☆2025能登レジリエンス元年~③
昨年元日に震度6強の揺れに見舞われた被災地の正月の様子を見にきのう(3日)輪島市に日帰りで行ってきた。同市河井町の重蔵(じゅうぞう)神社へ初詣に。同神社は地震で本殿や鳥居などに大きな被害を受けた。拝殿は木柱で支えられ、壁にはブルーシートが掛けられていた。このため、境内ではテントの中に仮設の祭壇が設けられ、初詣客が訪れていた=写真・上=。
輪島・テントの仮設祭壇で初詣 珠洲・全国から復興祈願の絵馬
テントにいた氏子総代の人の話によると、ことし元日の午前9時からテントの中で地震と豪雨の犠牲者を悼む慰霊祭と復興祈願祭が営まれたという。「初詣に来られている地域のみなさんはことしの平穏無事を祈っておられます」。金沢大学の学生がボランティアで支援に入っていて、テントの中へ参拝客の誘導など行っていた。名古屋から帰省し初詣に訪れたという女性は「テントでの参拝は初めてですが、復興への祈りは同じなので気持ちを新たにすることができました」と話していた。
先月27日に珠洲市三崎町にある須須(すず)神社に出かけた。この神社には全国から復興祈願の絵馬が届いているという。神社の入り口には「復興成就 開運祈願絵馬」の札掛け所が設けられ、ずらりと絵馬が並んでいた=写真・下=。読むと、「石川県の人たちに笑顔が戻ってきますように願って
います」「能登半島が一日でも早く復興されることを祈ってます」と兵庫県や北海道など各地から届いていた。報道によると、須須神社の神職が去年10月に北海道から送られてきた絵馬を写真投稿サイトで紹介したところ、全国から絵馬が届くようになり、その数は280枚に上っているという。
境内に地元の人がいたので尋ねると、震災前から須須神社には北海道から寄進などがあったという。今回の地震で損壊した鳥居は札幌市に住む人からの寄進だった。明治時代の初期から北前船でこの地から北海道へ開拓に行き、成功を収めた人たちも多くいた。「須須神社はふるさとみたいなもんだろう」とシニアの男性が解説してくれた。最初に北海道から届いた絵馬も能登にゆかりのある人だったのだろうか。時代を超え、地域を超え、復興を祈る気持ちが全国から寄せられている。
⇒4日(土)午後・金沢の天気 くもり
フカン氏が認定セレモニーのために能登を訪れた。そのとき、輪島市の棚田「千枚田」を見学した。案内役の輪島市長、
万人を記録した(三菱UFJリサーチ&コンサルティング「平成22年度旧きのうら荘見直しに係る検討業務報告書」)。その記録はまだ塗りかえられていない。
献花台の上部にはテレビモニターが置かれ、輪島での追悼式の様子がリアルタイムで視ることができた。震災で父を亡くし、経営してた衣料品店が全壊したという遺族代表の女性の言葉が印象的だった。「絶望感に打ちひしがれ、店を再建することはもう無理だと考えるようになっていました。また地震が来たらどうなるのか、と。そんな中で、地域の方々から『無理せんでいいよ。まっとるからね』との温かい言葉があり、背中を押されました」「私たちの店は、この地域に支えられてここまで来ることができたんだと、少しずつ前向きな気持ちになることができました」「そして仮設商店街に何とか店を構えることができました。それが亡くなった父への感謝であり、地域の皆さんへの恩返しであると考えています」
き渡る。高さ6㍍ほどのキリコが柱たいまつの火の粉が舞う中を勇ましく練り歩く。神輿2基とキリコ37基が港湾側の祭り広場に集った。キリコの担ぎ手は老若男女で衣装はそれぞれ。キリコに乗って鉦と太鼓をたたく、笛を吹く囃子手(はやして)にも女性も多くいた=写真・上=。
争心をむき出しにして元気よくキリコを担ぐ、そのような言い伝えのある祭りなのだ。
結果、1基についてはブレイド1枚の損傷を確認した、としている。「6月10日現在の状況」として、ブレイドの損傷原因を現在も引き続き追究中で、それ以外の風車およびほかの設備についても周辺安全に影響する損壊がないことを確認しながら、具体的な復旧方法や工程を関係機関とともに策定中、とある。しかし、再稼働の日程については公式サイトでの記載はなかった。
倒壊ビルの現場では、パワーショベルなど重機2台が動いていた。行政による公費解体は11月初旬に作業が始まった。2棟ある五島屋ビルのうち倒壊を免れた3階建てのビルは解体が終わり、市道にはみ出して倒壊した7階建てビルは3階から7階部分の解体撤去が終わっていた=写真・上=。工事看板によると、解体作業は来年1月いっぱいまで続くようだ。
を調べている。なぜ、震度6強の揺れに耐えきれずに根元から倒れたのか。ビル倒壊の原因が分かってくれば、責任の所在もおのずと明らかになるだろう。
年度までを朝市周辺の新たな街づくりを進める「再生期」、2034年度までを地域資源を活用した新たな観光や産業を創出する「創造期」と定め、復興プロジェクトに着手していく。
る珠洲市仁江町と観光ホテルなどがある同市真浦町を結ぶ逢坂トンネルは土砂で埋まり通行不能となっていた。ここに国土交通省がトンネルの海側沿いに全長1.7㌔の迂回路を造成した。
今月5日には同じく寸断されていた輪島市町野町大川浜の国道249号が開通。また、同市の白米千枚田近くの249号も土砂崩れで埋まったが、地震で隆起した海岸に2車線の迂回路を造成し、対面通行が可能になった。249号の全線開通で地域の復旧・復興の加速を期待したい。
徴されていた。「ダラくさい」は能登の方言でばかばかしいという意味だ。その気持ちは投票行動でも表れていた。石川3区の投票率は62.5%と、前回2021年より3.5ポイント減少した。中でも、地震と豪雨の二重被害となった輪島市では11.9ポイント減の58.9%、同じく珠洲市では9.5ポイント減って62.0%だった。避難者が現地から離れていて、投票に行けなかったというケースもあったろう。それにしても、この減少率は「ダラくさい」の気持ちがにじみ出ているように思えた。ただ、それでも都市部より投票率は高く、金沢市の石川1区は49.5%だった。
選挙活動は実にアクティブだった。震災後に整備された6000戸余りにもなる仮設住宅を足しげく回り、被災者の声を実際に国会論戦などで反映させていた。地震と豪雨の二重被災の奥能登(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)へは選挙期間中にそれぞれの自治体を2回ずつ回った。「まだ能登は大変なんだと全国に訴えていきたい」と述べていた。
た平家一族の平時忠が能登に流刑となり、時忠の子孫が開墾したと伝えられている平野が広がる。時忠の子孫の時国家(国の重要文化財)は2軒あり、そのうち上時国家は元日の地震で倒壊した。
町野町は9月の豪雨にも見舞われた。鈴屋川の五里分橋の欄干などに流木がひっかかり、橋がダムのような状態となって周囲の一帯が濁流に飲み込まれた。その中に、被災地の食品スーパーとして元日の地震後も営業を続け、住民を支えてきた「もとやスーパ-」があった。豪雨で店内に土砂や流木が流れ込むなどしたため、一時休業していたが11月に営業を再開。今月5日に行くと「復活オープン」の看板を掲げ営業していた=写真・中=。中に入ると、卵や野菜、総菜や冷凍食品などが並んでいた。そのときに店員から聞いた話が、「売り場を必要最小限にして、店内を支援ボランティアのキャンプ場にする」との内容だった。きのう、そのキャンプ場を見に行った。
売り場だった場所に緑のカーペットが一面に貼られていた。そして、周囲にはテントが張られ、こたつもあった=写真・下=。キャンプ場の入り口のボードには、「12月26、27日 広島高校ボランティア団体様10名」「12月28、29日 YMCA様10名」と書かれてあった。この場を提供しているスーパーの経営者には直接会えず確認できなかったが、場を無償で提供しているようだ。被災地を支援するボランティア活動は公費解体での運び出しなどさまざまな場面で目にする。能登の冬は寒いのでこたつを用意してボランティアを受け入れる。この光景を見て、被災地の感謝する心に感動した。
元日の能登半島地震、ならびに9月の奥能登豪雨の犠牲者を弔う追悼式が新年1月1日に輪島市の能登空港に隣接する学校法人「日本航空学園」キャンパス体育館=写真=で営まれる。地震による犠牲者は今月19日時点で、直接死が228人、災害関連死(県関係者)が270人となる。豪雨による死者は16人となる。514人の死を弔う。追悼式は石川県が主催し、石破総理ならびに岸田前総理が参列する。式は午後3時35分に開会、地震発生時刻の午後4時10分に出席者が黙祷をささげる。