#コラム

★島崎藤村と「どぶろく」

★島崎藤村と「どぶろく」

   出張の帰りに北陸新幹線軽井沢駅で途中下車し、「しなの鉄道」に乗り換え、小諸市を巡った。晴れてはいたが寒風がふいていた。小諸駅の裏手にある「小諸城址 懐古園」を散策した。ダイナミックな野面石積みの石垣、樹齢500年のケヤキの大木など城址めぐりを楽しんだ。ただ、城の大手門と本丸の間に鉄道が敷設されているので、城址公園の遺産がまるで分断されたようになっていて、「もったいない」と感じたのは私だけだろうか。

   懐古園にある「藤村記念館」に入った。平屋の小さな民家のような建物なのだが、設計者は東宮御所や帝国劇場を手掛けた建築家、谷口吉郎(1904-1979)だった。パンフレットによると、島崎藤村が小諸にやってきたのは明治32年(1899)のこと。牧師として藤村に洗礼を施した木村熊二に招かれて私塾の教員として小諸にやってきた。ここで過ごした6年余の間に創作活動を広げ、『雲』『千曲川のスケッチ』、そして『破戒』を起稿した。記念館には藤村の小諸時代を中心とした作品や資料、遺品が展示されている。

   館内は写真撮影は不可なのだが、一枚の写真のみ「撮影可」となっているものがあった。浅間山、小諸の街並み、そして千曲川が流れる大判サイズの写真で、『千曲川旅情の歌』と藤村の写真を配置している=写真=。確か中学時代に覚えた『千曲川旅情の歌』の始まりは今でも記憶にある。「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ・・・」。出だしは覚えているのだが、実は最後まで目を通したことは記憶に薄い。歌詞が長い。改めて最後まで目を通すと、歌詞は「千曲川いざよふ波の岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて草枕しばし慰む」で締めている。このとき、「藤村はどぶろく大好きだったのか」と想像をたくましくした。どぶろくは蒸した酒米に麹と水を混ぜ、熟成させた酒。ろ過はしないため白く濁り、昔から「濁り酒」とも呼ばれていた。どぶろくは簡単に造ることはできるが、明治の酒税法によって、自家での醸造酒の製造を禁止され、現在でも一般家庭では法律上造れない。

   歌詞にあえて「濁り酒」を入れるとは好物だったのではないかと想像するが、と言うことは、藤村自身も家庭で醸造していたのか。酒税法によって自家での醸造酒の製造を禁止されたのは明治32年(1899)。藤村が小諸にやって来た年である。この歌が作品として発表されたのは同34年(1901)の『落梅集』とされる。国立国会図書館デジタルコレクションでこの著作物を開いてみると、巻頭言の次の2ページと3ページに「小諸なる古城のほとり」のタイトルで掲載されている。藤村にとって相当の自信作だったに違いない。

           当時法律の周知には数年かかったろうと想像すると、この歌をつくったころはまだ、どぶろくを自由に造れ、存分に飲めたのだろう。しかし、日露戦争が明治37年(1904)に起き、戦費調達のために税の締め付けがきつくなり、「濁り酒」は本格的に御法度となっていったのではないだろうか。

⇒16日(日)午前・金沢の天気   くもり

☆自然「災」害と人「災」と

☆自然「災」害と人「災」と

    日本漢字能力検定協会は毎年年末にその年の世相を表す漢字一字とその理由を全国から募集していて、最も応募数の多かった漢字を京都・清水寺の貫主の揮毫により発表している。協会のホームページによると、ことしも11月1日から12月5日までの期間で19万3214票の応募があり、「災」が2万858票(10.8%)を集めて1位となった。

  きのう12日午後2時から清水寺で森清範貫主が揮毫する様子を民放だけでなくNHKも実況生中継で報じていた。確かにことしは災害ラッシュだった。自然災害では、年初めの豪雪に始まり、西日本豪雨、記録的な猛暑、北海道・大阪・島根での地震、大型台風の到来など。大規模な自然災害により多くの人が被災した。

  個人的には豪雪に恐怖感を味わった。自宅周辺の道路は30㌢ほどの高さの氷のように堅くなった雪道となっていて、ガレージから車が出せない状態が続いた。デイケアなどの福祉車両も通るため、町内会では人海戦術で道路の一斉除雪を行った。路上の雪は金属スコップで突いてもびくともしない硬さで、ツルハシを振り上げて下に勢いよく降ろして砕いた。学生時代にアルバイトで工事現場でツルハシを使った経験が生きた。

   もう一つ印象的なのは人「災」かもしれない。日本大学アメフトによる反則タックルに端を発した、いわゆるスポーツ界のパワハラ問題。オリンピック4連覇を達成して、国民栄誉賞を受賞した伊調馨選手と監督の間の問題もパワハラとされた。指導者が選手を育てる場合、それが教育なのか師弟関係なのか、難しいケースだ。オリンピック金メダリスト6人を育て上げた監督は日本レスリング協会強化本部長だった。指導する側に尊敬に値する人格というものがなければ、教育であっても師弟関係であっても人「災」、パワハラとみなされる。そのような判断の流れを一連の騒動を通じて考えさせられた。

   話は日大アメフト問題に戻るが、いまでも疑問に思っていることがある。動画を見れば、一目瞭然なのだが、試合開始の早々に日大のDL選手がパスをし終わった関学大のQB選手に真後ろからタックルを浴びせて倒している。QBが球を投げ終えて少し間を置いてから、わざわざ方向を変えて突進しているので、意図的なラフプレーだ。3プレー目でも不必要な乱暴な行為があり、5プレー目で退場となった。では、審判は1回目のラフプレーでDL選手をなぜ退場にしなかったのか。明らかに「レッドカード」ではないのか。単なる見逃しであるならば、審判に対してなぜ責任が問われなかったのだろうか。(※写真は清水寺のHPより)

⇒13日(木)朝・金沢の天気    はれ

★昔ハニートラップ、今ファーウェイ

★昔ハニートラップ、今ファーウェイ

  けさ12日のニュースによると、中国の通信機器メーカー「ファーウェイ」の副会長(CFO)がアメリカの要請によりカナダで逮捕された事件で、カナダ・バンクーバーの裁判所は保釈金を納付することやパスポートの提出などを条件に保釈を認められた。保釈金は1千万カナダドル(8億5千万円)。逮捕はアメリカのイランに対する制裁に違反した疑いだったが、むしろ、ファーウェイの製品にサイバーセキュリティーの問題があるとして、5Gなどの通信ネットワークから外す動きが世界各国で相次いでことの方がニュースになっている。

  すでにアメリカ政府はサイバー攻撃による安全保障上のリスクがあるとして、ファーウェイなど中国の通信機器の製品を政府内で使うことを禁止する方針を示し、さらにアメリカ軍の基地が置かれている国に対しても使用しないよう求めているようだ。これを受けて、日本政府もリスクを避けるため、各省庁が通信機器を調達する際の内規について、調達価格のみを基準としてきたこれまでの方針を改め、安全保障上のリスクも考慮に入れるよう改め、事実上ファーウェイなど中国の通信機器の製品の排除に動き出した。

  この一連のニュースに接すると、2004年5月にあった日本の上海総領事館の事務官が自殺した事件を思い出す。事務官は上海のカラオケ店で知り合った中国人女性と親密になり、そのうち領事館の情報(公電を読み解く暗号システムなど)を要求されるようになり、結局、「一生あの中国人達に国を国を売って苦しまされることを考えると、こういう形しかありませんでした」と遺書を残し自殺した。当時週刊誌などでは「ハニートラップ事件」などと報じられた。

  昔ハニートラップ、今ファーウェイなのだろうか。中国のあくなき情報戦は現在、通信網ネットワークに仕組まれているようだ。5Gという次世代通信網にいち早く手を打ち、民間企業を通じて輸出というカタチで世界に情報網を張りめぐらせる、驚くべき中華思想、「世界戦略」だ。今後、アメリカと中国の貿易戦争は単なる経済問題ではなく、世界の安全保障にかかわる問題として、その対立の構図がくっきり浮かんでくるだろう。(※写真は、12日付イギリスBBCニュースWeb版)

⇒12日(水)朝・金沢の天気  あめ

☆南海トラフ地震と高知城

☆南海トラフ地震と高知城

   2012年5月に高知を旅行し、山内一豊が築いた高知城を見学した。印象的だったのはしっかりした野面積みの石垣だった=写真=。説明看板を読むと、安土城築城で有名な石垣集団の穴太(あのう)衆が工事に加わっていたという。穴太衆を使って強固な石垣を築こうとした一豊の動機は、戦(いくさ)への備えもさることながら、地震への備えもあったのではないか。

    『秀吉を襲った大地震~地震考古学で戦国史を読む』(寒川旭著、平凡社新書)によると、秀吉の家臣として活躍した一豊は近江長浜城主となり2万石を領した。が、1586年の天正大地震によって城が崩れた。一豊が高知城で没したのは慶長10年9月20日(1605年11月1日)だが、その9ヵ月前の1605年2月3日には南海トラフのプレート境界に起こったM7・9の慶長大地震と津波で、多くの領民が亡くなった。高知城はその時、まだ築城の最中だった。二代目が慶長 16(1611)年に城を完成させた。それ以降、地震が100年から150年ごとに発生しているものの、高知城はなんとか耐えてきた。一豊の2度の被災体験が城造りづくりに活かされたのかもしれない。

   報道によると、政府の中央防災会議の作業部会はきょう(11日)、南海トラフ巨大地震の震源域で前兆と疑われる異常現象が起きた場合の対応方針を巡り、報告書案をまとめた。震源域の半分で地震が起きた場合、被害がない地域の住民も1週間ほど避難する。「起きるかわからない地震に備えた避難」は混乱を引き起こす恐れがあるものの、住民への周知や訓練は不可欠だろう。なにしろ、南海トラフ巨大地震の避難者数は最大950万人と予測されている。

    ことし6月に土木学会が発表した数字を思い起こす。今後30年以内に70-80%の確率で発生するとされる「南海トラフ地震」がM9クラスの巨大地震と想定すると、経済被害額は最悪の場合、20年間で1410兆円(推計)に達すると。倒壊などによる直接被害は169兆5千億円、それに加え、交通インフラが寸断されて工場などが長期間止まり、国民所得が減少する20年間の損害額1240兆円を盛り込んだ数字だ。

    1410兆円という数字を目にした時は数字が「躍っている」との印象だったが、政府が発表した「南海トラフ地震防災対策推進基本計画」(2014年3月28日)に目を通してみる。M9クラスの巨大地震を想定した場合の「減災目標」を「想定される死者数を約33万2千人から今後10年間で概ね3割減少させること、また、物的被害の軽減に関し、想定される建築物の全壊棟数を約250万棟から今後10年間で概ね5割減少させる」と掲げている。いま、南海トラフ巨大地震が起きれば最悪30万人余りの命が失われるのだ。数字の羅列になってしまった。

⇒11日(火)夜・金沢の天気     あめ

★続・「どぶろく」携え「あえのこと」へ

★続・「どぶろく」携え「あえのこと」へ

   ユネスコの無形文化遺産で単独に登録されている農耕儀礼「あえのこと」は能登半島の中でも奥能登と呼ばれる輪島市、珠洲市、穴水町、能登町の地域に伝承されている。「あえ」はご馳走でもてなすこと、「こと」は儀式や祭りを意味する。

   田の神は各農家の田んぼに宿る神であり、それぞれの農家によって田の神さまにまつわる言い伝えが異なる。共通しているのが、目が不自由なことだ。働き過ぎで眼精疲労がたたって失明した、あるいは稲穂でうっかり目を突いてしまったと諸説ある。目が不自由であるがゆえに、それぞれの農家の人たちはその障害に配慮して接する。座敷に案内する際に階段の上り下りの介添えをし、供えた料理を一つ一つ口頭で丁寧に説明する。もてなしを演じる家の主(あるじ)たちは、自らが目を不自由だと想定しどうすれば田の神さまに満足していただけるのかと心得ている。

   あえのことを見ていると「ユニバーサルサービス(Universal Service)」という言葉を連想する。社会的に弱者とされる障害者や高齢者に対して、健常者のちょっとした気遣いと行動で、障害者と共生する公共空間が創られる。「能登はやさしや土までも」と江戸時代の文献にも出てくる言葉がある。初めて能登を訪れた旅の人(遠来者)の印象としてよく紹介される言葉だ。地理感覚、気候に対する備え、独特の風土であるがゆえの感覚の違いなど遠来者はさまざまハンディを背負って能登にやってくる。それに対し、能登人は丁寧に対応してくれる。それが「能登はやさしや」という意味合いだろうと解釈している。能登人のその所作のルーツはあえのことではないだろうか、と推察している。

   初日にどぶろくを頂いて、「あえのこと」スタディツアーは5日、輪島市の民家を訪ね、農耕儀礼を見学させていただいた。午前9時、どぶろく(1升瓶)を託されたドイツからの男子留学生は家の主に「天日陰比咩神社からの預かりものです。田の神さまにお供えください」と手渡した=写真・上=。主人は甘酒も用意していたが、別御膳で神酒用の銚子と徳利で供えてくれた=写真・中=。「大役」を果たした留学生はあえのことを見終えて、「神様に拝むことはあるが、自宅に招き入れるという神事はとても新鮮に感じた。まさに、もてなしの心だと思いました。田の神がどぶろくを堪能してくれていると想像するとうれしい」とメディアのインタビュー取材に答えていた。

    どぶろくはもう1本預かっていた。それを能登町の合鹿庵で執り行われたあえのこと行事にお供えした=写真・下=。どぶろくを携えたスタディツアーは滞りなく終了した。チェコからの女子留学生は「チェコでガイドブックを手にした際に能登のことを知り、あえのこと神事に興味を抱いた。最初に訪れた(天日陰比咩)神社の雰囲気を感じたときに、日本人と自然の近い関係性を感じた。大切な習慣、考え、儀式はこれからも日本で残されていってほしい。チェコではこうした儀式や伝統文化ははなくなりつつある」とチェコの現状にも触れた。中国からの男子留学生は「自分は中国の少数民族(チワン族)出身で、田の神は祭られている。しかし、能登のように田の神の存在はそれほど大きなものではない。今回のツアーを通して、人として自然への尊敬を持たなくてはならないと感じた」と感想を語った。

   「どぶろくが119年ぶりに飲めてよかった。来年も来てくれよ」。そんな田の神の声を想像しながら、金沢への帰路に就いた。

⇒7日(金)午前・金沢の天気     はれ  

☆「どぶろく」携え「あえのこと」へ

☆「どぶろく」携え「あえのこと」へ

  「どぶろく」という酒を初めて飲んだのは2011年10月のことだ。世界遺産の合掌集落で知られる岐阜県白川郷の鳩谷八幡神社のどぶろく祭りに参加し、神社の酒蔵で造られるどぶろくをお神酒としていただいた。蒸した酒米に麹(こうじ)、水を混ぜ、熟成するのを待つ。ろ過はしないため白く濁り、「濁り酒」とも呼ばれる。どぶろくは簡単に造ることはできるが、1899年(明治32年)、自家での醸造酒の製造を禁止した酒税法により一般家庭では法律上造れない。

  白川から6年後、どぶろくを能登で堪能することができた。中能登町の天日陰比咩(あめひかげひめ)神社は毎年12月5日の新嘗祭で同社が造ったどぶろくをお供えし、お下がりを氏子らに振る舞っている。地域の伝統的な神事が広がり、昨年(2017)12月に初めて同社でどぶろく祭が開催された。関西や関東方面からも「どぶろくマニア」が訪れていた。国の「どぶろく特区」の認定を受けた中能登町にどぶろくを造りたいというIターン者が移住してくるようになり、中能登町はどぶろくで盛り上がりを見せている。

  天日陰比咩神社で新嘗祭が行われる12月5日は、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている、奥能登の農耕儀礼「あえのこと」が執り行われる日でもある。この日、輪島市など奥能登2市2町で伝統儀礼を引き継ぐ稲作農家の家々では、田の神をお迎えしてご馳走でもてなす日である。神事の新嘗祭は、その年の新米を神に捧げて収穫に感謝し、併せて翌年の豊穣も祈る祭儀。つまり、あえのことは家々で執り行う「農家版新嘗祭」と言ってよい。

   あえのことでは、田の神は目が不自由であると伝承されていて、それぞれの農家は座敷に案内する際に介添えをしたり、供えた料理を一つ一つ口頭で説明する。「もてなし」をする家の主(あるじ)は、自らが目を不自由だと想定し、どうすれば田の神に満足していただけるもてなしができるかと想像を膨らませながら、一人芝居を演じる。

   新聞記者時代に何度かあえのことを取材した。輪島市のある農家の高齢の主のつぶやきを記憶している。「もっとおいしい甘酒を差し上げたいのだが」と。「もっとおいしい甘酒とは何ですか」と主に問うと、今は田の神が大好きとされる「甘酒」を捧げているが、明治ごろまでは各家で造っていたどぶろくを供していたと先祖から聞いたことがある、というのだ。田の神の好物は甘酒ではなくどぶろく、だと。明治の酒税法により家庭での醸造酒造りは禁止、どぶろくの代替えが甘酒になった。時代の流れを容易に察する。「それなら、田の神に本来の好物、どぶろくを捧げよう」と思い立った。

    留学生や学生を連れての「あえのこと」スタディ・ツアー(12月4、5日)に2016年から実施している。3回目となる今回、初日の4日に天日陰比咩神社をコースに組み入れた。ここで禰宜に事情を説明し、新嘗祭用のどぶろく2本を田の神に奉納することを約束にいただいた。この趣旨をよく理解してくれたドイツからの留学生がお神酒どぶろくを禰宜から受け取った=写真=。「どぶろくが119年ぶりに飲める。待っとるぞ」。そんな田の神の声を想像しながら、奥能登へと向かった。

⇒6日(水)朝・金沢の天気   はれ

★ヨーロッパの「アマメハギ」

★ヨーロッパの「アマメハギ」

   けさ(3日)のNHKニュースを見て思わず、能登半島のアマメハギや秋田・男鹿半島のナマハゲはヨーロッパにもあるのだと、そのそっくりな仮面と動作に驚いた。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に日本古来の「来訪神 仮面・仮装の神々(Raiho-shin, ritual visits of deities in masks and costumes)」が登録されることが決まったタイミングでの実にタイムリーなニュースだ。

  ニュースによると、オーストリア北部ホラブルンの伝統行事「クランプス(Krampus)祭」。クランプスはドイツやオーストリアなどヨーロッパの一部の地域で長年継承されている伝統行事。頭に角が生え、毛むくじゃらの姿は荒々しい山羊と悪魔を組み合わせたとされ、アマメハギの仮面とそっくりだ。12月初めの今の時期、子どもたちがいる家庭を回って、親の言うことを聞くよい子にはプレゼントを渡し、悪い子にはお仕置きをするのだという。そこで、ドイツ・ミュヘン市の公式ホームページをのぞくと「Krampus Run around the Munich Christmas Market」とさっそく特集が組まれていた。それほど現地では有名な行事なのだろう。

    面白く感じたのは、幼い子に接するコンセプト、つまり、「親の言うこと聞かない悪い子にはお仕置きをする」という動作だ。言うことを聞かない幼い子にクランプスは「また親の言うことを聞かないのか」と大声で脅す。すると子どもは「聞きます、聞きます」と親の後ろに逃げて隠れる。まるで、能登で演じられるアマメハギと同じ光景だ。毎年、クリスマスの12月初めにさまざまな姿のクランプスが登場し、現地では冬の風物詩として親しまれているようだ。

     逆に、ヨーロッパでクランプスを知る人たちにとっては、アマメハギやナマハゲがユネスコ無形文化遺産に登録されることが決まり、情報として接する機会も今後増え、同じようなことを考えるだろう。「日本の行事と同じだ」と。この際、鬼仮面の相互交流をしてはどうか。幼い子どもたちにとってたまったものではないが。(※上の写真はドイツ・ミュンヘン市のHPより、下の写真は能登町のHPより)

⇒3日(月)朝・金沢の天気  あめ

 

☆民俗文化を残す、至難の業

☆民俗文化を残す、至難の業

   審査待ちが長引きようやく決まったという印象だ。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に日本古来の「来訪神 仮面・仮装の神々(Raiho-shin, ritual visits of deities in masks and costumes)」が登録されることが決まった。実際に見て、身近に知る伝統行事でユネスコ無形文化遺産に登録されたのは、奥能登の農耕儀礼「あえのこと」(2009年)、七尾市の青柏祭が「山・鉾・屋台行事」(2016年)、そして輪島市と能登町の「アマメハギ」が今回登録された。3件ともすべて能登半島で連綿と守られ、続いてきた民俗文化なのだ。

    秋田ではナマハゲと称され、能登ではアマメハギと言う。節分にあたる2月3日に能登町秋吉地区で行われるアマメハギは高校生や小中学生の子どもが主役、つまり仮面をかぶった訪問神に扮する。囲炉裏やこたつに長くあたっているとできる「火だこ」のことをアマメと言い、能登では怠け者のしるしとされる。この火だこを「いつまでこたつにあたっているのだ」と剥ぎ取りに来るのがアマメハギである。主役は子どもたちなので驚かす相手は幼児や園児になる。幼児が怖さで泣き叫ぶ、その場を収めるために親がアマメハギにお年玉を渡す。

    この伝統行事は子どもたちへの小遣い渡しの行事でもあった。伝統行事を世話している地域の方からこんな話を聞いたことがある。かつて、アマメハギ行事での子どもたちへの小遣い渡しが教育委員会で問題となり、行事を自粛するよう要請されたこともあったそうだ。このことがきっかけで実際に自粛して、伝統行事が途絶えた地区もあったという。

    地域の民俗文化や伝統行事は社会現象によって衰退するケースが多々ある。そのほかにも、能登では伝統行事の男女平等が問われたことがある。奥能登では夏から秋にかけてキリコ祭りが盛んだが、併せて家々ではヨバレという客に対する「もてなし」がある。その際の祭りのご馳走をゴッツオと呼び、数日前から嫁、姑の女性たちが仕込みに入る。キリコ祭りのゴッツオをつくっている女性たちが祭りを楽しめないのは不平等ではないかとの声が上がり、ヨバレをしない家も増えてきた。このアマメハギでも、幼児を不必要に恐怖に陥れるのは「虐待ではないか」との声がないわけでもない。

    民俗文化や伝統の行事というのはそうした時代の尺度にさらされながら、しぶとく生き残ってきたのだろう。今回のユネスコ無形文化遺産の登録でアマメハギは国際評価を得た。少子高齢化と過疎化で伝統行事の継承そのものもが危ぶまれていたときだけに、何とか踏みとどまるチャンスを得たのではないだろうか。

⇒1日(土)朝・金沢の天気      くもり

★出雲大社と竹内まりや

★出雲大社と竹内まりや

    11月のことを旧暦の月名では神無月(かんなづき)と称する。ここ出雲では神在月(かみありづき)と称することを初めて知った。神無月と神在月は何がどう違うのか。島根県立古代出雲歴史博物館の企画展「神々が集う」のチラシによると、この時季、全国の神々、つまり八百万(やおよろず)の神が出雲に集い、全国各地では神がいなくなるので神無月に。出雲では全国から集うので神在月となるそうだ。さすが出雲は神話のスケール感が違う。

    きのう(24日)高校時代の同級生おっさん3人のドライブ旅は朝に姫路を出発、正午ごろには松江を巡り、夕方に出雲に到着した。松江では島根名物「割子そば」を食した。朱塗りの丸い器が三段重ねになっていて、そばが盛ってある。それに 刻みねぎ、おろし、削り節などの薬味をのせ、つゆをかけて食べる。そのつゆはトロリとした濃いめで、ソースのような。そばと言えば、信州そばなのだが、物知りのおっさんの一人が「出雲のそばは松江藩初代の松平直政(徳川家康の孫)が、信州松本から出雲に国替えになってつくられるようになったそうだ」と教えてくれた。入ったそば屋のパンフにも、直政がそば職人を信州から一緒に連れて来たとも記されていた。出雲そばと信州そばは歴史的なつながりがあるようだ。

    そば屋を出て、国宝の松江城の堀を歩くと、城と堀と松の老木、そして白壁の武家屋敷街が一体となった歴史的な空間が心を和ませてくれる。少し坂を登ると、茶室「明々庵」がある。パンフには、大名茶人として知られた七代の松平治郷(号・不昧=ふまい)が造った。庭を眺めながら、そばの後の一服。不昧公はこう述べたそうだ。「茶をのみて 道具求めて そばを食ひ 庭をつくりて月花を見ん その外望みなし 大笑々々」。至福のひとときは現代でも通じるのでないか。

   話は冒頭の出雲の神の話に戻る。午後4時に出雲大社に到着すると。拝殿では神等去出(からさで)の神事が執り行われていた。出雲大社に集合した八百万の神が今度はそれぞれの国に帰る儀式。大社にある19の社(やしろ)の依代(よりしろ)が絹布で覆われて拝殿に移される=写真・上=。祝詞が奏上され、神官の一人が「お立ち、お立ち」と唱えた。この瞬間に神々は出雲を去った、とされる。まるでデジタルの発想だ。この神事を大勢の参拝客が見守っていた。

   「きょう竹内まりやさんはいらっしゃいますか」と旅館のフロントに尋ねると、「先週は来られたのですが、きょうはいません」と。出雲大社の門前町にある旅館「竹野屋」での会話。同級生おっさん3人は歌手の竹内まりやのフアン。出雲に泊まるのならば当地出身の竹内まりやゆかりの旅館で、となった。フロントでの質問は本人は時折帰省しているとの情報をネットで得ていたため。それにしても、明治初期に造られた老舗旅館は風格あるたたずまい。この家で生まれ、大社の境内で幼少期にはどんな遊びをしたのだろうかなどとおっさんたちの想像は膨らんだ。

   夕食にゆでカニが出た。島根県沖の日本海で取れた由緒正しい「松葉ガニ」かと想像したが、品書きには「ズワイガニ」と記してあった。けさ(25日)の朝食では「しじみ汁」が出されたので、「宍道湖のシジミですか」と問うと、男性の給仕係は「ジンザイコ産です」と。シジミと言えば、宍道湖産ではないのかと一瞬いぶかった。神西湖は大社の西側にある汽水湖で宍道湖よりも近い。竹野屋とすれば、神西湖で採れたシジミが地元産なのだ。カニはおそらく山陰地方の漁港で揚がったものではなかったのだろう。客とすれば「松葉ガニ」「宍道湖のシジミ」を期待するのだが、そうしたブランド物にあえてこだわらない経営方針なのだろう。「愚直」という言葉が脳裏に浮かんだ。温泉地ではない、参拝客が旅装を解く門前通りの旅館なのだ。

   竹内まりやはデビュー40周年だが、テレビメディアにはほとんど露出しない。ミュージシャンとしての人生を愚直に貫いている。その竹内まりやのライブ映像を映画化したシアターライブが今月23日から全国の映画館でロードショーされている=写真・下=。「あの伝説のライブが今、蘇る! お久しぶり、まりや!」がキャッチコピーだ。「神在月」でにぎわう出雲の一日を堪能した。

⇒25日(日)午前・出雲市の天気    くもり

☆白鷺城と姫路おでん

☆白鷺城と姫路おでん

  きのう(23日)姫路市に到着した。夕方ホテルにチェックインしてテレビにスイッチを入れると、大阪の民放はテレビ特番を組んでいた。大阪誘致を目指す2025年国際博覧会(万博)の開催国を決めるBIE(博覧会国際事務局)の総会がパリであり、加盟国による投票の票読みなどが詳しく報じていた。大阪キー局の万博誘致への意気込みが伝わってきた。そして、真夜中に再びスイッチを入れると、日本がロシア(開催地エカテリンブルク)とアゼルバイジャン(開催地バクー)を破り、開催国に選ばれたと大騒ぎになっている。1970年の大阪万博の熱気が再び蘇るのか。今から48年前、南沙織の『17才』の歌に心を動かされた、あの時代でもある。

  まさに大阪万博のときに知り合った高校時代の同級生たちと連休を利用してドライブで姫路に来ている。北陸自動車道から、敦賀ジャクションで舞鶴若狭道へ、吉川ジャンクションから中国道、福崎インタージェンジを降りて、姫路市に到着した。ドライブ中は外の景色の山並みで紅葉が楽しめたが、同じ視界が数時間も続くとさすがに飽きてくる。それでも、山並みを見ると篠山あたりでは、人里と山には鉄線柵が連なっている地域も見えた。イノシシなどの獣害で悩まされている地域なのだと察した。

  姫路と言えば、姫路城。映像などで白壁の美しさと石垣の高さから「白鷺(しらさぎ)城」と呼ばれ、国宝、そして1993年には法隆寺とともにユネスコ世界遺産にも登録されている。姫路城に到着した時刻は午後4時を過ぎていて入場は叶わなかったが、その優雅な外観は堪能できた=写真・上=。残念に思ったことが一つある。城に入るまでのアクセスに緑が少ないことだ。確かに桜門を入ると桜の並木が広がる。問題はその下、グランドカバーは見た限りだが、雑草だった。また、三の丸の茶室「鷺庵(ろあん)」の庭も地面が見える。スギゴケなどで和風庭園らしいカバーできないものかと残念に思った次第だ。

   夕食は姫路駅周辺で探した。インバウンド観光の客なども多く、姫路城の観光効果を思い知った。仲間の一人が「姫路おでん」を食べに行こうと提案した。商店街の裏通りに居酒屋があり、のぼり旗の「姫路おでん」の文字が目に入った=写真・下=。カウンターに腰かける。さっそく大根や卵を注文し、地酒を頼んだ。ここのおでんは生姜(しょうが)醤油がかけてあり、風味がよい。辛口の日本酒が合う。

   カウンターの向こうにいるスタッフは会話が弾む女性たち。そう言えば、コンビニの定員、ホテルのフロントのスタッフは元気のよさそうな女性が多い。姫路とは「女子が元気な街」という意味かなどと話しながら、同級生おっさんたちはホテルに戻った。

⇒24日(土)朝・姫路市の天気   くもり