#あさま山荘事件

☆相次ぐ銃の事件 乱世に突入したのか

☆相次ぐ銃の事件 乱世に突入したのか

   また銃の事件が発生した。メディア各社の報道によると、岐阜市にある陸上自衛隊の日野基本射撃場できょう14日、18歳の自衛官候補生の男が自動小銃を隊員3人に向けて発砲し、2人が死亡した。岐阜県警は発砲した男を逮捕した。

   先月26日、長野県中野市で、迷彩服に身を包み猟銃を持って警察官と女性合わせて4人を次々に襲撃した青木政憲容疑者31歳が12時間、自宅に立てこもった後に逮捕された。女性2人はサバイバルナイフで刺されて死亡、110番を受けて駆け付けた警察官2人は銃撃を受けて亡くなった。青木容疑者は4丁の散弾銃の所有許可を持っていた。

   去年7月8日、奈良市で街頭演説中の安倍元総理を手製の銃で撃って殺害したとして、同市に住む山上徹也容疑者41歳が殺人と銃刀法違反の罪で逮捕された。2005年まで3年間、海上自衛隊の広島県呉地区の部隊で勤務していた。今後、裁判員裁判で審理されることになるが、殺害の動機とされるのが、母親が世界平和統一家庭連合(旧「統一教会」)へ高額な献金をしたことから家庭が崩壊し、恨みを募らせたことが事件の発端とされる。安倍氏は祖父・岸信介の代から三代にわたって旧統一教会と深いつながりがあり、山上被告は安倍氏にも恨みを抱いていたとされる。   

   銃の事件でまぶたに焼き付いているのは「あさま山荘事件」だ。1972年2月28日、連合赤軍が人質をとって立てこもっていた現場に警察機動隊が救出のために強行突入した。酷寒の山地での機動隊と犯人との銃撃の攻防、血まみれで搬送される隊員、クレーン車に吊った鉄球で山荘を破壊するなど衝撃的なシーンがテレビで生中継された。当時、自身は高校生でテレビにくぎ付けになって視聴した。去年1月に長野県南軽井沢の現場を見に行った。立てこもった山荘はまだ残っていて、当時テレビで視た記憶が鮮明に浮かんできた。

   拳銃が禁止されている日本では、銃による暴力事件は稀なケースとされてきた。ところが、こうした銃の乱射や、「ルフィ」の一味による連続強盗や詐欺事件など世の中の乱れが目に余る。そして、隣国のさまざまなリスク・ファクターが集中する日本。乱世という時代にこのまま突入するのだろうか。

⇒14日(水)夜・金沢の天気    くもり

☆重信房子と「あさま山荘事件」現場

☆重信房子と「あさま山荘事件」現場

   国際テロ事件を数々起こした日本赤軍の重信房子元最高幹部が20年の刑期を終えて28日、東京・昭島市の医療刑務所を出所した。「見ず知らずの人たちに被害を与えたことをおわびします」などと述べた。日本赤軍については2013年に解散を宣言しているが、現在もメンバー7人が逃亡している(28日付・NHKニュースWeb版)。

   日本赤軍の卑劣な手口は、ハイジャックや在外公館を武装占拠して人質を取り、日本国内で勾留中の日本赤軍の関係者を奪還する手法を取ったことだ。1975年にマレーシアのアメリカ大使館を襲撃し、あさま山荘事件(1972年)で逮捕された容疑者ら5人を超法規的措置で釈放させた(クアラルンプール事件)。77年には日航機をハイジャックし、連続企業爆破事件の容疑者ら6人を釈放させた(ダッカ事件)。その主犯が重信元最高幹部だった。

   ことし1月に南軽井沢の「あさま山荘事件」の現場を見に行った。1972年2月28日、連合赤軍が人質をとって立てこもっていた現場に警察機動隊が救出のために強行突入した。酷寒の山地での機動隊と犯人との銃撃の攻防、血まみれで搬送される隊員、クレーン車に吊った鉄球で山荘を破壊するなど衝撃的なシーンがテレビで生中継された。当時、自身は高校生でテレビにくぎ付けになって視聴していた。

   あさま山荘の現場が見える地に、犯人の凶弾に倒れ殉職した2人の警察官の顕彰碑「治安の礎」がある=写真=。「見ず知らずの人たちに被害を与えたことをおわびします」というのであれば、あさま山荘事件の現場に来て、この碑に手を合わせるべきではないだろうか。ただ、遺族の心情とすれば来てほしくはないだろう。

⇒31日(火)夜・金沢の天気     くもり

★「あさま山荘事件」から50年 現場を行く~下~

★「あさま山荘事件」から50年 現場を行く~下~

   スマホのグーグルマップで南軽井沢の「あさま山荘」を探す。前回のブログで述べた「あさま山荘事件顕彰碑」の向こう側と方向が一致する。車で向かう。ゴールまでは道が複雑だった。そして坂道は急で積雪があり、気温はマイナス3度。この日はいったん宿に引き返し、翌日に出直すことにした。

     まるで要塞のような造り 機動隊突入から逮捕まで8時間のナゾ

   そして、きょう18日の午前中、「あさま山荘」がある山を再度上った。気温はマイナス5度だった。積雪の坂道を車で上るのはタイヤのスリップなどで難しくなくなり、車を降りて徒歩で上った。300㍍ほど歩くとグーグルマップの「あさま山荘」に着いた=写真・上=。友人たちと「これだ」と確かめ合った。

   1972年2月28日、連合赤軍が立てこもってから10日目に人質となっていた管理人の女性の人命が危ういと判断し、警察機動隊は救出のために強行突入した。午前10時、酷寒の山地での機動隊と犯人との銃撃の攻防、血まみれで搬送される隊員、クレーン車に吊った鉄球で山荘を破壊するなど衝撃的なシーンがテレビで生中継された。逮捕された犯人の引き回しの映像の中継されたのは午後6時すぎ。周囲は暗くなっていた。テレビ業界で今でも話題に上るのは、このあさま山荘事件は放送史で89.7%という驚異的な視聴率だった。

   現地に来て気づいたことだ。当時なぜ機動隊は強行突入から逮捕まで8時間余りもかかったのか、その理由がなんとなく分った。山荘の入り口は階段状で狭く、道路の下にある=写真・下=。そして、山荘そのものは切り立ったがけ地に建設されたものだ。まるで要塞のようだ。機動隊にとって、いわゆる突入による包囲は簡単ではないのだ。そして、連合赤軍がここから撃ったライフルの銃声はおそらくやまびこのように鳴り響いていたに違いない。連合赤軍側の威嚇射撃に対する警戒心は相当だったろう。それが同時に機動隊の動きを鈍らせたのかもしれない。

   そこで使われたのがクレーン車に吊るした鉄球で山荘の一部を破壊するという犯人たちへの威嚇攻撃だったに違いない。威嚇射撃と威嚇攻撃でにらみ合いが続いた。

   もう一つはテレビ報道について。元日本テレビのアナウンサー、久能靖氏の著書『浅間山荘事件の真実』(河出文庫)によると、逮捕された犯人の引き回しの映像の中継に成功したのは玄関の近くでカメラを構えていたフジテレビだけだった。当時の中継はマイクロ波を小型パラボラアンテナで何段にもつないで現地と東京を結ぶやり方だ。このため、犯人の引き回しを撮影する場所を予め固定する必要があった。NHKや日本テレビは高所から俯瞰した映像を狙っていた。ところが、逮捕は午後6時過ぎになり、中継映像は暗くなった。移動しようにも玄関前の道路は狭く、警察関係者や新聞・雑誌メディアなどが道路を埋め尽くしている。日中であれば問題はなかったが、逮捕の時間が遅れて移動と設定が間に合わなかったのだろう。

   半世紀前の事件現場であり報道現場でもあるこの地に立って、なるほどそうだったのかとナゾが解けたような気がした。あくまでも推測だ。

⇒18日(火)夜・金沢の天気    くもり

☆「あさま山荘事件」から50年 現場を行く~上~

☆「あさま山荘事件」から50年 現場を行く~上~

   高校・大学時代からの友人と軽井沢に来ている。きょうの天気は晴れで、浅間山もはっきり見えたのでドライブに出かけた。目指したのは、1972年2月、銃を持った連合赤軍の若者が長野県南軽井沢の企業保養所に押し入り、管理人の女性を人質に立てこもり警察と銃撃戦となった「あさま山荘事件」の現場だ。

     殉職警官2人の顕彰碑の向こうに前代未聞の銃撃戦の現場が

   この事件があった50年前、高校2年生だった。キューバ革命のチェ・ゲバラを崇拝し世界同時革命をめざす赤軍派と、毛沢東理論で一国革命を唱える京浜安保共闘が連携したゲリラ組織だ。群馬、長野の冬の山中を警察に追われながら逃げ延び、ついにあさま山荘に人質を取って立てこもる。ライフル銃や猟銃のほか実弾2千発余り、手投げの爆弾も持っていた。強行突入の様子には自身もテレビにくぎ付けだったことを覚えている。

   グーグルマップで「あさま山荘」をめがけて走行する途中に、「浅間山荘事件顕彰碑」という看板があった。車を降りて顕彰碑に向かった。顕彰碑には「治安の礎」と書かれてあった=写真=。顕彰碑の裏の添え書きを読むと、事件の翌年の1973年にあさま山荘を後方に臨む道路の入り口に建てられた。事件の教訓と犯人の凶弾に倒れ殉職した2人の警察官の功績を称えた文章が刻印されている。

    犯人が立てこもってから10日目の2月28日、いよいよ人質の生命が危ういと警察側は判断し、強行突入し救出作戦に入る。人命尊重を第一に慎重な態度を崩さない警察に対し、「警察のやり方は手ぬるいのではないか。だから過激派がはびこる」というような批判もわき起こっていた。警察は午前10時に突入、この様子は生中継でアナウンサーが逐一リポートした。

   元日本テレビのアナウンサー、久能靖氏の著書『浅間山荘事件の真実』(河出文庫)に当時の報道陣の視線で現場が描いている。午前10時の突入のシナリオはすべて警察とメディアの「報道協定」で取り決めがなされていた。雑誌を含む新聞、テレビ、ラジオなど52社との協定は当時とすれば「史上空前の報道協定」だった。犯人を射殺した場合、射殺した警察官の氏名は公表しない、事件解決後のムービーカメラによる現場撮影は3分(100フィートのフィルム1本分)といった内容まで協定で細かく決められていた。

   ところが、警察隊は催涙ガスと放水をしながらもなかなか前に進めない。午前中には終えると思われていた警察側のシナリオが狂う。そして、警官2人が射殺された。生の衝撃的な画面が視聴者の目の前で9時間にわたって展開されるという、前代未聞のテレビ中継となった。

  亡くなった2人の警察官の顕彰碑に手をあわせ、事件の現場に向かった。

⇒17日(日)夜・軽井沢の天気   くもり