☆能登半島地震 赤い糸『時を運ぶ船』は残った
今回の大地震で半島の尖端、珠洲市は震度6強に見舞われた。先日(1月30日)同市を訪れた際にこの目で確かめておきたいところがあったが、時間がなかったことと、がけ崩れなどで通行止めとなっていてそれは叶わなかった。
この目で確かめたかったこと、それは珠洲市で開催された奥能登国際芸術祭の作品だった。金沢市在住のアーティスト山本基氏の作品『記憶への回廊』(2021年制作)=写真・上=が倒壊したとメディア各社が報道していた。作品がある場所は、旧・保育所の施設。真っ青に塗装された壁、廊下、天井にドローイング(線画)が描かれ、活気と静謐(せいひつ)が交錯するような空間が演出されている。遊戯場には塩を素材にした立体アートが据えられ、天空への階段のようなイメージだ。途中で壊れたように見える部分は作者が意図的に初めから崩したもので、地震によるものではない。作品には10㌧もの塩が使われている。2023年5月5日に起きた震度6強の揺れには耐えたが、今回の地震では塩の作品が崩れたという(※写真は2022年8月23日に撮影)。
塩田千春氏(日本/ドイツ)の作品『時を運ぶ船』=写真・下=は芸術祭の公式ガイドブックの表紙を飾るなどシンボル的な作品だ。この作品は2017年の第1回芸術祭で制作された。赤い毛糸は強烈なイメージで、作品を観賞するたびに人間の本能をくすぐるような感動を覚える。この作品は無事だったようだ(※写真は2023年8月23日に撮影)。
珠洲市で展示されていた作品の多くはダメージを被った。メディアの報道によると、奥能登国際芸術祭の総合ディレクターである北川フラム氏は震災に関する支援を行う「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」を立ち上げた。アーティストやサポーターで構成する有志グループで、被災した人たちと協力しながら、同地の復興に寄与していくという。北川氏は述べている。「珠洲の人々と他地域の人々を結びつけるアート作品や施設の撤去、修繕、再建などを行い、珠洲に思いを寄せる人々の力を結集したいと考えます」(「奥能登珠洲ヤッサープロジェクト」公式サイト)。
「ヤッサー」は珠洲の祭りの掛け声で、若い衆が力を合わせて巨大なキリコや曳山を動かすときに「ヤッサーヤッサー」と声を出して気持ちを一つにする。北川氏は芸術への想い、地域復興への願いを一つに込めて動き出そうとしている。
⇒4日(日)夜・金沢の天気 くもり
志賀町の全壊・半壊など家屋被害は4900棟におよび、その多くがこの富来地区での家屋だった。増穂浦海岸は、さくら貝が流れ着く観光名所として知られる。8月になれば30基の奉灯キリコが威勢よく担がれ冨木八朔祭礼が行われる。町の中を歩くと、本祭りで神輿が集う住吉神社の鳥居が砕け落ちていた=写真・上=。2007年3月25日の能登半島地震は震度7クラスの揺れだったが、石灯ろうが倒れるくらいで済んだ。しかし、今回倒壊した鳥居を見ると相当な揺れだったことが分かる。全壊の家も数多く、全壊は免れても窓ガラスが割れたり、屋根の瓦が崩れ落ちたりしている家は相当な数にのぼる。
察するため現地を訪れた。当地でのヒナの誕生は2年連続だった。気になるというのも、コウノトリの巣が地震で落ちたり、壊れたりしているのではないかと思ったからだ。
「能登はやさしや」に障がいを持った人たちへの気遣いも感じる。ユネスコ無形文化遺産にも登録されている能登の農耕儀礼『あえのこと』は、目が不自由な田の神様を食でもてなす行事だ=写真=。働き過ぎで眼精疲労がたたって失明した、あるいは稲穂で目を突いてしまったなど云われがある。目が不自由であるがゆえに、農家の人たちはその障がいに配慮して田の神に接する。座敷に案内する際に段差がある場合は介添えをし、供えた料理を一つ一つ口頭で説明する。じつに丁寧なもてなしだ。
前回ブログの続き。珠洲市に行き、山の中で製炭業を営む大野長一郎氏を訪ねた。茶道用の炭である「菊炭」を生産する県内では唯一の業者でもある。今回の地震で稼働していた3つの炭焼き窯が全壊した=写真・上=。2022年6月19日の震度6弱の揺れで窯の一部がひび割れ、工場の天井が一部壊れた。2023年5月5日の震度6強では窯の一部が崩れた。支援者の力添えを得ながら修復してようやく炭を焼き始め、品質にもメドがたちこれからというときに今回全壊となった。
窯をじっと見つめる大野氏の口から「でも、やめませんよ」の言葉が出た。1971年に父親が創業した製炭業を2003年に引き継いだ。茶炭に使うクヌギの木は炭焼き工場の近くの山でボランティアを募り植林した。そして、二酸化炭素を増やさない「カーボンニュートラルな生業(なりわい)」を目指すことを決意する。
道」を北上すると崩落の箇所などがあり、う回路を経由して走行することになる。そのう回路には警察のパトカ-や自衛隊のトラック、救急車、支援物資を運ぶ車が列をなしていてゆっくり運転が続く。(※NHK図=✖が震源とされる珠洲市大谷・馬緤地区)
2時現在)によると、犠牲者は101人、重軽傷者249人、全壊2092棟、半壊1036棟だ。同市は約6000世帯なので、半数超えが全半壊となった。2022年6月19日に震度6弱、2023年5月5日に震度6強の揺れがあり一部地域に損壊があったものの、それでも芸術祭は実施できた。ところが今回はさらに幅広い場所で被害が出た。海岸沿いでは4㍍の津波による被害、そして山沿いでは土砂崩れとまさに複合被害だ。(※写真・上=地震と土砂崩れで崩壊した住宅)
珠洲市の観光名所として知られる見附島も変わり果てていた。そのカタチから通称「軍艦島」と呼ばれていたが、2022年と2023年、そして今回と度重なる揺れで、勇壮な面影は変化した。(※写真・下=津波で海岸に打ち上げられた漁船、地震で崩れた見附島)
中心街の老舗が並ぶ一本杉商店街を歩くと無残にも倒壊した店も。創業130年の和ろうそくの店で知られる「高澤ろうそく」は、建物が国の有形文化財に登録されているが、今回の地震で軒先が倒壊し、母屋も傾くなど大きな被害を受けた=写真・上=。同店はそれにもめげず、フランス・パリで開かれた世界最大規模のインテリアとデザイン関連の国際見本市「メゾン・エ・オブジェ」(今月18-22日)に出品し注目を集めたようだ(29日付・NHKニュースWeb版)。復興へのともし火のようなニュースだ。
七尾市の中心街から北側にある和倉温泉に車で移動した。途中でJR七尾線の線路の修復工事が行われていた=写真・中=。金沢駅から七尾駅は今月22日に運転を再開したものの、七尾駅から和倉温泉駅の間は終日運転を取り止めている。レールのゆがみや架線柱が傾斜している箇所もあり、JRは2月中旬の運転再開を目指して復旧作業を進めている。
和倉温泉街に入ると、いつものにぎわいはなく、閑散としていた。開湯1200年の歴史がある和倉温泉。建物の損壊などで22の旅館すべてが休業に追い込まれている。「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」(旅行新聞社主催)で通算40回総合1位に輝くなど、「おもてなし日本一」の旅館として知られる「加賀屋」でも入り口に立ち入り禁止の規制線がはられていた=写真・下=。入り口には歪んでいるところもあり、建物を眺めると外壁の一部が落ちてる。内部は揺れで食器なども相当に散乱したに違いない。
ところが、道半ばでストップの貼り紙が。「地震のため 古墳は登れません 中能登町教育委員会」=写真・上=。関係者に問い合わせると、36基の古墳の中でも大きな1号墳と2号墳の頂上部分で数㍍にわたって地割れ走っていて、ブルーシートで応急措置を施している。適切な修復方法を文化庁などと模索中で、当面の間は立ち入り禁止となるとのことだった。これまで、学生たちを連れて能登スタディツアーを実施する際には能登の歴史を理解するポイント地点として雨の宮古墳群 を訪れていた。行政予算は生活や交通インフラなどが優先されるのが常だが、地域が誇る文化財の修復を願う。
冒頭で述べたように、中能登町は古くから広大な平地でコメづくりが営まれた豊かな地域だ。その様子は街並みを見れば理解できる。「あずまだち」あるは「あずまづくり(東造り)」と呼ばれる切妻型の屋根は建物の上に大きな本を開いて覆いかぶせたようなカタチをしている。黒瓦と白壁のコントラストも特徴的で、旧加賀藩の農家の伝統的な建築様式とも言われている。
町の様子を眺めながら車で走ると、「能登は 負けません!! 震災復興にがんばりましょう」「能登に 暖かいご支援 ありがとうございます」と書かれた看板が目に入った。看板の場所は国道159号に面した道の駅「織姫の里なかのと」。この看板を見て、「能登はやさしや土までも」という言葉を思い起こした。
被災地の中学生たちの集団避難についてはこのブログ(17日付)で述べた。輪島市では地震の影響で授業再開の見通しがたたないことから、市内3つの中学校の生徒401人のうち保護者の同意を得た258人が白山市にある「白山青年の家」と「白山ろく少年自然の家」に3月まで集団避難させている。授業は避難先の施設のほか、市内の中学校などで行われる。3年生は高校受験を控えていて、生徒たちの学びの環境を確保することを最優先したのだろう。
で大変な思いをした子どもたちが集団避難での生活と学びを通じてさらに一歩成長することを願う。
台湾の日本統治時代、台南市に当時東洋一のダムと称された「烏山頭(うさんとう)ダム」が建設された。不毛の大地とされた原野を穀倉地帯に変えたとして、台湾の人たちから日本の功績として今も評価されている。このダム建設のリーダーが、金沢生まれの土木技師、八田與一(1886-1942)だった。烏山頭ダムは10年の歳月をかけて1930年に完成した。ただ、日本国内では1923年に関東大震災があり、八田にとっては予算的にも想像を絶する難工事となった。(※写真は、台湾・烏山頭ダムを見渡す記念公園に設置されている八田與一の座像=台北ナビ公式ホームページより)
ころで能登地方の平地で30㌢、山地で50㌢、加賀地方の平地で30㌢、山地で70㌢と予想されている。
民家や集落が孤立した。(※写真・下は、土砂ダムで孤立した輪島市熊野町の民家=今月4日、国土交通省TEC-FORCE緊急災害対策派遣隊がドローンで撮影)