#コラム

★加賀の酔い-上

★加賀の酔い-上

   正月三が日は自宅で過ごし、今週末は石川県の加賀温泉めぐりを楽しんでいる。きょう(5日)は小松市の粟津温泉に来ている。泊まった旅館は「法師」。開湯はちょうど1300年前の養老2年(718年)という。一度は泊まってみたかった温泉旅館だった。

       開湯1300年、一度は泊まってみたかった旅館

    旅館の従業員に法師(ほうし)という名前の由来を尋ねると、「それはですね」とちょっと身を乗り出すようにして説明してくれた。加賀地方で霊峰と呼ばれる白山(はくさん)は泰澄大師が荒行を積んだことでも知られる。その泰澄にインスピレーションが働いて粟津の地で村人といっしょに温泉を掘り当てた。そこで、弟子の一人の雅亮法師(がりょうほうし)に命じて湯守りをさせた。それが旅館の始まり、とか。一時期、もっとも古い温泉旅館としてギネスブックにも登録されたこともあるそうだ。

   期待通りだった。部屋の中の内湯は源泉かけ流しで、くつろげる。ちょっと口に含んでみた。ナトリウム硫酸塩泉塩化物泉で無色透明で無臭、味は少ししょっぱいがクセがない。浴感がすこぶるよい。1300年、客が絶えなかった湯治場の歴史を感じさせる。

   庭を歩くとまるで古刹の庭のようだ。苔むしたグランドカバーは見事。シイの巨木、雪吊りがほどこされたアカマツなど庭の老樹は何かを語りかけてくるようだ。築山があり、「心」をかたどった池がある。鶴亀の巨大な石もある。春の桜、夏の清流、秋の紅葉、そして冬景色と庭の四季が凝縮されているようだ。先の従業員氏に再度質問をする。「作庭はどなた」と。「三代将軍・家光公の茶道師範をつとめられました小堀遠州が粟津へお越しの際に法師に滞在され、その折にご指南を受けたと語り継がれております」。大名茶人、小堀遠州がかかわったと伝えられる庭か。2度うなった。

   いっしょに泊まりにきた友人たち3人がそろい、酒宴が始まった。近況を語り合い、議論も交わした。ゆでカニの料理が運ばれてきた。大振りのズワイガニだ。しかし、カニの足の部分しかない。カニには目がないので、部屋にあいさつに来られた若女将に「甲羅の部分はないのですか」とつい言ってしまった。すると、「それはカニの特別料理になりまして、予約のときご注文くだされば対応できましたのに」とさりげなくかわされた。確かにカニは特別料理だ。「なんて食い意地の張った無粋な質問をしてしまったのだろう」と自虐の念に陥ってしまった。

   それにしても、新年から楽しい酒だった。われわれを酔わせた酒は、全国新酒鑑評会で27回の金賞の受賞歴を有する「現代の名工」、85歳にして杜氏に復帰した農口尚彦氏の酒だった。あす6日、農口氏を訪ねることにしている。法師から車で18分ほどだ。湯治と杜氏は近い、ダジャレを言いながら眠りに入った。

⇒5日(金)夜・小松の天気    くもり

☆「2018」を読む-下

☆「2018」を読む-下

   「ことしも自虐ネタできたか」、くすくすと笑いながら読んでしまった。3日付の新聞朝刊を楽しみというほどではないが、少し意識して開いた。期待を裏切らない全面広告だった。「謹んで新年のお詫びを申し上げます。」を最上段に掲げ、以下「『早慶近』じゃなくなったことに関するお詫び」「2018年問題に関するお詫び」「近大マグロに関するお詫び」「インスタ映え広告に関するお詫び」「ド派手な入学式に関するお詫び」などと「お詫び」記事のオンパレード。最下段で「今年も盛大にやらかすんで、先にお詫びしときます。近畿大学」と結んでいる。きょうは同大学の願書受付の開始日でもある。

     自虐ネタの全面広告、「近大」が問うていること

    近畿大学の新年広告について大学の職場で話題になったのは昨年1月のこと。「これは、自虐ネタですよ」。先輩教授が3日付の全国紙の広告を見て笑った。『早慶近』の特大文字とマグロの頭の写真が掲載された全面カラーの広告だった。読者が普通に読めば、「早稲田、慶応、そして近大」。これまでは「早慶上智」だったが、最近は上智にとって代わって近大が早稲田、慶応と並んだ、と言いたいのだろうと解釈した。ところが最後に下段の右隅で「早慶近」の意味を披露している。「みなさまに早々に慶びが近づきますように」。この広告の練り方は深い、と印象に残ったものだ。

    ところが、今年は昨年のネタをさらにこね回し、「『早慶近』じゃなくなったことに関するお詫び」と題して、「早慶近中東立法明上」をキャッチコピ-にしている。「昨年1月3日に掲載した『早慶近』というキャッチコピーの新聞広告によって、『100年早い』とか言われて世間をお騒がせし、っていうか一部炎上したことをお詫び申し上げます」と言い訳しつつ、しっかりと「早慶近」と先頭グループを強調している。「ちなみにこの並び、語呂よくしてみただけで、深い意味はありません。念のため」とあくまでもランキングではなく語呂合わせと言い訳しているが、意図は見え見えだ。ちなみに、近畿大学のランキングはイギリスの教育専門誌「Times Higher Education」が出してる「THE世界大学ランキング」で1000位に入った私立総合大学のことを指す。

    確かに、近畿大学の経営戦略は突出している。少子化で18歳人口が減少する中、近畿大学は2005年に5万人だった入試の志願者総数を2017年には14万人に伸ばし、早稲田大学や明治大学を抜いて4年連続で全国1位となっている。昨年4月には入学定員を920人も増やしている。また、32年間かけてクロマグロの完全養殖に成功し、「近大マグロ」はすでにブロンド化されて寿司屋でもメニューになっている。水産資源の持続可能な保全という意味では国際的にもっと評価されていい。経営面では脂が乗りに乗っている。

    2030年以降の18歳人口は100万人を切る。私学ランキングの旧式なパラダイムは「早慶上智」「関関同立」だったが、それだけはでもう大学としの経営は存続が難しくなることは目に見えている。自虐ネタの全面広告ながら、近畿大学はそのことを問うているに違いない。耳を澄ませば高笑いが聞こえてくるようだ。「早慶上智のみなさん、関関同立のみなさん、あと10年もすればあんたがたの経営はどうなりますやろか。気つけなはれ。オーッホッホッ」

⇒3日(水)午前・金沢の天気   くもりときどきゆき

★「2018」を読む-中

★「2018」を読む-中

    前回(1日付)の続き。昨年12月7日に女性宮司が実弟に刺殺された東京・富岡八幡宮が気になっていた。縁起でもない事件で、元旦の初詣客は激減だろうと。ネットニュースではそうでもないらしい。1日午前0時の直前には参拝客が次々と訪れ、本殿まで行列ができたようだ。事件と神様は別なのかもしれない。

     世相を映す賀状、「戌笑い」で乗り切る

    元日に多くの年賀状をいただいた。旧知の方からや最近懇意にさせていただいている方まで、賀状をいただくとうれしいものだ。礼を失することがないように初めて賀状をいただいた方にはなるべく早く出すように心がけている。それにしても、賀状は世相を反映するものだと感じている。

    「小池にハマって さぁ大変! 化かされた後始末も大変です」と賀状を送ってくれたのは東京に住む出版社の友人。世論調査(12月、産経・FNN合同調査)では、小池東京都知事の支持率が19.0%で過去最低を記録。衆院解散前の9月には66.4%に達していた高支持率はもはや崩れ落ちている。小池氏が国政よりも都知事の仕事を優先すべきなのに、先の総選挙で希望の党を立ち上げ、「排除」発言で墓穴を掘ってしまった。都民とすれば信頼できなくなったのだろう。「夢もチボーもない」(©東京ぽん太)年になりそうです!? と結んでいる。切れ味の鋭いユーモア。

    新聞社の関係者から。「新聞販売、厳しさが増していますが、終わりが迫っているのではなく、未来が始まってると強く思います」と。ネットの時代に既存の新聞・テレビの経営は厳しい。しかし、新聞というメディアはしぶとい、といつも思っている。だてに百年の歴史を背負ってはいない。関東大震災、先の大戦をくぐり抜いたメディアだ。どのような「未来」を描いているのか、今度お会いしたときに尋ねてみたい。

    能登半島は少子高齢化が急激に進んでいる。能登の方から。「百歳を越えた母と 古希に向かう妻 古希を疾うに過ぎた私 計二五〇歳に 近づきつつある老々家族となりました こうなれば三百歳超えをを狙おうかな・・・」。振り向く老犬のイラストが描かれ微笑ましい。気が若い。老を払う。

    昨年還暦の年に心筋梗塞で手術を経験したという知人から。「・・・カテーテル手術の最中に、モニター越しに健気に頑張って拍動する我が心臓君の動きを見て、・・・よくぞ60年も黙って、いい加減な私のために働いてくれたかと。この思いの向きは心配をかけた家族や友人、部下の皆にも同じでした。新しい年は感謝の気持ちを忘れずに、大切に過ごして参りたいと思います」。周囲への感謝の想いが詰まった賀状につい目が潤む。

    漆芸の人間国宝の方からいただた賀状。「『髹漆國技也』 正木直彦先生の揮毫した扁額が輪島塗資料館に掲げられてをります。漆芸に係はる一人一人が肝に銘じて大切にしなければいけない言葉だと思う」。髹漆(きゅうしつ)は漆を素地に塗ること。漆器は「japan」。古来から漆芸はこの国の生きる技だ。しかし、漆器業界は売上高が激減していて離職も相次ぐという。原点を見つめ精進を重ねることで、次なる可能性を見出したいとの決意にも読める。ひたすら漆の仕事に向き合う尊い姿が目に浮かぶ。

    メールで新年の言葉も。学生から「去年は能登ツアーや馬緤のキリコ祭りなど、大変お世話になりました。・・・著書『実装的ブログ論』、拝読させていただきました。雑草と戦うドンキホーテの話が面白かったです」。拙書をさっそく購読。こちらこそ感謝。

    投資家のホームページを読むと今年は「戌(いぬ)笑い」の年に当たり、株価が上昇するようだ。それにあやかって今年は笑いで乗り切りたいものだ。

⇒2日(火)朝・金沢の天気    ゆき

☆「2018」を読む-上

☆「2018」を読む-上

  昨年のニュースは暗いものばかりが目立った。神奈川県座間市の27歳の男が住むアパートで女性8人と男性1人の9人の遺体が見つかった事件(10月31日)など。そしてダメ押しは大阪府寝屋川市の自宅で33歳の娘を自宅プレハブ小屋に17年余りも監禁して死亡させ、遺体を遺棄していた事件(12月23日)だ。なぜこうも殺人事件といった暗いニュースが世の中に蔓延するようになったのか、明るいニュースが見当たらないのか。

     暗いニュースばかり、癒されるニュースはどこにある

    警察庁が平成28年7月にまとめた「犯罪情勢」によると、過去10年の殺人事件の認知件数は平成17年が1338件で以降が減少傾向にあり、同27年は戦後最少の933件だった。件数は戦後最少に減っているのに、マスメディア(新聞やテレビなど)やインターネットでは殺人事件ばかりが目立つ。  

   その原因はニュースの価値基準が最近大きく変化しているからではないかと感じている。ネットでニュースを見るようになり、情報の量が多くなったものの、その情報の価値基準は「事件・事故」が優先されているのではないかと考える。マスメディアでは地域で起きた怨恨による殺人事件などはローカルニュースとして扱われ、よほど社会性がない限り全国ニュースとして取り上げられることはなかった。ところが、ネットだとマスメディアのホームページに上がっているローカルニュースもすぐに拡散してしまう。事件・事故は拡散のスピードが速い。つまり、ネット時代になり、マスメディアのニュースの価値基準は通用しなくなったのだ。

   ところが、心が癒されるニュースというのは地域に住む人たちが情報共有するものである。たとえば、昨日(12月31日)の地方紙を読むと、石川県羽咋市で日中朱鷺保護協会名誉会長の村本義雄さん92歳のもとに中国や佐渡からトキのカレンダーが届いたという記事が掲載されている。この記事を読んで、トキの保護活動を一途に続けてきた人柄が見えて微笑ましいと感じる地域の人は多いと思う。でも、この記事はネットニュースで拡散することはないだろう。長年トキ保護に努力している村本さんという人物はある意味で「地域のアイコン」であり、記事を読んでの微笑ましさは「地域の共有共感」でもある。

   先に述べたように、事件・事故というのはこうした「地域の共有共感」とはまったく無関係に、殺人事件であれば、ローカル、全国を問わずネットを通じて全国に流される。結果として、スマホなどと通して毎日のように多くの殺人事件を目にすることになる。しかし、そのニュースは人々の脳裏からすぐに消えていく。暗いニュースというのは心理的に忘れたいものだ。

   逆に言えば、目にしたくもない殺人事件など暗く過剰な情報をどうしたら避けることができるのだろうか。ネットも新聞もテレビも見なければいい、ただそれだけなのだが、やはり心が癒されるニュースには触れたい。ネット時代で新聞の部数減など経営危機が叫ばれているが、ひょっとして新聞やローカルテレビ局が生き残る可能性はコンテンツ戦略にあるのではないだろうか。

⇒1日(月)朝・金沢の天気     くもり

★2017 ミサ・ソレニムス~6

★2017 ミサ・ソレニムス~6

   ことし1年の裁判の判決で憂いているのがNHK受信料をめぐる判決だ。NHKは「最高裁のお墨付き」をもらって優々と未契約世帯に対し「この紋所が見えぬか」と迫っていくだろう。今月6日、NHK受信料制度が契約の自由を保障する憲法に違反するのかどうかが争われた裁判で、最高裁大法廷は合憲と判断した。

     学生・若者のテレビ離れを加速させる判決ではないのか

   前もって述べておくが、私自身の自宅にはテレビがあり、選挙速報や異常気象、災害、地震の情報など民放では速報できないニュースを、NHKがカバーしていると納得している。その公共性の高さを考えれば、放送法64条にあるテレビが自宅に設置されていれば、受信料契約ならびに支払いは社会的にも認められると考えている。

    判決の内容をよく読むと、NHKが契約を求める裁判を起こし、勝訴すれば、契約が成立し、テレビを設置した時点からの受信料を支払わなければならない。つまり、最高裁が出した答えは「義務」と同じだ。納得いかないのは、その義務を親から仕送りをもらって学んでいる学生たちにも課しているという点なのだ。

   学生たちからこんな話をよく聞く。NHKの契約社員という中年男性がアパ-トに来て、「部屋にテレビがありますか」と聞いてきたのでドアを開けた。「テレビはありません」と返答すると、さらに「それでは、パソコンやスマホのワンセグでテレビが見ることができますか」と聞いてきたので、「それは見ることができます」と返答すると、「それだったらNHKと受信契約を結んでくださいと迫ってきた」と。学生は「スマホでNHKは見ていませんよ」と言うと、契約社員は「ワンセグを見ることができればスマホもテレビと同じで、NHKを見ても見なくても受信契約が必要です」と迫ってきた。学生が「親と相談しますから、帰ってください」と言うと、契約社員は「契約しないと法律違反になりますよ」とニコッと笑ってドアを閉めた。親と相談すると法律違反を犯すくらいなら払いなさいと言われ、仕送りにその分を乗せてもうらことになった。

   学生たちは学ぶために親元を離れているのであって、仕送りをしてもらっている。実質的に「同居」だ。会社で働き自活するために親元を離れる「別居」とまったく状況が異なる。NHKが学生たちをさらに追い込む判決が今月27日にあった。ワンセグ機能付きの携帯電話を持つだけでNHKが受信契約を義務づけるのは不当だとして、東京の区議がNHKに契約の無効確認などを求めた訴訟の判決で、東京地裁はワンセグの携帯電話を持っていれば、契約を結ばなければならないと述べ、区議の請求を棄却した。

   使っても使わなくてもスマホにはワンセグのアプリがついている機種が多い。テレビを視聴しようとスマホを求めた訳でもない。ワンセグをめぐる判決は別れている。2016年8月26日のさいたま地裁判決は「受信契約の義務はない」との判断を、ことし5月25日の水戸地裁では「所有者に支払いの義務がある」と判断している。今回でNHKは2勝1敗とり、「NHK受信料払いは義務です。最高裁が判決を出しました。スマホにワンセグがあれば、それも義務です」と学生たちを追い詰めていくNHK契約社員たちの姿が目に浮かぶ。

   この先どのような現象が起きるのか。学生や若者たちのテレビ離れが加速するということだ。自宅にテレビを置かない、スマホの契約時にアプリからワンセグを外す。壮大なテレビ離れ現象がこの先にある。それを憂いている。

⇒30日(土)夜・金沢の天気    くもり

☆2017 ミサ・ソレニムス~5

☆2017 ミサ・ソレニムス~5

    前回のブログに引き続き、今年の2つ目のプライベートなチャレンジについて。金沢大学では共通教育科目として「マスメディアと現代を読み解く」「ジャーナリズム論」「能登の世界農業遺産を学ぶスタディ・ツアー」を担当している。最近学生と接していて感じていることなのだが、思慮深い若者が増えている。話していても、アンケートで答えてもらっても、「なるほど。そこまで考えているのか」と思うことがよくある。ただし、それをリポートでまとめる、あるいはディスカッションとなると、この若者の特性が出てこないのだ。「恥ずかしいから」「目立ちたくないから」なのかよく理解できない若者現象がある。

    学生たちに読んでほしい、考えを実装するブログ論

    今月12月に新書『実装的ブログ論―日常的価値観を言語化する』(幻冬舎ルネッサンス新書)を出版した。実は、この本を出版した動機の一つとして、若者たちにブログを書いてほしいという思いがあったからだ。

    著書のタイトルにもある「日常的価値観の言語化」はごく簡単に言えば、自ら日頃考えていること、思うことを言葉として伝えること。ブログを使って文章化して、読み手に自分の考えを伝えることだ。文書の構成は起承転結でなくてもよい。結論を先に持ってくる逆ピラミッド型もありだ。問題は読み手に伝える技術である。言葉に皮膚感覚や、明確な事実関係の構成がなければ伝わらない。実際に見聞きしたこと、肌で感じたこと、地域での暮らしの感覚、日頃自ら学んだことというのは揺るがないものだ。それらは日常で得た自らの価値観なのである。その価値観を持って、思うこと、考えることを自分の言葉で組み立てることが「実装」なのだ。

    ブログを書く作業は、フェイスブックやツイッター、インスタグラムなどのSNSと違って実に孤独だ。ただ、誰にも気兼ねせず、邪魔されずに自分の価値観を言語として実装するには最高の場でもあると実感している。では、ブログ自体の価値はどこにあるのだろうか。ブログ、つまりウェブログ(ウェブ上の記録)は書き溜めである。日々使うことができるブログに一体何を書き溜めるのか。

    私の場合は時事、つまりニュースと関わっていきたいとの思いから「自在コラム」というタイトルで、自らの多様な目線で時評を試みている。新聞やテレビのニュースは読者や視聴者の「最大公約数」を見越して報道される。このメディアの発想はつまるところ東京目線であったり、視聴率至上主義であったりして、私たちの日常的価値観とは相当ブレている。そこをブログで突っ込みたいのだ。

    メディア論の講義では、「ニュースは記事を読むだけではない。ニュースの流れを読めばさらに面白い」と学生たちに説いている。学生たちがこれから社会と関わっていく中で、日々のニュースと接し、自らの価値観や考えをブログに熱く書き込んで、自らのオピニオンとして世に問うてほしいと願っている。ブログは人間成長のツールでもある。(※写真上はジャーナリズム論の講義風景)

⇒29日(金)夜・金沢の天気   あめのちみぞれ

★2017 ミサ・ソレニムス~4

★2017 ミサ・ソレニムス~4

   この1年、プライベートで2つのことにチャレンジした。「挑戦」と日本語表現すると仰々しい感じだが、「課題に取り組んだ」と言った方がよいかもしれない。

    父の遺影を持参しベトナム「戦地」巡礼の4日間

         一つ目の課題は、15年前にさかのぼる。平成14年(2002)8月に父が他界した。亡くなる前「一度仏印に連れて行ってほしい。空の上からでもいい」と病床で懇願された。仏印は戦時中の仏領インドシナ、つまりベトナムのことだ。父の所属した連隊はハノイ、サイゴンと転戦し、フランス軍と戦った。同時に多くの戦友たちを失ってもいる。父はベトナムに亡き戦友たちの慰霊に訪れたかったのだろう。病状は思わしくなかったので、まもなく他界したが、兄弟3人にはその言葉が脳裏に焼き付いていた。11月、父のベトナムへの想いをかなえようと遺影を持参して3泊4日のベトナムの旅に出かけた。

    23日夜、ハノイに到着。24日にハノイから100㌔ほど離れたハナム省モックバック村に向かった。ここに「革命烈士の墓」がある。ベトナムは1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスを破り、その後、ベトナム戦争でアメリカを相手に壮絶な戦いを繰り広げた。革命烈士の墓は普段は入口の門の鍵がかかる、まさに聖地なのだ。日本名は分からないが、ベトナム独立のために命を捧げた日本人の墓地があると管理人の女性が案内してくれた。

   では、なぜベトナムの革命烈士の墓になぜ元日本兵の墓があるのか。父が所属したのは歩兵第八十三連隊第六中隊。日本の敗戦色が濃くなった昭和20年1月、それまでハノイに駐屯していた部隊は「明号作戦」と呼ばれた戦いに入る。フランス軍との戦闘で、カンボジアとの国境の町、ロクニンに転戦。ところが、8月15日、敗戦の報をこの地で聞くことになる。終戦処理の占領軍はイギリスがあたり、父の部隊はサイゴンで捕虜となる。

   このころから部隊を逃亡する兵士が続出。その数は600人とも言われている。多くは、ベトナムの解放をスローガンに掲げる現地のゲリラ組織に加わり、再植民地化をもくろむフランス軍との戦いに加わった。中にはベトナム独立同盟(ベトミン)の解放軍の中核として作戦を指揮する元日本兵たちもいた。

   父の想いは仏印という戦地で散った戦友たちへの供養だったろう。そこで、いろいろ調べたが、現地ベトナムでは日本兵の戦死者たちを祀る慰霊碑は見当たらない。そこで、ベトナムのために戦った元日本兵の墓がモックバックにあるとの情報を得て墓参することにした。ベトナムは社会主義の国だが仏教信仰が盛んだ。革命烈士の墓の近くの商店で線香を買い求め、近くに野ギクが自生していたので切って、元日本人の墓に線香と花を手向けた。

   25日、ホーチミン市で父たちが捕虜生活を送った場所を訪ねた。ベトナム戦争を経て、サイゴンからホーチミンへと市の改名がなされたのは1975年5月のこと。ところが、40数年たった今も現地ではサイゴンの方が普通に使われている。現地のガイド氏によると、ホーチミンはベトナム革命を指導した建国の父である指導者、ホー・チ・ミンに由来する。そこで、市名と人名が混同しないように市名を語る場合は「カイフォ・ホーチミン」(ホーチミン市)と言う。それに比べ「サイゴン」は言いやすい。また、生活や文化でサイゴンの独自性があり、市名が替わったからと言って簡単に「サイゴン」という地名が消えるわでもない。

    サイゴンのラジオ局に向かった。父の部隊の捕虜収容所があった場所がかつての「無線台敷地」、現在のラジオ局の周辺だった。生活ぶりはイギリスやフランスの監視兵もおらず、食事も部隊で自炊、外出もできる平常の兵営生活だった。無線台敷地の周囲で畑をつくり、近くの川で魚を釣りながら、戦闘のない日常を楽しんでいたようだ。

   ラジオ局の近くを流れるのはティ・ゲー川。生前父から見せてもらった捕虜生活の写真が数枚あり、その一枚がこの川で魚釣りをしている写真だった。兄弟でこの川の遊覧船に乗った。川面を走る風が頬をなでるようにして流れ、捕虜生活の様子を偲ぶことができた。

   1946年5月、母国への帰還が迫ったころ、部隊に事件が起きる。中隊の少尉ら3人が、ベトナム解放のゲリラ部隊に参加した同僚の兵士たちに部隊に戻り帰国を促す帰順の呼びかけに出かけたまま全員帰らぬ人となった。中隊では「ミイラ取りがミイラになった」と騒然となった。フランスとゲリラの戦闘に巻き込まれたのか定かではない。

   旅の最後に、父たちの部隊が帰還の船に乗り込んだサイゴン港に行った。父からかつて聞いた話だが、乗船の際は一人一人が名前を大声で名乗りタラップを上った。地元民に危害を加えた者がいないか、民衆が見守る中、「首実験」が行われたのだ。父が所属した部隊では幸い「戦犯者」はいなかった。別の部隊では軍属として働いていた地元民にゴボウの煮つけを出したことがある炊事兵が、乗船の際に「あいつはオレらに木の根っこを食わせた」と地元民が叫び、イギリス軍によりタラップから引きづリ降ろされた。そう語る父の残念そうな顔を今でも覚えている。

   父たちがサイゴンの港を出たのは1946年5月2日だった。港を出て行く船を見ていると、父たちの帰還船を見送っているような不思議な感覚になった。まるでタイムマシーンに乗って、港に来たような。「無事日本に帰ってくれてありがとう」と心の中で叫んだ。父は同月13日に鹿児島港に上陸して復員。能登半島に戻り結婚し、1949年に兄が、私は54年に、そして弟は58年に生まれた。

   ベトナム「戦地」巡礼の旅を終え、兄弟は26日に帰国の途に就いた。機体が離陸してベトナムと遠ざかるとき、遺影をそっと窓にかざした。(※写真はハノイの露店の花屋さん。ベトナム人は花好きだ=ガイドのゴックさん提供)

⇒28日(木)午前・金沢の天気    あめ 

☆2017 ミサ・ソレニムス~3

☆2017 ミサ・ソレニムス~3

       能登半島の沖合300㌔にある大和堆はスルメイカの好漁場で、日本のEEZ(排他的経済水域)内にある。漁は6月から始まり、例年ならば1月末までが漁期なのだが、石川県漁協に所属する中型イカ釣り漁船14隻は年内で操業を終えることを決めた、と地元紙などが報じている。日本海を漁場とする漁業関係者にとって、今年は北朝鮮に翻弄された1年だったと言っても過言ではない。

       北からのミサイル、違法操業、そして「漂う危険物」

   北からの最初の一撃は3月6日だった。北朝鮮が「スカッドER」と推定される中距離弾道ミサイル弾道ミサイル4発を発射、そのうちの1発が能登半島から北に200㌔の海上に、3発は秋田県男鹿半島の西方の300-350㌔の海上に、いずれも1000㌔㍍上空を飛行して落下した(政府発表)。漁業関係者が大和堆でのイカ漁の準備を始めていたころである。

   北からの二撃は違法操業だ。大量に押しかけてEEZでイカの違法操業する北朝鮮の漁船が問題になった。特に、日本漁船が夜間の集魚灯をつけると、集魚灯の設備もない北朝鮮の木造漁船が近寄ってきて網漁を行う。獲物を横取りするだけでなく、網が日本船のスクリューに絡むと事故になる危険性にさらされた。7月26日、国会内の会議室で「大和堆漁場・違法操業に関する緊急集会」が開かれた。衆院選挙区石川三区(能登)選出の北村茂男代議士の呼びかけで開かれ、関係する国会議員や漁業関係者が参加した。

    質問が集中したのは海上保安庁に対してだった。海上保安庁も巡視船で退去警告や放水で違法操業に対応していたのが、イタチごっこの状態だった。漁業関係者からは「退去警告や放水では逆に相手からなめられる(疎んじられる)」と声が上がった。違法操業の漁船に対して、漁船の立ち入り調査をする臨検、あるいは船長ら乗組員の拿捕といった強い排除行動を実施しないと取り締まりの効果が上がらない、と関係者は苛立ちを募らせ、石川県漁協の組合長が強い排除行動を求める要望書を手渡したのだった。

    言うまでもないが、領海の基線から200㌋(370㌔)までのEEZでは、水産資源は沿岸国に管理権があると国連海洋法条約で定められている。ところが、北朝鮮は条約に加盟していないし、日本と漁業協定も結んでいない。そのような北朝鮮の漁船に排除行動を仕掛けると、北朝鮮が非批准国であることを逆手にとって自らの立場を正当化してくる可能性がある。取り締まる側としてはそこが悩ましいところなのだ。

   そして、三撃は北の木造漁船の漂着や漂流だ。ことし11月以降、能登半島や東北地方の沿岸などで相次ぎ、転覆した木造漁船などはレーダーでも目視でも確認しにくいため、衝突の可能性が出てくる。まさに「漂う危険物」にさらされた。さらに、水難救助法では漂着の木造船を処分するのは自治体と定められている。漂着船の解体には少なくとも数十万円もの経費がかかる。海でも陸でも厄介な代物なのだ。

   北朝鮮の慢性的な食糧不足から国策として漁業を奨励し、「冬季漁獲戦闘」と鼓舞し波の高い冬場も無理して船を出しているようだ。北朝鮮は沿岸付近の漁業権を中国企業に売却しており、漁師たちは遠洋に出ざるを得ない状況に置かれているとも一部で報じられている。冬型の気圧配置、北風で波が高くなるこの時期、いくら食糧確保のためとはいえ、古い木造漁船で出漁を煽るとは、難破の悲劇をわざわざつくり出しているようなものだ。来年もこれが繰り返されるのか。(※写真は11月に能登半島・珠洲市の海岸に漂着した木造漁船)

⇒27日(水)夜・金沢の天気    ゆき

★2017 ミサ・ソレニムス~2

★2017 ミサ・ソレニムス~2

    ことし2017年の流行語大賞(主催・自由国民社)に「インスタ映え」「忖度」の2語が選ばれた。現代の世相を反映する一つの指標ではあるが、個人的には「AI」ではないかと思っている。人工知能、決して新しい言葉ではない。これまでも「第5世代コンピューター」などと称され、連想機能や推論機能などを持つコンピューターの開発が手掛けられた。その後、AIは長足の進歩を遂げ、最近ではAIという言葉を聞かない日はないくらいだ。

     ことし気になった言葉、それはAI=人工知能

    ことし3月、元Googleアメリカ本社副社長兼日本法人代表取締役の村上憲郎氏の講演を聴く機会に恵まれた。話の中でショックだったのは、人がこなしてきた仕事が近い将来、AIに取って代わられるかもしれないということだった。そのポイントが言語処理。「推論機構」という、複雑な前提条件からIf、Then、など言葉のルールを駆使して結論を推論するハードウエアの開発だ。村上氏が述べたAIに取って代わられるかもしれない仕事がたとえば、簿記の仕訳や弁護士の業務を補助するパラリーガルだという。

    AIと連動してIoT(Internet of Things)が進めば、物体(モノ)が通信機能を有し、インターネットに接続し相互に通信することで、自動認識や自動制御、遠隔計測なとどいったこれまになかったイノベーションが起きる。まさに産業革命が訪れると言われている。ビジネスアイデアをアプリケーションとして具体化することで新たな市場が次々と生まれている。かつて言語処理がテーマだったAIが、産業を動かす時代になってきた。

    村上氏の講演にはさらにショックを受けた。スマート・アイ(眼球)やスマート・イヤ(耳)に始まり、「BMI(Brain Machine Interface)もさらに進化するかもしれない」と。人の神経系統とデバイス(機材)の結合で、脳から機材に指令を出すことで、たとえば義手を動かすことができるようになる(スマート義手)。逆に脳にアプロ-チできるデバイスができるようになるかもしれない。他の臓器や肢体が機械に置換される身体の義体化=サイボーグ化が進むかもしれない。そして、「最後に残っていた脳ミソがAIに置き換わった時がアンドロイド(人間型の人工生命体)の誕生になる、との話だった。AIは実にリアリティのある、近未来を読み解くキーワードではないだろうか。

⇒26日(火)午後・金沢の天気   あめときどきあられ

    

☆2017 ミサ・ソレニムス~1

☆2017 ミサ・ソレニムス~1

   先日(23日)、年末恒例のベートーベン「荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニス)」のコンサートに出かけた。石川県音楽文化協会が昭和38年(1963)12月に年末公演を始めて開催して、今回は55回の記念公演。当初はベートーベンの「第九交響曲」のみだったが、第7回から別日で「荘厳ミサ曲」を入れて、年末公演は2回に分けて行っている。

     「金色の翼」は能登に何をメッセージとして発したのか

   記念公演と銘打った今回のコンサートでは、イタリアから指揮者とソリストを招いての力のこもった演奏会で、会場の県立音楽堂は1階と2階はほぼ満席の状態だった。午後2時の開演で、思わず身を乗り出したのは、「荘厳ミサ曲」の前で演奏された、歌劇「ナブッコ」より合唱曲「行け、我が想いよ金色の翼に乗って」(ヴェルディ作曲)だった。

    つい、いっしょに歌いたくなるようなインスピレーションが働く。古代、バビロニア王ナブッコがユダヤの国に攻め込み、捕らえられ、強制労働を強いられるユダヤ人たちが故郷を想って歌う合唱曲なのだ。力強く、したたかに、希望を持って、そしてゆっくりと。

   この曲を聴いていて、イメージがことし9月から10月に能登半島・珠洲市で開催された奥能登国際芸術祭で鑑賞したアローラ&カルサディージャ作「船首方位と航路」へとシフトしたのだ。船首に金色の大きなワシのような鳥が付いていて、風によってゆっくり動く彫刻=写真=。その動き方が、不安定な状態でありながらバランスをとりながら、風や重力で上下、左右にまるで「やじろべえ」のよう。その動きのテンポがこの曲とぴったりなのだ。

   そこで仮説を立てた。二人のアーチスト、アローラ&カルサディージャは作品を、この曲「行け、我が想いよ金色の翼に乗って」をモチーフにして創ったのではないか、と。その堂々とした金色の鳥の姿は、能登半島の先端から何かを問いかけるようにして動く。アローラ&カルサディージャが作品に込めたメッセージと何だったのだろうか。

   歌詞にそのメッセージが込められているのではないかと想像をたくましくする。3節目の歌詞。Arpa d’or dei fatidici vati,(運命を予言する預言者の金色の竪琴よ、)、Perché muta dal salice pendi?( 何故黙っている、柳の木に掛けられたまま?)、Le memorie nel petto raccendi,(胸の中の思い出に再び火を点けてくれ)、Ci favella del tempo che fu!(過ぎ去った時を語ってくれ!)

   以下は勝手解釈だ。「能登半島の未来を担う皆さん、すばらしい自然が疲弊しているではないですか。海岸に行けば大量の漂着物、山を見上げれば立ち枯れとヤブ化した森林。なぜ黙っているのですか。自らの環境を守るために再び心の火をつけてほしい、よき能登半島の歴史、そして今、未来を語ってほしい」

   現在、二人はサンファン(プエルトリコ)を拠点に活動している。再び能登に来られたら、「行け、我が想いよ金色の翼に乗って」の曲がモチ-フの作品なのか、と伺ってみたい。「あなたの単なる空想ですよ」と言われそうだが。

⇒25日(月)未明・金沢の天気    あめ