#お盆

☆「札キリコ」と「祭りキリコ」のこと

☆「札キリコ」と「祭りキリコ」のこと

   石川県内ではきょう新たに確認された新型コロナウイルス感染者は1995人となった(石川県庁公式サイト「医療・福祉・子育て」)。今月10日から12日までは2000人台に達していて、最多レベルの感染が続く。このような中、お盆の時季でもあり、金沢の街中や道路などは混雑している。3年ぶりに行動制限のないUターンラッシュだ。

   きょう金沢市の南隣の野々市市と北隣の津幡町へ親戚の墓参に行ってきた。近隣であってもお盆の風習に違いがある。金沢市は7月中旬の新盆、野々市市と津幡町は旧盆での墓参りが多い。

   時季だけでなく、墓参りの仕方にも違いがある。金沢の場合は「札キリコ」を持参する。墓の前に札キリコをつり下げる棒か紐がかけてあり、墓参した人は棒か紐につるす。札キリコには宗派によって、例えば浄土真宗の墓地ならば「南無阿弥陀仏」、曹洞宗ならば「南無釈迦牟尼仏」と書いて、裏の「進上」には墓参した人の名前を記す=写真・上=。この札キリコによって、その墓の持ち主は誰が墓参に来てくれたのかということが分かる仕組みになっている。

   これに対し能登・加賀では、札キリコを持参する風習はないが、墓参りの後にその家を訪ねて仏壇にも合掌をする。直接顔を見せる能登・加賀と、名前を札キリコに書き置きする金沢の違いがある。むしろ、金沢の方が独特なのかもしれない。以前、お寺の関係者から聞いた話だが、札キリコは江戸時代からあり、金沢では武家の間だけの風習だった。名刺代わりに札キリコに名前を書いて墓参した。それが、明治以降は庶民に広がったという説だった。

   キリコはもともと切子灯籠(きりことうろう)と呼ばれていて、行灯(あんどん)のようなカタチをしていた。金沢では、札キリコとしてコンパク化して名刺の役割を持つようになった。一方、能登ではキリコは巨大化した。能登各地で伝統的に催される夏祭りと言えば、祭りキリコ=写真・下=。神社の神輿の先導役として集落を練る。

   この祭りキリコは高さ10数㍍のものもあり、若集が数十人で1基を担ぎ上げる。鉦(かね)や太鼓が備えられ、祭りキリコが動き出すとにぎやかになる。では、なぜ巨大化したのか。祭りキリコは集落のシンボル的でもあり、輪島塗で装飾を施し豪華さを、あるいは、大きさを誇示することを繰り返して巨大化したとも言われる。

   「札キリコ」と「祭りキリコ」はもともと切子灯籠。地域によって用途が異なり、また独自の大きさとカタチに変化した。切子灯籠の進化論ではある。ただ、ルーツは同じなので「札キリコ」と「祭りキリコ」のカタチはなんとなく似ている。

⇒14日(日)夜・金沢の天気   くもり

☆ 「多死社会」と「一村一墓」

☆ 「多死社会」と「一村一墓」

   少子高齢化の日本は、死亡数が増加し人口減少が加速する、いわゆる「多死社会」ともいわれる。2019年に日本で亡くなった人の数は137万人、ちなみに出生数は86万人だ(厚生労働省令和元年人口動態統計の年間推計)。旧盆の墓参りに出かける予定だが、最近思うことは故人の弔い方や墓参りのあり方が大きな曲がり角に来ている、ということだ。 

   お盆にもかかわらず、草が伸び放題の荒れた墓を金沢でもよく目にする。何らかの事情で家族や親族が墓参りに来ていない無縁墓なのだろう。最近は、墓を造らず納骨もしないという人も増えている。樹木葬や遺灰を海にまく、あるいは、葬儀もせず遺体を火葬して送る「直葬(ちょくそう)」という言葉も最近聞く。葬式や墓造りには当然ながら多額の費用がかかる。墓を造ると墓守りもしなければならない。死後になぜこれほど経費をかけるのか、むしろ残された家族のために使うべきだという発想が現役世代には広がっているのではないだろうか。確かに、生前に本人の遺志があったとしても、死後にはすべて昇華してしまうのだ。

   そこで最近よく聞くのが、共同墓だ。以前、東京に住む友人から共同墓の権利を購入したとのメールをもらった。費用が安く、供養してもらえるようだ。ただ、遺骨は永久供養ではなく33回忌で、他の遺骨と一緒に合祀されるとのこと。「家族に迷惑がかからない分、すっきりしていい」と本人は納得していた。共同墓がこれからのトレンドではないだろうか。

   以下は参考事例だ。能登で「一村一墓(いっそんいちぼ)」という言葉を聞いて、その地を訪れたことがある。珠洲市三崎町の大屋地区だ。江戸時代に人口が急減した時代があった。日本史で有名な「天保の飢饉」。能登も例外ではなく、食い扶持(ぶち)を探して、若者が大量に離村し人口が著しく減少した。村のまとめ役が「この集落はもはやこれまで」と一村一墓、つまり集落の墓をすべて集め一つにした。そして、ムラの最後の一人が墓参りをすることで村じまいとした。しかし、集落は残った。江戸時代に造られた共同墓と共同納骨堂=写真=は今もあり、一村一墓は地域の絆(きずな)として今も続いている。

   現実問題として一村一墓は今の時代こそ必要になのかもしれない。多死社会にあって、都会にいる子孫たちはわざわざ墓参にくるだろうか。縁が薄れていく墓はさらに増えるだろう。むしろ、共同墓にして、誰かが供養に来てもらえばそれでよい。町内会で一墓、もうそんな時代ではないだろうか。

⇒14日(金)朝・金沢の天気    はれ

☆コロナ禍「ふるさとは遠きにありて思うもの」

☆コロナ禍「ふるさとは遠きにありて思うもの」

   あと1週間もすれば旧盆だ。この時季は能登はにぎやかだ。観光客と帰省客がどっと訪れ、キリコ祭りといった祭礼も各地で盛り上がる。例年ならば8月の14日か15日に能登の実家を訪れて墓参し、キリコ祭りを見ながら親戚や旧友たちと杯を重ねながら近況を語る。真夏のこの光景を心に刻んで金沢に帰る。で、コロナ禍のことしはどうするか。

   「4月13日」の緊迫した状況ならば、帰省を見合わせざるを得ない。この日は、金沢市の10万人当たりの感染者が15.3人と東京都の13.6人を超えて全国トップとなったことから、石川県の知事が県独自の緊急事態宣言を出した。知事は「改めて危機感を共有し、社会全体が一致結束しなければならない」と不要不急の外出や移動の自粛徹底を要請した。この危機感のアピ-ルが奏功したのだろうか、いまは10万人当たりで金沢市は31.9人(8月2日現在)、東京都の96.7人(同)と比べると感染者数は増えてはいるものの随分とペ-スダウンしている。

   冒頭で述べた能登各地で執り行われるキリコ祭りは、今年ほとんどが中止となった。キリコ祭りは巨大な奉灯を1基当たり気数十人で担ぎ上げて街を練り歩く神事でもある。少ない地域でも数基、多いところは数十基もあり、金沢ほか遠来からの帰省客や観光客がキリコ担ぎや見学にやってくる。まさに「3密」を招くので、それを避けるための中止だ。つまり、「ことしは来てほしくない」という地元の人たちの正直な気持ちが痛々しく伝わる。キリコ祭りが行われる能登の6市町のうち、感染者ゼロは5市町だ。相手の気持ちを考えると気軽に帰省してよいものか。

   キリコ祭りを考えると、複雑な気持ちがもう一つある。能登は過疎高齢化の尖端を行く。帰省客らが来てキリコを担がないとキリコそものが動かせないという集落も多い。今回のコロナ禍でキリコ祭りを止めたことをきっかけに、来年以降も止めるというところが続出するのではないか。すでに、高齢化でキリコを出すことも止めた集落もあり、伝統祭礼の打ち止めに拍車がかかるのではないかと案じる。

   このキリコ祭りの日を楽しみに能登の人たちは1年365日を過ごす。帰省する兄弟や、縁者、友人たちを自宅に招いてゴッツオ(祭り料理)をふるまう。その後、夜を彩るキリコの練り歩きを皆で楽しむ。そのキリコ祭りがなくなれば、地域の活気そものが失われる。

   金沢出身の文人・室生犀星は『ふるさとは遠きにありて』の詩を詠んだ。今回はあえて帰省を止め、「帰るところにあるまじや」「ふるさとおもひ涙ぐむ」のか、あるいは「Go To ふるさと」か。迷いは続く。

(※写真は能登のキリコ祭りを代表する一つ、能登町「あばれ祭り」。40基のキリコが街を練る)

⇒4日(火)朝・金沢の天気     くもり時々はれ