★能登半島地震 両陛下が避難所を訪れ被災者見舞いへ
きょうの朝刊各紙は「両陛下 22日に奥能登へ」の見出しで天皇・皇后両陛下が能登半島地震の被災者を見舞うため、あさって22日に輪島市と珠洲市を日帰りで訪問される、と報じている=写真=。両陛下は去年10月15日に国民文化祭(いしかわ百万石文化祭2023)の開会式で金沢市などを訪れている。能登入りは即位後初めて。
報道によると、両陛下は22日午前、羽田発の特別機で能登空港に到着する。輪島市で被害の大きかった地区を見て回り、避難所に足を運んで人々を見舞う。その後、珠洲市に移
って津波被害の状況を視察し、被災者とも懇談する。輪島市と珠洲市の間の移動は、自衛隊のヘリコプターを使う。夜に帰京する。天候などによっては訪問が延期となる可能性がある。
具体的な被災地訪問のルートは述べられてはいないが、上記の記事から察するに、輪島市では240棟が焼損し、焼失面積が4万9000平方㍍に広がった朝市通りや、震度6強の揺れで倒壊した塗師屋(ぬしや、漆器製造販売)の大手「五島屋」の7階建てビルの現場などを視察されるのではないだろうか。それに関連して、両陛下からは国の重要無形文化財に指定されている輪島塗の現状と再興についてお尋ねもあるだろう。珠洲市では揺れと津波に見舞われた宝立町の地域や見附島などを視察されるのではないだろうか。
両陛下が被災地を訪問されるのは、2019年12月に台風19号などで被害が出た宮城県、福島県を訪れて以来で2回目となる。両陛下の被災地訪問で印象に残るのは、いまの上皇ご夫妻が平成の時代に全国の被災地を訪れ、丁寧に被災者を見舞われた姿を思い出す。避難所を訪れ、膝をついて対話する様子は被災者に寄り添うお気持ちが伝わり、国民の共感を呼んだ。テレビメディアを通じて、国民にはこの姿が天皇皇后の被災地訪問のイメージとして定着している。今回の訪問については、両陛下が発生直後から被災者を案じ、現地を見舞いに訪れたいとの考えを示しておられたようだ。
⇒20日(水)夜・金沢の天気 くもり時々あめ
元旦ということもあって自宅でくつろいでいるときの地震だった。被災地をめぐると、住宅だけでなくガレージも車ごと押しつぶされたような状態になっているケースが目につく。住宅再建のほかに車も新規に購入するなど、対応に迫られるだろう。そして、被災した中小企業や個人事業主にとっては住宅のほかに店舗や工場の再建もあり、負担はさらに重くなることは想像に難くない。(※写真は、七尾市の老舗商店街「一本杉通り」で倒壊した和ろうそくの店舗=2月3日撮影)
ろ元旦からこれまで能登半島地震で災害報道が圧倒的だった。暗いニュースが多い中で明るい話題を。これは読者や視聴者の心理を考えれば自然なことかもしれない。
考えた。まったく根拠のない発想なのだが、不安を感じた。
であり、心の風化は確実にやってくると述べた。そう考えれば、心の風化や記憶の風化は人々の自然な心の営みなのかもしれない。ただ、変らないのは被災地の人々の心情だ。「忘れてほしくない」という言葉に尽きる。被災地の復興は一般に思われているほどには簡単に進まない。この被災地の人々と読者・視聴者の意識のギャップを埋めるために、新聞・テレビメディアには災害発生から定期的に被災地の現状と問題点、そして人々の心情を伝えてほしいと願う。
海岸沿いにある珠洲市飯田町のショッピングセンター「シーサイド」=写真・上=。店舗は閉じられたままだった。食品スーパーや書店など10店舗が入る2階建てのショッピングセンターで、元旦は福袋を買い求める客などが訪れていた。強烈な揺れがあり、従業員たちが「津波が来ます」と叫び、客を誘導して高台にある小学校に避難した。揺れから10分ほどして、70㌢ほどの津波が1階の店舗に流れ込んできた。従業員がいち早く自発的に動いたことから人的被害は出なかった。シーサイドでは年2回、避難訓練を実施していた。
観光名所である見附島を一望する同市宝立町も津波の被害が大きかった。ホテル「珠洲温泉のとじ荘」は建物の被害のほか、水道などのライフラインが復旧しておらず休業が続いている。ホテル近くの海岸には津波で漁船が陸に打ち上げられていた。そして、見附島も変わり果てた。その勇壮なカタチから通称「軍艦島」と呼ばれていたが、2023年5月5日の震度6強、そして今回と度重なる揺れで「難破船」のような朽ちた姿になった。
だ地盤が激しい揺れで流動化したことでマンホールが突き上がったのかもしれない。下水管の損傷も相当なものだろうと憶測した。
て、見学することはできなかった。櫓の重さは35㌧で、震災後しばらくはその半分の重量を一本足の石垣が支えていた=写真・上、熊本市役所公式サイトより=。飯田丸五階櫓は石垣部分の積み直しが終わったものの、熊本城の復旧工事は2037年度まで続く。
援が必要になってくるので、全国市長会に協力を呼びかけながら支援を続けたい」と述べた(同)。
いわゆるキックバック(還流資金)は税務上は「雑所得」であって、個人所得として納税しないのはまさに脱税行為だろう。税金の使い道を決める国会議員が税逃れをしてきたことにこの裏金事件の根深さがある。
た。還付金を受け取っていたことを、長らく把握できなかったことは管理・監督が不十分であったとのそしりは免れない」
ものの、断水が続いていて旅館営業の再開には困難な状況が続いている。
が豊漁で、地震後の1月10日に七尾市で、11日には能登町でブリの定置網漁が再開された。しかし、地震で製氷機が破損し、競り場も壊れ、水道などのインフラ整備が追い付かず、流通が一部滞った。
伝統産業の輪島塗も苦境に陥っている。輪島市は大規模な火災に見舞われ、国土交通省の発表(1月15日付)によると、焼失面積約5万800平方㍍、焼失家屋約300棟におよぶ。輪島塗は漆器の代名詞にもなっている。職人技によってその作業工程が積み上げられていく。木地、下地、研ぎ、上塗り、蒔絵といった分業体制で一つの漆器がつくられる。ただ、同じテーブルで作業をするわけではなく、それそれが工房を持っている場合が多い。火災と震災でそのかなりの工房が被災した。さらに、1000人ともいわれる職人の多くが避難所などに身を寄せている。(※写真・下は、輪島朝市通りに軒を並べていた漆器販売店など商店が火災で焼失した)
地元メディア各社の報道によると、震度7の大きな揺れによって、回線が切れて電気が共有できなくなったほか、安全装置が作動して自動停止するなどして能登にある風力発電73基すべてが停止した。中には、ブイレイドそのものが折れるなど損傷したものが2基ある(今月10日付・北陸中日新聞)。
での山の道路に亀裂ができたり、土砂崩れなどで寸断されているのだろう。風力発電が立地する場所は珠洲市が30基、輪島市が11基、志賀町が22基、七尾市が10基で、いずれも震度6弱以上の揺れがあった地域だ。(※写真・下は、半島中ほど志賀町にある日本海発電の風車。1月19日の撮影時では停止していたが、2月に再稼働した)
今回の地震では石川県全体で全半壊・一部損壊が7万9700棟にも及んでいる(3月8日現在・石川県危機管理監室まとめ)。このうち全半壊した家屋については所有者の申請に基づいて、自治体が費用を負担して解体ならびに撤去をする。いわゆる「公費解体」で、県では2万2000棟が対象になると推計している。これを来年の秋、2025年10月までに処理するとの流れだ。ただ、ことは予定通り運ぶだろうか。
規模の態勢で作業にあたることを目指しているという(3月1日付・日経新聞)。244万㌧の災害廃棄物は石川県で出るごみの7年分に相当するとされる。量的にそう簡単ではない。
あす「3・11」東日本大地震から13年となる。宮城県気仙沼市の被災地に足を運んだのは、2ヵ月後の5月11日だった。当時、街には海の饐(す)えたような匂いが立ち込めていた。岸壁付近では津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があり、津波のすさまじさを実感した=写真・上=。そして、2015年2月10日、再び気仙沼を訪れた。巻き網漁船はすでに解体されていたが、最初に見た街並みの記憶とそう違わなかった。4年経っても街ではガレキの処理が行われていて、復旧・復興はそう簡単なものではないことをこの時に初めて気づいた。
と焦土と化した光景が目に入って来た。店舗や住宅など200棟が焼けて、焦土と化していた。中心部の河井町の通りには輪島塗の製造販売会社の7階建てのビルが転倒し、横たわっていた=写真・下=。