☆終戦から80年、戦没者310万人の死を悼む
きょう15日は先の大戦の終戦から80年となる。政府主催の全国戦没者追悼式が行われ、戦死した軍人と関係者、空襲や広島・長崎の原爆投下、沖縄戦で亡くなった310万人を悼み、正午の時報に合わせて黙祷が捧げられた=写真・上はNHK中継番組より=。

100回以上の空襲で10万人余りの民間人が犠牲となった東京大空襲をはじめ、終戦までに200以上の都市が空襲を受けたとされる。北陸では福井市や富山市などで空襲があったものの、金沢ではなかった。かつて、終戦のこの頃になると、ではなぜ金沢は空襲を免れたのかと友人たちと激論を交わしたこともある。このブログの2015年7月31日付「『金沢空襲』計画」で新たな情報を含めまとめたことがある。以下、再録。
金沢に住んでいる者の根拠のない共通の理解として、金沢は京都と同じく文化財的な街並みや寺院が多く、空襲の対象にはならなかったという認識を共有している。その証拠の一つとして、金沢市郊外の湯涌温泉にかつてあった「白雲楼ホテル」は戦後、GHQ(連合軍総司令部)のリゾートホテルとして接収され、マッカーサー元帥らアメリカ軍将兵が訪れていた、といわれる。

1945年7月にアメリカ軍による「金沢空襲」が計画されていた、というスクープ記事が出たのは2015年7月26日付の北陸中日新聞だった=写真・下=。以下、記事を引用。アメリカ軍が金沢市を攻撃目標とする空襲計画を立てていたことが分かったのは、アメリカ軍資料を収集する徳山高専元教授の工藤洋三氏(当時65)=山口県周南市=が分析した。金沢空襲の計画書は1945年7月20日付で作成され、同年8月1日夜に甚大な被害が出た富山大空襲の計画書が作られたのと同じ日だったという。
金沢空襲の計画書によると、攻撃目標は北緯36.34度、東経136.40度。現在の座標とは数100㍍の差異があるものの、旧日本軍の司令部があった金沢城付近を狙ったとみられる。高度4500㍍ほどから爆弾を投下し、70分以内で攻撃を完了する計画だった。その金沢への爆撃ルート。攻撃隊はまずグアム島の基地から出撃。硫黄島や現在の静岡県御前崎市上空を通過し、富山県黒部市付近で進路を北西に変える。石川県能登半島の穴水町あたりを周回し、金沢に向かって南下。空襲後は再び、御前崎市や硫黄島の上空を通って帰還するルート想定だった、という。
実際に8月1日、B29の爆撃編隊は金沢の上空に来たものの、通り過ぎて、富山市に1万2000発余りの焼夷弾を投下した。11万人が焼け出され、2700人余りの死者が出た。なぜ、金沢空襲の計画は実行されなかったのか。
富山市には発電所を基盤とした重工業の工場が立地していた。当時の金沢は陸軍第九師団が置かれていたものの、産業といえば繊維が主だった。しかも、九師団の兵は台湾などに赴いていた。記事をもとに考察すれば、空襲の計画はされたものの、金沢は軍事的な価値では優先度が低かったのではないか。そして、このころからアメリカ軍は「無差別攻撃」が主流となり、富山の場合でも重工業の工場が標的になっただけではなく、全市が対象となった。その後、無差別攻撃は一気にエスカレートし、8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下された。
終戦がもう少し後にずれ込んでいたら、金沢も無差別攻撃に晒されていたのかもしれない。
⇒15日(金)午後・金沢の天気 くもり時々はれ