#コラム

★グランド・カバーの攻防 相手の巧みな戦術

★グランド・カバーの攻防 相手の巧みな戦術

  それにしてもこの雑草は恐ろしいほどに手ごわい。向き合って戦いを挑んでも、必ず復活してくる。しかも、復活するとさらに茎を張りめぐらし、勢力を拡大しているのだ。これまでグランド・カバーの戦い(庭の雑草取り)で、いくつかの雑草と勝負してきたが、レベルが格段に高い相手だ。その雑草の名はチドメグサ。漢字では「血止め草」と書き、学名は「Hydrocotyle sibthorpioides」。

  チドメグサは実に巧妙に戦いを仕掛けてくる。その特徴は「隠れ蓑」戦術だろう。細い茎はよく枝分かれし、節から根を出して地面をはうのだが、芝生の生息地に入り込み、目立たないように勢力を拡大している。先日、「堂々と勝負しろ」と戦いを挑んだ。まず芝刈り機で芝生を刈り込み、隠れていた相手をリングに引きずり出した。

  ところが、葉や茎は取れたが、芝生の根にチドメグサの根が絡まって離れようとしない。一本一本外すとなると膨大な労力と時間がかかる。「オレに勝ちたいのならば、芝生の根を絶やしてみろ」と不敵な笑みを浮かべているのだ。この日の戦いは午後7時を回り、時間切れでドローとなった。悔し涙がポロリと落ちた。

   チドメグサとの戦いの第二幕は、スギゴケの庭での勝負となった。芝生ゾーンとは違って、スギゴケを刈り込むわけにはいかない。それだけに、相手の姿が見えにくい。葉と茎を1本取ったかと思ったら、隠れるように別の葉と茎がある。まるで分身があちこちにあり、根っ子がある本体が見つからない。これは忍法「空蝉(うつせみ)の術」だ。自分の分身を周囲につくり、敵の注意を分身に向けているのだ。根っ子がある本体はどこか。スギゴケをかき分けかき分け、チドメグサの根を探し出し、手繰り寄せるようにして抜く。こちらも誤って、大切にしているスギゴケを抜くこともある。

   実に根気のいる勝負になると予測し、日曜日の午後に試合に挑んだ。ただ、気温がぐんぐんと上がり、水分補給も限界、熱中症が心配になり途中で退場した。すると、相手のせせら笑いが背後から聞こえた。「しょせん人間は弱い、オレたちに勝てるはずがない」と。闘争心がめらめらと燃えてきた。

⇒16日(月・海の日)夜・金沢の天気   はれ

☆風は回る

☆風は回る

   風車にこれほど近づいたことはなかった。ゴッー、ゴッーと轟音が響かせ、ブレイド(羽根)が回っている。ここは能登半島の尖端、30基の大型風車がある「珠洲風力発電所」だ。2008年から稼働し、発電規模が45MW(㍋㍗)にもなる国内でも有数の風力発電所という。

   発電所を管理する株式会社「イオスエンジニアリング&サービス」珠洲事務所長、中川真明氏のガイドで見学させていただいた。ブレイドの長さは34㍍で、1500KW(㌔㍗)の発電ができる。アメリカのGE社製だが、最近は2MWや3MWのブレイドもあり、日本でも日立製作所が製造している。材質はFRP(繊維強化プラスチック)。発電の仕組みを教わった。風速3㍍でブレイドが回りはじめ、風速13㍍/秒で最高出力1500KWが出る。風速が25㍍/秒を超えると自動停止する仕組みなっているそうだ。羽根が風に向かうのをアップウインドー、その反対をダウンウインドーと呼ぶのだという。

   なぜ能登半島に立地したのか。しかも、半島の尖端に。「風力発電で重要なのは風況なんです」と中川氏。強い風が安定して吹く場所であれば、年間を通じて大きな発電量が期待できる。中でも一番の要素は平均風速が大きいことで、6㍍/秒を超えることがの目安になる。その点で能登半島の沿岸部、特に北側と西側は年間の平均風速が6㍍/秒を超え、一部には平均8㍍/秒の強風が吹く場所もあり、風力発電には最適の立地条件なのだ。1500KWの風車1基の発電量は年間300万KW。これは一般家庭の8百から1千世帯で使用する電力使用量に相当という。珠洲市には1500KWが30基あるので、珠洲市内6000世帯を使用量を十分上回る。

   いいことづくめではない。能登半島で怖いのは冬の雷。「ギリシアなどと並んで能登の雷は手ごわいと国際的にも有名ですよ」と中川氏。羽根の耐用年数は15年とされるが、「なんとか20年はもたせたい」とも。ただ、雷のほかに、黄砂や空気中のほこりで汚れる。全国では2200基本余り、石川県では71基が稼働している。最近では東北や北海道で風力発電所の建設ラッシュなのだそうだ。

⇒11日(水)午前・金沢の天気    くもり

  

★「平成最悪」の豪雨

★「平成最悪」の豪雨

    「死者126人 平成最悪」と新聞の見出しは白抜きベタで伝えている。西日本豪雨での大雨特別警戒は全て解除されたものの、その後の被害は日々拡大している。昨日付の紙面では104人だった死者がきょう付で126人だ。安否不明者は86人もいる。先週5日に気象庁が「記録的な大雨になる恐れがある」と呼びかけたが、「平成最悪」になるとは想像すらできなかった。

    堤防が決壊した岡山県倉敷市真備町の空から映像をテレビで見たが、まさに泥海に水没した街だった。屋根の上から、登った樹木から助けを求める人、実に痛々しかった。4階建ての病院から入院患者や避難住民がボートやヘリコプターを使って救助が続けられているのを見て、ビルなどの建築物の必要性を改めて感じた。

    地場産業への打撃も深刻だ。岡山県総社市でアルミニウム工場への浸水で溶解炉が爆発した。山口県岩国市で有名な日本酒「獺祭(だっさい)」の蔵元のホームページによると、「豪雨により岩国にある本社・酒蔵に浸水と停電による被害を受けました。」「 本社隣接の直営店 獺祭ストア本社蔵はしばらくの間営業中止とさせて頂きます」とあった。一升瓶(1.9㍑)換算で90万本分の製造に影響が出て、ストアの被害など設備を含めた被害総額は15億円になり、製造再開には2ヵ月半ほどかかるという。このほか、農林水産業など一次産業を始め、加工、流通の2次、3次産業にも多大な被害を与えていることは想像に難くない。

    高速道路の山陽道の福山西IC―広島ICの通行止めや、JR貨物の山陽線の兵庫―山口間と、予讃線の香川―愛媛間でJR貨物が運休している。復旧が遅れることになるればそれだけ、東日本から九州への物流にも影響が出るだろう。

     先月6月7日に土木学会が発表した数字を思い起こす。今後30年以内に70-80%の確率で発生するとされる「南海トラフ地震」がM9クラスの巨大地震と想定すると、経済被害額は最悪の場合、20年間で1410兆円(推計)に達すると。倒壊などによる直接被害は169兆5千億円、それに加え、交通インフラが寸断されて工場などが長期間止まり、国民所得が減少する20年間の損害額1240兆円を盛り込んだ数字だ。

     1410兆円という数字を目にした時は数字が「躍っている」との印象だったが、政府が発表した「南海トラフ地震防災対策推進基本計画」(2014年3月28日)に目を通してみる。M9クラスの巨大地震を想定した場合の「減災目標」を「想定される死者数を約33万2千人から今後10年間で概ね3割減少させること、また、物的被害の軽減に関し、想定される建築物の全壊棟数を約250万棟から今後10年間で概ね5割減少させる」と掲げている。いま、南海トラフ巨大地震が起きれば最悪30万人余りの命が失われるのだ。暗い話になってしまった。

⇒10日(火)午前・金沢の天気   はれ

☆「麻原」か「松本」か、躍る見出し

☆「麻原」か「松本」か、躍る見出し

    「オホーツク海高気圧」と「太平洋高気圧」ががっぷり四つ状態になって梅雨前線が激しを増し、そして長時間居座っている。あの「ゆずぽん酢」で知られる高知県馬路村では3日間で1200㍉を超える降水量を記録したというから驚きだ。そんな中、法務省が6日午前に、坂本堤弁護士一家殺害事件(1989年11月)、長野県松本市でのサリン事件(1994年6月)、東京の地下鉄サリン事件(1995年3月)など一連のオウム真理教による犯行の首謀者、松本智津夫死刑囚らの刑を執行したとのニュースをテレビの速報テロップで知った。

    当時金沢のテレビ朝日系「北陸朝日放送」の報道デスクとして「オウム真理教」事件とはさまざまな場面でかかわった。当時、テレビ映像の露出は頻繁だった。あの電極が付いた「ヘッドギア」は「カルト教団」を強く印象づけた。オウム真理教への取材で最初のかかわりは1992年10月だった。石川県能美市(当時・寺井町)の油圧シリンダーメーカー「オカムラ鉄工」の社長に麻原彰晃が就いて記者会見をした。社長が信者で資金繰りの悪化を機に社長を交代した、という内容だった。ほとんどの従業員は教団の経営に反発して退職し、代わりに信者が送り込まれていたので「教団に乗っ取られた」と周囲の評判は良くなかった。まもなく会社は事実上倒産。会社の金属加工機械などは山梨県の教団施設「サテイアン」に運ばれていた。その後の裁判で、金属加工機械でロシア製カラシニコフAK47自動小銃を模倣した銃を密造する計画だったことが明らかになった。

    1995年3月20日の地下鉄サリン事件の実行犯だった医師の林郁夫らがレンタカーで逃げた先が能登半島・穴水町の海辺の貸し別荘だった。4月7日、一緒に身を隠した信者の一人が別荘の近くで警官の職務質問を受け逮捕された。テレビのニュースで知った林郁夫は盗んだ自転車で貸し別荘を出て、金沢方面に向かう途中で警官の職務質問を受けて逮捕された。一緒に逃げた公証人役場事務長拉致監禁死事件(1995年2月)の実行犯・松本剛は翌月5月に大阪・堺市で逮捕された。

    では林郁夫らはなぜ能登半島に逃げたのか、さまざまな憶測が当時飛び交った。オウム真理教は1992年9月にモスクワに支部を開設し、ソビエト連邦の崩壊(1991年12月)で混乱する現地で信者を獲得していた。当時、極東ウラジオストクと富山湾を北洋材(シベリア木材)を積んだロシア船が行き来しており、ロシアに密入国するチャンスをうかがっていたのではないか、と。当時のモスクワ支部長は上祐史浩が兼務していたこともあり、「彼だったら、そのくらいのことは考えるだろう」という推測に過ぎなかったのだが、「ロシア逃亡説」はまことしやかに流れていた。その後の林郁夫の全面自供により地下鉄サリン事件の全容が明らかになり、検察は死刑ではなく無期懲役を求刑した。

    死刑執行の当日の夕刊を購入した。ある新聞の一面は「麻原死刑囚 刑執行」、別の新聞は「松本死刑囚 刑執行」の白抜きベタの大見出しが躍っている。この紙面を若い学生たちがコンビニで見て不思議に思っただろう。「どちらが本当なのか」と。本名は松本智津夫、教祖名は麻原彰晃。シアニの世代には麻原の方が通りはよい。ただ、刑の執行名では松本だ。翌日7日の全国・ローカルの朝刊7紙を比較すると、「松本」5、「麻原」2だった。別に購入したスポーツ系の2紙とも「麻原」だった。読者への衝撃度を考慮すると「麻原」なのだろうか。

    ちなみにイギリスのBBCテレビのWeb版では、「Seven members of the Aum Shinrikyo doomsday cult which carried out a deadly chemical attack on the Tokyo underground in 1995 have been executed, including cult leader Shoko Asahara.」と伝え、「麻原」だった。

    「平成」の時代に象徴的な事件だった。平成も来年2019年4月末をもって終わる。平成のうちに事件を終幕としたかったのだろう。刑の執行命令書に署名した上川陽子法務大臣が臨んだ記者会見(6日)。慎重な言葉選びに、かすかにそのような想いを感じた。

⇒7日(土)夜・金沢の天気   くもり

★朝焼けのニッポン

★朝焼けのニッポン

   ワールドカップ決勝トーナメント・日本対ベルギー戦をNHKの生中継で観戦した。後半3分の原口のシュートがゴールに刺さり先制。さらに、同7分の乾のシュートがゴールに吸い込まれる。2点先制、これで初戦突破は間違いないと高揚感がみなぎってきた。

   ふと窓のカーテンを見ると赤く染まっていた。窓を開けると東の山並みが朝焼けでくっきりと浮かび神々しさを感じた=写真=。朝4時20分ごろだった。しばらく眺めていてソファに戻ると、後半24分でベルギー側からのヘディングシュートがゴールキーパー川島の頭上を越えてゴール。さらに同29分にもヘディングシュートをたたき込まれて同点に追いつかれた。その後、本田が投入され、一進一退の攻防が続いた。延長戦が目前に迫った後半49分にカウンター攻撃から決勝ゴールを決められた。

   グループリーグ第3戦の対ポーランドとの試合(6月28日)では、0-1でリードを許しながら、後半40分ごろから攻めることなくボールを回し続けた。自力突破で勝ち点を狙わず、警告数の差のみで決勝トーナメント進出を狙う。こんな試合運びでよいのか、サムライならば勝負に出るべきではないのか、などともどかしさを感じたこともあった。そして、きょうの決勝トーナメント第1戦。世界ランキング61位の日本が同3位のベルギーに立ち向かったのだ。

   日本は逆転負けを喫し、初のベスト8入りは果たせなかった。海外のメディアはこの一戦をどう評価したのか。イギリスBBCテレビのWeb版には以下の記載があった。

  ”Japan will regret the last two minutes because they threw everything forward and they were a little bit too open at the back,” said BBC One pundit Jurgen Klinsmann, a former Germany international. “In the 94th minute, the players are tired and they are thinking about extra time, and that is when mistakes happen.” (BBC解説者で元ドイツ代表監督のユルゲン・クリンスマン氏は「日本は最後の2分間を後悔するだろう。すべてを前方に持ってきて、後方がやや空きすぎだった」「(試合開始から)94分台になると、選手は疲れているし、延長のことを考える。ミスはその時に起きるのだ」と話した)

    後半戦で日本は鮮やかに先制したが同点に追いつかれ、最後の2分間の油断で負けた、ということか。冷静な分析かもしれない。そういえば、朝焼けにはジンクスがある。きれいな朝焼けの日ほど後半は雨が降る、と。

⇒3日(火)朝・金沢の天気  はれ時々くもり

☆大浦天主堂の石畳

☆大浦天主堂の石畳

    ユネスコの世界文化遺産に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本県)が登録されることになったとテレビ各局がニュースで伝えている。この朗報に接して脳裏に浮かぶのは「大浦天主堂」だ。2006年3月に家族旅行で訪れた。

    案内の男性ガイドが分かりやすく説明してくれたのを覚えている。豊臣秀吉の時代から徳川幕府と続いたキリスト教禁教令で「隠れキリシタン」たちは、表面は仏教徒を装いながら代々伝え聞いた信仰を守り通した。幕末に長崎の外国人居留地にやってきたフランス人宣教師たちが1864年に大浦天主堂を建造。翌年公開が始まると、隠れキリシタンたちが見学者に紛れて天主堂やってきた。まだ禁教令下だった。「サンタ・マリア様の御像はどこですか」と小声でフランス人神父に尋ねた。実に七世代、250年もの隠れキリシタンの存在を知って驚いた神父はフランス、ローマに報告した。宗教史上、類まれなこの出来事が世界に広がった。

    実は「長崎」にはちょっとした個人的にも思い入れがある。宴席でカラオケの順番が巡ってきて、「何か歌って」とせかされて歌うのが、内山田ひろしとクールファイブの『長崎は今日も雨だった』だ。「行けどせつない石畳~」と歌い、自分をカラオケモードに切り替える。

     この歌の場所は、オランダ坂を上がり、大浦天主堂、グラバー邸入り口にかけての石畳なのだ=写真=。現地で初めて理解ができたことなのだが、長崎は「坂の街」である。石畳を敷き詰めないと雨で路肩が崩れてしまう。しかも傾斜が急なところも多い。これは想像だが、天主堂の建設と併せて石畳の舗装も進められたとすれば、隠れキリシタンたちも石畳を歩いたに違いない。どのような思いで石畳の向こうの天主堂を眺めたのだろうか。写真はそのようなことを思いめぐらし撮影した一枚だった。

   天主堂前の石畳の坂道を少し上ると「グラバー邸」に着く。長崎湾を見下ろす高台だ。イギリス人貿易商トーマス・グラバー。長崎が開港した安政6年(1859)に日本にやって来た。若干21歳。2年後にグラバー商会を設立し、同時に東アジア最大の貿易商社だったジャーディン・マセソン商会の代理店になった。大資本をバックに武器の取り扱いを始める。

    グラバーに接近したのは坂本龍馬だった。龍馬は、幕府から睨まれている長州藩が武器の購入を表立ってできないのを知り、自ら設立した亀山社中を通して薩摩藩名義で武器を購入、それを長州藩に横流しするという「ビジネスモデル」を思いつく。グラバー商会から購入した最新銃4300丁と旧式銃3000丁が後に第二次長州征伐である四境戦争などで威力を発揮し、長州藩を勝利へと導く。それがきっかけで薩長を中心とした勢力が明治維新を打ち立てる原動力となっていく。龍馬ファンの間では知られたストーリーではある。

    グラバー邸と天主堂は直線距離にして70㍍ほど。龍馬は石畳で立ち止まり、2つの建築物を眺めて西洋という世界を実感し、新たな時代へのイメージを膨らませたに違いない。天主堂の神父と隠れキリシタンたちの劇的な出会いから2年後の1867年12月に龍馬は京都で暗殺される。「行けどせつない石畳~」。歌うたびに天主堂前の石畳がまぶたに浮かぶ。

⇒1日(日)朝・金沢の天気     はれ

 

★「テレビ的」ではないが

★「テレビ的」ではないが

   サッカーW杯で2大会ぶりの決勝トーナメント進出を決めた日本代表だが、テレビを視聴していて、0-1でリードを許しながら、後半40分ごろから攻めることなくボールを回し続けた。攻めずにボールを回し続ける光景は摩訶不思議だった。まったく「テレビ的」でなかった。なぜ、自力で突破が決められる勝ち点を狙わなかったのか。不思議な光景だった。そして、視聴する側とすると、もどかしさが心に残ったいのである。こんな画面はテレビ的ではない、と。

   自力突破で勝ち点を狙わず、警告数の差のみで決勝トーナメント進出を狙う。これでよかったのか。サムライならば勝負に出る、それを期待していたのだ。 来月2日(日本時間3日午前3時)、予選3戦全勝のベルギーと日本の対戦(中継はNHK総合)。果たして夜中の3時からどれだけの人が視聴するだろうか。今回の一件で割と覚めた人が多いのではないだろうか。内容のない試合を視聴する価値はどこにあるのだろうか。「結果オーライ」でよいのか。日本人でも考え悩む。

   海外メディアの目線はもっと厳しい。イギリスのBBCはWeb版で「mind-boggling farce」、「あぜんとする茶番劇」と論評している=写真=。元イングランド代表のコメントで「最後の10分はW杯で見たくないものだった」と紹介し、北アイルランド代表の監督の「日本は次戦でボロ敗けにされるだろう」と挑発的なコメントを掲載している。

   確かに日本代表の西野監督は「非常に厳しい選択」と語っていた。そして、「少し後悔はあるが、この状況で自分の中になかったプランを選択した」と。ただ、見方を変えれば、西野監督は稀代の勝負師なのかもしれない。FIFAの発表によると、今回のロシア大会では賞金総額は4億㌦(438億円)とされていて、決勝トーナメント進出を決めれば、1200万㌦(13億1900万円)は確保したことになる。出場する全チームには準備金として150万㌦(1億6400万円)が支給されるので実に14億8300万円となる。もし初戦突破となれば、1600万㌦(17億5900万円)と準備金で1750万㌦(19億2300万円)を確保することになる。グループステージで敗退となっていれば、800万㌦(8億7900万円)と準備金で950万㌦(10億4300万円)だった。勝負を続けることは数字になって現れる。

   今回の試合戦術で西野監督に感謝すべきはテレビ局側かもしれない。NHKと民間放送連盟が共同制作する放送機構「ジャパン・コンソーシアム」がFIFA(国際サッカ-連盟)に払った放映権料は600億円といわれる。64試合すべてを日本で放送する権利料なのだが、前回2014年のブラジル大会に比べ実に1.5倍に跳ね上がっている。600億円の負担割合はNHK70%、民放30%といわれ、特に民放側は回収が難しいとささやかれている。もし、日本代表がグループステージで敗退していれば、とたんにサッカーW杯熱は冷めただろう。ポーランド戦の内容は決してテレビ的ではなかったが、日本代表がなんとか決勝トーナメント進出を決めてくれたのでスポンサーとつながっていられる。民放側はそんな思いだろう、か。

⇒29日(金)夜・金沢の天気   あめ

☆秀吉の「なまつ大事」

☆秀吉の「なまつ大事」

      大学で担当している授業「マスメディアと現代を読み解く」で、今月18日に起きた大阪北部を震源とする地震をテーマに取り上げた。20日の講義は「震災とマスメディア(上)」。講義のつかみの一つに豊臣秀吉が体験した2度の地震を取り上げた。学生に紹介した文献は平凡社新書『秀吉を襲った大震災~地震考古学で戦国史を読む~』(寒川旭著、2010)。
       1596年9月に慶長伏見地震があり、このとき秀吉は伏見城(京都市伏見区)にいた。太閤となった秀吉は中国・明からの使節を迎えるため豪華絢爛に伏見城を改装・修築し準備をしていた。その伏見城の天守閣が揺れで落ち、城も崩れた。それほど激しい地震だった。慶長伏見地震にまつわる秀吉の伝説がある。誰かが混乱に紛れて刺殺に来るのではないかと、秀吉は女装束で城内の一郭に隠れていたとか、建立間もない方広寺の大仏殿は無事だったが、本尊の大仏が大破したことに、秀吉は「国家安泰のために建てたのに、自分の身さえ守れぬのならば民衆は救えない」と怒りを大仏にぶつけ、解体してしまったという話まで。災難を通して秀吉という天下人の人格が浮かび上がる。

   慶長伏見地震の10年前にも秀吉は地震に遭遇している。中部地方の広い範囲を襲った1586年1月の天正地震。このとき秀吉は琵琶湖に面する坂本城(滋賀県大津市)にいた。当時、琵琶湖のシンボルはナマズで、ナマズが騒いだから地震が起きたと土地の人たちの話を聞き、秀吉は「鯰(ナマズ)は地震」と頭にインプットしてしまった。その後、伏見城を建造する折、家臣たちに「ふしミ(伏見)のふしん(普請)なまつ(鯰)大事にて候まま、いかにもめんとう(面倒)いたし可申候間・・」と書簡をしたためている。現代語訳では「伏見城の築城工事は地震に備えることが大切で、十分な対策を講じる必要があるから・・・」(『秀吉を襲った大震災』より)と。

   実際にどのような地震の備えが伏見城に施されたのかは定かではないが、秀吉が自らの体験で得た防災意識を建築に取り込んだことが見て取れる。それでも、前述したように伏見城は慶長伏見地震で天守閣などが倒壊した。この地震も今回の大阪北部地震が起きた「有馬―高槻断層帯」の延長線上にある(19日付・朝日新聞)。

   秀吉の「なまつ大事にて候」の一文は時を超えて安政江戸地震(1855年11月)に伝わる。余震に怯える江戸の民衆は、震災情報を求めて瓦版を買い求めたほか、鯰を諫(いさ)める錦絵を求めた。地震(鯰)が治まってほしいと願う、当時の民衆の不安心理を象徴する購買行動でもある。当時の民間伝承の多様な鯰の絵は、後に「鯰絵」という浮世絵アートの一角を築くほど多く描かれた。

   大地震、さらに幕末から明治維新へと激動する時代、民衆の情報に対する欲求が格段に強まる。安政江戸地震から16年後、1871年に「横浜毎日新聞」が日本で最初の日刊紙として創刊される。これが日本のマスメディアの発達の黎明期となる。(※写真は、2007年3月の能登半島地震の被災地=輪島市門前町)

⇒22日(金)夜・金沢の天気     はれ

★大阪地震、メディアの第一報

★大阪地震、メディアの第一報

    あさ午前8時ごろだ。足元がグラグラと揺れた。間もなくNHKで地震速報が流れた。「大阪北部で震度6弱、M5.9」。「やっぱり来たか」と。先日6月7日に土木学会が、今後30年以内に70-80%の確立で発生するとされる「東海トラフ地震」後の経済被害は最悪の場合、1240兆円とする推計を公表してニュースになったばかり。発表した土木学会長が「日本が最貧国の一つになりかねない」と迷言を吐いて反響を呼んだ。足元がグラグラと揺れた金沢は震度2だった。

    テレビメディアは今回の地震でどのような災害報道をするのか、各局をザッピングしながら観察した。災害報道ではまず全体把握をしなけらば概要が分からない。つまり、ヘリコプターによる映像と中継をどこのテレビ局が流すのか。一番早かったのは、やはりNHKだった。8時25分、大阪市北区中之島周辺のビル街や橋、道路などの空撮映像を中継に入れた。途中、中継する記者の音声は何度か途切れたが、崩れたビルや道路もなく、テレビを見ていた全国の視聴者は少し安堵感を覚えたのではないだろうか。

    地震の発生とほぼ同時に飛んで、大阪のど真ん中の上空から中継を入れるのにわずか25分。感じ入った記者のコメントがあった。「私は朝7時から伊丹空港でスタンバイしていましたが…」。朝7時と言えば、誰も地震を想定していない。つまり、NHKは常に震災を想定していつでもヘリを飛ばせるように記者、記者、操縦士をスタンバイしているのだ。NHKは災害報道でダントツかもしれない。受信料を徴収しているので、災害報道にかけるコストが違うのだ。ちなみに民放でヘリ中継の映像を見たのは8時49分、テレビ朝日のモーニングショーで、茨木市上空からの映像だった。

    リアルな緊張した場面もあった。8時58分、NHKのヘリからの中継映像は高槻市の学校のグラウンドに児童・生徒たちが集まっている様子だった。まもなくして、今度は地上からの映像で箕面市の学校のグラウンドに集まっている児童たちをリポートする中継映像に切り替わった。すると、映像に男性が割り込んできた。音声はよく聞き取れなかったが、「子どもたちを撮影しないでください」と。すると記者が「あなたは学校の教員なんですか」と。すると、男性は「そうです。子たちは動揺しているんです」と。確かに、映像では先生が話しているのに、何人かの子どもたちはカメラが気になるのかこちらを向いている。

    学校側の「抗議」を受けて、NHKは素早く画面をスタジオに切り替えた。グラウンドでの映像は誰か個人を特定するようなアップの映像ではなく、取材する側からすれば学校側が過剰に反応していると思ったかもしれない。被災地の現場では、取材する側もされる側も極度に緊張感が高まっていて、どんなハプニングに展開するか予想できない。中継からそんな様子が見て取れた。

⇒18日(月)午前・金沢の天気   くもり    

    

☆SDGsと能登の尖端、その未来可能性

☆SDGsと能登の尖端、その未来可能性

   きょう15日午前、うれしいニュース(知らせ)が入った。能登半島の最先端、珠洲市が「SDGs未来都市」に選定され、けさ内閣府で選定証の授与式があったというのだ。今回29の自治体が選ばれ、授与式に出席した市長に同行した課長は電話で「地域の可能性を拓くためにこれからよろしく」と声を弾ませた。

   「SDGs未来都市構想」は内閣府が全国の自治体から公募していたもので、同市の提案「能登の尖端“未来都市”への挑戦」が採択された。SDGsは国連が推進する持続可能な開発目標。社会課題の解決目標として「誰一人取り残さない」という考え方が基本に込められている。少子高齢化が進み、地域の課題が顕著になる中、同市ではこの考え方こそが丁寧な地域づくり、そして地方創生に必要であると賛同して、内閣府に応募していた。

  同市が提案した主な内容は「能登SDGsラボ」の開設。SDGsの基本施策は、市民や企業の参加を得て、経済・社会・環境の3つの側面の課題を解決しながら、統合的な取り組みで相乗効果と好循環を生み出す工夫を重ねるというもの。簡単に言えば、経済・社会・環境をミックス(=ごちゃまぜ)しながら手厚い地域づくりをしていく。そのために、金沢大学、国連大学サスティナビリティ高等研究所いしかわ・かなざわ・オペレーティングユニット(OUIK)、石川県立大学、石川県産業創出支援機構(ISICO)、地元の経済界や環境団体(NPOなど)、地域づくり団体に今回開設するラボに参加を呼びかける。

  具体的にどのようなことにチャンレンジしていくのか。たとえば金沢大学が現地で取り組み、私自身も運営に関わっている社会人の人材養成プロジェクト「能登里山里海マイスター育成プログラム」のカリキュラムに新たにSDGsのコンセプトを導入する。また、現地で実証実験が行われている自動運転を「スマート福祉」に社会実装する支援。SDGsを取り込んだ学校教育プログラムの開発、世界農業遺産(GIAHS=2011年FAOが「能登の里山里海」認定)の資源を活かした新たな付加価値商品や、「奥能登国際芸術祭2020」に向けた参加型ツーリズムの商品開発を進めていく。国連大学と組んで過疎地域から発信するSDGs国際会議の開催や、県立大学とのコラボによる新たな食品開発など実に多様だ。

  昨年の奥能登国際芸術祭2017の開催をきっかけとして、確かに、地元市民の中には地域を見直す動きや、里山里海を資源としてビジネスモデルを創る積極的な取り組みが具体的なカタチで起きている。また、経済・社会・環境の分野で新たな技術やプランを持ったU・Iターンの人材が集まってきている。同市ではこのチャンスを最大限に活かすステージとして「SDGs未来都市」を用意したのだろう。能登半島の尖端、過疎地の最前線が新たなチャレンジに動き出すことに期待したい。

⇒15日(金)午後・金沢の天気    くもり