#コラム

★マスメディア論と学生たち-5-

★マスメディア論と学生たち-5-

        そもそも学生たちのマスメディア(新聞・テレビ)への接触度はどの程度なのか。そこで、第1回「マスメディアの成り立ち」(6月13日)でアンケートを実施した。「あなたは新聞を読みますか 1・毎日読む 2・週に2、3度 3・まったく読まない」「あなたはテレビを見ますか 1・毎日見る 2・週に2、3度 3・まったく見ない」の簡単な項目。102人の学生から回答があった。そこから見えてきたこと、とは。

     下げ止まった「新聞離れ」、加速する「テレビ離れ」・・・アンケートから

    まずは新聞から。「毎日読む」10%、「週に2、3度」15%、「まったく読まない」75%だった。予想した通り、新聞への接触度は低い。その理由で目立ったのは「一人暮らしをしているため(実家にいる時には毎日読んでいた)。新聞はお金がかかるから。携帯のニュースで社会の出来事はある程度わかるから」(法・1年)や「テレビと違って、新聞は『ながら』で読むことができないので、読む時間を確保しなけらばならない」(学校教育・1年)、なかには「活字を追うのが苦痛」や「手が汚れる」といった生理的な拒否反応もある。一方で、「時事問題に強くなりたいと思っている。法学類なので、法案の改正や裁判の判決、政治の問題にも興味がある」(法・3年)と積極的な活用派もいる。

    まったく同じ内容のアンケートを2016年から実施して、ことしで3回目なのだが、「まったく読まない」は16年78%、17年と18年が75%。「毎日読む」は16年6%、17年7%、18年10%だ。学生たちの「新聞離れ」が限りなく100%に近づいているのではなく、下げ止まっていて、「毎日読む」が若干だが増えているのだ。私見だが、インターネット上では、いわゆるフェイクニュースなどがさまざまな場面で問題になってる。信頼できるニュースや情報を求める雰囲気が学生たちの中で出てきたのではないかと、前述の法学類の学生のコメントなどから読み取っている。

    テレビの結果は新聞とは真逆で学生たちのテレビ離れが加速している。「毎日見る」49%、「週に2、3度」34%、「まったく見ない」17%だった。これは2016年では65%、23%、12%だった。2年のうちに「毎日見る」が16%も減り、「まったく見ない」が5%も増えている。「テレビは、スマホでドラマを見たり、ニュースを閲覧するので見ない」(経済・1年)というコメントが散見される。学生たちの間では、動画はネットで見るものという習慣になりつつある。これが、放送と通信の同時配信が進めばさらに加速するのではないだろうか。

    テレビのコンテンツだったスポーツ中継なども、たとえばJリ-グのようにネット動画配信サービスへとなだれ込んでいる。オリンピックイヤーの2020年でその流れがさらに加速するだろう。テレビの敵はもはやテレビではない。

⇒9日(木)朝・金沢の天気     あめ後くもり

☆マスメディア論と学生たち-4-

☆マスメディア論と学生たち-4-

        きのう(6日)大学からの一斉メールで注意文が届いた。学生と教職員にあてたものだ。「カルト団体・悪質商法などについて以前から注意を促しているところですが、夏休み期間は勧誘の動きが活発化する恐れがあります。そのような団体・活動に関わると、学業・生活が破綻するまで追い込まれてしまいます。つきましては、以下のことに十分ご注意ください。」と。

    オウム真理教事件の死刑執行、それでも「カルト」はなくならない       

   さらに引用する。注意すべき点として、●カルト団体・悪質商法などは、本当の姿を隠して、言葉巧みに皆さんに近づいてきます。●身分を明らかにしないで声をかけてくる人物には注意が必要です。(身分を明らかにしていても、勧誘のために声をかけてくる人物には注意が必要です。)●国際交流やボランティア、医療・福祉など、一見普通の話題で近づいてくるケースがほとんどです。アンケートの回答依頼をはじめ、勉強会・集会・講演会・合宿・施設見学の誘いや、 教材・機器のモニター依頼には十分注意してください。●電子メールやFACEBOOK、LINE、Twitterなどの各種SNSを用いた勧誘もみられますので注意してください。その際は、名前や住所・電話番号、LINEのID等個人情報を安易に他人に言わないよう、注意してください。

   キャンパス近くの路上で学生たちに誘いかけをしているグループを時折見かける。「国際ボランティア」と称する少し怪しげなチラシが貼ってあったり、置いてあったりする。注意文にもあるように、そうした動きが最近活発なのではないかと感じることがある。ひょっとして宗教ブームが再び起きているのか。

   「マスメディアと現代を読み解く」の第5回「取材し伝えるメディアの技術」(7月11日)で、オウム真理教事件の関係者7人の死刑執行(7月6日)について取り上げた。オウム真理教が盛んに信者を獲得していた1990年代初頭はまさしく宗教ブームだった。1991年9月に放送されたテレビ朝日「朝まで生テレビ」では「激論 宗教と若者」と題しての討論に麻原彰晃が生出演した。部下だった上祐史浩、村井秀夫らの論客も出演し、他の新興宗教と激論を交わして、無名に近かったオウム真理教が一気に注目されるきっかとなった。いわば、「メディアに乗った」のである。ただし、このとき1989年11月に横浜市で起きた、坂本堤弁護士一家殺害事件にオウム真理教が絡んでいたことはメディアも知る由もなかった。

   当時、北陸朝日放送の報道デスクを担当していた私は取材を通じてオウム真理教と2度関わることになる。一度目は1992年10月。麻原彰晃が突然、石川県能美市で記者会見を行った。油圧シリンダーメーカーの社長に就任するという内容だった。メーカーの前社長はオウム真理教の信者で、資金繰りが悪化したために麻原が社長に就いた。間もなく会社は倒産し、金属加工機械などは山梨県上九一色村の教団施設「サティアン」に運ばれていた。その後の裁判で、その金属加工機械でロシア製AK47自動小銃を模倣した小銃を密造しようとしていたことが分かった。

   二度目は1995年3月20日の東京地下鉄サリン事件の直後、林郁夫(無期懲役囚)らが能登半島に潜伏していた。林郁夫は4月8日に石川県内で逮捕された。当時、メディア関係者の間で、なぜ能登半島に逃れてきたのかと憶測が飛んだ。潜伏していた場所が穴水町の「貸し別荘」だったことから、こんな憶測があった。ロシアのウラジオストクと富山県の伏木港を結んで、北洋材を運ぶロシア船が行き交っていた。「ひょっとして、穴水町から船を出し、ロシア船に乗り込んで、ロシアに密入国をはかる計画ではなかったのか」と。オウム真理教のモスクワ支部ができたのは1992年9月。前年にソビエト連邦が解体され、混乱していたロシアで一時3万人ともいわれる信者がいた。

   逮捕された林郁夫の供述によって松本サリン事件や地下鉄サリン事件の全容が明らかとなっていく。麻原彰晃が逮捕されたのは林郁夫逮捕から38日後の5月16日。2006年に死刑が確定し、そして今回の死刑執行となった。一連の事件が起きた時、学生たちは生まれてもいない。講義後のリアクション・ペーパー(感想文)には、「オウム真理教のニュース(死刑執行)にはとても驚きました。ついにという感じがしました。私たちが生まれる前には事件はすでに落ち着いていましたが、日本の歴史に残る事件だったのですね」(法・1年)と淡々と書かれてあった。メディアを通じて生身のニュースを見てきた世代と、その後に生まれた世代とでは、今回の死刑執行のとらえ方は異なって当然と言えば当然なのだが。

⇒7日(火)夜・金沢の天気    くもり

★マスメディア論と学生たち-3-

★マスメディア論と学生たち-3-

       講義ではスポーツから気象までさまざまな話をする。第8回の講義「マスメディアはどこに向かって行くのか」(8月1日)では、夏の高校野球の話題を取り上げた。石川大会で星稜高校が決勝戦で本塁打7本、22点を挙げて甲子園大会への出場を決めた。星稜にとっては2年ぶり19回目の夏の甲子園。夏の甲子園といえば、大会歌として知られる『栄冠は君に輝く』だ。1948年に発表され、作詞は加賀大介、作曲は古関裕而。「ちょっと面白いことがある」と学生たちの耳目を正面に引く。

   夏の甲子園、『栄冠は君に輝く』と「五打席連続敬遠」のレジェンド話

     作詞の加賀大介は石川県能美市(旧・根上町)生まれで、小さいころから野球少年だったが、16歳のときに感染症のため右ひざ下を切断し、野球を断念した。歌詞には甲子園の憧れが込められている。『栄冠は君に輝く』の発表から44年後の1992年の大会で、「甲子園のスーパースター」が誕生する。2回戦の高知・明徳義塾VS石川・星稜戦で「5打席連続敬遠」事件があった。星稜の松井秀喜選手に明徳義塾は5打席全てを敬遠するという作戦を敢行、一打逆転のチャンスもあったが、松井選手は一度もバックを振ることなく星稜は敗退した。甲子園では大ブーインが起きた。逆に松井選手はこの5打席連続敬遠でその名が全国に知られ、注目されることになる。私はこのとき北陸朝日放送(金沢市)の報道デスクをしながら、中継映像を見ていた。甲子園の取材記者に「山下(智茂)監督と松井のインタビュー(映像)をはやく送ってくれ」と興奮気味に指示していた。その後、松井選手は巨人軍、アメリカ大リーグ・ヤンキースへとスターダムにの上がっていく。

    この加賀大介と松井秀喜には「つながり」がある。二人とも根上町の生まれ。加賀大介は58歳のとき1973年6月に逝去。その1年後1974年6月に誕生したのが松井秀喜だ。学生たちに勧めた。「高校野球のパワースポットがここにある」と松井秀喜ベースボールミュージアムと『栄冠は君に輝く』歌碑へアクセスを教えた。

    きょう6日付の紙面では、きのう開幕した夏の甲子園大会(第百回全国高校野球選手権記念大会)の模様を報じている=写真=。第1試合の大分・藤蔭VS星稜戦で始球式で松井秀喜氏がボールを投げ、「(甲子園は)ボクの原点です」とインタビューに応えていた。甲子園のレジェンド(伝説)の話は学生たちの心を打ったかどうかは分からない。ちょっとした息抜きの雑学ではある。

⇒6日(月)朝・金沢の天気    くもり

☆マスメディア論と学生たち-2-

☆マスメディア論と学生たち-2-

   「マスメディアと現代を読み解く」の講義で学生たちに問いかけたこと、それは遺体の画像や映像をメディアはどう扱うべきか、だった。現状では、新聞もテレビも遺体の画像や映像の扱いには慎重だ。「震災とメディア」の講義(6月20日、27日)の中で、死者・行方不明者が1万8千人余りにもなるが、遺体が映された番組や記事を読者も視聴者も目にすることはない。

  遺体表象に慎重なメディア、学生は「現状でよい」71%、「見直してもよい」29%

   遺体の表象に関してはそれぞれのメディアがガイドラインを作成している。概ね以下のような内容だ。「事件や事故、災害などでは、死者の尊厳や遺族の心情を傷つける遺体の写真(あるいは映像)は原則使用しない」。原則使用しないのだが、私自身は特例的にも見たことはない。唯一、東日本大震災を特集した朝日新聞「アエラ」臨時増刊号(2011年4月30日)で掲載された、布団にくるまれた遺体の右足が露出した写真だった。一方で、アメリカのニューヨ―クタイムズのホームページでは東日本大震災の特集で、学校体育館が遺体安置所になり、並んでいる遺体の中から肉親を探す人々の様子の画像が掲載されていた。

    そこで学生たちにリアクション・ペーパーで以下のように問いかけた。「【あなたの考えを記述してください】日本のマスメデイア(新聞・テレビなど)は通常、遺体の写真を掲載していません。被災者や読者・視聴者の感情に配慮してのことだと考えられます。一方で、海外メディアはリアリティのある写真を掲載しています。以下の問いに答え、あなたの考えを簡潔に述べてください。遺体写真をめぐる日本のメディアの在り様は「1.現状でよい 2.見直してもよい」。89人の学生が回答を寄せ、「1.現状でよい」63、「2.見直してもよい」26で、パーセンテージはそれぞれ71%と29%だった。学生たちに対するこの問いかけは2011年の講義から毎年実施しているが、毎年ほぼ同じ70%と30%だ。

    「現状でよい」とする意見は多くは「見る側への心理的な影響(PTSD=心的外傷体験によるストレスなど)、とくに子供への影響が心配」「遺体にも尊厳がある。プライバシーの問題」「インターネット掲載など別の方法がある」「これは日本人の独自の文化、メンタリティーである」といった内容だ。「見直してもよい」の意見は「現実や事実を報道すべき」「震災を風化させないためにも必要」「メディアはタブーや自己規制をしてはならない」「見る側の選択肢を広げる報道をすべき」といった内容が多い。

    少数派ではあるものの「見直してもよい」の学生たちの方がボルテージは高い。「本来知るべき事実まで知ることができなくなってしまっているのは残念だ」(人文・1年)、「(遺体写真を見ることで)悲しみを日本全体で共有することになるだろうし、災害への対策意識や避難訓練はより真剣なものになるだろう。戦争も二度と起こしてはならないと考えるようになるだろう」(経済・3年)。

    この講義の終わりは、「遺体の表象については、視聴者の意見も別れるので、メディアは慎重だ。むしろ、現場では遺体を撮影しなくなっている。遺体を災害の記録として後世に残す使命は誰が担うのだろうか」と述べて締めた。(※写真は2011年5月11日・宮城県気仙沼市で営まれた慰霊祭。港町らしく大漁旗が掲げられた)

⇒4日(土)午後・金沢の天気     はれ

★マスメディア論と学生たち-1-

★マスメディア論と学生たち-1-

   金沢大学で担当している共通教育科目「マスメディア現代を読み解く」の講義はきのう(1日)最終回だった。6月13日に第1回があり、毎週水曜日の4限目(午後2時45分-4時15分)に震災、記者会見、著作権、インターネットとマスメディアの関わりをテーマに8回の講義(1単位)。受講生は112人で理系から文系、1年から4年の学生が聴講してくれた。最終日のリアクション・ペーパー(感想文)では、これまで8回の講義で印象に残っている言葉(キーワード)や画像、映像などを3点あげ、それぞれ一言のコメントを書いてもらった。

    「記事では形容詞を使わない」「インターネットは巨大隕石」って何だ

    講義の中で、学生たちの印象に残ったことの一番(44人)は「震災とメディア」(6月20日、27日)の講義の中で見てもらったノーカットの映像(KHB東日本放送制作「3・11東日本大震災 激震と大津波の記録」から)だった。KHB(仙台市)にも大きな揺れがあり、記録に残そうと必死にカメラを構える記者とデスク、悲鳴を上げながらもマスターカット(緊急放送)に備える報道フロアの様子がリアルに写し出されている。同じく、気仙沼市の支局カメラマンが津波が押し寄せる街中でカメラを回し続けている。足元に津波が押し寄せている。学生たちのコメントは「忘れかけていた震災をもう一度思い出させてくれ、自然災害の脅威を改めて感じました」(法・1年)や「命が危険な状況にあるにもかかわらず、報道するために津波の映像を撮っていた姿にいろいろ考えさせられた」(国際・2年)とショッキングだったようだ。

   二番(16人)は3つあった。「メディアも被災者である」「フェイクニュース」「インターネットは巨大隕石」。「メディアも被災者」は前述の講義の中で述べた言葉だ。東日本大震災のように広域な災害では、マスメディアの記者やカメラマンも被災者となる。しかし、報道し続けなければならないプロの論理がある。第8回「マスメディアはどこに向かって行くのか」(8月1日)で、フェイクニュースについてこのようなことを述べた。インターネットの社会でフェイクニュースはあふれるようようになってきた。では、ファクトチェック(事実確認)を行う機関はメディアなのか政府か、ヨーロッパでは意見が割れている。「現代こそフェイクニュースと向き合うメディア・リテラシーが必要な時代はない。そして、フェイクニュースと戦うのはマスメディアの使命ではないだろうか」と。「インターネットは社会に落ちた巨大隕石」は、ソニー元会長・出井伸之氏が述べたたとえ。6500万年前、ユカタン半島(メキシコ)に落ちた巨大隕石が地球上の恐竜を絶滅させたといわれるように、インターネットがマスメディアなど既存産業にも打撃を与えている。自らネット社会に応じた改革が出来なければ、メディアも恐竜がたどった道を歩む、と講義した。

    その次のキーワードは14人がマークした「形容詞は使わない」だった。第6回「マスメディアの技術」(7月11日)で、記事では形容詞は使わないのが原則と述べた。形容詞は主観的な表現であり、言葉に客観性を持たせるには、たとえば「高いビル」とはせず、「10階建てのビル」などと数字を用いて言葉に説得性を持たせる。これがメディアの技術だ、と。この言葉は学生たちにとって新鮮だったらしく、学生たちの反応は、「小さいころからうまい形容詞を使うとほめられたが、確かに新聞では形容詞を見たことがない。でも、形容詞を使わない文章って難しそうだ。大学の論文でも形容詞は使わないですよね、目が覚めました」(法・1年)と。何気なくマスメディアと接してきた学生たちにメディアからの学びとリテラシーを感じてほしいとこの講義を10年余り続けている。

⇒2日(木)夜・金沢の天気    はれ

☆強い光源、「サッポロポテト現象」

☆強い光源、「サッポロポテト現象」

   「こまめに水分や塩分を取るなど熱中症対策に万全を期してください」。テレビで各地の猛暑を伝えるたびに繰り返されるこのコメント、正直もう聞き飽きた。この「こまめに」というフレーズが出てくると、「分かったよ、もういい」とつい思ってしまう。もっと他の言い方はないのだろうか。たとえば、「ひんぱんに」とか「ちょくちょく」とか「たびたび」とか。「こまめに水分」はこの夏の流行語大賞か。もっと言葉のバリエーションがほしい。

  それにしてもこの猛暑だ。きのう29日午後3時ごろ、山手の金沢大学周辺で乗用車の温度センサーは外気温37度だった。この暑さは記録的なのだという。7月1日から26日までの平均気温は28度(速報値)で過去最高。統計を取り始めた1882年以降で、金沢の7月の平均気温がこれまで最高だったのは1978年の27.5度。また、平年(1981-2010年の30年間の平均)と比べると、なんと2.7度も高い(7月28日付・北陸中日新聞)。

       かつて「うだる暑さ」という言い回しがあったが、そのような生易しい言葉は通用しなくなり、最近はもっぱら「猛暑」や「酷暑」が使われている。

       「猛暑」は公用語にもなっている。気象庁は天気予報や解説などで予報用語を使っているが、最高気温が35度以上の日を「猛暑日」と定義して、2007年4月から使っている。これまでは最高気温が30度以上の日を「真夏日」としていたが、最高気温が35度以上の日が1990年以降急増したため、レベルアップした用語が必要となった。もちろん、用語の場合は定義が必要なので35度以上とした。

   でもその「猛暑日」ですら生易しく感じるようになってきた。金沢に住んでいても35度超えは驚きではない。関東や東海地方では40度超えが続出。今月23日には埼玉県熊谷市では気温が41.1度まで上がった。こうなるとさらにレベルアップした用語が必要となる。40度以上の日を何と称するのか。気象庁の予報用語はまだない。

   熱中症の危険度を判断する国際指標が「WBGT(暑さ指数)」では28度を超えると熱中症患者の発生率が急増するという。40度以上になれば暑さというレベルを超えて「災害」ではないだろうか。熊谷市で41.1度を記録したこの日、気象庁の予報官が記者会見でこう述べていた。「命に危険をおよぼすレベルで、災害と認識している」と。深刻な発言に思えた。では、40度以上の日、これを「災暑日」としてはどうか。

   写真はきょう午前10時30分ごろの太陽。樹木の上から激しい日差しが照りつける。周囲の赤い光玉は、強い光源が画面内に入り込むと、カメラのマイクロレンズに反射した光がカバーガラスに二次反射して格子状や赤玉のゴーストが写り込む。ネットで検索すると、このゴースト現象は「サッポロポテト現象」と呼ばれている。カルビーの商品「サッポロポテト」のポテトチップスと形状がよく似ていることからカメラマンの間ではそう呼ばれているようだ。きょうも金沢は37度を超えそうだ。

⇒30日(月)午前・金沢の天気    はれ

★「能登のSDGs」動き出す

★「能登のSDGs」動き出す

   国連が掲げる持続可能な開発目標「SDGs」という言葉はなかなか理解し難い。「エスディジーズ」の発音も一回や二回ではなかなか言葉として出てこない。ましてや、その意味となると難問のように思える。さらに言葉より、それを実践するのはもっと難しい。でも、それを能登半島の最尖でチャレンジしている。先月(6月)「SDGs未来都市」に選定された珠洲市だ。人口1万4500人、全国で一番人口規模が小さい市でもある。

   人口が少ないだけではない。高齢化率は47%と高く、地域経済を担う若い人材も不足している。持続可能な地域としての活力を保つために「2040年に人口1万人維持を目指す」と目標を定め、人口減少対策に必死に「もがいている」自治体でもある。その珠洲市がSDGsに挑戦している。きのう(27日)このような動きがあった。市と市内の10の郵便局がSDGsの目標達成に向けて協力する包括連携協定書を交わした。

   「なぜ郵便局と」と思われるかもしれないが、郵便局はすべての世帯に郵便物を届けるという使命感がある。その郵便局のネットワークを活かして、地域の見守り活動や災害時の支援、広報など行政の取り組みを支援していく。これは、SDGsの「誰一人取り残さない」社会の理念と実に合致する。経済や社会、環境の3つの分野で賛同者とSDGs実践に向けてプロジェクトを積み上げて、壮大な「SDGsプラットフォーム」を構築していく。珠洲市の戦略だ。

   では、大学の役割はどうか。来月8月18日、「能登SDGsラボ」の開設に向けて、運営委員会が発足する。ラボは金沢大学能登学舎(同市三崎町)に開設される。このSDGsラボには金沢大学のほか、国連大学サスティナビリティ高等研究所いしかわ・かなざわ・オペレーティングユニット(OUIK)、石川県立大学、石川県産業創出支援機構(ISICO)、地元の経済界や環境団体(NPOなど)、地域づくり団体、企業や市民が幅広く参加する。

   ラボでは産学官金(産業界、大学、行政、金融業界)のプラットフォームを念頭に、大学側の研究シーズと地元企業のニーズとのマッチングをはかっていく。たとえば、現地で実証実験が行われている自動運転を「スマート福祉」として社会実装する。SDGsを取り込んだ学校教育プログラムの開発、世界農業遺産(GIAHS=2011年FAOが「能登の里山里海」認定)の資源を活かした新たな付加価値商品や、「奥能登国際芸術祭2020」に向けた参加型ツーリズムの商品開発を進めていく。国連大学と組んで過疎地域から発信するSDGs国際会議の開催や、県立大学との地元企業のコラボによる新たな食品開発など実に多様なプランだ。
    
   きのう郵便局との連携協定締結を終えた後で、市長の泉谷満寿裕氏と面談するチャンスを得た。「SDGsはまさにチャレンジですね」と率直に尋ねると、市長は「SDGsはどんなことにも本気でチャレンジする人を支える仕組みづくりです。新たな技術や知恵を持った大学の研究者や学生のみなさんは大歓迎ですよ」と。

   さかのぼれば、市長1期目の2006年10月に大学との連携による廃校舎の利活用、2期目の2010年7月に地上波テレビのデジタル化を全国に先駆け1年前倒し実施、3期目の2017年9月の奥能登国際芸術祭など、チャレンジの連続だった。ことし6月に4期目に入り、SDGs未来都市への挑戦だ。「ここは半島の尖端ですよ。チャレンジしながら可能性を探る。いつもそう思っています」。条件不利地というリスクを抱えるがゆえの地政学的なチャレンジ精神、そう表現したらよいのだろうか。

⇒28日(土)夜・金沢の天気     はれ

 

☆続・夏安居の「どぶろく」

☆続・夏安居の「どぶろく」

   きょう(24日)日中の気温は33度、昨日に比べ2度下がった。空に雲が時折かかり、それが猛暑を和らげてくれている。雲がこれほど有難いと思ったことはない。前回のブログで「どぶろく」を話題を取り上げたが、読んだ東京の知人からさっそくメールが入っていた。「田の神さまのコラーゲンたっぷりの顔だちってどんなものか。画像を見せてほしい」と。
  
   話は繰り返しになるが、尾関健二氏(金沢工業大学バイオ・化学部教授)のどぶろくに関する講演をブログで紹介した。日本酒の旨味成分であるタンパク質「α-エチル-D-グルコシド(α-EG)」が含まれ、皮膚の真皮層のコラーゲン密度が増加する作用がある。また、甘酒には消化器官内で消化と吸収がされにくい、難消化性のタンパク質「プロラミン」が含まれ、食物繊維のような物質として機能するため、コレステロールの排出促進や便秘改善、肥満抑制の作用がある。どぶろくには日本酒と甘酒の2つの効果が兼ね備わっていると興味深い講演だった。

   この講演を聞いて真っ先にイメージしたのが、能登町柳田植物公園にある古民家「合鹿庵」の掛け軸に描かれている、農耕儀礼あえのこと神事(2009年ユネスコ無形文化遺産登録)の「田の神さま」だった。田の神さまは甘酒(どぶろく)が好みとの言い伝えがあり、神事には甘酒が供えられる。掛け軸の田の神さまはもちろん想像図なのだが、ふっくらツヤツヤした顔だちが印象的だ。そこで「コラーゲンたっぷりの顔だち」と書いた。

    田の神さまには別の言い伝えもある。田の神さまは各農家の田んぼに宿る神であり、それぞれの農家によって田の神さまにまつわる言い伝えが異なる。共通しているのが、目が不自由なことだ。働き過ぎで眼精疲労がたたって失明した、あるいは稲穂でうっかり目を突いてしまったと諸説ある。目が不自由であるがゆえに、それぞれの農家の人たちは丁寧に接する。座敷に案内する際にも介添えをし、前に供えた料理を一つ一つ口頭で説明する。「もてなし」を演じる家の主(あるじ)たちは、自らが目を不自由だと想定し、どうすれば田の神さまに満足していただけるのだろうかとイマジネーションを膨らませる。

    ある農家の主はこんなことを話していたのを思い出した。「もっとおいしい甘酒を差し上げたいのだが」と。現在は「甘酒」を供しているが、明治ごろまでは各家庭で造っていた「どぶろく」を供していたそうだ。ところが、明治政府は国家財源の一つとして酒造税を定め、日清や日露といった戦争のたびに増税を繰り返し、並行してどぶろくの自家醸造を禁止した。これがきっかけで家庭におけるどぶろく文化は廃れていった。

        これは思い付きだが、「どぶろく特区」(中能登町)で製造されたどぶろくを能登町のあえのこと農家に持参してはどうか。田の神さまは「どぶろく飲むのは久しぶりじゃ」と喜んでくださるのではないか、と。

⇒24日(火)午後・金沢の天気      はれ時々くもり

★夏安居の「どぶろく」

★夏安居の「どぶろく」

   昨日(21日)も昼間の外気温が35度だった。連日酷暑が続くと「夏安居(げあんご)」という言葉を思い出す。もともと仏教用語で、夏場は動植物たちの営みが盛んな季節で屋外では蚊やアブに刺されたりするので、寺院内で修行をするという意味のようだ。現代風に言えば、酷暑による熱中症が怖いので、なるべく屋外は避け、家のエアコンで涼んでビデオか読書で過ごす。「夏安居」は含蓄のある素敵な言葉だと思う。講演会の案内をいただいたので、冷房の効いた部屋で勉強をしようと出掛けた。講演のタイトルは「どぶろく・甘酒の効能」。

   能登半島の中ほどに位置する中能登町には、神酒として「どぶろく」の製造が国から許可されている全国30社のうち3社(天日陰比咩神社、能登比咩神社、能登部神社)が同町にあり、今でも神事にはどぶろくを造っている。天日陰比咩神社などは延喜式内の古社でもあり、酒造りの長い歴史を有する。能登半島は国連の食糧農業機関(FAO)から「世界農業遺産」(GIAHS)に認定されているが、まさに稲作と神への感謝の祈り、酒造りの三位一体の原点がここにあるのではないか、この地を訪問するたびにそう感じる。2014年に町が「どぶろく特区」に認定されると、どぶろくの醸造免許を取得し、どぶろく造りを始める稲作農家が徐々に増えてきた。農家や神社関係者を中心に「どぶろく研究会」が結成され、商品開発などに活発に取り組んでいる。講演の案内は研究会からの招待だった。

   講師の尾関健二氏(金沢工業大学バイオ・化学部教授)の話は実証研究によるデータの積み上げで酒と美肌の関係性に迫るものだった。尾関氏は、どぶろくなど日本酒の旨味成分であるタンパク質「α-エチル-D-グルコシド(α-EG)」を配合したハンドクリームを腕に塗る実験では、皮膚の真皮層のコラーゲン密度が増加し、日本酒を飲んだ場合でも同じような効果が得られたと解説。また、甘酒からは消化器官内で消化と吸収がされにくい、難消化性のタンパク質「プロラミン」が含まれ、食物繊維のような物質として機能するため、コレステロールの排出促進や便秘改善、肥満抑制の作用がある、と。そして、どぶろくには日本酒と甘酒のこうした成分が双方含まれていると理路整然とした解説だった。

   この講演を聞いて、ある掛軸の絵を思い出した。能登町柳田植物公園にある古民家「合鹿庵」の掛け軸には、農耕儀礼あえのこと神事(2009年ユネスコ無形文化遺産登録)の「田の神さま」が描かれている。もちろん想像図なのだが、ふっくらでツヤツヤした顔だちが印象的だ。田の神さまは甘酒(どぶろく)が好みとの言い伝えが昔からある。こうしたコラーゲンたっぷりの顔だち。爽快な笑顔は便秘からの解放感なのかもしれない。尾関氏の研究成果がそのまま「田の神さま」に表現されていると直感した。

   前列に座っていたので気付かなかったが、講演会場には若い女性やカップル、ファミリィが目立った。主催者の話では150人。ひょっとして「どぶろくブーム」が起こるかもしれない。帰り際、会場でどぶろくが販売されていたのでつい2本買ってしまった。もちろんこの身で「実証実験」するためだ。

⇒22日(日)午前・金沢の天気    はれ

☆若冲「バイオアートの世界」

☆若冲「バイオアートの世界」

    きのう(18日)大学でのメディア論の講義を終え、少し時間をつくることができたので、石川県立美術館(金沢市出羽町)で開催されている江戸時代の絵師、伊藤若冲の特別展に足を運んだ。到着はちょうど午後5時、受付係の人から「午後6時に閉館ですのでよろしくお願いします」と言われた。60分で若冲の真髄をどこまで堪能できるか、急ぎ足で「若冲の世界」に入った。

    ヘチマに群がる昆虫などを描いた「糸瓜群虫図」=写真・上・図録「若冲と光瑤」から=は圧巻だった。掛軸の上から下を見て順に、カタツムリ、モンシロチョウ、クツワムシ(あるいはキリギリス)、イモムシ、オオカマキリ、ギンヤンマ、クサキリ、アマガエル、ショウリョウバッタの9種が見て取れた。図録では11種とあり、まるで絵解きのパズルのようで面白い。

    この絵に目を凝らしていると、自身の思い違いも発見できた。絵の上部のヘチマの黄色い花の乗っている昆虫は最初バッタかと思った。ところが、触覚が長いのでキリギリスと自分なりに修正した。でも、さらに観察すると体の真横の図柄がわらじの底のように横幅に厚みがある。キリギリスはもう少し細長くスマートだ。とすると、触覚が長くて横幅の厚みがあるとなると、クツワムシではないのか、と。キリギリスなのかクツワムシなのか、両者は確かにとても似ているのだが、一体どちらなのか。ぜひ鳴き声を聞いてみたいものだ。キリギリスならば「スイー・チョン」と鳴き、クツワムシは「ゴチョゴチョゴチョ」と。描き方が細密であるがゆえに、想像を膨らませてくれる絵なのだ。

   この絵の最大の特徴は「虫食い」だと感じる。これだけの虫がヘチマに群がっていれば、葉は虫食い状態になり茶色に変色する。それが、写実的に描かれ、さらに昆虫たちの動きを鮮やかに引き立てている。植物と昆虫の相互関係が描かれるバイオロジー(生物学)が表現されている作品。まさに、バイオアートの世界だ。ここで足が止まってしまい、残り時間は25分となった。急ごう。

   次に足を止めたのは水墨画「象と鯨図屏風」だった。屏風の右に「ねまり」(座り)のゾウ=写真・下・図録「若冲と光瑤」から=、左に「潮吹き」のクジラ、陸海の巨大な動物を対比させるダイナミックな構図だ。図録には作品は寛政7年(1795)とあり、若冲が80歳ころのものだ。「人生50年」の当時とすれば、若冲は仙人のような存在ではなかっただろうか。にもかかわらず、ゾウの優しい眼の描きぶりからは童心のような動物愛を感じさせる。そんなことを思いながら、60分間の若冲の世界はあっという間に過ぎた。

   帰宅中の自家用車の中でふと思った。動物愛は実際に見たり触ったりして愛情が育まれるものだ。クジラは日本近海にいるので別として、若冲はゾウを実際に見たのだろうか。インターネットでゾウの日本上陸の歴史を検索してみる。長崎県庁文化振興課が運営するサイト「旅する長崎学」に以下の記述があった(要約)。8代将軍吉宗が注文したゾウは享保13年(1728) 6月、唐船に乗って長崎に到着。ベトナム生まれのオスとメスの2頭。メスはまもなく死んで、翌年3月オスは長崎街道を歩き江戸へと向かう。4月に京都に到着。「広南従四位白象」という位を授かったゾウは中御門(なかみかど)天皇と謁見した。

         このとき、京生まれの青物問屋のせがれだった若冲は13歳。京の街を行進して御所に向かうゾウの様子を実際に見物したに違いない。白いゾウのイメージはここで得た。「ねまり」はどうか。拝謁したゾウは前足を折って頭を下げる仕草をし、天皇を感動させた(「ウィキペディア」)とある。当時、ゾウが座して頭を下げる姿は京の街中にうわさが広がって、若冲はゾウの姿のイメージをさらに脳裏に焼きつけたのではないだろうか。このダイナミックな構図はそうした原体験から創作されたのではないのか、と想像した。

⇒19日(木)朝・金沢の天気    はれ