り合いにして35.6%。昨年同期では1327人で38.3%だったので、2.7%の落ち込み。この数字は過去5年間で最低なのだ。これは一体どういうことか。

   「ストロー現象」だ。北陸新幹線の沿線(東京や長野方面)からの求人数が増加している。まるでストローに吸い込まれるようにして、就職する学生が関東方面へと逆流している、と言える。どれだけの求人数があったかは、統計的に定かではない。「リクナビ」など求人情報サイトを経由した就活が主流になってきて、実態が見えるのは、結果の統計だけだ。

   首都圏などからの求人が増え、学生たちの就活の選択肢が増えることはいいことに違いない。ただ、これが現象として、あるいはトレンドになって加速すると、地域を担う若者たちが減少することを危惧するのである。

⇒15日(火)朝・金沢の天気   くもり

☆「災害は復興を待たず」

☆「災害は復興を待たず」

  きょう「3月11日」、東日本大震災が起きて満5年になる。その時、私は大学の公開講座で社会人を対象に広報の在り方について講義をしていた。「東北が地震と津波で大変なことになっている」とテレビを見た公開講座の担当教授が血相を変えて講義室に駆け込んで、耳打ちしてくれたことを覚えている。

  2ヵ月後の5月11日に仙台市と気仙沼市を調査取材に訪れた。当時、気仙沼の街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので、歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船「第十八共徳丸」(330トン)があった。津波のすさまじさを思い知らされた。

  昨年15年2月10日、再度気仙沼を訪れた。同市に住む、「森は海の恋人」運動の提唱者の畠山重篤氏に講演をお願いするためだった。畠山氏との交渉を終えて、前回訪れた市内の同じ場所に立ってみた。「第十八共徳丸」はすでに解体されてすでになかった。が、震災から2ヵ月後の街並みの記憶とそう違わない。今でも街のあちこちでガレキの処理が行われていた=写真=。復興という想いを抱いて来たので、現地を眺めて愕然としたのだった。

  復興計画は一体どうなっているのかと考えてしまう。聞けば、高台移転で住民のコンセンサスが得られていないという。過日の報道で、元の場所に戻って住みたい人が3分の1、二度と元の場所には戻りたくない人が3分の1、高台に住みたいという人が3分の1と被災地の人々の思いは3つどもえになっている。海を生業(なりわい)とする人々が多い地域では、高台移転のコンセンサスは難しいのかもしれない。でも、安全な高台に町ごと移す復興計画を実施しなければ復興計画は前に進まない。危険を覚悟で海辺に住みたいのなら、それは自己責任で住むということにすればよいのではないだろうか。

   それにしても、復興工事そのものが進んでいない。一つには、土木・建築系の職員数が集まらないという現実があるようだ。行政のマンパワーだけでなく、被災地は建設工事ラッシュなので、漁港施設、海岸、道路、河川、土地区画整理、宅地造成、下水道等の工事が同時進行している。しかも、国や県、各自治体が一斉に工事を発注するので、建設会社の落札に至らないというケースがあるようだ。工事ができず、さらに工期が伸びるとうい悪循環が起きている。さらに、アベノミクスの「国土強靭化計画」で全国で工事ラッシュが起きている。優先させるべき復興作業の現場では作業員が不足している。採石、生コン、コンパネなどの建築資材や建設機械の不足もあるだろう。

  復興はスピードが肝心だと考える。1923年の関東大震災では、東京市長で震災後に内務大臣と帝都復興院総裁を務めた後藤新平は復興計画を自らの手で書き上げたといわれる。まずガレキをいち早く横浜に持って行った。それが今の山下公園になっている。阪神淡路大震災後は、ほぼ1年半で復興したと高く評価されている。

  今は復興財源については手が尽くされている。震災から4年間の累計で総額が29兆円、さらに、新年度から5年間で6.5兆円を手当てしている。問題は「災害は復興を待たず」である。次なる災害に備えて、ピッチを上げて今の復興を進めなければ、もし不幸にして「次」が起きた場合どうなることか。一つ言えることは、国家の財政破綻という「二次災害」が起きることだけは間違いない。

⇒11日(金)朝・金沢の天気    はれ