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☆兼六園にアサギマダラ、日本海に木造船、市街地にクマ

☆兼六園にアサギマダラ、日本海に木造船、市街地にクマ

   きょう24日は二十四節気の一つ「霜降」。霜が降りる頃とされる。ただ、このところ「暑さ」を感じる。きょうの金沢の日中の最高気温は24度だった。知人の話だと、金沢の兼六園の梅林に咲いているフジバカマにアサギマダラが舞っているのを見た、という。「旅するチョウ」と称されるアサギマダラが北陸を訪れるのは例年9月下旬ごろなのだが、季節がゆったりとしているのだろうか。来月11月1日から兼六園では恒例の雪つり作業が始まる。(※写真・上=世界農業遺産「能登の里山里海」情報ポータル公式サイトより) 

   北朝鮮からの脱北が相次いでいる。NHKニュース(24日付)によると、韓国軍の合同参謀本部は24日、日本海上で北朝鮮の木造船を見つけたと発表した。木造船は亡命が目的と推定されるとしていて、韓国北東部ソクチョ(束草)の沖合で乗っていた4人の身柄を確保した。ことし5月にも朝鮮半島西側の黄海で北朝鮮の住民が漁船で脱北して韓国に入っている。ことし韓国に入国した脱北者は、先月末時点で139人で、北朝鮮が新型コロナウイルスの感染対策として国境を封鎖していた去年の同じ時期に比べて3倍余りに増えている。

   北朝鮮に有事が起これば大量の亡命者が発生し、船に乗って逃げるだろう。ガソリンが切れたり、エンジンが止まった船の一部はリマン海流に乗って、韓国や日本海沿岸に漂着する。そうした亡命者をどう受け入れるのか、中には武装した者もいるだろう。今回、韓国軍がたまたま木造船を見つけたとすれば、ほかにも相当数の木造船が日本海に漂流している可能性もある。実に不気味だ。(※写真・中=2017年11月に能登半島の尖端、珠洲市の海岸に漂着した北朝鮮の木造漁船)

   これも不気味なニュースだ。クマに襲われてけがをするなど被害にあった人の数は、今年度はこれまでに17の道府県で少なくとも167人にのぼり、国が統計を取り始めて以降、最も多かった3年前の158人をすでに上回り、過去最悪の被害となっている。NHKが独自に集計した数字だ。

   北陸でも被害が相次いでいて、きのう23日、富山市内で72歳の男性がクマに襲われ重傷。17日には79歳の女性が亡くなっている。富山県内での人身被害は本年度で5例目となっている。ブナの実はクマの主要なエサとされているが、富山県内では凶作で、エサを求めて市街地などにもクマが出没しているようだ。

⇒24日(火)夜・金沢の天気     はれ

★能登さいはての国際芸術祭を巡る~10 日常とハレのアート

★能登さいはての国際芸術祭を巡る~10 日常とハレのアート

   これがアートと言えるのだろうかと思うが、アートと言われればアートに見える。そんな不思議なアートだ。地域の商店街には個性的な看板文字が並ぶ。それを「のらもじ」と名付けて、デザイン的な魅力を見出すチームがある。デザイン・アーティストである下浜臨太郎、西村斉輝、若岡伸也ら3氏による「のらもじ発見プロジェクト」。確かに、商店街の看板文字は独特だ。刃物の店は尖った感じの文字に、ホビーの店は丸みを出して楽しそうな=写真・上=。地元の人々にとっては見慣れたものかも知れないが、文字そのものが土地の風土になじんで個性が光る。

   プロジェクトでは、珠洲市飯田町の商店街の看板から採集した文字から書体をつくり出し、スタンプを制作。鑑賞者は専用ポストカードを持ち商店街を巡ることで、街歩きも楽しみながらこの場所ならではのユニークな文字に出会うことができる。

   能登半島は土地柄、地味なイメージだが、祭りのときは派手な衣装をまとって祭りのメイン行事でもあるキリコを担ぐ。珠洲ではその衣装をドテラと呼ぶ。これを男衆が着て、キリコを担いで街中を練り歩く。ベネズエラ出身のドイツのアーティスト、ソル・カレロ氏はかつて祭りの衣装などを扱っていた衣料店をリノベーションオして、作品として仕上げた。『La tienda Maeno』。いくつかの作品の中で目立つのが、壁に掲げられたドテラと床のカラフルな色のペインティングだ=写真・中=。特定の場所の特性を活かして制作する表現を「サイト・スペシフィック・アート」というそうだ。この作品はまさに珠洲の祭り文化と衣装店から構想を得て、表現したものではないだろうか。

    コロンビア出身でシドニーを拠点に活動するマリア・フェルナンダ・カルドーゾ氏の作品『種のタイムカプセル』。かつて保育所であった場所に、珠洲に自生する松ぼっくりやツバキなどの実を用いてインスタレーションを描いている。床に置かれたこれらの実は、子どもたちでにぎわう光景をイメージする=写真・下=。種を守り、育むことがタイムカプセルなのだと表現している。

⇒23日(月)夜・金沢の天気    くもり

☆能登さいはての国際芸術祭を巡る~9 踊りのアート

☆能登さいはての国際芸術祭を巡る~9 踊りのアート

   奥能登国際芸術祭では踊る舞うのダンス・パフォーマンスもアートだ。総合ディレクターの北川フラム氏がガイドするバスツアーに参加すると、面白いステージを2ヵ所めぐることができた。

   最初のステージは『MAMMOTH(マンモス)』。コスチューム・アーティストのひびのこづえ氏、ダンス・パフォーマー藤村港平氏、そして音楽は川瀬浩介氏の3人の演出によるダンス・パフォーマンスだ。会場は旧・保育所の芝生の屋外ステージを予定していたが、この日は雨模様ということで、施設の中の体育広場で催された。

   マンモスを似せたコスチュームで藤村氏が現れ、観客をなでたり、脅かしたりと観客と絡みながら会場を歩き回る。ダンス・パフォーマンスは、マンモスの生きた時代から現代までの長い歴史を、衣装を替えながらダイナミックに、そして繊細にダンスで表現していく。滅びと再生、続く未来に人の姿はどうあるべきなのか、そんなことを感じさせる空気感がステージに漂う。それにしても、奇妙であり大胆なダンス・パフォーマンスだった。(※写真・上は旧保育所のステージ、写真・下はマンモスの衣装=出演中の撮影は禁止とされおり、写真は藤村港平氏ツイッターより)

   もう一つのダンス・パフォーマンス、世田谷シルクによる『おくのとのきおく』は海岸沿いの野営場で行われた=写真・下=。地元珠洲にある自然音や人の棲む生活音、出来事や昔の話など人の声を集め、それらを切り取って表現化している。『おくのとのきおく』は漢字で表記すれば「奥能登の記憶」。
 
            この創作演劇は劇場で行われるような会話劇ではなく、言葉にとらわれない身体表現だ。地域の音だけでなく、途中の振付はこの地域に伝わる「砂取節」や「ちょんがり節」など、土地になじみ深い民謡がそのまま演じられた。東京から来た演じ手たちは徹底的に地元を取材し、踊りや節回しの技を習得したにちがいない。まるで、「土地というパズルに音のピースをひとつひとつ拾い集めていくような感覚」がステージにあふれ、観賞する側を刺激する。視覚芸術のような60分間だった。
 
⇒22日(日)夜・金沢の天気   くもり

★「松林図屏風」等伯が苦難の心を重ねた能登の風景

★「松林図屏風」等伯が苦難の心を重ねた能登の風景

   織田信長や豊臣秀吉が名をはせた安土桃山時代の絵師、長谷川等伯は能登半島の七尾で生まれ育った。等伯の「松林図屏風」を初めて鑑賞したのは2005年5月、県立七尾美術館で開催された等伯展だった。この作品は東京国立博物館で所蔵されているが、七尾美術館が開館10周年の記念イベントとして東京国立博物館と交渉して実現した。当時、国宝でもある等伯の作品が初めて能登に里帰りしたということで長蛇の列だった。

   その長谷川等伯をテーマとする演劇「等伯~反骨の画聖~」がきょうから七尾市にある能登演劇堂で上演されている。無名塾と市民キャストによる合同公演で、演出は仲代達矢氏だ。さっそく鑑賞に行った。(※写真は、国宝「松林図屏風」・出展・国立文化財機構所蔵品統合検索システムより)

   感想から先に言えば、京都で画壇の一大勢力となっていた狩野永徳らの狩野派に、能登からやってきた等伯が挑み、名刹の障壁画や天井絵などを手掛けて狩野派の壁を破っていく。下剋上の戦いを制したかと思ったときに、親交があった千利休が切腹を余儀なくされ、跡継ぎの長男・久蔵が病で亡くなる。その後に古里である能登の風景の「松林図屏風」を渾身の想いで描く。「松林図」に等伯が込めた想いとは何だったのか。強風に耐えて細く立ちすくむ能登のクロマツの林に、等伯は自らの心を重ねたのだろうか。等伯の人生ドラマはここで終わる。

   演出を担当した仲代氏は「松林図」を描いた等伯の心情をこう表現している。「天下一の絵師となるために政りごとに阿(おもね)るかのような、世俗に仕えた彼の一面を見るような気がするのである。とは言え、彼はその世俗に流されることなく、彼自身の独自の世界を切り拓いていった。それは、『松林図』に象徴されるように、世の中の動きとはっきり一線を画した、彼の孤高の世界だったように私には思えるのである」(「等伯~反骨の画聖~」公式パンフレットより)

   等伯が『松林図』を描いたのは1594年、56歳のころだった。その後、大徳寺や南禅寺で襖絵を手掛け、僧侶の地位である「法眼」に叙せられる。時代は江戸幕府へと移り、家康の命だったのだろうか、72歳で江戸に向かうも発病。到着して2日後に亡くなったと伝えられている(同)。墓は等伯が上洛し身を寄せた京都市上京区の本法寺にある。

⇒20日(金)夜・金沢の天気   くもり

☆能登さいはての国際芸術祭を巡る~8 精霊が宿るアート

☆能登さいはての国際芸術祭を巡る~8 精霊が宿るアート

   作品を鑑賞に行くと作者が現場にいて、作品について直接、話を聴くチャンスに恵まれた。作品『ボトルシップ』の小山真徳氏。作品は市街地からかなり離れた北山集落という里山にある。いわゆる「限界集落」なのだろう、休耕田や耕作放棄地が目立つ。作品は休耕田に創られていた。ボトルのようなカタチした鉄骨の中には、丸木舟に観音像など3体の木彫が設置されていて、3体はそれぞれ向いている方向が異なる=写真・上=。丸木舟の中にはメダカも泳いでいる。

   作品を眺めていると、「わざわざ山里まで来ていただきありがとうございます」と声を掛けられた。制作に携わった者だと言うので、名刺をいただいた。すると、小山真徳氏本人だった。作品制作の話になった。丸木舟も観音像などの木彫も珠洲に滞在しながら製材所で制作したのだという。

   作品鑑賞の仲間たちから質問が出た。「ボトルシップの作品はどのようなきっかけで創られたのですか」と。すると小山氏は、「珠洲の海岸を歩いていて、動物の骨などが漂着しているをよく見つける。酒瓶に入ったマムシも見たことがある。それがきっかけで、ボトルシップで作品表現ができなかと考えていたんです」と。小山氏は能登の海辺をテーマに2017年の第1回芸術祭で作品『最涯の漂着神』を制作していて、能登の海に詳しい。

   すると、次の質問が飛んだ。「それでしたら、海岸ベリでの展示ではないかと思うのですが、なぜ、山の中での作品展示なのですか」と。答えは意外だった。「能登半島の自然豊かな山里も、太古の昔は海の底だったのではないでしょうか。それが徐々に隆起して半島になった。そう考えると、この山中はかつて生き物の遺骸がたどり着いた海や海岸だったのではないか。そう思ってこの場を選んだのです」。太古の海、海岸こそ展示場所にふさわしい。この言葉に作者の作品制作のスケール感の大きさを読むことができた。

   小山氏が作成した小冊子「ボトルシップ」を読むと、海岸に流れ着く生き物たちの遺骸を「砂浜の葬列」と表現している。太古の昔からこの能登半島に数知れない生き物たちの遺骸が漂着した。小山氏の言葉のニュアンスから、そうした生き物たちを歴史を超えて弔いたいのではないかと感じた。そう考えると、ボトルシップに観音像があることが理解できる。ただ、その確認の質問をするのを失した。

   展示場へは農道から小道を下って行く。道には「わらむしろ」が敷いてあり、青竹で囲ってある=写真・下=。展示場のスタッフに尋ねると、この「わらむしろロード」も小山氏本人が造ったものだという。おそらく、斜面地なので鑑賞者が雨の日に滑らないように配慮して造ったのだろう。作品だけでなく、アクセスの安全性も一体として自ら手掛けた作者の心遣いに感動した。

⇒19日(木)夜・金沢の天気   はれ

★能登さいはての国際芸術祭を巡る~7 伝統の生業がアート

★能登さいはての国際芸術祭を巡る~7 伝統の生業がアート

   能登半島の最先端、珠洲市には伝統の生業(なりわい)が息づいている。それをモチーフにした芸術作品が展示されている。地場に古くから伝わる生業の一つが珠洲焼。現在30人ほどの作家が伝統の技法に新たな感性を加えて作品づくりを行っている。芸術祭の作品鑑賞に訪れた際も、「珠洲焼まつり」が開催されていて、20人余りの作家が出品していた。

   作品『漂移する風景』(リュウ・ジャンファ=中国)=写真・上=。珠洲焼は室町時代から地域の生業として焼かれ、中世日本を代表する焼き物として知られていた。そこで、作者は中国の第一の陶都・景徳鎮から取り寄せた磁器の破片と、珠洲焼の破片を混在させ、大陸との交流や文化のあり方を問う作品として仕上げた。2017年の第一回芸術祭では、海から流れ着いたかのように見附島近くの海岸に並べられ、第二回からは珠洲焼資料館に場所を移して恒久設置されている。

   珠洲焼はかつて地域経済の貿易品だった。各地へ船で運ぶ際に船が難破したこともたびたびあったようだ。海底に何百年と眠っていた壺やかめが漁船の底引き網に引っ掛かり、時を超えて揚がってくることがある。古陶は「海揚がりの珠洲焼」として骨董の収集家の間には重宝されている。

   塩づくりも当地の生業の一つ。このブログのシリーズの初回で取り上げた作品『時を運ぶ船』(塩田千春氏=日本/ドイツ)=写真・中=は公式ガイドブックの表紙を飾るなどシンボル的な作品だ。この作品も2017年の第一回芸術祭で制作されたものだが、観賞するたびに感動を覚える。

   作者は珠洲を訪れ、400年続くとされる揚げ浜式塩田にモチベーションを感じ取った。作品名を着想したのは、塩づくりをする、ある浜士(はまじ)の物語だった。戦時中、角花菊太郎という浜士が軍から塩づくりを命じられ、出征を免れた。戦争で多くの塩田の仲間が命を落とし、角花浜士は「命ある限り塩田を守る」と決意する。戦後間もなくして、浜士はたった一人となったが、伝統の製塩技法を守り抜き、珠洲の塩田復興に大きく貢献することになる。技と時を背負い生き抜いた人生のドラマに、作者・塩田千春の創作意欲が着火したのだという。会場のボランティアガイドから聞いた話だ。

   『時を運ぶ船』の赤い毛糸は強烈なイメージだが、珠洲市を含む奥能登では、古くから秋祭りに親戚や友人、知人を自宅に招いてご馳走でもてなす「よばれ」という風習がある。そのときに使われるのが、漆塗りの赤御膳。刺し身や煮付のなどの料理が赤御膳で出てくると、もてなしの気持ちがぐっと伝わってくる。珠洲市の民宿で泊まったときも、夕食で出されたのは赤御膳だった=写真・下=。能登では赤はもてなしのシンボルカラーなのかもしれない。

⇒18日(水)午後・金沢の天気   はれ

☆能登さいはての国際芸術祭を巡る~6 人生の生き様アート

☆能登さいはての国際芸術祭を巡る~6 人生の生き様アート

   奥能登国際芸術祭では多様なモチーフの芸術作品が展示されているが、「人生の生き様」をテーマにしたものもある。作品は『プレイス・ビヨンド』(弓指寛治氏=日本)。芸術祭の総合プロデューサーである北川フラム氏の案内で作品を鑑賞するチャンスを得た。 

   作品鑑賞のスタートは珠洲市の木ノ浦野営場というキャンプ広場。岬にある自然歩道を歩くが、真下は崖と海。急斜面の山道などを歩きながら作品を見ることになる。入り口の作品ナンバーの立て札に注意書きがあり、「暗くなってからの鑑賞は危険です」「猪に出会ったら静かにその場を離れましょう」などと書かれてあり、少し緊張感が走る。

   作品は指定された道沿いに設置してある立て札の文章=写真・上=を読みながら進んでいく。作品は、作者の弓指寛治氏が珠洲の地元で生まれ育った南方寳作(なんぽう・ほうさく)という人物=写真・中=が生前に残した伝記をもとに制作した。戦前に人々はなぜ満蒙開拓のために大陸に渡ったのか、そして軍人に志願したのか、どのような戦争だったのかを、立て札の文字をたどりながら、設置されている絵画を見ながら追体験していく。ただ、ストーリーが記された立て札は87枚、絵画は50点もある。立て札一枚一枚を読んで、さらに絵を鑑賞していると、いつの間にか時間が経って辺りが暗くなるのではと気にしながら読んでいく。

   南方寳作が9歳のとき、1931年の満州事変が起きた。当時、農村には過剰な人口と貧困がはびこり、日本政府は国策として、農村部の若者たちを中国・東北部の満州に開拓団として送り込んだ。南方寳作もその一人だった。その後、南方寳作は海軍に志願して水兵として戦地に赴く=写真・下=。1945年8月9日にソ連が対日参戦し、同月15日に終戦となる。ソ連の侵攻で満州は戦場と化し、開拓団は置き去りにされた。

   作品はそのときの南方寳作の気持ちを綴っている。「満州で生活し、厳冬の経験がある私はこれから急激な寒気が訪れる満州のことを思うととても不安になった。無事帰国できることを祈るのみ。満蒙開拓の夢も軍人としての地位も、敗戦と共に遥か遠い雲の彼方へ消え失せた」

   作品めぐりの終盤、歩道は三差路に分かれる。どの道を進むか、鑑賞者が選択する。そのとき、突然に強い雨が降ってきた。山の坂道だ。ガイド役として先頭を歩いていた北川フラム氏が滑って膝をついた。参加者が「先生、大丈夫ですか」と両脇を抱えると、北川氏は「ありがとう」と言い立ち上がった。通り雨ですぐ止んだ。一瞬の出来事だった。作品の内容、そして北川氏の転び。緊張感のある作品めぐりとなった。
 
⇒17日(火)夜・金沢の天気    はれ

★能登さいはての国際芸術祭を巡る~5 民家でアート

★能登さいはての国際芸術祭を巡る~5 民家でアート

  民家や蔵、倉庫を活用したアートをいくつか巡った。その一つが作品名『流転』=写真・上=。イランのシリアン・アベディニラッド氏はかつての漁具倉庫を展示会場に選んだ。倉庫には大量の漁網などが保管されていた。その漁網を倉庫の天井に張りめぐ らした。

   漁網の内側にキラキラとカラフルに光るものがあり、床に影が投影されている。よく見ると、酒瓶などのガラスの破片だ。説明書によると、作者は珠洲市の海岸に打ち寄せられているガラス類の破片を集めて作品に仕上げた。使われなくなった漁網、そして破片となったガラスを見事にアート作品として再生した。倉庫の外観はさびたトタンだ。中に入ると、異次元の世界に迷い込んだような錯覚に陥る。不思議な芸術空間ではある。

   薄暗い古民家の奥に進むと、和室の中央に朱漆と黒漆がまじりあったような立体作品が浮かぶ。作品名『触生』は田中信行氏(日本)の作品=写真・中=。部屋の中に入って見ることはできないが、漆の強い存在感が引き立っている。漆は英語で「japan」と呼ばれるように縄文時代から日本人は重宝してきた。作者はその漆と人のつながりの原点を描き出そうとしているのではないだろうか、と直感した。

   作者が「触生~赤の痕跡~」とのタイトルでコメントを文字で掲げている。「漆が私の本能を刺激し、意識を原初へと導き、制作へと駆り立てている。黒漆からは流れるような立ち上がった立体を、朱漆からは生の痕跡を塗りこめたような絵画的な表現を。塗りと研ぎを繰り返しながら生まれる漆の表現は、人為を超えて私自身を、そして見る者を無意識へと誘う。立ち上がった漆面は、鑑賞者を漆黒の闇に吸い込むかのように、日常と非日常の境界として空間に存在する」

   山中にある、10年ほど前に空き家となった民家。玄関の入り口には広い土間があり、おそらく収穫した稲や野菜などを広げていただろう。作品の『Future Past 2323』(原嶋亮輔氏=日本)は民家と民具をテーマとしている=写真・下=。長い時間(とき)を経た民具には魂が宿るとされる付喪神(つくもがみ)信仰がある。道具に宿る付喪神をアートにした、のではないだろうか。

   そう感じたのは、稲わらで編んだ蓑(みの)と菅笠(すげがさ)が奥座敷で飾られているのを鑑賞したときだった。家人が身に着けたものにこそ魂が宿り、そして輝きを放つのだ、と。このインスタレーションがそう訴えているように思えた。

⇒16日(月)夜・金沢の天気   くもり

☆能登さいはての国際芸術祭を巡る~4 空がアート

☆能登さいはての国際芸術祭を巡る~4 空がアート

   今月14、15日と能登半島の尖端、珠洲市で開催されている「奥能登国際芸術祭2023」の作品鑑賞に行ってきた。その作品の感想をいくつか紹介する。先月に3回シリーズで紹介した「能登さいはての国際芸術祭を巡る」の続きを。

   能登半島全体で74基の大型風車がある。うち、珠洲市では30基の風車が回る。ブレイド(羽根)の長さは34㍍で、1500KW(㌔㍗)の発電ができる。風速3㍍でブレイドが回りはじめ、風速13㍍/秒で最高出力1500KWが出る。能登半島の沿岸部、特に北側と西側は年間の平均風速が6㍍/秒を超え、一部には平均8㍍/秒の強風が吹く場所もあり、風力発電には最適の立地条件なのだ。

   この珠洲の山の上(標高300-400㍍)にある風車群をアートにしたのが、日本のグループ「SIDE CORE」の作品『Blowin‘ In The Wind』。車で曲がりくねった山道を登る。頂上付近に近づくとブォーン、ブォーンと音がする。ブレイドが回転している。山のふもとから見上げると小さな風車だが、近づくことでその大きさに驚く。

   その風車の下には作品の5点が設置されていた。風の動きによって動く風向計のようなもの、いわゆる「風見鶏」だ。上の写真は自転車と道路の崖をイメージした作品。風が出ると風車と風見鶏がいっしょに風に向って動き出す。そう考えると、風車も巨大な風見鶏のようだ。  

   この風景を眺めていて、ふと若いころに歌ったボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさんだ。「風に吹かれて」の英名は『Blowin‘ In The Wind』。作品名と同じ。作者たちもこの歌を口ずさみながら制作したのかと思ったりした。

   珠洲市の外浦の海岸は大陸に面していて、強い風が吹く。海岸を見下ろすがけの上に船の帆をモチーフにした作品が現れる=写真・中=。作品名『TENGAI』(アレクサンドル・ポノマリョフ氏=旧ソ連「ドニプロ」/ロシア)。風が吹くと帆柱の網が振動して、下の酒タンクが共鳴してハープのように風の音を響かせる。まるで空の音色だ。珠洲の対岸にあるのはロシアのウラジオストクなので、作者は「大陸からの風で鳴る」との想いを込めているようだ。

   作品を鑑賞するために里山や里海を移動する。ふと空を見上げると、見事な「うろこ雲」が空を覆っていた=写真・下=。これも空のアートだと直感してシャッターを押した(撮影は14日午後4時39分・珠洲市内)。

⇒15日(日)夜・金沢の天気    はれ

★「まるで独裁者の宴」詭弁を弄するロシア大統領

★「まるで独裁者の宴」詭弁を弄するロシア大統領

    ロシアがまた詭弁を弄している。イスラエルとパレスチナ自治区ガザのイスラム組織ハマスの戦闘激化を受け、国連安全保障理事会は今月13日、非公開で対応を協議した。 会合ではロシアが人道的停戦を要求する決議案を配布。ロシアのネベンジャ国連大使は会合後、報道陣を前に「安保理はこの流血に終止符を打つため行動しなくてはならない」と主張。決議案は全ての暴力とテロ行為を非難し、人道支援の円滑な提供を求める内容で、ネベンジャ国連大使は全国連加盟国に対し共同提案国になるよう呼び掛けた(14日付・時事通信Web版)。

   ロシアが国連安保理で他国の停戦を呼びかけ、一方で自国はウクライナへの侵略行為を続けている。まったく説得力のない決議案で、共同提案国になる必要はない。以下、憶測だが、ネベンジャ国連大使の決議案はウクライナ侵攻から他国の目を逸らし、自らを正当化する策ではないか。おそらくこの決議案はプーチン大統領の命令によるものだろう。

   ウクライナのゼレンスキー政権をネオナチ政権と呼び、その侵攻を「祖国の未来のため、ナチスを復活させないための戦い」と強調し、侵攻を始めた。相手をナチス呼ばわりすれば、武力侵攻などすべてのことが正当化されるとの詭弁だ。国連安保理での決議案も、自ら始めた戦争を棚に上げて他国の戦争を非難する。まさに、プーチン大統領の「独裁者の宴」のようだ。    

  ICC(国際刑事裁判所)はことし3月、プーチン大統領とマリヤ・リボワベロワ大統領全権代表について、ウクライナ侵攻で占領した地域の児童養護施設などから少なくとも何百人もの子どもたちロシアに連れ去ったとして、国際法上の戦争犯罪の疑いで逮捕状を出した(3月18日付・NHKニュースWeb版)。同日のCNNニュースWeb版日本語によると、ゼレンスキー大統領はICCの逮捕状について、「我が国の法執行当局で進行中の刑事手続きでは、ウクライナの子ども1万6000人以上が占領者(ロシア)によって強制連行されたことが既に確認されている」と述べている。   

   一方、ロシア側は戦闘地域から子どもを「保護している」と主張している。保護を理由に子どもたちをロシアに連れて行く行為。まるで、子どもたちを「戦利品」のように扱っている。

(※写真は、第二次世界大戦での対ドイツ戦勝記念日式典で演説を行ったプーチン大統領。相手をナチス呼ばわりして武力侵攻を正当化した=2022年5月9日付・BBCニュースWeb版)

⇒14日(土)夜・能登の天気    くもり