#コラム

☆ドキュメント「平成と私」~下~

☆ドキュメント「平成と私」~下~

  新紙幣を2024年度に発行すると過日(9日)の記者会見で麻生財務大臣が発表した。新元号の次は新紙幣だ。1万円、5千円、千円の紙幣(日本銀行券)の全面的な刷新だ。このニュースでは、45兆円もあるとされるタンス預金を吐き出させることにあるのではないかと論評するコメンテーターの言葉が妙に説得力があった。

   1万円札の福沢諭吉は交代も、未来も変わらぬ「独立自尊」の品位

  1万円札の人物変更は聖徳太子から福沢諭吉に代わった昭和59年(1984)以来、40年ぶりというから確かにそろそろ交代の時期なのかもしれない。その福沢が19歳まで過ごした大分県中津市の旧居と記念館を訪れたことがある。平成24年(2012)10月のことだ。豪邸ではなく、簡素な平屋建ての家屋だった。天保5年(1835)に大阪・堂島の中津藩倉屋敷で生まれた。父の百助は堂島の商人を相手に勘定方の仕事をしていた。翌天保6年、父の死去にともない中津に帰藩することになる。

   中津の旧居近くに看板があった。これに福沢の文が引用されていた。「今より活眼を開て先ず洋学に従事し 自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し、・・・人誰か故郷を思わざらん 誰か旧人の幸福を祈ざる者あらん」(明治三年十一月二十七 旧宅敗窓の下に記 「中津留別之書」)。明治3年(1870)、中津に残した母を東京に迎えるため一時帰郷した福沢が旧居を出る際に郷里の人々に残したメッセージだ。「中津留別之書」は『学問のすゝめ』の思想のベースとも言われる。そのメッセージで心が揺さぶられるのは、「自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し」の箇所だ。その後の福沢を人生を突き動かす「独立自尊」の強烈なメッセージが読み取れる。

   ここで考えたのは、これは誰に発したメッセージなのだろうか、ということだ。翌明治4年に福沢は、新政府に仕えるようにとの命令を辞退し、東京・三田に慶応義塾を移して、経済学を主に塾生の教育に励む。その年、廃藩置県で大勢の武士たちが職を失い、落ちぶれていった。武士が自活できるように、新たな時代の教育を受ける学校が必要なことを福沢は痛感していたに違いない。「中津留別之書」はその強い筆力とメッセージ性から、武士たちに新たな世を生き抜けと発した檄文ではなかったのだろうか、と。では、なぜそのようなメッセージを武士に発したのか。武士たちが怨念を募らせて刀や鉄砲を手にすることで再び混乱の世に戻り、「自由が妨げられる」と危惧したのではないか。

  「中津留別之書」から30年後、福沢は慶応義塾の道徳綱領を明治33年(1900)に創り、その中で「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」(第2条)と盛り込み、「独立自尊」を建学の基本に据えた(「慶応義塾」ホームページより)。翌明治34年(1901)2月、福沢は66歳で逝去する。武士が新たな世を生き抜く「人生モデル」を自ら示したのだった。法名は「大観院独立自尊居士」。

  平成の1万円札の主役を担った福沢から、令和は渋沢栄一に代わる。しかし、「独立自尊」の精神は未来も変わることのない人の品位である。

⇒11日(木)夜・金沢の天気    はれ

★ドキュメント「平成と私」~中~

★ドキュメント「平成と私」~中~

    平成19年(2007)3月25日午前9時42分、日曜の朝、金沢市の自宅(木造2階)がぐらぐら揺れた。家全体が持ち上がるような揺れだった。NHK総合にスイッチを入れた。震度は石川県の七尾市、輪島市、穴水町で震度6強、志賀町や能登町などで震度6弱、珠洲市で震度5強を観測、震源は輪島市沖の日本海でマグニチュード7.1だった。「能登半島地震」と震災名が付された。石川県では死者1人、重傷者88人、軽傷者250人、住家全壊686棟、住家半壊1740棟など甚大な被害が発生した。ぐらぐら揺れた金沢の震度は4だった。

      ~被災地における取材者目線と被災者目線の違和感~

   このとき自身は金沢大学の地域連携推進センターでコーディネーターの職に就いていた。2年前の平成17年(2005)1月に北陸朝日放送報道制作局長の職を辞していた。50歳になり「人生ひと区切り」と。すると、かつての取材先でもあった金沢大学の理事・副学長から誘われた。平成19年に学校教育法が改正され、大学のミッション(教育・研究)に新たに社会貢献が加わることになるとの話だった。「地域にどのような課題があって、そのキーマンは誰か、宇野さんはよく知っているはずだ。新聞・テレビでの知見を大学で活かしてみないか」と。テレビ局を辞した年の4月に大学の地域連携コーディネーターに採用となった。

   当時から能登半島は過疎・高齢化、人口減少が急速に進み、「地域課題のトップランナー」と仲間内で称していた。そこに来て、さらに震災が追い打ちをかけた。余震が続く翌日、大学のスタッフとともに現地に入った。震源に近い海岸沿いの輪島市門前町では街並みが崩れていた。対策本部テントを訪ね、学生のボランティア派遣について問い合わせた。「余震が続く間は二次災害もあるので、しばらくは難しい」との返事だった。3日後の28日に学生や大学職員とボランティアに入り、門前町道下(とうげ)地区を中心にお年寄り世帯の散乱する家屋内の片づけ作業を始めた。その後は猿回しの一行を連れて避難所を慰問に訪れたりもした。

   被災現場である違和感を感じた。震災当日からテレビなどの取材陣が大挙して被災地に入っていた。半壊の家屋の前で茫然と立ちつくすお年寄りがいて、その横に半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと身構えるカメラマンたちがいた=写真・上=。「でかいのがこないかな」という言葉が聞こえた。「でかいの」とは余震のこと。余震で家が倒壊する瞬間を狙っていたのだ。被災者にはこのカメラマンたちの姿はどう映っただろうか。私が前職(報道制作局長)だったら、違和感を感じなかっただろう。むしろ、「倒壊の瞬間を撮ったら、すぐネット上げ(全国放送)だ」とカメラマンたちを叱咤激励していただろう。取材者目線と被災者目線、どちらも理解できるがゆえに違和感を感じる自身がそこにいた。

   被災者目線で取材をする報道カメラマンもいた。学生と被災者宅で後片付けのボランティアをしているとき、共同通信の腕章を付けたカメラマンが玄関から入って来た。片付けか作業をしていた家主に許可を得て、靴を脱いで上がった。割れたガラスなどが散乱しているので、ケガをしないだろうかと、こちらの方が気を揉んだ。撮影を終え被災者におじぎをして去った。見事な所作だった。 

   政治の揺れに翻弄されたこともあった。平成6年(1994)3月、石川県知事に副知事の谷本正憲氏が初当選した。谷本氏はそれまでの知事が現職で死去したため、新生・公明・民社・日本新・社会の「非自民5党」推薦で出馬し、当時、自民党幹事長だった森喜朗代議士が推した元農水事務次官で参議員だった候補を破っての当選だった。この政治的な背景には、自民党を離党して新生党の結成に参画した奥田敬和代議士と森氏による、自民分裂による地域の勢力戦いだった。テレビ局時代は、政治取材と言えば、このいわゆる「森奥戦争」だった。

  その森氏は平成12年(2000)4月、脳梗塞で倒れた小渕総理の後を継ぐかたちで85代総理大臣に就任。石川県出身では、33代の林銑十郎、36代の阿部信行に続き3人目だった。しかし、「日本は天皇を中心とした神の国」発言や、ハワイ沖で日本の高校生の練習船がアメリカの原子力潜水艦と衝突して死者を出した「えひめ丸」事故(平成13年2月)への対応が問題となり、就任から1年で総理の座を小泉純一郎氏に渡した。退陣前の内閣支持率は9%(朝日新聞調査)と1桁を割っていた。

  谷本氏は現在7期目、そして森氏は政界引退も東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長の座に就いている(※写真・下は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会ホ-ムページより)。

⇒8日(月)午後・金沢の天気   くもり

☆ドキュメント「平成と私」~上~

☆ドキュメント「平成と私」~上~

   「平成」から「令和」へと元号が変わるだけなのに、何か新しい、時代のイノベーションが訪れるような雰囲気ではある。「よい時代にしよう」という日本人の前向きな気持ちが込められる分、新元号の価値と意義はあるかもしれない。イエス・キリストの誕生年から始まる西暦だけだと数字が積み上がっていくだけで、100年ごとの新世紀しか話題は盛り上がらない。新元号まであと23日、平成という時代を自身の体感でまとめてみたい。

    ~平成初頭、テレビを通してかかわった松井秀喜と麻原彰晃~

    平成の時代が始まった元年(1989年1月)は新聞社の記者だった。その年の10月に系列のテレビ局に出向して、映像の世界を知ることになる。新聞社を辞して、新しく開局するテレビ局に入る。その北陸朝日放送が開局したのは平成3年(1991)10月だった。高校野球の中継番組が売りの一つ。当時星稜高校の松井秀喜は石川大会でも視聴率を上げた。なにしろ、石川大会で4本塁打を3大会連続で放った「怪物」だった。その松井が甲子園伝説をつくった。平成4年(1992)年8月16日、夏の甲子園大会・2回戦の明徳義塾高(高知)戦で明徳側が4番打者の松井を5打席連続で敬遠した。実況アナの「勝負はしません」が耳に残る試合だった。  

    そのとき、自身は金沢の本社で朝日放送から送信されてくる中継映像をチェックしながらニュース特集の構成をディレクターと考えていた。試合終了後の松井のコメントは「野球らしくない。でも歩かすのも作戦。自分がどうこう言えないです」と淡々としたものだった。宿舎に帰った松井本人から、勝負をしたかったというコメントが取れないか、現地の記者に指示出しをしていた。この5打席連続敬遠が松井の名を一気に「全国区」に押し上げた。11月のプロ野球ドラフト会議で4球団から1位指名を受け、抽選で交渉権を獲得した巨人に入団。背番号「55」。平成14年(2002)12月、ニューヨーク・ヤンキースと契約。平成25年(2013)5月5日、国民栄誉賞を長嶋茂雄と同時に授与された。 

    松井の生家は、甲子園大会歌の「栄冠は君に輝く」の作詞者、加賀大介が活動した同じ石川県能美市にある。松井の活躍と同じころ、その能美市で不可解なことが起きていた。プロ野球ドラフト会議の前月、10月に同市に本社がある油圧シリンダーメーカー「オカムラ鉄工」の社長にオウム真理教の教祖、麻原彰晃が就いて記者会見を開いた。同社の社長が信者で、資金繰りの悪化を機に社長を交代した、という内容だった。すでに社員には信者が送り込まれ、取材でも「教団に乗っ取られた」と地元の評判は良くなかった。ほどなくして会社は事実上倒産。会社の金属加工機械などは山梨県上九一色村の教団施設「サテイアン」に運ばれた。その後の裁判で、金属加工機械でロシア製カラシニコフAK47自動小銃を模倣した銃を密造する計画だったことが明らかになった。

    翌年の平成5年(1995)3月20日の地下鉄サリン事件。実行犯の一人だった林郁夫(医師)らがレンタカーで逃げた先が能登半島・穴水町の貸し別荘だった。4月、一緒に身を隠した信者の一人が別荘の近くで警官の職務質問を受け逮捕された。テレビのニュースで知った林郁夫は盗んだ自転車で貸し別荘を出て、金沢方面に向かう途中で警官の職務質問を受けて逮捕された。その後の林郁夫の全面自供により地下鉄サリン事件の全容が明らかとなる。麻原が逮捕されたのは林の逮捕から38日後の5月16日だった。

    平成初頭はまさしく宗教ブームだった。オウム真理教が盛んに信者を獲得していた。平成3年9月に放送されたテレビ朝日「朝まで生テレビ」では「激論 宗教と若者」と題しての討論に麻原彰晃が生出演した。部下だった上祐史浩、村井秀夫らの論客も出演し、他の新興宗教と激論を交わした。無名に近かったオウム真理教が一気に注目されるきっかをつくったのはテレビだった。

   平成30年(2018)7月6日、法務省は坂本堤弁護士一家殺害事件(平成元年11月)、長野県松本市でのサリン事件(平成4年6月)、東京の地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教による犯行の首謀者、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚らの刑を執行した。このニュースをテレビの速報テロップで知った。

⇒7日(日)午後・金沢の天気     くもり

☆平和で一人ひとりが輝く「令和」を願う

☆平和で一人ひとりが輝く「令和」を願う

     「大化」(645年)から248番目の元号が「令和」に決まった。午前11時35分から総理官邸で開かれた会見で、菅官房長官が墨書を掲げて新元号を公表する様子をネットの動画中継を観ていた。なんと平和なことか。昭和、平成、そして令和の時代を生きることは喜びではないかのか、ふと気づかされた。平成の世と同じく、令和も戦争のない平和な時代であってほしいと願うばかりだ。

  令和は万葉集の梅の花の歌三十二首の序文にある『初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす』から引用したもの(菅官房長官の説明)。万葉集は1200年前の奈良時代に編纂された日本最古の歌集である。この万葉集の序文を読み解いてみる。「初春の良い月に さわやかな風が心地よく吹いている 梅の花は鏡の前の白粉(おしろい)のように美しく咲いて」と、ここまでは読める。しかし、「蘭は珮後の香を薫らす」の「珮後(はいご)」の意味がよく分からない。「珮」は腰帯とそれにつりさげた玉・金属などの総称とある(三省堂『大辞林』)。「蘭は腰帯に付けた香りの飾りのように薫っている」という意味だろうか。

  自然と人の営みを美しく表現している歌だと思う。この序文の中の「令」と「和」を取って令和とした。安倍総理は記者会見で、「春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように一人ひとりが明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込めて決定した」と述べた。

  知人に「令和」の印象をメールで送った。「この言葉に込められた意義がすこし分かりにくいと感じながらも、語感とするとスマートな感じがします」と。さっそく返信があった。「『令』という字がちょっと冷たい感じがするものの、『和』があることでバランスがとれているかな、というのが最初の印象です。たしかにスマートですね。首相談話を読んで、日本人としての誇り、世界の平和を希求する心が感じられ、心が豊かになるように感じました。そして、この令和の書体が大好きです。平成のときの書体はどうしても好きになれなかったのですが、この書体もあって、個人的な好感度がアップしました。」と。

  厳しい寒さの後に咲き誇る梅の花のように、未来への希望とともに、一人ひとりが輝く国であってほしい。(※写真・上は総理官邸ホームページより)

⇒1日(月)夜・金沢の天気    あめ

★時代を象徴する出来事と元号

★時代を象徴する出来事と元号

   5月1日の新天皇の即位にともなう改元について、政府はあす4月1日午前中に臨時閣議を開き、「平成」に代わる新しい元号を決定し、午前11時半から官房長官が発表するとしている。元号の文字は歴史的な事件や災害などととともに、日本人の頭の中にインプットされている。自らの脳裏に記憶されている元号をこの機会に時系列で整理してみる。

   最初に出てくる元号は「大化」だ。日本史で習う代表的な言葉が「大化の改新」。645年、中大兄皇子らによる天皇を中心とした国づくりが始まった。当時は西暦という概念はなかったので、君主が時間を支配するという中国の思想をそのまま導入した。その中国では清朝時代の終焉(1911年)とともに元号は消滅している。次が「和同」だ。日本に貨幣経済が導入されたことを象徴する「和同開珎」は708年に鋳造された。「天平」もよく耳にした。井上靖の歴史小説『天平の甍』は有名で、遣唐使として大陸に渡った留学僧たちの物語は映画にもなった。「延暦」は比叡山延暦寺から連想する。最澄が延暦7年(788)に比叡山に薬師如来を祀る寺を建てたのが最初とされ、その後、山に建立された数々の寺を総称して延暦寺と呼ぶようになった。

    ところで、政府やメディアは「元号」と称しているが、一般、とくにシニア世代では「年号」が普通ではないだろうか。その由来を探ってみる。明治時代に入り、旧皇室典範で「一世一元」が明文化されたが、昭和の敗戦で、連合国軍総司令部(GHQ)のもとで新皇室典範からは元号の規定はなくなった。つまり、戦後は法的根拠もなく、慣習として昭和という元号を使っていた。ところが、昭和天皇の高齢化とともに、元号について議論され、1979年6月に元号法が成立した。元号は「政令で定める」「皇位の継承があった場合に限り改める」と一世一元が復活した。この時点で、一般的には年号だが、公式には元号が使われるようになった。

    脳裏に残る元号の話を続ける。「延喜」は延喜式内社の言葉が浮かび、神社めぐりによく使う。「応仁」は応仁の乱(1467‐77年)で刻まれる。京都の人が「先の戦(いくさ)」と言う場合は応仁の乱を指すとか。「天正」と「慶長」は寒川旭著『秀吉を襲った大震災~地震考古学で戦国史を読む~』に心象深い。1586年の天正地震。このとき豊臣秀吉は琵琶湖に面する坂本城にいた。当時、琵琶湖のシンボルはナマズで、ナマズが騒ぐと地震が起きるの土地の人たちの話を聞いた秀吉は「鯰(ナマズ)は地震」と頭にインプットしてしまった。その後、伏見城を建造する折、家臣たちに「ふしミ(伏見)のふしん(普請)なまつ(鯰)大事にて候まま、いかにもめんとう(面倒)いたし可申候間・・」と書簡をしたためている。現代語訳では「伏見城の築城工事は地震に備えることが大切で、十分な対策を講じる必要があるから・・・」(『秀吉を襲った大震災』より)と。この話には続きがある。

    1596年に慶長伏見地震があり、このとき秀吉は伏見城にいた。太閤となった秀吉は中国・明からの使節を迎えるため豪華絢爛に伏見城を改装・修築し準備をしていた。その伏見城の天守閣が地震で揺れで落ちた。さらに、建立間もない方広寺の大仏殿は無事だったが、本尊の大仏が大破したことに、秀吉は「国家安泰のために建てたのに、自分の身さえ守れぬのならば民衆は救えない」と怒りを大仏にぶつけ、解体してしまったという話も。さらに、秀吉の「なまつ大事にて候」の一文は時を超えて「安政」の江戸地震(1855年)に伝わる。余震に怯える江戸の民衆は、震災情報を求めて瓦版を買い求めたほか、鯰を諫(いさ)める錦絵=写真=を求めた(『秀吉を襲った大震災』より)。震災後、幕府が鎖国から開国へと政策転換を図るときに起こした「安政の大獄」もこの混乱の時代を象徴する。

   江戸時代の「元禄」(1688‐1704年)は「浮世」と称せられるほど民衆文化が花開く。戦後の高度経済成長時代の天下太平ぶりは「昭和元禄」ともいわれた。時代の様子は元号とともに、その時代を象徴する言葉として我々の脳裏に刻まれている。あす発表される新元号はどのような意味や意義が込められているのか。

⇒31日(日)午後・金沢の天気      あめ後時々ゆき

☆平成最後、不正のウミ出し切る

☆平成最後、不正のウミ出し切る

  大阪大学はきょう29日、大学院高等司法研究科の教授(63歳)が通勤・住居手当や出張旅費を不正請求し、総額9195万円を受け取っていたと発表した。ネットのニュースで報じられていたので、阪大の公式ホームページに入ると詳細な報告が記載されている。

  HPの報告を以下要約する。昨年(平成30年)7 月18 日、大学の監査室に大学院高等司法研究科の教授であり、知的基盤総合センタ ー長の教授が公的研究費の不正使用をしている疑いがあるとの通報があった。通報の内容は2項目あり、1)毎年欧州各国を学生と一緒に旅行(ゼミ旅行)しており、教授は調査・研究の出張として旅費申請しているが、その成果を示す研究実績(論文など)はほとんど存在せず、旅費申請したレンタカー代やガソリン代を学生からも別途徴収しているようである。 2)教授が用務外私用と思われる国内外旅行を旅費申請している。

   大学では通報を受けて、予備的な調査を行い、9月13日に「公的研究費の不正使用にかかわる調査委員会」を設置した。そこで認定された事実が、長期にわたる不正受給だった。教授は平成16 年4 月に阪大に採用された際、「岡山県の市内の借家に居住し、そこから本学へ通勤する」という内容の住居届と通勤届を大学に提出し、現在まで住居手当を毎月2万7000円、通勤手当を6ヵ月ごとに33万 円を受給している。 しかし、住居届の賃貸借契約の証明書と領収書は偽造されたもので、居住と通勤の事実のないことが確認された。これまで大学が支払った通勤手当(平成16 年4 月-31 年3 月分)990万円、住居手当483万円は不正受給と判明した。

   では、実際どこで居住していたのか。教授が提出した旅費請求書類で宿泊地を集計すると、東京での宿泊日数が年間の約半分前後も占めており、生活の本拠(自宅)は東京であるとことが判った。教授本人への聴き取り調査では、平成22 年10 月以降は大学用務(授業、会議)のある平日は学内の宿泊施設に宿泊し、それ以外の日は土・日曜日を含めて東京に旅行して滞在する出張を繰り返していることが判明した。これがさらなる不正の連鎖だった。週末から週初めにかけて東京出張を繰り返し、出張目的はデジタルサイネージ・コンテンツに関する実態調査、それらに関するワーキンググループ、資料収集、中央省庁との打ち合わせと申請していたが、中央省庁との打ち合わせを除けば、調査研究の事実がなく、事実があっても業務としては認められない虚偽の用務だった。旅費の虚偽請求による不正使用は平成21-30年度で604件7522万円にのぼる。

   岡山県に住んでいると届け出、実際には学内宿舎に住み、自宅のある東京には調査研究の出張と称して帰省する。この不正請求は実に計画性を感じる。報道によると、大学側は教授に返還を求めるとともに処分と刑事告訴を検討しているようだ。阪大の西尾章治郎学長は「コンプライアンスの徹底等に取り組んできました。しかしながら、今回このような事案が発生したことを真摯に受け止め、今後とも、不正経理等の根絶に向けて全学をあげて取り組み、信頼回復に鋭意務めてまいります」とのコメントをHPで出している。

   通報があったゼミ旅行だけを調査していたら、「事件」にはならなかったのかもしれない。この報告書を読んで、調査委員会が学内の不正のウミを平成最後の年度末に出し切りたいと議論を重ね奮戦した様子が伝わってきた。(※写真は、大阪大学がHPで公開している調査委員会の報告書をダウンロードしたもの)

⇒29日(金)夜・金沢の天気      くもり

★伊香保の石段、歴史の風景

★伊香保の石段、歴史の風景

   北陸新幹線の金沢開業がこの3月で5年目に入った。新幹線のおかげで北関東や東北が随分と身近になった。きょう高崎駅で途中下車し、伊香保温泉まで足を延ばした。高崎駅から列車で渋川駅へ、駅からはバスで伊香保へ、1時間足らずだった。

   400年余りの歴史がある温泉街、初めて訪ねた。そこは石段の街だった=写真・上=。365段の石段の周囲には歴史の風情を感じさせる温泉地の街並みがあった。土産物店の軒下にポスター写真が貼ってあった。石段を埋め尽くす女性たちの古い写真だ=写真・中=。説明書きに「昭和初期に伊香保温泉に富岡の製糸工場の女工さん達が泊まりに来た記念写真」と。女性たちの表情は笑みを浮かべている。当時はそれほどレジャーがある時代ではない。これは推測だが、「伊香保講(こう)」と称して旅費を毎月積み立て、数年に一度、こうして温泉を楽しみに来ていたのではないだろうか。

   365段を上り切ると伊香保神社がある。温泉の守護神だけに、伝説も豊富だ。幕末、北辰一刀流の千葉周作が額を上州地方で他流試合を行い門弟を増やした。伊香保神社に奉納額を掲げようとすると、地元の馬庭念流の一門がこれを阻止しようとしてにらみ合いになった。千葉周作は掲額を断念したが、この騒動で名を挙げた。その後、江戸に道場を構え、坂本龍馬らが入門している。

   境内に灯籠(とうろう)があった=写真・下=。「伊香保町指定史跡」とあり、由来記にこうあった。天保4年(1833)から明治15年(1882)までの50年間に60回の入湯を果たした人物が記念に建てた。伊香保まので片道60㌔もある道のりを通った、とある。個人の記念碑のようなものなのだが、この人物をネットで検索すると、草津温泉にも40回通って灯籠を建てている。無名ながら、よほどの温泉マニアだったのだろう。

   大正の画家、竹久夢二もこの地を訪れ、女性が黒猫を抱く、代表作『黒船屋』を描いている。さまざま人が行き交い、伊香保の歴史を創ってきた。階段を上り下りしたおかげでスマホの歩数計は8700歩になっていた。

⇒27日(水)夜・金沢の天気     くもり

☆能登学舎までの30年、それからの13年

☆能登学舎までの30年、それからの13年

   能登半島の先端、珠洲市にある金沢大学能登学舎で人材養成プロジェクト「能登里山里海マイスター育成プログラム」の6期生修了生式が今月16日あった=写真・上=。同プロジェクトは2007年に始まった、社会人を対象とした人材養成プロジェクトである。これまで通算10期183人がマイスターの称号を得ている。

   平成18年(2006)に金沢大学が同市に「能登半島 里山里海自然学校」のプロジェクトを持ち込んだことがきっかけだった。珠洲市は半島の先端であり、ここで人材育成を行うことは意義があった。それまで、珠洲市にはおよそ30年にわたって原発というテーマがあった。

   珠洲市では、昭和50年(1975)に北陸電力・中部電力・関西電力のから力会社3社による珠洲原発の計画発表があった。同58年(1983)年12月に同市議会で当時の谷又三郎市長が原発推進を表明した。平成元年(1989)5月に関電が高屋地区での立地可能性調査に着手、建設反対住民が役所で座り込みを始め、40日間続いた。

   平成5年(1993)4月に賛成派と反対派が立候補した珠洲市長選挙で「ナゾの16票」発覚し、無効訴訟へと裁判闘争が始まった。同8年(1996)5月に同市長選挙の無効訴訟で、最高裁が上告を棄却して、原発推進派の林幹人市長の当選無効が確定した。同8年(1996)7月にやり直し選挙で、原発推進派の貝蔵治氏が当選した。同15年(2003)12月、電力3社が珠洲市長に原発計画の凍結を申し入れた。同18年(2006)6月、貝蔵市長が健康上の理由で辞職。選挙では、市民派の泉谷満寿裕氏が自民推薦の前助役を破り初当選を果たした。

   平成18年(2006)に金沢大学が同市に「能登半島 里山里海自然学校」を小学校の廃校舎を借りて始めた=写真・下=。能登の里山里海での生物多様性を研究者と市民がいっしょになって調査する、オープンリサーチの拠点とした。このとき、泉谷市長自らが候補地をいくつか案内するなど熱心な誘致活動があった。同19年(2007)10月に金沢大学が「能登里山マイスター養成プログラム」を始める。同21年(2009)9月、ユネスコ無形文化遺産に「奥能登のあえのこと」が登録された。これがきっかけで、同23年(2011)6月に国連食糧農業機関(FAO)の世界農業遺産(GIAHS)に日本で初めて「能登の里山里海」と「トキと共生する佐渡の里山」が認定された。同30年(2018)6月、珠洲市が内閣府の「SDGs未来都市」に採択された。能登半島に国際評価と国連の目標が定まった。

   予断を挟まず淡々と述べた。原発というテーマがなくなり、そこに里山里海と生物多様性、里山マイスターという人材育成プロジェクットを持ち込んだ能登学舎での13年だった。学舎での取り組みは、全国の大学や産業支援機関でつくる「全国イノベーション推進機構ネットワーク」による表彰事業「イノベーションネットアワード2018」で最高賞の文部科学大臣賞を受賞した。そして、珠洲市は「SDGs未来都市」の2030年の目標達成をめがけて突き進んでいる。その運営母体となる「能登SDGsラボ」の事務局は能登学舎にある。

⇒25日(月)夜・金沢の天気    くもり

★SDGsの「あいうえお」

★SDGsの「あいうえお」

   きょう23日、金沢市文化ホールで国連大学サステイナビリティ高等研究所OUIKが主催するシンポジム「地域の未来をSDGsでカタチにしよう~Localizing SDGs~」が開催された。SDGsは「国連の持続可能な開発目標」なのだが、ゴールは17もあり、これを地域でどう合意を形成して政策として落とし込んでいけばよいのか。人類の難しい課題ではある。

   シンポジウムでは、内閣府の「SDGs未来都市」に選定された自治体が参加してセッション1「地域でのSDGs推進における自治体の役割とは」=写真=、SDGsと地域課題に取り組む会社や団体、大学関係者らが意見を交わすセッション2「SDGsパートナーシップのデザインとは」の 2部構成でパネル討論があった。その中でキーワードがいくつか出た。その一つが「シビックテック」。Civic(市民)とTech(技術)を合わせた造語で、テクノロジーを活用して社会への市民参加を促し、市民自らが地域課題を解決しようとする取り組み。市民参加型で課題の解決法を考え、それをICTで実現する。2014年2月に一般社団法人化して金沢を中心にITエンジニア、デザイナー、プランナーら100人が参画している。

   「グリーンインフラ」はグリーンインフラストラクチャ―(Green Infrastructure)のこと。自然の多様な機能や仕組み活用した社会資本整備や防災、国土管理の概念を指す。昨年、石川県内の4大学の研究者らで「北陸グリーンインフラ研究会」が結成された。モットーは「自然を賢く使う 自然と賢く付き合う」だ。防災と減災、生態系の保全をテーマに、たとえば道路やビル屋上の緑化、遊水機能を備えた公園、河川の多目的利用などの社会インフラの整備を進めることで、従来のインフラの補足手段や代替手段として用いることができる。自然が持つ多様な機能を活用するのは人類の課題でもある。

   閉会のあいさつでOUIKの渡辺綱男所長は「SGDsの5P」と「SDGsのあいうえお」を紹介した。「SGDsの5P」はSDGsを理解する上で世界の共通語でもある。人間(People)、地球(Planet)、繁栄(Prosperity)、平和(Peace)、パートナーシップ( Partnership)。そして、「SDGsのあいうえお」とは。明日のため、今のため、宇宙と暮らしの視点で、笑顔で、多くの人の参加で。実に分かりやすい。

⇒23日(土)夜・金沢の天気      はれ

☆親の体罰と懲戒権、そして善意の通報

☆親の体罰と懲戒権、そして善意の通報

    「三寒四温」とはよく言ったものだ。冬から春への季節の変わり目では気温がめまぐるしく変わる。毛布2枚で就寝する夜もあれば、3枚でも寒い朝がある。だから、この時節は目覚めがよくない。20日付の朝刊を読んで、さらに考え込んでしまった。「親の体罰禁止 閣議決定」というニュースを読んで、だ。親の子への虐待防止のため、罰則規定はないが、しつけでも体罰を禁止するのだ、という。

    さらに詳細に各紙に目を通してみる。改正案されるのは児童虐待防止法と児童福祉法で、親など(親権者)は児童のしつけに際し、体罰を加えてはならない。民法の懲戒権のあり方は、施行後2年をめどに検討する。児童相談所で一時保護など「介入」対応をする職員と、保護者支援をする職員を分ける。ドメスティックバイオレンス(DV)対応機関、たとえば配偶者暴力相談センターや警察などとの連携を強化する。学校、教育委員会、児童福祉施設の職員に守秘義務を課す。これらの改正案は来年4月施行を目指すとしている。

    こうした改正案が出てきた背景は、しつけが転じて虐待になることが問題視されているからだろう。昨年1年間、児童虐待の疑いがあるとして全国の警察が児童相談所に通告した18歳未満の子どもの数が8万人余りで、前年比で1万4600人増と22%も増えて過去最多だという。日本では「しつけ」と虐待の線引きがあいまいであるがゆえに虐待が見逃されケースが多い。子に対する体罰を一切認めない立場に立てば、両者の線引きの問題は生じなくなる。児童虐待を単なる家庭の問題としではなく、社会犯罪と明確に位置付ける必要があるだろう。

    問題は、親の子に対する懲戒権が将来放棄されるのではないかとの懸念だ。懲戒は子の利益(民法第820条)のため、ひいては教育の目的を達成するためのものであるから、その目的のために必要な範囲内でのみ認められている。子が危険にさらされると直感すれば、親は子を叩いてでもそれの行動を阻止するものだ。子ども同士のケンカには親は口出しをしない方がよいが、子ども同士がエスカレートして危害を加えそうになるなどの場合、親は体罰で子を制止するケースもあるだろう。

    懲戒権のあり方は、施行後2年をめどに検討するとしているが、子どもの利益を守るための行動は体罰というより、防衛本能による行動だ。懲戒権のあり方を議論するより、むしろ社会的に必要なのは「善意の通報」ではないだろうか。日本では目の前で親から子へのあからさまな暴力があったとしても、「関知せず」であえて見過ごすケースが多々ある。アメリカでは人権侵害としての児童虐待の観念が徹底しているので第三者が通報する。法律の問題より、むしろ日本の社会性が問われているような気がしてならない。

⇒21日(祝)夜・金沢の天気      くもり