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☆磨かれた禅の永平寺 掃除修行の雲水が減るとどうなる

☆磨かれた禅の永平寺 掃除修行の雲水が減るとどうなる

   20年前の2003年12月に家族で福井県の永平寺を訪れた。寺院の建物「伽藍(がらん)」をガイドしてくれた雲水の説明に「寝るのも修行、食べるのも修行、掃除も修行」との言葉があった。そこで、スリッパを履き忘れていた息子の白い靴下をチェックしてみると、確かに汚れはまったくなかった。雲水はあの長い伽藍の廊下を毎日のように掃除して清め、それが修行へと気持ちを昇華させているのだと教えられたことを覚えている。

   その永平寺を久しぶりに見学に訪れた(今月3日)。寛元2年(1244)に道元によって開かれた坐禅修行の道場というだけあって、凛としたたたずまいと風格が漂う。これ以上の言葉ではなかなか言い表すことができない。「七堂伽藍」をめぐるだけでも相当に時間がかかる。すると、木魚の音と読経が聞こえてきた。「祠堂殿(しどうでん)」に向かうと、法要が営まれていた。祠堂殿では宗派を問わず、一般の家々の納骨や供養などの法要が毎日営まれているという。7人の僧がときに立ち上がり、動きのある読経だ。これを見た人の中には、「納骨の法要は永平寺で」と遺言を残す人も多いかもしれない。

   それにしも七堂伽藍のほか相当数の建物がある。冒頭で述べた廻廊の雑巾がけなどの「作務」は、修行の一つとはいえ、これだけ数多くの建物群で毎日こなせるのかどうか。作務をこなすには雲水の人数が相当必要なのではないか。そこで、永平寺門前観光協会の事務局に尋ねた。現在130人の雲水が修行をしていて、中には数人の外国人もいる。女性はいない。雲水の人数は減っていて、5、6年前までは200人の雲水がいた。理由を尋ねると、「お寺も少子化なんですよ」と。

   以下は憶測だ。雲水の多くは曹洞宗の寺の跡継ぎではないだろうか。日本創成会議(座長・増田寛也元岩手県知事)が2014年に発表したリポート「消滅可能性都市」では、2040年の段階で49.8%の自治体が消滅するという。地方の自治体が減っていくとなれば、全国に1万4200の曹洞宗の寺院も人口減少で減っていくと推測できる。永平寺の雲水の人数も今後さらに減っていくのでないか。七堂伽藍ほか広大な寺院施設の雑巾がけはいまも大変だ。そうなると、雲水の人数が先細る中で永平寺の作務はこれからどうなるのか。ふと考えてしまった。

⇒6日(日)夜・金沢の天気   くもり

★植栽帯をコンクリートに ビッグモーターここまでやるか

★植栽帯をコンクリートに ビッグモーターここまでやるか

   中古車販売大手「ビッグモーター」の前方の植栽帯がコンクリ-トで覆われていると石川県の地元メディアがニュースで取り上げていたので、きのう4日、現地を見に行ってきた。場所は石川県かほく市にある「イオンモールかほく」の広大敷地の一角。確かに、他のショッピング施設の歩道と車道側にある植栽帯にはさまざまな樹木が植わっているが、ビッグモーターだけはコンクリートが盛られていた=写真=。距離にして100㍍ほどあるだろうか。

   この風景を見て、浮かんだのは「ズルイ」という言葉だった。簡単に言えば、コンクリート化された植栽帯側の駐車スペースには販売用の中古車がずらりと並べてあり、歩道と車道からは実によく見える。100㍍の展示コーナーとして活用しているのだ。

   報道によると、植栽部分はイオンモールかほくが進出した2008年から、イオンが環境整備の一環で植樹を進めてきた。その植栽が撤去された上、コンクリ-ト化されているのだ。

   ただ、疑問に思う点もある。すぐ近くには環状道路、つまり幹線が走っていて、通行量も多い。ビッグモーターはある意味でイオンモールの入り口の一つに位置する。このような重要なポイントなのに、これまで、イオン側はコンクリート化に気が付かなかったのだろうか。黙って見過ごしていたという訳ではないだろう。あるいは、私有地なのでテナント店には厳しく言えなかったのか。そこらあたり解せない。

   これまでニュースになっている全国のビッグモーターの事例をチェックすると、複数の店舗で道路の一部である街路樹が不自然に枯れていたり、植栽がなくなっていて、国土交通省などが調査している。かほく市のケースでも、管理会社「イオンリテール」が不正な対応が認められた場合には法的な措置も含めて対応するとしている。

⇒5日(土)夕・金沢の天気     はれ

☆ヒロシマ78年目の夏 日本とアメリカの意識の隔たり

☆ヒロシマ78年目の夏 日本とアメリカの意識の隔たり

   前回ブログの続き。原子爆弾を開発するマンハッタン計画の中心人物だったオッペンハイマーは、原爆投下による広島と長崎の惨状を知った後に次なる水素爆弾の開発には反対した。科学者の罪悪感だったのだろう。当時、マンハッタン計画に関わった科学者の中には核軍縮の熱心な活動家になった人物も多くいた。オッペンハイマーも活動に参加していた。

   戦後間もなく風向きが変わる。アメリカとソビエトを中心とする「米ソ冷戦」時代に突入する。そして、アメリカでは共産党シンパを摘発し、公職などから追放する、いわゆる「赤狩り(red purge)」が社会運動にもなり、水爆に反対していたオッペンハイマーも巻き込まれる。そして、妻や実弟が共産党員だったこと、そしてオッペンハイマー自身も共産党系の集会に参加したことからソ連のスパイ疑惑が取り沙汰され、1954年4月、アメリカの原子力委員会(AEC)はセキュリティークリアランスの剥奪処分、つまり国家機密に関わる資格を剥奪した。この処分により、休職処分、事実上の公職追放となった。そして、私生活もFBIの監視下にあった。1967年2月、喉頭がんのため62歳で死去する。

   オッペンハイマーの名誉が回復したのは68年後の2022年12月16日だった。アメリカのエネルギー省のグランホルム長官は、公職から追放した1954年の処分は「偏見に基づく不公正な手続きだった」として取り消したと発表した。処分撤回の理由は「歴史の記録を正す責任がある」との説明だった。実際、スパイ行為は確認されていない(2022年12月17日付・共同通信Web版)。当時の原子力委員会は統合などを経て、1977年にエネルギー省に統一されている。

   ネットなどで調べると、オッペンハイマーは1960年9月に来日している。日本人科学者の追悼に訪れ、東京で記者会見した。「マンハッタン計画に参加した一人として私は日本に原爆が落とさたことを深く悲しんではいるが、この原爆生産計画の技術的成功について責任者の地位にあったことは後悔していない」と述べた。広島には立ち寄っていない(中國新聞ヒロシマ平和メディアセンター「ヒロシマの記録」Web版)。

   原爆投下に関する歴史認識には、日本とアメリカでいまだに隔たりがある。アメリカでは「原爆投下によって戦争を終えることができた」と正当化する意識がいまも強い。アメリカの世論調査機関「ピュー・リサーチセンター」の調査(2015年)では、65歳以上の70%が「正当だった」と答え、18歳から29歳の若者も「正当だった」との答えは47%だった(2020年8月21日付・ロイター通信Web版日本語)。2016年5月28日、当時のアメリカ大統領のオバマ氏は歴代大統領として初めて広島の原爆死没者慰霊碑を訪れて献花した。アメリカ国内の反対世論を意識して、「謝罪はしない」と事前に公言していた。

   アメリカ人の感性で制作された、この映画『オッペンハイマー』は果たして日本で上映できるだろうか。広島・長崎への原爆投下の映像はないようだが、仮に上映されるとなれば、かなり議論を呼ぶに違いない。あさって8月6日は広島原爆投下から78年となる。

(※写真は、2016年5月28日、オバマ大統領が安倍総理とともに原爆慰霊碑で献花=外務省公式サイト「オバマ米国大統領の広島訪問」より)

⇒4日(金)夜・金沢の天気     はれ

★原爆をつくったオッペンハイマーという人物

★原爆をつくったオッペンハイマーという人物

  「6・9」運動という平和活動がある。1945年8月6日に広島に、3日後の9日に長崎に原子爆弾が投下されたことから、これに抗議し核兵器の禁止をめざす運動だ。日本では、原爆を開発をした人物については、自身も含めてあまり知られていない。アメリカでは、「原爆の父」として知られるロバート・オッペンハイマーの伝記映画が7月21日からアメリカなど各国で公開されている。クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』。上映時間は3時間、観客の年齢が限られるR指定である。ただ、日本での公開は未定となっている。

   ニューズウィーク日本語版(Web、2日付)は、「拍手と共に失笑も買った『原爆の父』…その『複雑な』人間像は、映画『オッペンハイマー』でどう描かれたか?」との見出しで、論評を掲載している。以下、記事を引用。

「優秀な理論物理学者で、まだ目新しかった量子力学の先駆的な研究者でもあったが、実験は苦手で、原爆開発に携わる研究者の中で一番の逸材というわけでもなかった。だが、彼にはすさまじいカリスマ性があった。瞬時にコンセプトを把握する能力を持ち、組織内の競争を成果達成につなげる手法も熟知していたから、誰にもまねできないようなやり方で計画(原爆開発『マンハッタン計画』)を進められた」(※画像は、映画『OPPENHEIMER』プロモーションサイトより)

「戦後には『原爆の父』として世界に知られるようになり、タイム誌の表紙も飾ったが、名声の絶頂で自分の仕事に疑問を抱き始める」「原爆よりもはるかに威力のある水素爆弾の製造に反対し、全ての大量破壊兵器を国際社会の管理下に置くよう呼びかけた」

「一方で、オッペンハイマーはマンハッタン計画の成果を熱烈に擁護した。広島のニュースを見たチームのメンバーを前に、日本を痛い目に遭わせることには成功したが、ドイツへの投下に間に合わなかったのは残念だと演説し、拍手と共に失笑を買いもした」「1942年にマンハッタン計画を始動させたのは当時のフランクリン・ルーズベルト大統領だ。著名な2人の物理学者、アルバート・アインシュタインとレオ・シラードが、ドイツで核開発計画が進んでおり、先を越されたら戦争に負けると大統領宛ての書簡で訴えたことがきっかけだった」「ドイツは核開発に成功する前に45年5月に降伏。そこでルーズベルトの死後に大統領に就任したトルーマンは日本への投下を決断した」

「オッペンハイマーは、自分ほど頭の切れがよくない人間(ほぼ全ての人)をいじめ、嘲る傾向があったため、敵をつくった」「戦後、テラーは水爆製造の専門の研究所を造るよう働きかけたが、オッペンハイマーが反対したため、聴聞会でオッペンハイマーに不利な証言をした。委員会は2対1の多数決でオッペンハイマーのセキュリティークリアランス剥奪を決定した。一方、テラーはカリフォルニア州リバモアに研究所を新設する資金を獲得した」(※「テラー」は、水素爆弾の開発の中心となり、「水爆の父」と呼ばれたエドワード・テラー。「委員会」は、原子力委員会。「セキュリティークリアランス剥奪」とは、機密安全保持疑惑による休職処分のことで、事実上の公職追放)

「映画は終戦直後のフラッシュバックで終わる。オッペンハイマーがプリンストンの湖畔でアインシュタインと語り合い、自分たちの共同発明がいつか世界を炎に包むのではないかと思案している。このシーンは原作にはないが、原爆に携わった科学者たちが抱いた罪悪感を効果的に表現している。シラードを筆頭に、核軍縮の熱心な活動家になった科学者もおり、オッペンハイマーも活動に参加している」

「ノーランはまた、水爆は今も存在し、広島以来78年間、大国間の戦争を抑止してきたとはいえ、幸運が永遠に続くとは限らないことを観客に再認識させた。私たちは今なお、オッペンハイマーの時代に生きているのだ」

   3時間に及ぶ映画。ニューズウィーク日本語版は「ストーリーそのものが観客の心をかき乱し、悲劇的で、ショッキングでさえある」と論評している。

⇒3日(木)夜・金沢の天気  はれ

☆ボケ封じの特効薬「レカネマブ」いよいよ承認か

☆ボケ封じの特効薬「レカネマブ」いよいよ承認か

   ようやくか、とも思う。メディア各社の報道によると、早期アルツハイマー病の新薬として期待されている「LEQEMBI(レカネマブ)」が日本でも今月21日に厚労省の専門部会で承認するかどうかの判断をする見通しとなった。日本のエーザイが主導し、アメリカの医薬品バイオジェンが共同開発した。冒頭に「ようやくか」と述べたのも、アメリカでは食品医薬品局(FDA)がことし1月により早く治療を提供する「迅速承認」というカタチでこの薬を承認し、先月6日には正式に承認している。

   アルツハイマー病は、脳内に異常なタンパク質「アミロイドβ 」が蓄積することで神経細胞が傷つき、記憶力や判断力などが低下するとされる。これまでの治療薬は症状の一時的な改善を促すものだが、レカネマブは脳内のアミロイドβ そのものを除去することで病気の進行を長期的に遅らせる。臨床試験でこの新薬を投与したグループと偽薬のグループを比較し、レカネマブのグループでは記憶や判断力などの症状の悪化が27%抑制された。両社は日米欧州、中国、韓国などで承認申請を行っている(エーザイ公式サイト)。

   これがアルツハイマー病の画期的な治療薬になるとすれば、問題は治療費だ。2週間に1回、体重に応じた点滴を施すことになる。価格は、体重75㌔の患者に換算して1人当たり年間2万6500㌦ と設定している(同)。きょうの為替相場は1㌦143円なので、ざっと380万円だ。仮に承認されれば、レカネマブ投与による治療は保険適応が可能か、といった問題が浮上するに違いない。ちなみに、アメリカでは高齢者向け公的医療保険「メディケア」は保険適用の対象とし、患者負担を2割程度に抑える見込みという(7月7日・東京新聞Web版)。

   国内のアルツハイマー型認知症の医療や介護に要するコストは、家族による無償の介護を金額に換算した額を含めると、最大で年間12兆6000億円を超えるとの推計値の報告がある(2021年3月・「Journal of Alzheimer’s Disease」国際医療福祉大学医学部公衆衛生学の池田俊也氏らの研究)。国内の認知症患者は800万人にも及ぶと言われ、今回の話題はある意味で明るいニュースだ。

   ただ、保険適応となれば財政コストなど新たな問題が発生する。余談だが、アメリカでレカネマブが正式承認され、最近「ボケぶり」が何かと報道されるバイデン大統領は愛用しているのだろうか。

⇒2日(水)午後・金沢の天気   くもり

★夏の甲子園「沸騰対策」は大丈夫なのか

★夏の甲子園「沸騰対策」は大丈夫なのか

   きょうから8月。6日から高校野球、夏の甲子園大会が始まる。どこからとなく聴こえてくるカーンという打球音や「栄冠は君に輝く」のメロディは夏の風物詩ではないだろうか。レジェンドもある。1992年8月16日、第74回大会の2回戦、星稜(石川)と明徳義塾(高知)戦。星稜の4番・松井秀喜選手に対しては5打席連続の敬遠だった。松井選手は春夏含め4回甲子園出場で、高校時代の公式試合でホームラン60本を放っていた「怪物」だった。朝日放送の実況アナウンサーが「勝負はしません」と何度も声を張り上げた。連続5敬遠が松井の名を一躍全国区に押し上げた。

   国民のモチベーションを上げてくれる甲子園大会なのだが、このところの「地球沸騰」の暑さが気になる。石川県の馳知事は先月28日の記者会見で、27日に行われた全国高校野球選手権記念石川大会の決勝について、「この暑い中、午後0時半の開始はおかしい」と疑問を呈した。馳氏は「朝8時試合開始とするなど、健康の観点から時間帯に配慮があっていい。生徒諸君が頑張っているという美談で終わらせてはいけない」と述べた(29日付・読売新聞Web版)。

   ちなみに、27日の最高気温は33.5度だった。これは以前から言われていることだが、真夏日のマウンドは気温より10度以上高いと。と言うことは、投手の体感温度は44度余りで、その状況下で投げ続けなければならなかった。大変な環境下だったろうと想像する。

   そう考えると、馳氏が「朝8時試合開始とするなど、健康の観点から時間帯に配慮があっていい。生徒諸君が頑張っているという美談で終わらせてはいけない」と記者会見で述べた意味がよく理解できる。

   甲子園大会は6日から始まるが、天気予報によると6日の神戸市の最高気温は36度、以降も35度など厳しい暑さが続く。なるべく日中は避けて、朝夕の二部制導入や、ナイターなど工夫すべきときが来たのではないか。確かに、高野連は高野連は夏の甲子園の暑さ対策として、朝夕の二部制導入を検討してきたものの、この夏は導入を見送り、一方で、5回終了後に休息をとれるよう「クーリングタイム」を導入することを決めている(2月1日付・NHKニュ-スWeb版) 。

          以下は憶測だが、二部制導入となると、放送する側にとってはゴールデンタイム(午後7時-10時)の時間を割かれることになる。NHK・民放含めてテレビ局側の抵抗があり、高野連側が押し切られたのではないだろうか。

⇒1日(火)夜・金沢の天気     はれ

☆ガソリン1㍑177円から学ぶ デフレ不況後の経済新局面

☆ガソリン1㍑177円から学ぶ デフレ不況後の経済新局面

   ことし6月22日付のブログで自宅近くのガソリンスタンドの価格が会員価格で1㍑170円(一般価格172円)にアップした、と書いた。きょう給油に行くと、会員価格で1㍑177円(同179円)になっていた=写真=。以前聞いたスタンド店員の話だと、政府が石油の元売り会社に支給している補助金が徐々にカットされていて、補助金がなくなればあと10円ほど高くなるとのことだった。ガソリンだけでなく、物価が全体的に上がり出している。

   そこで気になるのが、日銀が先週28日の金融政策決定会合で10年来続けてきた「異次元緩和」を柔軟にすると決めたことだ。長短金利の操作(イールドカーブ・コントロール)で長期金利を「0.5%程度」としてきたが、1.0%へと事実上、引き上げることに修正した。この日銀の判断をどう評価すればよいのだろうか。高まるインフレ圧力に抗しきれないとの判断なのだろうか。あるいは、デフレ脱却と経済が好循環に向うチャンスと読んでの判断なのだろうか。素人感覚では評価が難しい。

   そこで、日経新聞(31日付)をチェックすると、なるほどと納得する記事があった。「オピニオン」のページに「600兆円経済がやってくる」の見出しで、特任編集員の滝田洋一氏が書いている。以下、記事の引用。「日本経済は長期にわたるデフレ不況を克服し、インフレの下で新たな成長に向いつつある」「601.3兆円。内閣府は7月20日、2024年度の名目国内総生産(GDP)の見通しを発表した。600兆円といえば、15年に当時の安倍晋三首相が打ち出した新3本の矢の第1目標である」「物価が上がり出したことで、名目GDPが押し上げられるのだ。GDPばかりでない。企業の売上、利益、働く人の給与明細、株価、政府の税収。目に見える経済活動を含む『名目』だ」

「1990年度から2021年度にかけて、大企業は売上高が5%増にとどまるなか、経常利益を164%伸ばした。リストラで利益を捻出したのである。企業による設備と人件費の抑制は、経済のエンジンである投資と消費を失速させてきた。インフレの到来でその舞台は一変した」「23年度の設備投資は名目ベースで100兆円台に乗せ、過去最高となる勢いだ」

   最後にこう締めている。「バブル崩壊後の日本は経済が軌道に乗りかけると、財政政策か金融政策かでブレーキを踏み、経済を失速させてきた。その轍(てつ)を踏まぬよう細心の注意が必要だ」

   この締めの言葉は実に経済ジャーナリストらしいひと言である。防衛費や少子化対策予算として増税が議論されているが、経済が拡大すれば税収が増えるのだ。増税しか頭にない政治家や官僚にぜひ目を通してもらいたい記事である。

   1㍑177円のガソリン価格からふと思ったことが、日本の新たな経済局面を学ぶチャンスにもなった。これがブログの醍醐味かもしれない。

⇒31日(月)午後・金沢の天気     くもり

★「地球沸騰化」をもたらす化石燃料は段階的廃止なのか

★「地球沸騰化」をもたらす化石燃料は段階的廃止なのか

   前回ブログの続き。国連のグレーテス事務総長が「地球は沸騰化の時代に入った」と述べたように、地球温暖化対策は待ったなしとなり、ことし11月から開催される国連気候変動枠組み条約第28回締約国会議(COP28)では、二酸化炭素を排出するすべての化石燃料の段階的廃止の具体化が決議されるのではないか、と自身は注目している。

   そして、このCOP28の決議が日本の政策にどのような変革を迫るのかも注目である。岸田政権は、2030年に温室効果ガスの46%削減、2050年までに大気中に排出される二酸化炭素を実質ゼロとするカーボンニュートラルの実現を掲げている。カーボンニュートラルの実現に向けて岸田政権が打ち出しているのは原発の活用だ。きのう29日付の朝刊各紙によると、関西電力は28日に営業運転開始から48年が経過した高浜原発1号機(福井県高浜町、82.6万㌗)の原子炉を再稼働させた。この原発は国内で最も古いとされ、2011年1月に定期検査に入り、以降停止していた。9月には高浜原発2号機の再稼働も予定している。

   ことし5月には60年を超える原発の運転を可能とする法律「GX(グリーン・トランスフォーメーション)脱炭素電源法」を成立させている。簡単に言えば、車検に合格すればクラシックカーも道路を走行できるのと同じ扱いになった。

   COP28での会議で議論になるのは石炭火力発電の扱いではないだろうか。COP27では、化石燃料の段階的廃止と再生可能エネルギーの拡大をうたってはいるが具体策は明示されていない。そして、日本では、ことし6月、大手電力2社が新たなタイプの石炭火力発電所を稼働させている。四国電力の西条発電所1号機、そして、JERAの横須賀火力発電所1号機だ。横須賀火力発電所1号機は、高効率な発電設備であり、水素やアンモニアを混焼するため、建て替え前の発電所に比べて二酸化炭素の排出が3割減少すると見込まれている。さらに、二酸化炭素を大気に放出せずに回収して地下などに溜める、いわゆる「CCS(Carbon dioxide Capture and Storage」の実現を目指している。

   日本の売りは二酸化炭素を排出を低減する新たな技術を備えた石炭火力発電なのだが、世界でどこまで受け入れられるだろうか。たとえれば、次に乗用車を買う場合はEV車にするかハイブリッド車にするか、という選択肢ではないだろうか。EUはことし3月、2035年にガソリンなどで走るエンジン車の新車販売をすべて禁止するとしてきた方針を変更し、温暖化ガスを排出しない合成燃料を使うエンジン車は認めると表明している(3月25日付・朝日新聞Web版)。

   化石燃料をめぐる論議が今後、COP28だけでなくあらゆる国際会議でなされるだろう。そこに日本の技術が評価されるのか、どうか。

⇒30日(日)夜・金沢の天気    はれ

☆この暑さ「地球は未知の領域」に 難題かぶさるCOP28

☆この暑さ「地球は未知の領域」に 難題かぶさるCOP28

   異常気象は世界を覆っている。28日付のBBCニュースは、7月の暑さが記録的なことから、「Climate change: July set to be world’s warmest month on record」の見出しで、グレーテス国連事務総長のこのようなコメントを掲載している。「the planet is entering an “era of global boiling”」。「地球は沸騰化の時代に入った」と。グレーテス氏は単に暑いと言っているのはなく、異常な暑さの背景として化石燃料の使用による二酸化炭素の排出があると言っていることは間違いない。

   また、BBCは別の記事(24日付)で、ロンドンの気象学者のコメントとして、現在の状況は温室効果ガスの増加によって気温が上昇した世界で起こると予測されていた、まさにその通りのことが起きていて、「気温上昇の傾向は100%、人類が引き起こしたことだ」と述べている。多くの人々はエルーニーニョ現象のせいだと思っているが、温暖化の記録はすでに6月で破られている。エルニーニョ現象は通常、発生から5、6ヵ月たたないと世界的な影響を及ぼさない、説明している。

   気象庁は、今月20日にことしの夏は広い範囲で「10年に一度」クラスの暑さになる可能性があると発表していたが、BBCの記事を読むとそんな生易しい状況ではないようだ。むしろ、24日付の記事「Earth in uncharted waters as climate records tumble」にあるように、「地球は未知の領域」に入ってしまったのか。

    ことし11月から国連気候変動枠組み条約第28回締約国会議(COP28)がアラブ首長国連邦で開催される。これまでの議論で国際社会は「世界平均気温の上昇を産業革命前に比べ1.5度以内に抑える」との目標を共有している。ところが、世界気象機関(WMO)の年次報告書によると、今後5年間のうち、少なくと1年間で1.5度を超える年が66%の確率である、としている。その66%の確率の年は今年になる可能性もある。

   そうなるとCOP28は混乱に陥るだろう。環境団体からは石炭、石油、ガスなどすべての化石燃料の段階的廃止を強烈に求められる。COP28の議長はUAEのスルターン・アル・ジャーベル氏。アブダビ国営石油会社のCEOであり、UAEにおける気候変動対策やクリーンエネルギーへの取り組みに実績のある人物とされる。気候変動と化石燃料という地球課題を人類が納得するようにどう導いていくのか。

⇒29日(土)午後・金沢の天気    くもり

★「禁酒の村」の物語

★「禁酒の村」の物語

   「質素倹約」という少々古くさいイメージの言葉がある。ムダな消費を控えてコツコツと金をため込むと解釈しがちなのだが、これを単にため込むのではなく投資に回すというふうに考えれば、実に合理的で先駆的な言葉のようにも思える。この質素倹約を村を挙げて実践したムラが石川県にある。いまでも「禁酒の村」として伝えられる。

   津幡町河合谷(かわいだに)地区は石川県と富山県の県境沿いの山間地にある。「禁酒の村」はこれまで話には何度も聞いていたが、先日、初めて現地を訪れた。かつては河合谷村として独立村だった。その村長から村ぐるみの禁酒の提唱があったのは大正15年(1926)1月28日のことだった。以下、説明書き「河合谷村【禁酒】の碑 由来」から。

   当時、明治8年(1875)に開校した村の小学校は老朽化していた。そこで、全面的な建て替え費用として当時の金で4万5215円の資金が必要となり、村長は「自治改良委員会」に諮った。自治改良委員会は公選の委員と有識者らで構成する合議制の執行機関のこと。積立金2000円と基本財産3000円の計5000円を差し引いて、不足分の4万円余りをどう工面するか。村長が提案したのは禁酒による資金の捻出だった。

   議論は白熱した。「酒を薬として愛飲している者もいる」「祭礼や地鎮祭、婚礼のなどの儀式で酒を禁止にするのは不可能だ」などの反対意見が上がった。最終的には「学校の建て替えは急がねばならない。こうした非常時にこそ禁酒は村民の同意を得られる」と全会一致で決議した。

   当時の4万円余りとは現在に換算するとどのくらいか。大正末期の大卒サラリーマンの初任給(月給)は50-60円というデータがある。現在だと22万円5千円。単純に当時を55円と計算すると、現在はざっと4090倍に相当する。雑ぱくな計算だが、当時の4万円は現在の1億6360万円相当となる。これを298戸・住民1576人の村で賄うのである。

   5年間は禁酒して倹約、ためたお金を小学校の建て替え費に充当するという村挙げての取り組みだった。子どもたちの教育という投資のために、禁酒運動はその年の4月1日から始まった。「全村民は酒を飲んだつもりで毎日最低5銭以上を貯金する」という「つもり貯金」を実施した。家々に禁酒規約が配られ、村内では酒を飲まない、客にも出さない、酒類の販売も禁止、と徹底した。説明書きに記述はないが、おそらく経費の分担は、資産状況によって分担金がランク付けされる「万雑割(まんぞうわり)」だったのだろう。そして、村の入り口の川の橋のたもとには「禁酒」の石碑=写真=が設置された。

   その年の7月に小学校の建て替え工事は完了したが、ちょっとした異変が起きた。新聞社がこの「禁酒の村」を報じると、全国で初めての禁酒の村として注目されるようになった。村には全国から激励文や視察の訪問が相次ぐようになった。すると、禁酒はムラの誇りにもなり、5年の償還を終えても、そのまま継続して、昭和20年8月の敗戦まで続いた。その後、河合谷村は昭和29年(1954)5月に津幡町に編入される。

          禁酒はその後、伝説となった。もし、現在でも河合谷地区で続けられていれば、「禁酒のムラ」として世界から注目されていたかもしれない。小学校はその後、昭和46年(1971)に移転し、過疎化による児童数の減少で平成20年(2008)に閉校となった。学校創立から133年の歴史に幕を閉じた。

⇒27日(木)夜・金沢の天気     はれ