2024年 6月 の投稿一覧

☆震災にもめげず コウノトリが能登で3年目の営巣

☆震災にもめげず コウノトリが能登で3年目の営巣

  きのう輪島市朝市通りの被災地をめぐった帰りに、同市と隣接する志賀町富来(とぎ)地区に立ち寄った。同地区には元日に震度7の揺れを観測した地点がある。気象庁や国土地理院の分析によれば、能登半島西端から新潟・佐渡島近くの日本海まで長さ130-150㌔に達する断層が破壊されたとみられている。その半島西端の部分が富来地区にあたる。訪れたのはことし1月31日以来だった。

  富来地区で気にかかっていたことがあったからだ。コウノトリの営巣がことしも行われているだろうか。同地区は国の特別天然記念物のコウノトリの営巣地としては日本で最北に位置する。1月31日に訪れたときはまだ南方から飛来していなかった。地震の揺れでも電柱の上につくられた巣は無事で、電柱は傾いてもおらず、巣も崩れてはいないようだった。ただ、巣がかなり小さくなっていて、見た目で2分に1ほどだった。巣の下を見ると、営巣で使われていたであろう木の枝がかなり落ちていた。住宅に例えれば、「半壊」状態だろうか。

  それ以来気にかかっていたというのも、鳥類の専門家でもないので憶測にすぎないが、ことしもコウノトリのつがいが営巣に春ごろやって来て、巣が小さくなっているを見て、別の場所に行こうとするのか、あるいは枝を足すなど修復してこの地で営巣を続けるのか。どうなんだろう、ということだった。

  きのう夕方5時少し前に現地に着いた。見上げると、いたいた。写真も数枚撮った。もう少し近場で撮ろうと近づくと今度は見えなくなった。下からの撮影なので、コウノトリが立っていれば撮影は可能だが、見えなくなったということは巣に座り込んだのだろう。どこか飛び立った様子もない。しばらく様子を見ていたが、立ち上がる様子もないので、「もう寝たか」と勝手に思い現場を離れた。

  巣は1月に見たときより大きくなっていた。ということは、枝を加えた補修したのだろう。写真を見ると、親鳥のほかにひな鳥が1羽がいて、合わせて3羽が見えた=写真、6日午後4時59分撮影=。コウノトリは今季で3年連続での営巣だ。ひな鳥はかなり成長している。去年5月23日に訪れたときは、3羽のヒナがいた。ヒナを育てているつがいは足環のナンバーから、兵庫県豊岡市で生まれたオスと福井県越前市生まれのメスで、一昨年と同じペアだった。おそらくことしも同じペアではないだろうか。

  とすれば、元日の地震では能登にいなかったものの、去年5月5日の震度6強を経験し、先日6月3日の5強も耐え忍んだことだろう。そう考えると、妙な同情心というものもわいてきて、エサ場は土砂崩れになっていないか、電柱の上は揺れが大きく、今度また大きな揺れがあるとひな鳥が落下しないかなどと心配したりする。台湾など南方との「二地域居住」ではあるものの、すっかり能登のコウノトリ。能登の住人のように思いやってしまう。

⇒7日(金)午後・金沢の天気   はれ時々くもり

★輪島・朝市通りで公費解体 現場で見える次なる難題

★輪島・朝市通りで公費解体 現場で見える次なる難題

  輪島市朝市通りのがれきの撤去作業である公費解体がきのうから始まったので、きょう現場を見に行った。市内の中心部を流れる河原田川の近くで、ショベルカーなど10台による作業が行われていた=写真・6月6日撮影=。重機による建物などの取り壊しや鉄やがれきの仕分け作業などだ。ガンガンガン、ゴトッゴトッと重機の音が周辺に響き渡っていた。地域の人々はこの音をどう感じ取っているだろうか。騒音なのか、復旧・復興への響きなのか。

  現場ではショベルカーが動いていたが、がれきなどを運ぶトラックは見当たらなかった。以下は憶測だが、鉄やコンクリートを現場で仕分けして積み上げ、輪島港の浚渫(しゅんせつ)作業が終わり次第、トラックで港に持って行き、運搬船で各地に運び処理をするのだろうか。発災から5ヵ月余り、焦土と化した朝市通りはまるで時間が止まっていたが、ようやく動きだした。

  メディア各社の報道によると、法務局の職権で朝市通り周辺の264棟が「滅失」したとの登録手続きが先月30日までに完了したことで、所有者全員の同意がなくても、災害廃棄物として解体が可能になった。公費解体の申請は現在100棟余りあり、輪島市役所は申請のあった建物から順次、解体に取り組む。ただ、申請は全体の4割に留まっており、作業の完了時期は未定だ。

  それにしても、朝市通りのがれきの量は半端ではない。全壊・半壊建物の廃材や家具、家電などのいわゆる災害廃棄物は輪島市全体で34万9000㌧と推測され、同市の年間ごみ排出量の31年分に相当するとされる(2月6日・石川県まとめ)。朝市通りでは焼失したビルが多く、災害廃棄物のかなりを占める。

  朝市通りの公費解体は動き出したが、さらにこれを撤去、運び出しをするとなると気が遠くなるような時間がかかるのではないだろうか。復旧・復興に立ちはだかる壁のように見えてきた。現場を見ながらそんなことを思った。

⇒6日(木)夜・金沢の天気   はれ

☆時間が止まった朝市通り 公費解体ようやく動き出す

☆時間が止まった朝市通り 公費解体ようやく動き出す

  能登半島地震の「被災のシンボル」でもあった、輪島市朝市通りのがれきの撤去作業がきょうから始まった。メディア各社が報じている。5ヵ月余り、焦土と化した朝市通りはまるで時間が止まっていた。それがようやく動きだした。正確に言えば国の行政手続きが整った。法務局の職権で、朝市通り周辺の264棟が「滅失」したとの登録手続きが先月30日までに完了したことによる。所有者全員の同意がなくても、災害廃棄物として解体が可能になった。公費解体の申請は100棟以上あり、輪島市役所は申請のあった建物から順次、解体に取り組む。(※写真・上は輪島市朝市通り=6月4日撮影)

  能登で唯一、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されている輪島市門前町黒島の町並みも再生に向けて動き出すことになった。黒島はかつて北前船の船主が集住した街で、貞享元年(1684)に幕府の天領(直轄地)となった。黒瓦や下見板張り壁が連なっていた。それが地震で、重要文化財の「旧角海(かどみ)家」が倒壊するなど、600棟の町並みのうち4割が全半壊した。メディア各社の報道によると、輪島市は6月補正予算案に重伝建保存対策事業費として3億4000万円を計上する。重伝建では従来の8割補助から9割に上げ、建物を修復する。補助限度額は主屋を1500万円、土蔵を900万円とする。(※写真・下は輪島市門前町黒島の倒壊した「旧角海家」=2月5日撮影)

  また、きょうの石川県議会6月定例会の本会議で、馳知事は質問の答弁で、被災した神社や仏閣の再建を支援する意向を示した。宗教施設は政教分離の建前から補助金を出すことについては議論を呼ぶが、寺社が祭りなどの地域コミュニティーの場でもあり、また観光資源となっている場合もあることから、震災復興基金を用いた支援の手法を検討する、とした。

⇒5日(水)夜・金沢の天気   はれ   

★奥能登また震度5強 されど輪島塗の技術と輝きは絶えず

★奥能登また震度5強 されど輪島塗の技術と輝きは絶えず

  3日朝に能登半島の輪島市と珠洲市で震度5強の地震があった。金沢は震度3だった。意外だったのは、千葉県に住む知人から「こちらでも緊急地震速報が鳴り響き、急いでテレビをつけて身構えたが、揺れなかった」とメールが届いた。気象庁は揺れがないのに地震速報を出すのかと思っていた。

その後の気象庁の記者会見によると、富山湾でマグニチュード7.4の地震が発生したと推定され、能登で震度6弱から7、東京や大阪、東北などでも震度3から4程度が予想されるとして、広範囲に警報を出した。実際の地震の規模はM6だったので、東京や大阪で揺れはほとんどなかった。担当者は「短時間に同じ場所で地震が複数発生したことから、緊急地震速報の地震の規模が大きめに算出されてしまったと推測している」と説明していた。

きょう午後、輪島の被災地をめぐった。輪島では今回の震度5強の揺れで、新たに住宅5棟が倒壊したと地元メディアが報じていた。そのうちの1棟は知り合いの漆器業者の自宅だった。元日の揺れで工房が倒壊し、今回の地震で自宅が倒壊した。知り合いは若手で、輪島塗の復興を目指して奮闘している。

4月10日に岸田総理が日米首脳会談でワシントンを訪れ、バイデン大統領夫妻との夕食会の際、輪島塗のコーヒーカップとボールペンを手渡した。バイデン大統領からの見舞い電報のお礼を込めて贈ったもので、岸田総理は被災した能登で創られている日本ではとても有名な「lacquerware(漆芸品)」と紹介し、被災した若手職人たちが今回のために特別に100以上の工程を経て、心を込めて作製したと説明した(外務省公式サイト)。この贈答用の輪島塗作品を手掛けたのが知り合いだった。このことを当時ニュースで知って、自身も誇らしく思ったものだ。

本人のフェイスブック(4日付)によると、自宅は元日の地震で全壊判定だった。それが、今回の地震で完全に倒壊したかたちになった。「やはり生まれ育った家がかろうじて立っていてくれるのと、倒壊してしまうのでは、かなり精神的なダメージは違います。全壊判定だったので、いつかは公費解体でしたが、心の準備ができぬままの倒壊でした」。無念さがこみ上げているに違いない。輪島塗の技術が失われたわけではない。希望を見出した矢先、「塗師屋」の奮闘を祈る。塗師屋は注文からデザインなど手掛ける、いまでいう塗り物の総合プロデューサーだ。

⇒4日(火)夜・金沢の天気     はれ

☆緊急地震速報が鳴り響く朝 能登でまた震度5強の揺れ

☆緊急地震速報が鳴り響く朝 能登でまた震度5強の揺れ

  朝、スマホの緊急地震速報が不気味に鳴り響き飛び起きた。「また来るか」、そんな気持ちで身構えるとグラグラと揺れが走った。リビングに行き、テレビをつけるとNHK「能登で震度5強の地震」と報じていた。自宅がある金沢は震度3だった。家族も眠そうな目で無言でリビングに集まって来たが、そのまま寝室に引き返した。

  元日の地震では自宅庭の石灯ろうが倒れたので、まさかと思い見に行った。いつも通りに立っていたのでひと安心。家の中の棚など見渡しても落下した物はなかった。

  再度リビングでテレビを見る。地震の発生は3日午前6時31分、震源は能登半島の尖端で、輪島市や珠洲市など震度5強を観測した。震源の深さは10㌔、地震の規模を示すマグニチュードは5.9と推定。地震による津波は、若干の海面変動があるかもしれないが、被害の心配はない。金沢では揺れを感じなかったが、午前6時40分にも珠洲市で震度4を観測する地震があった。

  元日の震度7の地震で、いまでも輪島市や珠洲市、志賀町、七尾市などで1600人余りが避難所生活をしている。どのような気持ちで朝を迎えたのだろうか。そして、この地震はいつまで続くのか。

⇒3日(月)朝・金沢の天気   はれ

★焼けた永井豪記念館 原画は残り、「前へ進もう」ふるさと愛

★焼けた永井豪記念館 原画は残り、「前へ進もう」ふるさと愛

  能登半島地震で震災と火災の複合災害に見舞われた輪島市では朝市通りを中心に一帯が焼失した。先月31日に開かれた政府の復旧・復興支援本部会合で、朝市通りの264棟について、法務省の権限により、建物が「滅失」したとする登記手続きが完了し、所有者全員の同意がなくても公費解体が可能となると報告された。これにより、公費解体の加速化が見込まれる(6月1日付・メディア各社の報道による)。

  焦土化した一帯を更地にしてもすぐに復興へと向かうわけはない。ただ、被災地の風景が少し変わることで、地域が復旧に向けて一歩踏み出すきっかけになるかもしれない。朝市通りで焼けた建物の一つに「永井豪記念館」=写真=がある。あの「マジンガーZ」や「キューティーハニー」などのアニメで知られる漫画家・永井豪氏の記念館だ。出身地が輪島市であることから2009年に同市役所が設営した。

  今から40年ほど前、自身は新聞記者として輪島支局に赴いた。当時の永井氏の作品イメージは「ハレンチ学園」などのギャグ漫画で、地元の人たちは永井氏が輪島出身ということを知ってはいたが、土地の自慢話として語る人は正直いなかった。評価が一転したのは日本のアニメが海外で大ブームとなり、永井氏の「UFOロボ・グレンダイザー」がヨーロッパで人気を博し、世界の漫画家として永井氏の評価が高まった。これがきっかけで、行政が永井豪記念館の設置へと動いた。展示されている直筆の原稿や原画、フィギュアなどは永井氏の所属プロダクションが貸し出していた。  

  では、大規模火災で焼けた記念館で展示されていた原稿や原画、フィギュアなどはどうなったのか。永井氏と所属プロダククションは1月25日付のSNSで「弊社からお貸し出ししている原画およびフィギュア等の展示物は焼失せずに現存していることが確認されました」と、市の担当者による立ち入り調査について発表し、展示棟の「耐火対策が功を奏したもの」と述べている。  

☆まもなく梅雨入り 能登の被災地に二次災害の不安

☆まもなく梅雨入り 能登の被災地に二次災害の不安

  能登半島地震の発災から5ヵ月が経った。きのう31日、能登町小木(おぎ)に出かけた。関わってまもなく10年になる一般社団法人「能登里海教育研究所」の定時総会に出席するためだった。同町小木地区はイカ釣り漁業が盛んで、地域の生業(なりわい)や漁業について、子どもたちが小学校の頃から学んでいる。特徴的なのは、小学校が独自の「里海科」というカリキュラムを持っていて、文科省の特例校に指定されていている。たとえば、5・6年生ではそれぞれ35時間使って、イカ釣り漁の仕事やイカを使った料理、海の生物多様性と海洋ごみなど幅広く学んでいる。

  能登里海教育研究所はそうしたカリキュラムをつくった町教委と連携して支援しようと、金沢大学の教員や研究員、地域の有識者が構成メンバーとなり、日本財団からファンドを得て設立された。研究所の海洋教育は地元小木だけでなく、県内外の中学、高校、そして大学へと展開している。

  定時総会の席上で提案したことがあった。能登半島地震は死者260人(うち災害関連死30人)、重軽傷者1201人、避難所での生活者3206人=5月28日時点・石川県危機対策課まとめ=の大きな災害をもたらした。次世代に震災の記憶を伝えるために、教育と研究の視点で論文や書籍などでまとめてはどうか、と提案した。他の参加者からも、賛同があった。被災地の人々の心情は「忘れてほしくない」という言葉に尽きる。しかし、災害に対する一般の人々の思いは一時的な道徳的感情でもあり、心や記憶の風化は確実にやってくる。研究所の存在価値はそのギャップを埋める作業ではないだろうか。

  その後、小木地区の被災地を個人的に見に行った。小木地区はリアス式海岸で山と海が入り組んだ場所だ。湾岸沿いの道路が海に陥没し、漁船が沈没している現場があった=写真・上=。この地区にある金沢大学の臨海実験施設では、裏山が崖崩れとなって、巨大な岩石が施設のすぐそばまで転げ落ちていた=写真・下=。あと数メートル転がっていたら建物にも大きなが損害が出たに違いない。梅雨入りの大雨で二次被害が出るのではないか、当事者ではないがそんなことを不安に思いながら現場を後にした。

⇒1日(土)夜・金沢の天気   くもり